この世の誰もが皆、かけがえのないひとつの色

「……随分と素行の悪そうな男じゃないか」

 見慣れた黒い人物が、小さなソファの真ん中に腰掛けていた。どくん、と心臓が大きく跳ねて、なのに鳩尾を打たれたかのように声も出ない。

 ひゅっと吸い込んだ息で、反射的に背を向けた。足、動け。

「とっ──」

 弔くん。

 叫んだ声はたった一音を残してすべて捕縛布の中に消えた。次の瞬間、自分の腕二本が胴体にぴしりと張り付いて、背後へと引っ張られる。

 ガンと全身に強い衝撃が走って、それが背後から床に叩きつけられた音だと気づくまで、わたしは一片たりとも抵抗を許されなかった。

「敵に背を向けるな。死にてえのか」

 シミの広がった天井が見える。瞬く間に口から下がガチガチに固められたとわかり、全身の毛が逆立った。

 黒いブーツがカツカツと音を立てて近づいてくる。

「それにお前には個性を常時発動しておけと助言していたはずだが」

「~~っ!」

 叫びが捕縛布の中に消えた。

 まずい、袋の鼠だ。

「たるんでるんじゃないのか、逃亡生活なんて選んでおいて」

 弔くんっ──!

 咄嗟に目を瞑って黒い世界に意識を向けた。はっきりとした白い人影がひとつ、アパートから遠ざかっていくのが視える。

 行かないで、弔くん。

 晒された恐怖から思わず弱音がもれた。──いや、ダメだ。

 わたし一人じゃこの人に太刀打ちできない。今は弔くんだけでもここから遠ざけなくては。彼をヒーローになんて会わせるわけにはいかない。

 わたしが守るんだ、弔くんを。

 ゆっくりと遠ざかっていく人影はどんどん小さくなっていく。周りに妙な人影はないが、遠くで待ち伏せされていたらわからない。

 お願い、どうか無事でいて──。

 有効範囲の外に出たのか、弔くんの影がふっと靄となって消えた。このアパートには他に誰もいない。つまり敵は目の前に立つこの人物だけ。

 ゆっくりと目を開けると、蛍光灯の光と共に恐ろしく影を落とした男の顔が映り込んだ。

「……行ったか」

 頷く代わりに睨みを返す。しあわせな生活に土足で踏み込んできた男は、悪鬼のような形相でこちらを見下ろしていた。この人にはもう二度と会うことはないと心に決めていたのに。

 ふわっと口元の布が弛む。噛んでいた唇を解いた。どうやら対話の余地があるらしい。

「……あなたが来るとは思いませんでした。もう担任、いや、生徒ではないので」

 口から吐き出された声は怒りと苛立ちで震えていた。恐怖も、混ざっていたかもしれない。だが選んだ言葉は自分でも驚くほどに攻撃的だった。

 しっかりしろ、こんなの想定内でしょ。

 内情を悟られまいと、毅然とした態度で矢継ぎ早に言葉を浴びせる。

「退学届、受け取っていただけませんでしたか? あれにはあなたに向けた手紙も入れていたはずですが」

「……さあ、どうだかね」

 まるで興味のない素振りで、彼は部屋の中を見回している。

「随分といい暮らしをしているな。この部屋、誰に契約させた」

「……あなたに言うと思いますか」

「お前が言わずとも調べればわかるぞ。警察に届け出れば一発だ」

 いや、大丈夫、落ち着け──あの義爛さんのことだ。適当な名前で契約されているに違いない。どうせ足はつかない。それにこの場所はいざというときの彼の隠れ家だと聞いている。警察も簡単には把握できないだろう。

 もしもいつか義爛さんが逃げ込んでくるようなことがあれば、わたしたちは迷わず彼を匿うつもりだった。だって、きっとあの人だけだ。わたしが弔くんの隣にいることを許してくれる大人は──。

 覚悟は決まっている。もう、正しい道を歩むつもりはない。

「あの男の素性もすぐに割れるぞ」

「っ、」

「女子高生をたぶらかし誘拐した──」

「ふざけないで! わたしは自分から出て行った!」

「ああ、だが世間は信じないぞ」

 冷たい視線が降りそそぐ。

「女子高生をたぶらかし誘拐した挙句、軟禁していた卑劣な男として世間には公表されるだろうな。もし成人していれば顔も名前も出るぞ。未成年者の誘拐罪なんて社会復帰なんか一生できないと思え。……まあ、あのなりだと本人にする気があるかは怪しいがな」

 その瞬間、はらわたの煮え返るような怒りが湧いた。神経が張り裂けるんじゃないかと思えるほどの灼熱の怒りだった。

「勝手に決めつけないで! 弔くんはそんなことしてない! 弔くんは、わたしを救ってくれただけっ。彼をあそこから連れ出したのはわたしの方!」

 目の前の男は素知らぬ顔で見下ろしている。その光景がぐにゃりと曲がって水の中に沈んでいく。怒りと悲しみが渦を巻いた。

 ああ、やっぱりこの人もそうなのか。

「……あんたたち大人は、いつだって……いつだってそうやって、都合のいいことしか見ようとしないっ」

 怒りで声が震える。悲しみで視界が歪んだ。でも、もうどうでもいい。弔くん以外、ぜんぶどうでもいい。

「上部だけ知って全部わかったフリして、勝手に正義を語るな! わたしたちに正しさだけを押し付けて、こっちの話は聞く気もないくせに!」

 叫んだ。この男に、思い知らせてやりたくて。

「離してよ、もう放っておいて!」

 暴れた。床の上で浜に打ち上げられた魚のように。

「出てけ! 出ていけッ!」

 たとえその影響がどこにも及ばなくても、捕らわれたわたしにはそうすることしかできなかった。

「ガキが一丁前に喚くな」

「っ」

 歪んだ視界の中で、黒い巨体がこちらに背を向けた。その仕草一つで自分は敵とすら認識されていないのだと思い知る。捕縛布を握らない方の手がテレビボードの写真立てに伸びた。

「っ、触らないでッ!」

「……この様子だと、俺の心配は杞憂だったらしいな」

 そこに飾られているたった一枚の写真には、わたしと弔くんが映っている。最後の日に義爛さんが記念だと言って撮ってくれたものだ。弔くんは嫌がって正面すら向いていないけれど、わたしが彼の腕にしがみついて笑っている写真。

 あれは、自分を取り戻した証だ。

 もう二度と心の底から笑うことなんてないと絶望していたわたしが、彼の隣に居ることを許された証。たとえすべてを投げ打ってでも彼を守ると心に決めた、わたしの決意。

「……ずっと、お前が自死という最悪の選択をするんじゃないかと懸念していた」

 写真を手にした男の表情は読み取れない。

「お前はもっと俺に〝ベタ惚れ〟だと思っていたんだがな……とんだ思い違いだったらしい」

「勘違いも甚だしいです──うッ」

 身体をギリギリと捕縛布が締め付けて、首が締まった。息が、できない。

 足音が近づいてくる。顔の横に、ことんと写真立てが置かれた。視界が霞んでいく。弔くんの顔がボヤけていく。涙がこめかみを伝った。

「悪いが少し調べさせてもらったよ。界隈では運び屋として有名な男だそうだな。知ってたか?」

「っ……ぁ」

 いきが、できない。意識が遠のいていく。

「知ってたなら、お前も同罪だ」

 黒い腕が伸びる。

「さて、場所を移そうか」

 首に落とされた衝撃で、わたしは意識を飛ばした。

 

 


 

 

 ある日を境に、目を瞑っていても父と母の気配が分かるようになった。

 その範囲が一メートル、ニメートル、隣の部屋、家の中、家の敷地内と範囲を広げるにつれて、二人はわたしの成長を喜んだ。目を瞑った世界は真っ黒で、けれどもその中で父は鮮やかな青色に、母は淡い桃色に視えた。

 わあ、きれい──。

 鮮明に焼き付いたその二色は、わたしが生まれて初めて〝きれい〟だと思えた特別な色だった。

 外で友だちと遊ぶようになると、視えるのは父と母だけではなく、すべてのヒトであると気がついた。しかも彼らはそれぞれ異なる色に染まっていて、ひとつとして同じ色はない。まるでその人の個性を表すかのように、わたしの黒い世界は色とりどりだった。

 ──ちゃんはね、金魚みたいな赤色。──くんはね、ナスみたいな紫色。──ちゃんはジャングルジムみたいな黄色。まるで占い師のようなわたしの言葉に、友だちはこぞって色を尋ね、自分の色を知っては喜んだ。当時、近所の子供たちの中で、わたしはオールマイトよりも人気者だったと思う。

 そんな様子を見て、両親が〝世界の色図鑑〟という本をプレゼントしてくれた。わたしはその本が大好きで、どこに行くにも持ち歩いた。

「あなたはこの色だよ」

 そう言って指を差すと、言葉だけじゃ到底表せない世界を友だちと共有できて嬉しかった。夢中でページをめくり、新たな色を知っては、また黒い世界にのめり込んだ。

 この世の誰もが皆、かけがえのないひとつの色。

 わたしの個性は〝色覚探知〟と名付けられた。

 

 あの頃、色図鑑と同じくらい好きだったものがある──ピアノだ。白と黒の二色だけに彩られた鍵盤は荘厳でうつくしく、幼いわたしを猛烈に魅了した。

 同じ色なのに、なぜかまったく違う音を奏でる楽器。

 なんて、ふしぎなんだろう──わたしの世界では、その事実はとても非常識で、まるでカゴの中の鳥が空に恋をするように心惹かれていった。

 今でも、覚えている。

 リビングに置かれていたグランドピアノのうつくしい白と黒を。うっとりと音色に聴き惚れる父と母の顔を。一曲弾き終わるごとに送られる盛大な拍手を。足の届かない猫脚の椅子を。そこに腰掛けた時の硬い感触を。自分はピアニストになるのだと、本気で信じていた儚い夢を。

 

 小学校に上がってしばらくすると、父と母が交代で家を空けることが増えた。わたしは観客の居なくなったピアノを辞め、家のお手伝いをするようになった。

 掃除。洗濯。炊事。

 ひとりで熟せると、父と母はとても喜ぶ。「いい子だね、えらいね」と頭を撫でてくれるから、ピアノよりもお手伝いが好きになった。

 小学五年生になった頃、初めて父と母の長期出張が重なり〝一人で生活をする〟という経験をした。とてもさみしかったけれど、毎晩決まった時間に電話をかけてくれる二人に、むしろこっちの方がいっぱい話せていいな、なんて感じたりした。

 たまに家の様子を見にきてくれる叔母から「冷たい親だねぇ」と言われて驚いたことがある。だって、考えもしない言葉だったから。

 おばさん。お父さんとお母さんはね、わたしががんばるといっぱいほめてくれるよ。それにね、ふたりは世界の困っている子どもたちのために、がんばって病気の研究をしているの。わたしは体が丈夫だから、だいじょうぶ。お父さんとお母さんはね、ヒーローなんだよ。オールマイトみたいに、みんなを助けるヒーローなの。

「だからね、わたし、お父さんもお母さんも、いっぱいすき」

 叔母さんは何も言わずに、頭をそっと撫でた。

 この頃のわたしは心底愚かしく、呆れるほどに鈍感だった。

 

 中学に上がると、父と母が海外に拠点を移し、本格的に活動を始めた。医療研究には莫大な資金が要る。アメリカには研究開発における助成制度が整っており、現実問題として二人は海を渡らざるを得なかった。

 一緒に行こう、アメリカへ──。

 決定事項のように語る父と母を前に、初めて異を唱えた。

「……わたしは、こっちに残りたい」

 今思えば、家を空けてばかりの二人に対する小さな反抗心だったのかもしれない──いや、あれは紛れもない嫉妬心だった。世界のどこかにいるらしい、難病を患ったこどもたちへの。

 お父さんとお母さんの情熱を一心に受ける彼らは、身体の丈夫なわたしから、家族の時間という愛をたしかに奪っていた。

 

『ごめんなさい……研究が立て込んでて、しばらく連絡できそうにないの』

『一人でも、平気かい?』

「うん、大丈夫! お仕事がんばってね」

 

 画面の中のお父さんとお母さんは、色がない。

 

「お父さん! 今日ね、学校で満点取ってね、それで──」

『ああ、すまない。緊急の電話だ。また掛け直すよ』

「そっか……うん。研究がんばってね!」

『ありがとう、また明日話そう。──、いっぱいすきだよ』

『わたしも、いっぱいすきだよ』

 

 画面の中のお父さんは、頭を撫でてくれない。

 

「お母さん……次は、いつ帰ってこれる?」

『年末には戻れそうよ。ごめんなさいね、延ばし延ばしになってしまって……なにか欲しいものはある? お土産いっぱい買って帰るわね』

「大丈夫。お土産も……大丈夫だよ。無事に帰ってきてね」

 

 画面の中のお母さんは、嘘をついてばかり。

 

 もう、ずっと前からだ。

 我が家のバスタオルは、三分の一で足りる。水切りかごに、独りぼっちのお茶碗が転がっている。主人を失った花瓶は、カラカラに干からびている。誰にも見られない絵画が、歳をとるように色褪せていく。ホコリのきれいなピアノは、もう弾けない。叔母さんの家は、やっぱり落ち着かない。出迎えのない真っ暗な家が、わたしを閉じこめる。小さな絶望が、積み重なっていく。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 呪文のような言葉は、わたしを本当に〝大丈夫〟にした。

 たった三年、と両親は思うだろう。でもそのたった三年は、わたしにとっての一生だった。

 あれ、お父さんとお母さん、どんな色だったっけ──。

 まなこの裏に焼きつくほど愛しかった色は、たった三年で驚くほど色褪せた。

 じわじわと〝大丈夫〟な形へと曲げられたわたしの心は、いつしか、ひとりの夜を支えてくれたオールマイトへと傾倒していく。画面の中の彼は目を瞑らなくても金色に輝いていて、その光は真っ暗なわたしの家を煌々と照らしてくれた。

 みんなに愛されるヒーロー。その活躍は世界中を飛び回り、しがないわたしの元へもやってきた。

 ならば、いつかわたしも、彼のようなヒーローになろう。

 そうすればきっと、遠くにいるお父さんとお母さんまでわたしの光が届くはずだ。きっとまた、目を向けてくれる。頭を撫でてくれる。そばに居てくれる。

 わたしをまた、愛してくれるはずだ。

 

 


 

 

「……目が覚めたか」

 かつてソファがあった場所に、わたしは横たわっていた。反射で動かそうとした手が、後ろ手に纏められいるとわかって、ああ、そうだったと気づく。

 すっからかんになった我が家は、まるで売り出し中の中古物件みたいだ。またここに、帰ってきてしまった。

 わたしを連れ立った男は、木目調のネコ脚がついた背無し椅子に腰掛けている。やっぱりあれも売ってしまえばよかった、と後悔したところで時間は戻らない。

「あと数十分もすれば、お前の親御さんも来るだろう」

「……そうですか」

「二人は市内のホテルに仮住まいだそうだ。ここまで何もかも無くなってりゃ、生活もできんからな」

「でしょうね」

 見回さずとも家具家電から装飾品に至るまで、すべて失われていることは百も承知だ。どうせ使われていなかったものばかり、手放して何が悪い。この家はようやく、わたしの望む形になったんだ。

「……ちゃんと伝えますよ、自分の口から。雄英を退学したって。この家が、こうなった理由も」

「ヒーローは、もう諦めるのか」

「はい」

「お前の今回の件に関しては、俺に一任してもらうよう校長に頼んである」

「じゃあ、なおさら退学ですね」

「……後悔もないのか」

「あったらここに居ません」

「……潔いな」

「なにが言いたいんですか」

 いつもはハキハキと結論一直線の男が、今に限っては随分と骨がない。気絶する前に対峙したあの人が、まるで別人のようだ。

 黒くて長い足が組み変わった。その動作に時間の経過を感じる。どおりで自分の中の怒りが下火になっているわけだ。

「なあ……お前はなんでヒーローになりたかったんだ」

「もう忘れました」

「入学前、親御さんが話していたよ。オールマイトの出身校だと聞いてお前が雄英に入学を決めたってな」

「……そうですか」

「オールマイトみたいなヒーローになりたかったんじゃないのか」

「はは、」

 乾いた笑いしかでてこない。

 絶大な力と圧倒的人気を誇るナンバーワンヒーロー──オールマイト。平和の象徴として君臨する彼のようになりたいと夢見る子どもたちは多いだろう。確かにわたしもその中のひとりだった。

「なれないですよ、わたしなんかじゃ」

「なんで決めつける」

「なんでって……別に本気で追い掛けてたわけじゃないからです」

 オールマイトは、道半ばで踏み外してしまったわたしをどう思うだろう。叱責するだろうか。それともヒーローらしく、抱きしめてくれるだろうか。

 実のところ、平和の象徴とはいったいどんな色をしているんだろう。

「ねえ、先生」

「……」

 急に返答がなくなって、わたしは転がったまま視線を椅子に向けた。その顔が眉間の皺を深くしてはいるものの、まだ聞いているとわかって言葉を続ける。

「オールマイトは、何色だと思いますか」

「……それはお前にしかわからんだろ」

「きっと、金色だと思うんです。だってわたし、まだ会ったことがないんですよ、金色の人に」

「いつか、本人に会えばわかるんじゃないのか。……お前がヒーローになって、いずれどこかで会えば」

 そうできたら、どれほどよかったか──。

「会うことは、もうないですよ」

「……んじゃ、俺からも一ついいか」

 一呼吸置いて、先生が少しだけ猫背を戻した。

「ずっとお前に訊きたかったんだ。手がかりを求めて、この家に入った時から」

「……」

「なぜ、売らなかった。これが一番金になったんじゃないのか」

 コンコン、と手の甲で音を鳴らせたそれは、先生の後ろでひっそりと佇んでいる。今もきれいにホコリを被ったまま、うつくしいノアールが鈍く光る。

「……売り物じゃないんです、それは」

「なぜ」

「……当てつけですよ、両親への」

 失ってしまった、儚い夢。

 いつの間にか忘れてしまった、わたしの大好きだったもの。

 このピアノと図鑑だけが親の顔色を伺わずに好きだと胸を張れたと、残酷にも家をまっさらにして思い出した。

 やっぱりわたしは、大切にすべきものを落っことしてばかりいる。

「……別に、ヒーローじゃなくてもよかったんです。有名になりたかっただけだから。先生にはバレてるだろうなって思ってたけど、わたし空っぽなんですよ。好きだったものも忘れちゃうくらい」

 中身のない、虚ろな人間。カタチを保つのは、いつだって自分じゃない誰かの賞賛だけ。

「だから、誰かを助けたいなんていう心も、人のためにおせっかいを焼きたいなんて気持ちも、みんなに比べたらずっと薄い」

「そんなことはないよ」

「……そんなことしか、ないんですよ、先生。わたしはもうずっと、自分のことで、精一杯なんです」

 歪に変えられてしまった心は、元には戻らない。自然と涙が流れていく。もう泣かないと決めていたのに。

 ふぅ、と先生が深いため息を吐く。組んでいた足を解いた。

「お前は、よく周りが見えている生徒だ。自分のことで精一杯な人間はあんな風に立ち回れない。……だが、そうだな。思うところはあったよ」

 先生がこちらをまっすぐ見つめている。

「蔑ろにしてきたんだな、ずっと……自分の気持ちを。言葉にできなかったんだろ。大丈夫なフリして、自分すら騙して」

 また、ほろりと零れる。床と皮膚の間がじわじわと濡れていく。

「俺はそれに気付いてあげられなかった……だからあの夜、お前を──」

「っ、やめてくださいよ。もうその話はこりごりです」

「いや、ダメだ。ちゃんと聞け」

 先生の首から捕縛布が伸びた。シュルシュルとわたしに巻き付いて、とんと立たされる。なんてやさしい力だ。

「本音を言えば、俺はお前を引き戻すためだけに来たんじゃない──あの夜のことを謝りたくて、ここにきたんだ」

「なにを、今更……」

 巻き付いた布で、ぐっと引き寄せられた。とたとたと歩かされて、椅子に座ったままの先生が目の前まで迫る。威圧感は感じられない。しかしあまりの近さに、思わず体が強張った。

「いつか、お前に詫びたな。あれは訂正する」

「やめてって、言ってるじゃないですかっ」

 聞きたくない。もう何回も抉られた。自分でも抉った。また傷が開いてしまう。

「俺が詫びるべきことは別にあった」

 息を呑む。これは聞いてはいけない言葉だ。

「それはあの日、お前の気持ちを、お前の口から聞いてやらなかったことだ」

「っ……やだっ……」

 背けた顔に、黒い腕が伸びる。わたしの濡れた頬を、先生の手がやさしく撫でた。ぼろぼろと涙がこぼれていく。止められない。

「お前の気持ちも聞かず、あの日のまま置いてけぼりにした」

 今更触らないで。やさしくしないで。

「吐き出させてやれなかった」

 もう、終わらせたのに。

「俺はお前の気持ちを、蔑ろにした」

 なのに、なんで──

「すまなかった」

 漏れ出る嗚咽が、忙しさを増していく。

「っ……うっ……こん、なの、っ……ひどい……っ、」

 先生は苦しい顔をして、わたしの目尻を拭う。

「……なあ、言ってくれないか」

「ふざけないでっ! ……うっ……ずるい、っ、今更、こんなのっ」

「ああ、そうだな。お前の言うとおり、大人はずるい生き物なんだよ」

 そう言って薄く笑うくせに、もういつの間にか目の前の先生の方がずっと泣きそうな顔をしていた。眉を寄せてとても苦しそうに、わたしを見ている。

 なんでそんな顔するの、先生。

「だから、頼む」

「ぅ、っ……」

「もうこんなおっさんのことは飽き飽きだろうが……俺は、お前の口から聞きたいんだよ」

「うぅ……っ……っ、はぁ……はぁ……」

 込み上げてくる感情が呼吸まで邪魔するほどに暴れていて、わたしはなにかを叫び出してしまいそうだった。それを、なんとか喉奥に留まらせる。

 自分自身を一生懸命落ち着けながら、想いを巡らせた。

 涙がこぼれないように上を向いても、意味はなくポタポタと流れていく。縛られたままのわたしに、先生は紐を解くこともなく、そのまま勝手に落ちる涙を拭い続けた。

 そうだ。あのときも、先生はこんなふうに甲斐甲斐しくお世話をしてくれた。

 ゆっくりと、思考があの日に戻る。

 先生の手を胸に当てて抱き締めた、あの日。もし戻れるとしたら、わたしはこの人になんと言うだろうか。期待と絶望を胸に寄せながら、身動きのとれない世界で助けてと叫んでいたこの気持ちを。

「……先生、が、っ……」

「ああ、」

「……ほめる、っ……ときに」

「ああ……」

「頭、をっ、なでて、くれるのが……すきっ、で」

「っ、ああ」

「いつもっ……うぅ、がんばって、ましたっ」

「……そうか」

 些細なことだった。たったそれだけのことが、あの頃のわたしのすべてだった。

「おっさん、なんて……思ってないっ」

 微塵も思ってないよ、先生。

「そうか、」

 かっこよくて頼りになって、生徒思いで厳しくて、けれどちょっぴり甘くて、頑張るとちゃんと褒めてくて。猫背なところも、ボサボサの頭も、目の下のくまも、すぐ合理的だって言うお口も、顎に生えたお髭だって、ぜんぶ、ぜんぶ。

 なによりも、わたしの寂しい気持ちに気づいてくれた。

 そんな、あなたが──

「……せんせっ、が……いっぱい、すきっ」

 いっぱいすき、先生。今でも、まだ。

 もうこの気持ちは許されないけれど。

 それでも、あなたのことが、まだ、たまらなくすき。

「……ありがとう」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を、先生はやさしい顔で眺めて言った。

「返事は、お前の卒業まで待つよ」

「は、……え?」

「お前が立派なヒーローになった時、返事を訊きにおいで」

 なに、それ。

「……意味、わかんないっ」

 人に告白をやり直させておいて、自分ははっきり振らないなんて──ああ、やっぱり大人はずるい。わたしを連れ戻すための姑息さが、腹立たしいのに嫌じゃない。

「わたしは、もうっ……」

 先生との恋なんてとっくに諦めた。弔くんと生きるって決めた。

 だから、もう──

 こつん、と小さな衝撃がおでこに響いて視界が黒一色に染まる。続きを言わせないやさしい手が、背中に回ってあやすようにポンポンと撫でた。

 縛られていた紐をしゅるりと解かれる。跡の付いたひりつく手首をすりすりと撫でられると、今でも暴れ出す心臓が疎ましくて大嫌い。

 先生のにおいがした。たったそれだけで、吹き荒ぶ心が落ち着いてきて、ふしぎと涙がひいていく。

 相澤先生──。

 自由になった身体で、覚悟の息を吸い込んだ。

「……助けたい」

「……」

「弔くんは……本当に、やさしい人なんです」

「一緒にいた男か」

「はい……、わたし……一緒に、償いたい。彼の罪を、わたしも背負って生きていきたい」

「……」

「だから、学校にはもう──」

 その瞬間、ガチャリという音と共にわたしの名前を激しく呼ぶ声が家中に響いた。

 

「お父さん、お母さん……」

 駆け込んできた父と母は、最後に会った時よりも少しやつれているように見えた。しかしそれ以上に痩せていたであろうわたしを見て、彼らは小さく息を呑んだ。

「あなた……ああ、なんてこと……」

 その言葉が、わたしのしでかしたことに対してなのか、痩せてしまった外見に対してなのかはわからなかった。娘を前にして狼狽える母を、わたしはどうしたらいいのかも分からずに、ただただ正面から見つめていた。

「どういうことなんだ……説明しなさい」

 威厳を保とうとする父は、わざと出したような低い声に反して、目に涙を浮かべていた。少しは娘の行方を心配してくれたんだろうか。それとも、わたしのやらかしに対する怒りが収まらずに、溢れてしまっているのだろうか。一つ言えることは、こんなに怒った表情の父は人生で初めてだということだった。

 横から先生がすっと前に出る。なぜか庇うようにわたしの前に腕を出して、それからゆっくりと頭を下げた。

「お嬢さんが寮を出たのは、私の不徳の致すところです。ご心配をお掛けして申し訳ございませんでした」

「っ、ちがうっ、それは違う!」

 腰を折った先生を起こそうと黒い背中を引っ張るけれど、先生はびくともしない。頭を上げてよ、やめて、先生。

 ──パンッ

 頬に、鈍い痛みが走る。

 一瞬戸惑って、けれど父の赤くなった顔を目にして頭が冷えた。

 当然の報いだ。勝手に学校を退学した挙句、男と逃げて、しかも家をこんな有様にしたのだから。

「自分が何をしたかわかっているのかッ!」

「ちょっとあなたっ、やめてください!」

 母が父の腕にすがりつく。

「お前を信じて、日本に残したというのに、こんな──」

 また父が腕を振り上げる。

 わたしには避ける気なんてなかった。目を瞑ってすべてを受け入れる。抗う気なんてないんだ、もう。だってこの人たちへの期待なんて、ひとかけらも残ってないのだから。

 ──パシッ

 しかし、想像した痛みは降ってこなかった。目を開けると、先生がお父さんの腕を受け止めていた。

「ご家族の件に、一教師が口を出すのは烏滸がましいとは思いますが……ただ、少しだけ、お嬢さんの話を聞いてやってはもらえませんか。普段から規律を重んじる彼女には、こうするだけの理由があったんだと思います。俺たちは、それに気づいてあげられなかった」

「こうするだけの理由だと!? 男と逃げ出した娘に、いったいどれだけの崇高な理由があるというんだ! 馬鹿馬鹿しい!」

「それを判断するためにも、彼女の口から話を聞くべきだ。彼女の言葉で」

 背中に大きな手が添えられる。

 言葉にしろ、ゆっくりでいいから。そう小さく囁かれた先生の声で、また奥から込み上げてくるものがあった。

 ぐっと喉を締めて、堰き止める。

 先生は、きっと気づいてしまったんだ。わたしが、この二人に失望してしまっているということを。とうの昔に、心の糸が切れてしまっているということを。

 唇をめいいっぱい噛んで、それからゆっくりと深呼吸をした。

 期待なんてもう無いはずなのに、どうしてこんなにも言葉にすることが怖いんだろう。

 

「……ずっと、嫌いだった」

 世界のどこかにいる病気の子どもたちが。わたしのお父さんとお母さんを奪っていく、その恵まれた子どもたちが。

 わたしを蔑ろにしてばかりのお父さんも。嘘をついてばかりのお母さんも。大嫌いだった。

「……そばに、いてほしかった!」

 話を聞いて欲しかった。娘の声に、耳を傾けて欲しかった。だってわたしの家族は、あなたたちだけなのに。

 どうしてテストで百点取っても褒めてくれないの。わたしのこと後回しにしちゃうの。なんですぐ帰ってくるよって嘘つくの。病気の子どもたちが救えれば、わたしはどうなっちゃてもいいの。

 全部、ひとりでやってきたのに。

 勉強も、掃除も、洗濯も、炊事も。

 文句一つ言わずにがんばってきたのに。

 ずっと、いい子で待ってたのに──。

 嬉しいときも、悲しいときも、楽しいときも、苦しいときも、寂しいときも、家の中は真っ暗なの。ずっと、真っ暗なんだよ。

 それがどれだけわたしを苦しめるか、考えたこともなかったの?

「だから、ぜんぶっ……っ……ぜんぶさよならした!」

 要らないものばかりだったから。使われなくなった物たちが、全部自分みたいに思えて嫌だったから。家に残されたわたしみたいで、吐き気がしたから。置いてけぼりにされて可哀想だと思ったから。

 だから送り出してあげたんだよ、大事にしてもらえる人たちのところへ。

 だって──

「わたしも……大事に、……っ、して、ほしかったからッ……」

 大事にしてくれないお父さんも、お母さんも、大嫌い。

 でもね。

 わたしが一番嫌いなのは、わたしなの。

 丈夫な体に生まれてきたことを何度も後悔した。大したことない個性を悔やんだ。褒めてもらうことでしか自分を計れない現実に狼狽えた。好きなものがない虚しさに押し潰された。不純な動機でヒーローを目指した罪に蝕まれた。

 ──だから、だからなんでしょう?

 だからお父さんとお母さんに、愛してもらえなかったんでしょう?

「ごめっ……なさい、こんな……っ、娘で、」

 こんな欠陥品のわたしで、ごめんなさい。

 

 息苦しくて、もう立ってられないって思ったとき、ぎゅっと抱きしめられた。それがお父さんの腕の中だと気づいて「っ、すまなかった……」と掠れるような声を聞いても、心の中はまだ荒れ模様だった。

 わたしの腫れた頬はずっと熱い。

 崩れ落ちる母の、懺悔のような悲鳴が遠くに聞こえる。

 わたしは父の腕の中で懐かしいはずのぬくもりに身を寄せていた。ずっと欲しかったぬくもりなのに、凸凹がうまくはまらないパズルのように居心地が悪いのはどうしてだろう。わたしたち家族は、いつからこんなにもチグハグになってしまったんだろう。

「お嬢さんはまだ十六です。しっかりしているように見えても、まだ子どもだ。どうかもう少しだけ、彼女との時間を大切にしてあげてください。我々も彼女の回復のために全力を尽くします」

 なんでこんな事をしでかしたわたしが雄英に戻れると思っているのか。先生の考えはよくわからない。だってわたしには、

「もう……戻る、理由が……」

 ないです──そう口にしようとした時、ガラガラと不思議な音が耳についた。その音は玄関の方から響いて、次いでわたしの名を呼ぶ声が大きく木霊した。

「──ッ!」

 ハッとしたときには玄関につながる扉に大きな亀裂が入っていた。その亀裂が瞬く間に広がって、バキバキと悍ましい音を立てながら、扉が、いや、壁全体がボロボロと崩れ始める。

「きゃぁああ!」

 お母さんの叫び声と、先生の怒鳴るような声が重なった。

「下がってください! 巻き込まれるぞ!」

 煙のような噴煙が辺り一面に巻き起こり、視界を奪う。目を瞑るとすぐそこに白い影が見えた。わたしの、愛しい白だ。

「っ、弔くん!」

 煙が落ち着く頃になってようやく家の外壁一面がまるまる消えていることに気がついた。中身が丸裸になった家は照明も失い、夜空と隣の家から漏れる光だけが辺りを照らしている。

 酷く焦燥した様子の弔くんが崩れた残骸の中に立っていた。息を切らしている。きっとわたしが突然消えてしまったから、遠く離れたこの家まで探しに来てくれたんだろう。

 彼が、恐ろしく鋭い目でこちらを見た。

「ハァ……ハァ……返せよ」

 触れれば弾けてしまいそうな、切羽詰まった殺意を感じる。

「くそ、あいつか!」

 突然の状況に混乱した父と母は、化石のように固まっている。先生が叫んだ。

「二人は逃げてください! 倒壊の危険があります。あっちの窓から外へ!」

 先生がベランダに続く掃き出し窓を指差したが、二人は呆然としていた。母は腰を抜かしたのか、その場から動きもしない。父は立ち尽くしている。

 まずい。

 わたしは咄嗟に叫んだ。

「弔くん、落ち着いて! わたしは大丈夫だからっ」

 駆け寄ろうとしたが、とっさに腕を掴まれた。

「……き、君なのか……うちの娘を、たぶらかした男は」

「っ! やめてっ、離して、お父さん!」

 父はわたしの手首を強く掴んで離さない。目が座っていない。半分錯乱している。

「お、お前は黙ってなさい! 私はこの男と、話をする、義務がある……うちの娘はお前なんかに、絶対に渡さんぞ!」

 父の覚束ない咆哮に続くように、はは、と嘲笑うような声が返ってきた。

「……おとうさん、ねぇ」

 弔くんが、小さく口にする。

「また俺の邪魔すんのかよ〝おとうさん〟」

 え、と身体が板のように硬直した。彼が殺意と一緒に足を大きく踏み出して、こっちに手を伸ばす。肝が冷えたその瞬間、彼の体は呆気なく捕縛された。

「ぐっ……!」

「先生っ!」

「個性は消してる。お前は何かしらの犯罪に加担している可能性が高い。警察が来るまで大人しくしてもらうぞ」

「あぁ?! ふざけんなよ、くそっ……くそっ!」

 彼は胴体部分をがちがちに纏められて、その場に倒れるように座り込んだ。

「っ、弔くん!」

 父の手を振り払って、弔くんに駆け寄る。

「……ありがとう、ごめんね。心配して来てくれたんだよね」

 初めて会った時と同じ目をしている彼が、まだ怒りの中にいるのだとわかる。その首に巻きついて、彼の昂りを一生懸命なだめた。

「だいじょうぶ、弔くん……大丈夫だよ」

 背後から、父のうわずった声が届く。

「どうして……なぜ、そんな男なんだ!」

「危険です! お二人とも下がってください!」

 先生に制止された二人は、きっとわたしたち二人を奇怪な目で見ていることだろう。

 彼の首に巻きついたまま言い返した。

「……お父さん、お母さん、ごめんなさい。けれど、弔くんがこの先どんな人生を歩もうと、わたしは彼の傍にいます」

 だってそれは、わたしが一番して欲しかったことで、あなたたちがしてくれなかったことだから。

 返事は、返ってこなかった。

「おいッ、俺は二人をいったん外に出す。いったん解除するからお前はそいつを留めておけ!」

 彼の首に巻きついたまま頷く。シュルシュルと音がして、父と母が力づくで外に出されているとわかった。弔くんは拘束を解かれた後もその場を動かずに、たどたどしい様子でわたしの服を手繰り寄せる。

 わたしは腕の中の彼に、言葉をかけ続けた。

「心配かけて、ごめんね」

「……あいつら、お前の親か」

「うん」

「俺らを、引き離すつもりなんだろ?」

「うん、」

「……なあ、壊しちまおうぜ、いったん、ぜんぶ」

 首を横に振る。

「っ、じゃあ逃げよう」

「……もう逃げられない。警察がそこまで来てる」

 遠いところで、サイレンの音が聞こえていた。

「はあ!? 今なら逃げられんだろっ、諦めんのかよ?! それとも俺を捨てて──」

「捨てない! あなたと生きていくよっ」

「じゃあなんで、」

 ──バキッ

 雷が落ちたように危険を察知した瞬間、均衡は瞬く間に崩れた。バキバキとそこら中から音が鳴り始めて視界に映る影が大きく揺れる。

 あっけないほど、あっという間だった。

 弔くんが「あ」と小さく音を発したと同時に、なぜかわたしは天井が落ちてくるのだと悟った。ふしぎと、世界がスローモーションのように見える。けれどもその間、自分の身体は一ミリも動かなかった。

〝弔くん〟

 体に巻きついた弔くんの腕がぎゅっと強まる。その刹那、なにかに弾き出されるように動き始めた体で弔くんの頭を掻き抱いた。

 そして、ぷつりと意識が途絶えた。

 

 


 

 

 サイレンの音がする。弔くんの雄叫びが聞こえる。

「あぁ、あぁ、ああぁぁあ、ああぁ!」

 獣のような彼の声が遠くで聞こえる。目の前にいるのに、ずいぶんと遠くに感じてしまう。視界がぼやけている。両手で自分の顔を引っ掻く彼は、膝をついて狼狽えていた。そんなことをしたら、また傷が増えてしまうのに。

 夜空が見える。ああ、きっと彼が天井を壊してくれたに違いない。じゃないとこのうつくしい空は見えないはずだ。

 やっぱりあなたの個性は、わたしなんかよりずっとすばらしい。わたしなんかより、ずっと生きる価値がある。

「と……くん……ぶじ……よかっ、た」

 ああ、どうかそんなに悲しまないで。

「あ……が、とう」

 あなたは本当にわたしを助けに来てくれた。

 大嫌いだったこの家を、ぜんぶ壊してくれた。

「……だぃ……じょ、ぶ、」

 わたしはここにいるよ。

「これ、か……も……ずっ、と」

 そばにいるよ。

「……いっ、……す、き」

 弔くん、いっぱい、すき──。

 

 遥か向こうでお父さんとお母さんの叫びが聞こえる。先生の焦った声も。それらを掻き消すような弔くんの絶叫も。

 そんなに、大した事じゃないのに。

 わたしは、だいじょうぶだよ。

 だからお願い、先生。彼を咎めないで。弔くんはやさしい人なんです。

 どうか──、彼を助けて。

 わたしはからだに広がるやさしい痛みに、静かに身を任せた。

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