それでも、あなたと生きていきたい

「……起きたか」

 薄らと開けた視界の端に黒が映り込んで、てっきりわたしはあの日の夢を見ているのかと思った。

「せん、せ……?」

「ああ、」

 安堵したような表情が見える。次いでその奥に映る天井が見覚えのないものだと分かって、夢ではないことに気がついた。ここは一体どこだろう。

「──ッ!」

「ああ、よかったっ」

「……おとうさん……おかあさん」

 反対側から覗き込んできたのはお父さんとお母さんだった。涙ぐむ母は「本当に、もうダメかと思ったのよっ」と声を絞り出して、掛け布団を強く掴む。

 そうだ、たしかあの時、天井が崩れ落ちてきて、それから──。

「っ、とむらくん!」

 頭にズキンとした痛みが走った。反射で起き上がろうとした体を、先生が肩に手を当ててやさしく制する。

「倒壊に巻き込まれたんだ。頭を強く打ってる。まだ動かないほうがいい」

 頭の違和感に手をやると、包帯らしきものが巻かれていた。天井が崩落した時に打ったのだろうけど、だとしたらこの程度の怪我で済んでいるのは奇跡かもしれない。

 あの時は弔くんを宥めることに夢中で、まさか本当に家の天井が落ちてくるだなんて思いもしなかった。ヒーロー科で学んでいたはずなのに、自らの状況把握の甘さを痛感する。

 ふと、最後に目にした夜空を思い出した。もう自分の命はここまでかもしれないと悟って、必死に弔くんへと声を掛け続けたあの時、彼の後ろで星が瞬いていた。今、窓の外はもう明るい。

「……弔くんは、どうなったんですか」

「警察に連行された。今は勾留されている」

「勾留……」

 覚悟していたことだが、やはり弔くんは警察に捕まってしまったらしい。

 とうとう手の届かない所に彼を追いやってしまった。わたしを助け出そうとしたばかりに、彼はこれから長い投獄生活に身を置くことになるのか。そう思うと胸がなにかに喰い千切られたように激しく痛んだ。

「彼は、わたしを……助けに来ただけなんです。だから、っ──」

 どうにもできないことなんて、自分がよくわかっている。けれども言葉にしなければ、愛しい人を暗い世界に閉じ込めてしまった罪悪感でおかしくなってしまいそうだった。

「まだそんなことを言っているのか! あいつは犯罪者なんだぞっ」

「そうよ、きっと他にいい人がいるわ! 無理にあんな恐ろしいやつを選ぶことないじゃない。お母さんが絶対にいい人を紹介してあげるから、だから──」

 父の呆れたような声に、母の諭すような声。優しさの皮を被った恐ろしい押し付けに言葉は飲み込まれた。もう二人には期待なんて微塵も残ってないはずなのに、なぜこんなにも胸が痛むんだろう。

「今はやめましょう。まずは娘さんが生きていたことを喜ぶべきだ」

 ぴしゃりと言い切った先生を前にして、二人は押し黙った。

「ぅ……」

 また、頭に痛みが走る。さっきからずっと後頭部がずきん、ずきんと小さな悲鳴を上げている。まるで弔くんが呼んでいるみたいだ。早く会いにいかなくては。きっと慣れない場所で困惑しているに違いない。

 ──ガラガラ

「失礼します」

「……塚内さん」

 突然の訪問者と先生の声に、父と母が立ち上がって頭を下げた。

「どうも、大変なところすみません。ああ、やっぱり君もここだったか、イレイザー」

 この場に似合わない快活な声が響いた。

「ええ、まあ……」

 ワイシャツ姿にトレンチコートを羽織った男性が病室に入ってきた。手を上げて先生と挨拶を交わす男性に、腹の底で滲むような緊張がうまれる。

「この人は、塚内警部だ」

 警部、さん──。

 先生の知り合いらしきその人はベッド際までやってきて、横になったままのわたしを覗き込んだ。黒く短い髪と、口元に忍ばせた柔らかいほほ笑みに、こざっぱりとした印象を覚える。でもなぜか目は笑っていないような気がした。

「やあ、初めまして。からだの調子はどうかな?」

「あ、えっと……」

「頭を強打していますが、今のところ命に別状はないそうです」

 代わりに答えてくれた先生が、やけに素早く言葉を返した。まるで警部さんの意図を察しているかのような素振りだ。もしかしたら、これから事情聴取というやつが始まるのかもしれない。

「そうか……早速で申し訳ないんだが、少し話を伺いたくてね」

 やっぱり──。

 おそらく雄英を出てからの逃亡生活について根掘り葉掘り聞かれてしまうんだろう。いや、もっと前からか。ここまで来てしまったのだから隠すつもりはないが、それでも両親の前で弔くんとのアレコレを話すのはさすがのわたしも気が引けた。両親が顔を真っ赤にして喚き散らす様が浮かんで、口が固く結ばれる。

「……それ、今じゃなきゃダメですか」

 今し方脳裏をよぎった言葉が、なぜか隣から発せられた。どっしりと落ち着いた先生の声が、わたしの複雑な心情を吐露する。先生は素知らぬ顔をしていたが、その皮の下はきっとわたしの気持ちを汲んでくれているに違いなかった。

「いや、退院してからで構わないよ。できれば一度署に来てもらえないかなと思ってね」

 塚内警部が少し言い淀んで続ける。

「彼が……君を連れてこいと要求しているんだ。そうしたら自身のことを話すと言っている。今は大人しくしているよ」

 弔くん──。

「彼は……無事、なんですか?」

 目尻に湧き出るものが、声を震わせる。

「ああ、かすり傷くらいのもんさ。君が身を挺して守ったおかげだろう」

「っ、よかった……」

 言葉にしてから、ちらと奥に立つ両親が見えたが、ふたりとも揃って苦虫を噛み潰したような顔をしていた。やはりここで事情聴取されるのは、絶対に辞めておいた方がよさそうだ。

「実は彼がいう『弔』という名前で調べてみたんだが、どうやら偽名のようだね。君は知ってたかい?」

「……はい。でも、本名までは……『弔で通している』と言われたので、それ以上は聞きませんでした。もしかしたら、名前も覚えてないのかも……」

 そこまで口にして、はっとした。

 ──また俺の邪魔すんのかよ〝おとうさん〟

 気を失う前、彼はわたしたちの前でたしかにそう呟いていた。

 ──昔のことなんざ、覚えてねえよ

 いつだったか、そう話してくれた弔くんには幼い頃の記憶がないのだと思い込んでいた。……けど、ちがう。本当は彼には記憶があるのかもしれない。 

「やはりそうか。個性登録からも当たってみたんだが該当者は見つからなかったんだ」

「つまり一斉個性登録も受けていない、ということですか。あまり歳を食ってるようには見えなかったが」

 先生が驚いた声で口を挟む。

 一斉個性登録とは小学一年生で初めて実施されるもので、制度として始まったのはわたしが生まれた頃だったはずだ。

「ああ、おそらくね。こちらも二十歳前後だと踏んでいる」

 個性が発現した人は国に個性届を出さなければならないが、これは本人に代わって親が代理提出する場合がほとんどだ。個性が発現するのはおおむね四歳から五歳にかけてだから、つまり逆に言えば──。

「弔くんは、そんな前から、たった一人で生きてきたってことですか……?」

 義爛さんには、弔くんといつ出会ったかまでは訊いていない。ずいぶん長い付き合いであろうことは確かだが、二人とも昔のことをあまり語ろうとはしなかったから実際のところは分からない。

「まあ、詳しくは彼に直接訊いてみるしかない。退院したら署に来て欲しい。よろしく頼む」

「はい……」

 力なく返すわたしに、塚内警部は少し眉を下げて微笑むと、早々に立ち去っていった。さすがにわたしとの関係性は耳に入っているんだろう。あの最後の微笑みは、わたしに愛しい人を差し出させることへの申し訳なさからきたものに違いない。

 その後、娘の状態が落ち着いたということで父と母も事情聴取を受けることになり、警察の車で一度所へ向かうこととなった。

 そうしてわたしは先生と二人、病院の個室に残された。

「はあ……ようやくゆっくり話せるな」

 首を掻きながら吐き出した先生の言葉で、流れていた沈黙はふしぎと解ける。関係性から言えば、距離があるのは両親ではなくむしろ先生の方なのに。わたしはその言葉に安堵と共感の思いでこくんと頷いた。

「怪我についてはおそらく、お前自身が被害届を出さなければ起訴はされないだろう。器物損壊……つーか建造物か、そっちの方はなんとも言えん。お前の親御さん次第だろうな」

「そう、ですか……」

 あんな家、むしろ無くなってすっきりしているのに。正直なところ、弔くんには感謝したいほどなのだ。もし自分が巻き込まれさえしていなければ、きっと心のどこかで崩れゆく家を見て喜んだに違いないから。

 けれども、現実はそう簡単じゃない。

「お前が意識を失った後、あいつは放心していたよ。連行されるときにお前の名前を何度も叫んでいた」

「っ……」

 たとえこれから彼が逮捕されることになっても、わたしは弔くんを好きになったことを後悔なんてしない。なんなら彼が重ねてきた罪を一緒に背負っていく覚悟だってある。

 けれども同時に、それは現実に落とし込んだ時にとても難しい選択だということもわかっていた。なぜなら、彼は一緒に生きていくためにはあまりにも社会から外れていて、そしてわたしはどうしようもなく子どもだ。

「きっと弔くんは、わたしが会いに行けばすべてを認めるつもりなんだと思います……それに、いつかはこうなるかもしれしないと、彼とは話をつけていました」

 連行される中で弔くんも感じたことだろう。もしかしたら会えるのはこれが最後かも知れないと。いや、それよりも殺してしまったんじゃないかという罪悪感で今も苦しんでいるかもしれない。

「逮捕されれば長いこと出てこれないと、彼自身も分かっているんだと思います。幼い頃から今の生活を続けてきただろうから……けれど、わたしは必ず彼を待ちます」

 生きている限り、何年かかろうとも。

「それは、あいつに好意を寄せているからか」

「っ、はい」

「……そうか」

 先生の顔は見れなかった。声が沈んだように感じたので、告白の返事を先延ばしにした思惑が実現できそうにないことを憂いているのだろうと思った。

 先生が、ふうと深く息をついて、わたしの名前を呼ぶ。空気が入れ替わったような気がして、ようやく先生の顔を見れた。

「今回のお前の処遇だが、どう考えても退学もんだ」

「……はい、承知してます。自主退学にして頂かなくて結構です。すべての処罰を、甘んじて受け入れます」

 言葉にすると更に胸の奥底で決意がかたまって、からりと晴れたような気持ちになった。心が、妙に軽くなる。これが覚悟が据わるということなんだろうか、とわたしはどこか遠い目で自分の気持ちを受け止めていた。

 

 


 

 

 事件から二日が経った。

 わたしは無事に退院し警察署を訪れている。物々しい雰囲気に包まれる中で手続きを終えて、勾留所の面会室の前へと通された。扉の前に塚内さんが立っている。

「面会時間は気にしなくていいから、ゆっくり話すといい。僕たちは一切邪魔をしないし、君の両親にもここで聞いたことを告げ口するつもりはない」

 その代わり、話は外から聞かせてもらうよ──と声を落とした塚内さんに、小さく会釈した。ここまで同行してくれた相澤先生もおそらく彼と同室するのだろう。二人は隣の扉から部屋の中へと消えていった。

 深呼吸をひとつして、扉に手をかける。

 重苦しい鉄格子を想像していたのに、ずいぶんと軽い扉がカチャリと小気味いい音を立てた。胸に渦巻く複雑な感情とは裏腹に、その扉はあまりにも容易くわたしを中へと引き入れる。

「っ!」

 アクリル板の向こうで、弔くんが椅子に弾かれたように立ち上がった。

 あ、弔くん──彼の泣き出しそうな表情を目にして、こちらもぶわりと目尻が熱くなる。こんなときなのに、この人の中で自分の存在が大きくなっていることを喜んでしまった。

「弔くん……無事で、よかった」

 涙を堪えて笑顔をつくると、彼はぐっと眉を寄せて、アクリル板にゴンと頭をぶつけた。小さく唸る彼の、視線の先を追う。手には普通の手錠とは異なる見たこともない装置が取り付けられていた。どうやら五本の指が同時にどこかへ触れることができない作りになっているらしい。

『もし捕まったら全部壊して出てくる。だからアンタはここで待ってろ』

 いつか話していた彼の計画は、実行に移されることなく夢物語で終わったことをその装置が告げていた。

 ああ、ほんとうに、現実は全然かんたんじゃないね──。

 大袈裟なほど存在感を放つその装置に、わたしたちの考えはどこまでも甘かったんだと突きつけられる。

 もう警察からも、学校からも逃げられない。世間からも後ろ指を刺されるようなことをした。夢のような生活は瞬く間に終わって、彼の腕の中で過ごしたひとときが、まるで夢だったんじゃないかとすら思えてくる。彼にオムライスを食べさせてあげることも、もうできない。

 わたしたちは大きな間違いを犯した。すべて解った上で選んだはずだったのに、今になって、現実がここぞとばかりに責め立ててくる。

 目尻にたまった涙を乱暴にぬぐった。

 こんな後悔を望んでいたわけじゃない。それでも。

 ちゃんとあったよね、弔くん──小さな正義がわたしたちの中にも。

 あっさりと終わってしまった逃避行にも、書き残してきた退学届にも、しあわせしかなかったあの部屋にも、わたしたちの想いはちゃんとあったんだよ。ねえ、そうでしょ、弔くん。

 彼がずるずると椅子に座って、それからしばらくの間、わたしたちは沈黙を分かち合った。顔に増えた引っ掻き傷が痛々しくて、お薬を塗ってあげたいのに、もうそれすら叶わないのかと思うと、涙がこぼれた。

 鼻をずずっと啜って、アクリル板に手を添える。

「……助けてくれてありがとう、弔くん」

 となりに寄り添えない分、声を掛け続けよう。彼が少しでも安心できるように。これから長く続く閉じられた生活に、あなたが絶望しないように。いつまでも自分を待っている人間がここに居ると、忘れないでいてもらうために。

「……弔くんがね、あのとき天井を壊してくれたから、わたし──」

「俺は、家族を殺した」

 低くて掠れた声が、不意打ちのような告白を落とす。彼はこうべを垂れたままだった。

「……え?」

 息を吸う音すら克明に刻まれる。

 辺りの音を、ごっそり持ち去られたような静寂が訪れた。

 家族を、ころした──と、同じように口を動かしても、その短い言葉の意味を理解するのに随分と時間を要した。

「俺の手は人殺しの手だ。あんたに触れると、思い知らされる。俺が化け物だってこと」

「どういう、こと……?」

 彼はこぼすようにぽつぽつと、幼い頃の記憶を語り始めた。

 

「……うちにはルールがあった。父が決めた、たったひとつのルール。『ヒーローの話をしてはいけない』。俺はそのルールを何度も破って、その度に家の外に放り出された。謝るまでうちには入れてもらえなかった」

 手の甲に爪を立てて、懸命に耳を傾ける。家族を殺したという衝撃に、わたしの頭は少なからず引きずられていた。

「お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、華ちゃん。みんな見ているばかりで、誰も助けてくれなかった。うちではお父さんの決めたルールが絶対だった」

 彼に感情の起伏は感じられない。まるでしんしんと雪の積もるような静けさで滔々と語り続ける。反対に、わたしの手はぶるぶると震えていた。いったい何からくる震えなのかはわからない。

「……ガキってのは単純なんだ。あの頃の俺はバカみたいに純粋で、世間知らずのクソガキだった。ヒーローになりたかったんだ……なあ、笑えるだろ?」

 大きく首を横に振った。

 そう言って自分を卑下する彼を見て、いったい誰が笑えるというのだろう。浮き彫りになっていく弔くんの内側が、胸を締めつける。

 幼い子どもにとって、ヒーローの存在は偉大だ。でもそれ以上に大人の言葉はいつだって〝絶対〟で、わたしだってそうだったからわかる。でも、だからこそ、彼は言って欲しかったんだ。自分の夢を否定しない言葉を、家族から。

 彼が、小さく息を吸った。

「……最初は、すごく悪いヴィランが、俺たちを襲っているんだと思った。あの日も外に出されて、始めにモンちゃんが崩れた。様子を見にきた華ちゃんも。俺に掴まれて、あっという間にバラバラになった」

 反射で、両手が口元に張り付いた。そうしないと叫び出してしまいそうだった。手の甲をなぞるように涙が落ちる。彼は淀みなく話し続ける。

「個性が発現してたんだ。訳もわからないまま、気づけば家族が死んでた」

 ああ、どうして。

「お母さんが、崩れながら俺に手を伸ばしたけど、掴めなかった」

 どうしてわたしは自分ばかり苦しいと勘違いしてたんだろう。彼を逃げ場所にしてたんだろう。苦しみの中に居たのは、ずっとずっと、彼の方だったのに。

「……なあ、あんたの顔にそっくりなんだよ。ぜんぜん似てないはずなのに。なんでか、いつも……」

 凪のように穏やかだった弔くんの表情が崩れていく。眉を寄せて苦しそうにわたしを見た。もしかしたら彼は、わたしを通して母親の面影を見ていたのかもしれない。わたしはそんな大した人間じゃないのに。

 その後も、彼の告白は続いた。

 家族をバラバラにした惨状を目撃した父親に、なにかで思い切り殴られて、溜まっていたドロドロが爆発したという。

「……あのとき、俺は明確な意思をもってお父さんに触れた」

 解放された気持ちよさが体を支配して、からだの痒みがおさまった。けれど、すぐに途方もない罪悪感に襲われて、彼はその場から逃げるように飛び出したそうだ。街中を彷徨う中で、通りすがる大人たちは誰も弔くんに手を差し伸べてはくれてなかった。悲運として片付けてしまうには、あまりにも残酷だ。

 血まみれの手をどうすることもできずに、苦しみの中で彼はそのまますべてを忘れてしまった。わたしと出逢ってから記憶を取り戻すまで、彼はこの凄惨な記憶を消し去ることで、ようやく生きることを赦されていた。

「言えなかった……あんたが、どっかに行っちまうと思って」

 今思えば、彼はずっとどこか苦しそうで、それは小指に布を巻くようになってからのことだったと思う。わたしははじめ、それは生活に不便さを感じているがゆえのことだと思って、弔くんにこう提案したことがある。

『無理に変わろうとしてくれなくていいんだよ。たとえ怪我をしても、わたしは平気だよ』

 やさしさのつもりだった。あなたを愛していると伝えるための言葉だった。けれども彼は激しく怒って、俺のことに口を出すなと叫んだ。ようやくあのときの出来事が一本の糸でつながる。

 弔くんはずっと恐れていたんだ。かつて家族を殺してしまった己の手を。崩壊の個性を。それをわたしに意図せず行使してしまうことを。

 どうして気付いてあげられなかったんだろう。彼はあんなにも怯えた目をしていたのに。こんなに近くにいたのに。

「外で、聞いてんだろ?」

 サツが、と小さく言う。首を縦に振った。

「……それと、わたしの先生も」

「ああ、あいつか」

 弔くんと視線が絡まった。

「……なあ、あいつなんだろ? お前の言ってた〝せんせい〟って」

「っ」

 息が止まって、でも、なんとか頷いた。そんな素振りは見せなかったはずなのに、どこで悟らせてしまったんだろう。

 やっぱりな、と弔くんは力なく笑った。込み上げてくるものをぐっと押し込めるけど、飲み込んだ言葉のせいで喉が熱い。言いたいことは山程あるけれど、それは今、この状況で話すべきことじゃない。

「あんたは、あっちに帰れ」

「え?」

「……俺はもういい。あんたを、死なせようとした。俺じゃ、やっぱり壊すことしか──」

「そんなことないっ!」

「あんたが俺をそういう目で見るようになって、俺は言わなきゃって……でも、」

 ずっと、言えなかった──と、彼の皺くちゃな表情が語っていた。弔くんの瞳から、一筋の涙がこぼれる。それはわたしの知る限り、彼が見せてくれた初めての弱さだった。

「……ねえ、弔くん」 

 こんなにも愛しい、弔くん。

「それでも、わたしはあなたと生きていきたい」

 ぽろぽろと涙がとめどなく溢れるのに、瞬きひとつせず、ありのままの彼を記憶に刻み続ける。

「苦しかった場所から、弔くんはわたしを救い出してくれた。寂しいとき、傍にいてくれたっ。……誰がなんと言おうと、弔くんはわたしにとって、ずっとヒーローだったんだよ」

 そして、それはこれからも変わらない。

「弔くんが罪を償ってくれるなら、わたしはずっと外で待ってる。一生待ってる。何年かかっても、ずっと待ってるよ」

 だってあなたは、わたしの運命の人だから──。

「はは、……アホくさ」

 彼の瞳もまっすぐにわたしを捉えた。

「……志村転弧、俺の本当の名前だ」

 

 


 

 

 塚内さんと先生が話をするというので、待合室で待たせてもらった。

「……お疲れさまだったね。よかったらこれで目元を冷やすといい」

 そう言って渡された缶コーヒーは、わたしの腫れ上がった目元をよく冷やしてくれた。

 あの人はきっと弔くんを悪いようにはしない。たった二日だが、わたしの中での警察のイメージは彼によって随分といい方向へ塗り替えられている。

 チクタクと、掛け時計が奏でる小さな音が室内に響いていた。

 抜け殻になったからだは、案内された待合室のソファで石のように転がって、ここが警察署ということも頭の隅に追いやられていく。横になっても、脳内は熱くたぎったままで冷める気配もない。弔くんの告白がぐるぐると回り続けていろんな想いが嵐のようにやってきては過ぎ去っていく。

 熱くなった脳みそが落ち着きを取り戻したのは、時計の短い針がひとつ進んだ頃だった。彼の気持ちを推し量るばかりの頭がようやく水面から顔を出すと、残ったのは家で見せてくれた、やさしい笑顔。

 結局、あのときのいってらっしゃいのキスが最後になってしまったのか。指が唇に触れる。

 きっとこれから、わたしたちには想像もできないような過酷な人生が待っているんだろう。でもそれは弔くんが生きている限り終わりがあると信じたい。何年先になるかわからないけれど、必ずまた彼と生きていけるはずだから。そのためなら、わたしはどんな困難にも立ち向かっていける気がした。

 ソファに横倒れたまま目を瞑っていると、扉が開いた。

「待たせたな」

「っ、先生」

 身体を起こし目元を擦る。缶コーヒーは美味しくなさそうな温度になっていた。

「……平気か」

「はい、大丈夫です」

「このまま校長に会わせる。雄英に戻るぞ」

「……はい」

 早くも最初の困難が訪れようとしていた。

 

 見上げた雄英校舎は、やはり壮観だった。

 いつかのわたしが夢見た場所。真夏を迎えた太陽がジリジリと肌を焼いて、校舎の奥に広がる景色がいつかの青い空と重なる。

 この場所で学べたことが、きっとわたしの人生において唯一の財産になるんだろう。これまでが上り坂で、ここからはきっと坂を転げ落ちるだけだ。

 雄英を退学になれば、わたしの経歴は中卒になる。また別の学校に通わせてもらえるとは限らないし、なにより親の力を借りてまで新しいことを学びたいとは思えなかった。中卒でも雇ってくれるところはあるんだろうか。どんな選択をしたとしても、必ず死ぬ気で乗り切ろう。彼が出所してきたときに、笑顔で迎えられるような強いわたしでいよう。もう泣いてばかりじゃいられない。

 そういえば、クラスのみんなは元気だろうか。彼らにはお別れを言う資格もないけれど、どうかわたしの分まで立派なヒーローになってほしい。心から、そう願う。

「着いたぞ」

 初めて通される校長室を前に、ふしぎと緊張はなかった。

 ここ数ヶ月で色々な修羅場を潜り抜けて肝が据わってしまったのか、妙な耐性がついてしまった気がする。覚悟が決まったから、というのもあるのかもしれない。

 ノックをして扉を開けると、小さな姿が目に入った。わたしたちをその目に移すと、彼はほころぶように笑った。その違和感にからだが硬くなる。

「失礼します」

「やあ! 待っていたよ。怪我は平気かい?」

「……はい」

 部屋に踏み込んで、からだを畳むように深々と頭を下げた。

「この度は多大なご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。どんな処罰でも甘んじて受け入れます」

 息継ぎもしなかった。道を間違ってしまった自分には、この神聖な場所に立っているだけでも烏滸がましく思えた。

 結果はもう見えている。だから早く裁きを受けて、この場から立ち去ってしまいたい。

「うむ……相澤くんから、粗方話は聞いてるよ」

 ギィ、と根津校長が椅子から立ち上がる音が聞こえる。どくどくと心臓が早鐘を打つ。

「……君は、オールマイトになりたかったらしいね」

 不意を突かれて、頭を上げた。根津校長はこちらに背を向けて窓の外を眺めたまま動かない。

 眼下にはきっと、麓の街並みが広がっていることだろう。海面がきらきらと輝いて、この時期は特に美しいあの景色が。夕焼け時に見えるオレンジの景色は、もう長いこと自分からは遠ざかっている。

「……それは両親に認めてもらいたかったが故で、本心は──」

「僕はオールマイトをよく知っているがね。彼にも救えない命はあるんだよ」

 遮られた言葉に口を紡ぐ。

「今、この瞬間。世界のどこかで誰かが悪意に苦しんでいる。その中にはもちろん救われる命もある。……ただ、救われない命も確かにあるのさ」

 咄嗟に弔くんの顔が浮かんで、それから彼の家族を想った。

「僕たち国民は、平和の象徴であるオールマイトを神聖視しがちだけどね。彼だって手の届く範囲の人々しか救えないんだよ。なぜなら彼も人間だからさ。この学校で学び育った、君と変わらないひとりの人間なのさ」

 根津校長の言わんとしていることはわかる。けれど、なんと返すべきなのか分からなかった。

 正直に言えば、オールマイトはやっぱり選ばれた人間だと、わたしは思う。それは強靭なパワーを持つからでも、アイコニックな存在だからでもない。

 ただ、道を違えなかった人だからだ。黄金の輝きはいつだって見えない壁の向こうにあって、わたしはあちら側に行くことはできない。

「彼だけじゃない。この世界でヒーローとして活躍するすべての人間に同じことが言える。……そして志村転弧くんは、救われなかった子供のひとりだ」

「っ……」

 押し殺していたものが吹き上がるような感覚になった。あの背中は気づいているのかもしれない──わたしが抱いた、誰に向けられるでもない気持ちを。

 弔くんがもし、ひとり路頭に迷う中で誰かに手を差し伸べられていたなら。きっと、今とは大きく違う未来があったはずだ。

 誰でもよかったんだ。それは別にヒーローでなくたって、善意ある人の手であれば、誰だって。

 見て見ぬ振りをして通り過ぎていった人たちが、責められるべきだとは思わない。人間は誰だって自分のことで精一杯だから。けれど、どうしようもなく尖ったこの気持ちを、収める鞘が見つからない。せめて自分がもっと早く彼に出逢えていたならと、悔やむ気持ちが抑えられない。

「……だが、君はあの子を救った。自ら罪を認めさせ、日の当たる場所に連れ戻した」

「いえっ、わたしはそんな大それたことは──」

 わたしだって、ただ自分の我儘に彼を付き合わせていただけだ。自分の寂しさを埋めるために彼を利用して縋っていたに過ぎない。結局はわたしも自分のことで精一杯だったから。

「……長らく裏の世界で生きてきた人間にとって、罪を認めることがどれほど重く、価値のあることか」

 根津校長が、振り返る。おだやかに射抜くような目をしていた。

「贖罪とは、告白から始まるんだよ。君はそういう意味で彼を救ったんだ。そしてこれは、オールマイトですらなかなか成し得ない救済さ」

 ほろり、と涙がこぼれた。思いもよらぬ言葉に、別れ際の弔くんの言葉がよみがえる。

 

──やったことを、話す。あんたがそれを望んでんなら……俺はぜんぶ背負って、……またいつか、あんたの泣き面拝みにいくさ。

 

「……ここに残りなさい」

「っ!」

「君が、君自身の罪を重く受け止めているというのなら。雄英に残り、今まで以上に切磋琢磨し、ヒーローへの道を歩みなさい」

「でもっ!」

「志村転弧くんのような救われなかった子供たちは、この世界にまだまだたくさんいる。雄英生徒の中で、その現状を一番理解しているのは君だと思うのさ。だから雄英は、君にもう一度試練を与える」

「っ……でもっ……」

 もう枯れるほど泣いたはずの自分から、また涙が溢れ始めた。

「どれだけその道が苦しくとも逃げ出さないこと。たゆまぬ努力で歩み続けること。今もどこかで苦しむ人々に、いつか必ず、笑って手を差し伸べられるような立派なヒーローになること。それが君に与えられた試練だ」

 涙がとまらない。感情が堰を切ったように溢れ出した。

 与えられたやさしさが、自分の愚かしさを浮き彫りにしていく。間違った道を選んでしまった自分を見放さず、この学校はすべてを受け入れて、前へ進めと背中を押す。

 本当は、わたしが弔くんの手を取りたかったんだ。

 小さな姿で彷徨う彼の手を、どうしようもなくわたしが救いたかったんだ。

 その気持ちを、この人たちは見逃してくれない。

 膝をついて、叫ぶように答える。

「……なり、ますっ」

 なりたい。

「……必ず、立派な、っ……ヒーローに」

 たとえオールマイトのような、輝く存在にはなれなくとも。

「弔くん、みたく、……苦しむ、人たちを、っ……」

 わたしの力で、信念で。

「救い出せるような、ヒーローにっ!」

 背中には相澤先生の温かい手が添えられていた。

 

 


 

 

 逃亡生活を送っていた間に、雄英はちょうど夏季休暇に入っていた。わたしは夏休みの間に、謹慎という名の療養生活を言い渡された。弔くんのおかげで回復傾向にある拒食症を夏の間に全快させ、万全の体制で新学期に臨むことが最優先事項とされた。

 また、こじれた家庭関係の修復として寮生活を免除され、卒業までの約一年半は、両親と暮らすことが決定している。一度入ってしまった亀裂はすぐには元通りとはいかないだろう。それでも、心のどこかで家族三人での暮らしを喜んでいる気持ちがあることに、僅かながら希望を見出している自分もいる。

 両親とは話し合いの末、弔くんへの被疑者申し立てを見送ってもらうことになった。これにより彼が今回起こした家屋倒壊の件に関しては事故として処理されることになる。

 両親との話し合いでは、二つの決まり事を提示された。

 まずひとつ、雄英を卒業しヒーローとして活動するまで、弔くんとは一切の連絡を断ち切ること。そして二つ目は、将来自分で稼いだお金で父と母に家を返すこと(二人は弔くんに返して欲しいと話していたけれど、無理やりわたしが払うことで落ち着けた)。わたしはそれらを快諾し、両親へと謝罪した。

 ふたりは長い間専念していた研究をいったん休眠させ、日本でできるかぎりの研究を続けるという。

 

 検査入院の中で、病室に塚内さんが訪れて弔くんの処遇を説明してくれた。家屋倒壊についてはわたしたちからの被疑者申し立ての見送りにより事故として処理されたことの報告がまず一件。ついで、彼が十五年前に起こしたとされる一家殺害事件に関しては、私有地での状況下でかつ現場資料や状況証拠がほとんど残っていないことから立証が困難とされ、無罪となったことを知らされた。

 よって最終的に彼に嫌疑がかけられたのは、幼い頃から闇ブローカーの元で雇われてきた〝運び屋〟の件に留められたが、これには長い期間に渡る調査が必要で、まだ結論が出るまでに時間が掛かるらしい。

 わたしたちは、もう前に進み出している。

「塚内さん、わたしは弔くんがすべての罪を償って帰ってきてくれることを待ちます。だから、報告はこれで結構です」

「……処分が決まっても、知らないままでいいのかい?」

「はい。卒業するまで、彼には会えませんし。それに、彼の〝ぜんぶ背負っていく〟という言葉だけを信じたいんです。それまでにわたしは必ずヒーローなって、彼が帰ってきてくれるのを待ちたい」

 わたしがそう言ってほほえむと、彼は呆気に取られた様な表情で「わかった」と返した。

「いろいろと、ありがとうございました」

 塚内さんとはそれきり会っていない。

 夏休みが明けて、雄英に戻った日。

 一ヶ月半ぶりに戻ってきたわたしに、クラスメイトたちは泣いて喜んでくれた。友達からは喚きながら胸をばかすかと叩かれて、つい、自分が弔くんに泣きついた日のことを思い出した。あの時の彼はこんな気持ちだったのだろうか。必要とされていることが嬉しくて、手放したくなくて、ここに残れた今に感謝した。

「みんな、ありがとう。心配かけてごめんなさい」

 わたしは、今度こそ目標に向かって走り出す。

 決意が宿っていた。

 揺るぎなく、まるでからだ中に根を生やすような確固たる決意が。真っ暗だったわたしの世界に希望という名の光を灯して。彼が帰ってくるその日までこの歩みが休まることはない。

 

 しかし、どんな身の上にも困難は降りかかる。

 夏休みが明けてすぐのことだった。

 相澤先生が〝先生〟を辞めるらしい、という噂を耳にしたのは──。

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