目もあやな七色の君
くそ、やられた──。
俺の動きを封じて、彼女は再び唇を寄せた。思わず目を開く。必死な形相が見えた。眉を寄せてぎゅっと目を瞑り、泣いているんじゃないかと思えるほどに〝くしゃり〟と顔を歪めている。俺の両頬に手を添え、縋り付くように身を寄せていた。
なんて顔してんだ、そっちが仕掛けてきたくせに。
文句の言葉は音にならない。大胆な行為に反した懸命さが酷くいじらしい。生徒とのこういう行為は許されない。絶対に。今すぐ止めなくては──と、わかっちゃいる。
けれども俺は、しがらみを脱いでしまった世界に揺られ、そっと目を閉じた。水の中にゆらめく七色の光は、俺の倫理をそっと鞣してゆく。そうして二つの体は、暗澹たる水の中をどこまでも堕ちていった。
「先生、聞いてます?」
いつもと変わらない夜だった。
「……ああ」
「本当に?」
「ああ、それでなんだ」
「やっぱり聞いてない。人魚姫の話ですよ」
プールサイドで、玉を転がすような声が俺を咎める。疲れが溜まっているのか、先ほどからずっとその音が子守唄に聴こえてならない。
小さく頭を振り、目元を揉んだ。
「話すなら、さっさとしろ」
今日こそは早く戻ろうと思っていたのに。
俺の決意は一体どこへ消えてしまったのか──。
練習している、というよりは暮らしているに近い。学内の施設であるため生徒本人に鍵を預けることもできず、その実、校舎の戸締りをする教師が帰寮がてら声を掛ける流れになっている。
この所、その役は自分が引き受けることが増えていた。
日が暮れようとも明かりの灯らない巨大な施設は、夜が満ちる頃には随分と物々しい。外観だけ見ればただの屋内プールだ。しかしコンクリートの外壁はガラス張りの天井を有し、外光をふんだんに取り込む奇特な造りになっている。
なぜか、照明はない。つまり日が落ちてしまえば、月明かりだけが頼りの場所だ。水難訓練の施設として設けられたと聞いてはいるが、実際は彼女のための施設なのだろう。
いつも通り、無意識に足音を消した。
ポチャリ、と水の音がする。海の底でポンと泡が弾けるような柔らかな反響音が連なる。同時に塩素の匂いが鼻腔を撫ぜた。
プールは短水路の形をしているものの、実際はかなり深い。水深は六十メートルを超え、地上でいえば二十階建のビルに相当する。まさに、深海だ。
それ程の大規模施設を一生徒のためにこさえたとあってはクレームものだが、彼女を目にすればおそらくその苦言は立ち所に飲み込まれてしまう。
ソプラノに、耳を寄せた。
歌声を聴くと魂を吸われてしまうとの下らん噂があるが、あれが所詮、女子高生の鼻歌に過ぎないと知ってからはただの耳障りのいい音色でしかない。
控えめに開かれた扉から、室内を窺い見る。夜目は必要ない。
俺の目が、濃紺の闇の中に茫々と浮かび上がる七色の光を追う──あれは、鰭だ。
プールサイドに腰掛けてごきげんに鼻歌を響かせ、大きな鰭で水を掻いている。広がる波紋は月明かりを反射して、壁一面にオーロラを撒き散らす。
しばらく、暗がりから眺めていた。
話し声はない。いつも鍛錬に付き合っているはずの蛙吹が今日は居ないらしいと気づいて、小さく気を引き締める。
足を踏み出すと、歌声は立ち所に止んでしまった。
「先生、おつかれさまです」
「いい加減、俺より先に戻ったらどうだ。鍵なら点呼の時でいいだろ」
「ギリギリまで、ここに居たいんです」
ここ、とはつまり水の中で、彼女の生きる場所だ。
「時間の使い方がなってないな。そもそも教師を待たせるなよ」
「私、待たせてますか?」
「トボけるな。着替えの間いつも俺を待たせてんだろうが」
「じゃあ事前に連絡してくれたらいいのに。連絡先、教えてください。できればプライベートな方を」
「馬鹿言え。どうせ水中にいたら気づかんだろ」
「ちゃんと音が鳴ればわかりますよ」
だからほら、と指を刺す。その先には壁際に寄せて畳まれた制服とその上に放られたスマホ──まさか、自分でやれと?
眉を顰めると、くすくすとなだらかな肩が揺れた。水に濡れた肌は艶々としていて、光とは別の、若さという輝きを放っている。
「だって今、歩けないですもん」
濡れてもウェーブの消えない髪は、肩甲骨を越えて小さな背中を覆い隠していた。防御力のない水着が、戦闘には絶対に不必要なギャザーを揺らす。
曰く、人魚と美しさは不可分です、らしい。知らん。
彼女の個性は、人魚。
水に濡れると脚に鱗が生え、鰭をまとい、水の中を我が物顔でみやびやかに泳ぐ。気まぐれに歌をうたい、もちうる美貌は麻薬のように人間を誘惑する。
受け持ちの生徒としては、大変に厄介な個性だ。
静かに微笑む彼女を前に、俺は今一度、気を引き締めた。
「──それで、人魚姫の最後、先生はご存知ですか?」
ああ、まだ続いていたのか、と意識が戻る。
飛び込み台の上に腰掛け、いつものおしゃべりに付き合ってはいるが、他の生徒が居る時にはふしぎとこの時間は無い。そこに潜む意図には見て見ぬ振りをしている。
「物語なら粗方知ってる。泡になって終いだろ」
「違いますよ」
明瞭な声が、やさしく否定した。
オーロラに棚引く鰭が水の中を明るくする。これを眺めるだけで癒しの効果がありそうだ、との考えを横に押し除けて揺れる水面を見つめた。やはり、底は見えない。
「人魚姫は王子様を愛しているからこそ、海に身を投げて泡になるんです。そして風の精霊に生まれ変わる」
「……風の精霊? そんな話だったか」
「はい。人魚とは本来、三百年くらい生きる生き物なんですよ。ただし長寿である代わりに魂を持たないんです。だから最後は泡になって消えてしまう。反対に、人間は短命ではあるけれど魂を持っていて、死ねばその魂は天国へと行ける」
どっちが幸せなんでしょうね、と彼女が続ける。
「人魚姫は最後、自己犠牲を神に讃えられて、風の精霊として生まれ変わるんです。風の精霊は、善行を積めばやがて人間のように魂を得られるんですよ。彼女はそうして、神様からの祝福を得るんです」
「……はあ。ただの物語だろ。つまり何が言いたい」
「みんなは人魚の私を羨ましいと言うけれど、本当は人間よりもずっと悲しい生き物だってことです」
悲しい、生き物。
「だから先生も、そんなに警戒しないでください」
「警戒はしてない。ただ、お前がヒーローを目指す生徒たちの〝障害〟になりうるんじゃないかと目を光らせているだけだ」
「そんな、峰田くんみたいな扱い、悲しいです」
下手したらあいつよりもずっと要注意人物だ、とは言わないでおいた。こんな奴が血気盛んな高校生の集団に居て、なにもない「はず」がない。
「心配なさらずとも、私の守りは鉄壁ですよ」
彼女はいつもそう言って笑う。
美しさの原液──それが静かに水に溶けて、彼女の色に変わる。話している時に自然と鰭に目が行くのは、目が合うと逃げ場を失うような危うさがあるからだ。教師としての矜持が、俺に正しくあれと諭している。
「私だって、普通の女子高生なのに」
「普通の女子高生は先生を待たせたりしないだろ」
おとぎ話の中から無理やり連れ出されたような存在感で、蝶よ花よと育てられた本人ならあまねく理解していることだろう。自身に向けられる羨望のまなざしも、普通ではない孤独さも。
つまるところ、彼女は人間として生きているのか。はたまた人魚姫の〝魂〟としてこの世に生を享けたのか。
「わたしが本当に人魚姫だったら、王子様のために魔女と取引したりなんてしません」
「……んじゃ、どうするんだ」
思わず彼女を見る。目が合った。まずい。
「こうするんです」
ざぱん、と大きな水飛沫が立つ。
突如、足首を掴まれてプールの中に引き摺り込まれた。しまった。油断し過ぎた。初動の遅れは命取りだと、いつも口酸っぱく生徒たちに言ってたってのに。
ボコボコと口から漏れる空気が、顔を撫で水面へと登っていく。
マジで沈めやがって──。
その瞬間、甘やかな吐息が送り込まれてきた。足を絡め取られて浮上できない。顔に触れる冷たい手は、がしりと俺の頭を掴んで、思いのままに堪能している。
肩を押した。足を動かし浮上を試みる。しかし、すぐさま鰭に絡め取られてしまう。
くそ、やられた──。
俺の動きを封じて、彼女は再び唇を寄せた。思わず目を開く。必死な形相が見えた。眉を寄せてぎゅっと目を瞑り、泣いているんじゃないかと思えるほどに〝くしゃり〟と顔を歪めている。俺の両頬に手を添え、縋り付くように身を寄せていた。
なんて顔してんだ、そっちが仕掛けてきたくせに。
文句の言葉は音にならない。大胆な行為に反した懸命さが酷くいじらしい。生徒とのこういう行為は許されない。絶対に。今すぐ止めなくては──と、わかっちゃいる。
けれども俺は、しがらみを脱いでしまった世界に揺られ、そっと目を閉じた。水の中にゆらめく七色の光は、俺の倫理をそっと鞣してゆく。そうして二つの体は、暗澹たる水の中をどこまでも堕ちていった。
こうするんです、じゃねえんだよ。
これじゃあ王子も死んじまうじゃねえか。
しばらくして満足したのか、鰭がゆるんで拘束が解かれた。重たい身体がふわりと浮上する。やっとの思いで水面から顔を出した。
「ゲホッ、っ……お前、何考えて」
「私、魂なんて要りません」
「あ?」
ロイヤルブルーの瞳と視線が絡む。
「それよりも、今生の愛が欲しい」
なまめかしい声。ミステリアスな瞳。白い肌。悪魔の如き美しさで人間を魅了する。かつて泡になった姫がそうであったかのように。しかしおそらく彼女は、物語の人魚姫ほど純情ではない。
「……生意気だな」
青い目が丸くなる。必死さはするりと抜け落ちて、彼女がくすくすと笑う。俺の心中をすっかり理解したような態度だ。
「抹消しなかったくせに」
「……塩素が目に入るだろうが」
「ふふ、そういうことにしておきます」
身体が沈まないように、彼女の鰭が俺を支えていた。
「ねえ、先生……もう一回だけ、したいです」
「馬鹿いうな。退学にするぞ」
「そうですか、残念」
その態度は全くと言っていいほど残念そうには見えない。
「それじゃあ、帰りましょうか」
年相応の女子高生よりもずっとしたたかに匂わせていたくせに、こういう時に限って彼女ははっきりと口にしない。
好きです、ぐらい言えないのか。卒業したらどうだとか、なんかあるだろ。それともそういった小事に汲々としない辺りが美貌ゆえの余裕なのだろうか。
どちらにしても、やっぱりいけ好かない。
人魚がプール際に手をついて腰を上げる。自分も追いかけるようによじ登って、その背中を強く押した。
「きゃ!」
這い上がった先で四つん這いに囲う。その口に噛み付いた。
「んっ!」
責めるようにしばらく堪能する。戸惑いが彼女の全身から立ち昇って、体を震わせる。俺の復讐心を宥めていく。
ゆっくりと唇を離した。長い髪が扇状に広がり、見上げるのは真っ赤に頬を染めた純真無垢な少女でしかない。
「あ、……え、」
手を緩めると、細い腕が顔を隠す。髪を掻き上げる動作でパタパタと雫が落ちれば、俺の下でごくりと彼女の喉が鳴った。耳まで赤い。それに気を良くするのは、俺の中の〝看過できない〟部分。
「なんだ、意外とウブだな」
自然と口の端が上がる。
「せんせ……ん、」
再び顔を近づけると尾っぽがキュッと伸びて、それから身を任すように柔らかくしな垂れた。鉄壁の守りじゃなかったのかよ、と心の中で独りごちる。
ただ、そう──。
この大きな水槽に足繁く通うくらいには、俺もこの人魚に取り込まれているんだろう。やはり、厄介な個性だ。
水の中と違って今にも逃げ出しそうな手首を掴む。もう、手遅れだよ、とやさしく教え込んだ。
卒業したら、お前の望み通り今生の愛をくれてやってもいい。その代わり、人間様の傲慢で身勝手な欲をお前にも教えてやろう。
何を間違っても、彼女が風の精になんてなってしまわないように。