【閑話】それでも、愛を知ったから
「しょうた?」
声を掛けられたのは、旅行帰りに彼女とサービスエリアのソフトクリーム屋に並んでいた時だった。突然のことでうまく反応できず、俺はしばらくの間茫然とした。
それもそのはずだ。その女に会うのは数年振りだったから。
「あ、もしかして……彼女さん?」
俺の隣に視線を移して、それから絡まる二つの手を見つめて、申し訳なさそうに目の前の女が尋ねる。
「……ああ」
「そっかそっか! ごめん、邪魔してっ」
それじゃあ、と言って足早に立ち去る女の後ろ姿を俺は何を口にするでもなく見送った。
今立ち去った女性とは、いわゆる身体の関係というやつだった。それはかつて、俺が人を愛することを知るずっと前のことだ。
雄英の教師に就任する前の、まだ単身ヒーローとして活動していた時のこと。
あの頃の俺は、来るもの拒まず去るもの追わずの精神で、あの女性とも向こうから誘われて何度か夜を共にした。二人の間に特別な感情なんてものはなく、互いに欲を満たすだけの関係だったと記憶している。
「消太さん、もしかしてお知り合いですか?」
正直なところ、俺は今までそういう恋愛しかしてこなかった。いや、恋愛というには烏滸がましいくらいの浅はかな付き合いだ。
「ああ……まあ、昔のな」
あれから月日は流れ、俺は彼女に出会った。
正直、今でも驚いている。俺がこんなにも一人の女性にのめり込むなんて、と。
この気持ちは今だにうまく表現できないが、あえて言うなれば、それまでの自分とは別の人間になったような、はたまた世界が色づくような──。
初めて魂に刻まれるような恋情を知ったし、彼女は恋というものの底知れぬ甘さを俺に教えてくれた。
しかし、だからこそ、ふと顧みることがあるのだ。今までの俺の行為は決して褒められたものではなかったと。
だからもし今後の人生で、これまで俺が蔑ろにしてきた女性に会うことがあれば、ちゃんと謝らなければと思っていた。
しかし、それがいかんせん恋人との旅行中とはタイミングが悪い。
「昔の、ですか……」
彼女が女の去った方を見つめながら、俺の言葉を反芻する。繋がっていた手が小さく揺れた。
いかん、悟らせてしまったか──。
今はあなたのことが大切だから気にしなくていい。そう伝えたのは山々だが、ともすればさっきの女との関係性を示唆することになりかねない。
それはそれで憚られる気がした。
こういう時、いったい何と答えるのが正しいのか。交際経験のない俺にはわかるはずもない。
「あの、消太さん」
「……なんだ」
「えっと、私のことはお気になさらずに。その、折角こうして会えたんですし、お話ししてきてはどうでしょうか」
ソフトクリームは私が責任もって買っておきますので。
両の手でこぶしをつくり、そう豪語する彼女は、おそらく先ほどの女が俺にとっての何なのかを粗方理解したに違いない。それでも見送ろうとする姿勢に懐の深さを感じた。
「……いいのか?」
「もちろんです! 私はここで待ってます」
複雑な心境だろうに、彼女の笑顔には翳りがなかった。
しかし本当に甘えてもいいのだろうか。もし逆の立場なら、俺はちゃんと彼女を送り出せるだろうか。……いや、正直難しい。
しかし、この機を逃せばおそらくあの女と会うことはもう二度とないだろう。ならば伝えておくべきじゃないのか。
結局、俺は彼女の好意に甘えることにした。
「すまん、すぐ戻る」
「はい、いってらっしゃい」
情けない。俺は彼女の笑顔に背中を押されて、昔の女の後を追った。
「──!」
思い出すことすら時間を要したその名前に、相手は驚いた顔で振り返った。
「は、え、どうして……」
「すまん、少し時間いいか」
「いいけど……え、彼女さんは?」
「向こうで待たせてる」
「うわ、ヤバ」
もー何やってんの、と女が焦った顔で咎める。自覚はあったがやはり置いてきたのは間違いだったかもしれない。
「まあ……でも、久しぶりだね」
「ああ」
「正直、誰だかわかんなかったでしょ」
「まあな」
「はは、相変わらずの塩対応」
そう言われて胸がちくりとした。その言い草だと、俺の態度は昔からあまり良いものではなかったらしい。
「……あの頃は、すまなかった」
「え?」
「褒められた関係じゃなかったのは、まあ、お互い様だが。それにしても俺は、」
あんたと、ちゃんと向き合うべきだったと思う。一人の女性として。
性欲を満たすためだけに女を抱いていた時期があった。互いのためだったとはいえ、それでも今なら、その行為の愚かさがわかる気がする。
しかし、彼女は大きく手を振った。
「ちょっと、やめてやめて! そういう変なしがらみがないのがセフレなんじゃん」
「……まあ、そうなんだが」
「あたしも後悔してないし。今更謝んないでよ」
彼女はふう、と息を吐いて、それから薄く笑った。
「まあでも、正直驚いちゃった。まさかあの消太が女の人と手を繋いでるなんてさ」
「そんなに変か」
「変っていうか、すごく意外だったから。私の知ってるあなたとは別人みたいで」
そうか、と返すと、彼女が下を向いた。
「あの人は、さ……」
しばらくして、彼女がいや、と言葉を飲み込む。
「消太は、ちゃんと幸せ?」
眉を下げて、俺たちのいつかを懐かしむように、その女は顔を上げた。
「ああ、幸せだよ」
今ならわかる。
思いを繋げることの尊さも、一人の女性を守ると決めた覚悟の重さも。
いつかこの幸せを当たり前と勘違いしてしまわないようにと、浮かれた自分を戒めるくらいには。
「そんなやさしい顔、初めて見た」
「……そうか?」
「うん。よかったね、そういう人に出会えて」
「ああ、そうだな」
あんたも、
「出会えるといいな」
俺が、彼女に出会えたように。
「はいはい、そういうのは嫌味になっちゃうんですよー」
「そうなのか、すまん」
はつらつと笑って、彼女は俺に背を向ける。
「それじゃあ、元気でね」
「ああ、あんたもな」
たぶん、昔の彼女さん、だと思う。
私のこういう勘は、昔からよく当たる。
相手は立派な教師で、しかもあんなにカッコいいヒーローだ。きっとこれまでも数多の恋愛を経験してきたに違いないし、長く一緒にいればこそ、いずれこういう場面にも出くわすだろうと覚悟はしていた。
けれど、それは本当に突然やってきた。
恋人としての心の広さを試されているようで、つい見栄を張るみたいに背中を押してしまったけれど。
本当は、怖い。
だって、すごくきれいな人だった。
あんな人と別れて今は私なんかと付き合ってる彼が、心から満足してくれているのかはわからない。けれど私には信じることしかできないのも事実で。
はあ。戻ってきたらどんな顔をして迎えよう。話に触れるのはやっぱりタブーなのかな。
でも、すごく気になる。再会して、やっぱりあの人の方がいいなんて、もし消太さんに思われでもしたら──。
「ただいま」
「ひゃう!」
「すまん、驚かせた」
「あ、いえ! 大丈夫でふ」
「でふ」
「あ、ちがっ、だっ、ダイジョウブ、デス」
あからさまな慌て具合に、消太さんはくすりと笑みをこぼした。
「ふっ、かわいいな」
「ひ、ひぇ……」
ぽすんと不意に頭を撫でられて、その手がするすると頬に降りてくる。
「一応、言っておくが」
「は、はい!」
「今はもう何の感情もないよ。だから安心して俺を好きでいてくれていい」
「っ!」
「今はとても大切な人ができたと、彼女にもそう伝えたかったんだ」
「そ、それって、もしかして私のことですか?」
「おい、他に誰がいる」
「わ、わたしなんかで、本当にいいんでしょうか……」
不安げにそう尋ねると、彼はやわらかに笑って私の耳に顔を寄せた。
あなたが良いんです、俺は──。
ぞわり。まるで耳奥をくすぐるようなわざとらしい声に顔が熱くなる。同時にぽわんと胸の中に温かいものが広がった。
「あっ、そうだ、これ」
ふと、自らの手に握っていたものを思い出して彼に差し出した。しかし見るも無惨なそれは、ポタポタと雫を垂らしている。
「ああ、悪いな。少し溶けちまったか」
「いえっ、大丈夫です。そ、それよりも、ほうじ茶のお味があったんです! 消太さんも気に入るかなって思って、勝手にこれにしちゃいました」
大丈夫とは言ったものの、確かに彼の言う通り、私の片手に握られたソフトクリームは、てっぺんのとんがりを失っていた。手にしたたったクリームが、指をつたって地面にいくつもの染みをつくっている。
どうしよう。さすがに溶けすぎちゃったかな。折角彼とはんぶんこしようと思って買ったのに。
どう渡そうかな、いや彼には新しいものを買った方がいいよね、なんて悩んでいると、消太さんが突然私の手首を掴んでその雫にぺろりと舌を這わせた。
「ひゃ!」
そのまま、ぺろぺろと私の指についたソフトクリームを舐めとっていく。
「わっ、え、ちょっ!」
思わずそのまま硬直していると、すべてをていねいに舐めとった彼がまた私の耳元に近づいた。ふわりと流れ落ちてきた黒髪がまるでヴェールみたいに私を隠して、外界から音が遮断される。視界を奪われて、鼻をくすぐる長い髪からかすかに彼の香りがした。
「俺の気持ち、まだちゃんと伝わってないようだな」
「っ」
彼はわざとらしく低い声で私を咎めて、舐めとったばかりの私の手に指を這わせた。さわさわと大きな手に撫でられて、からだがびくりと跳ねる。
「い、いえっ、そんなことは!」
「どうだか」
「ほ、本当ですっ……す、すごく伝わってますっ……消太さんの、気持ち」
「ふぅん。怪しいな」
なじるような彼の声はどんどんと妖しさを増して、私は近づいてきた彼の肩口に顔を埋めるみたく下を向いた。
ダメだ、頬が熱い。なによりも、手を撫でられているのが、すごく心臓に悪い。
「まあ、でも──」
これからは、もっと覚悟しておくように。
「ひっ」
とびきり甘い言葉をささやく彼は、ぷしゅーっと湯気が出そうな私からソフトクリームを奪ってスタスタと歩いてゆく。
途端に周りの音が戻ってきて、行き交う人たちが視界に入った。
あまりの刺激に言葉を失ったまま、それから思い出したように火照った頬をパタパタと冷まして、その大きな背中を追いかける。
「ま、待ってください! 消太さんっ」
彼を、信じよう。信じるしかないのだ。
だって不適な笑みを浮かべる恋人に、こちらはもうすっかり骨抜きなのだから。