同じ轍は踏まない
俺の父と母は山奥にある農村の出身者で、ふたりは幼馴染だったらしい。小さい頃から共に育ったふたりは何をするにも阿吽の呼吸だった。
そんな両親でも離婚するんだから、結局のところ愛なんて不確かなものだと、俺は思う。
今はもうなくなってしまったけれど、俺が幼い頃、それこそ小学生の頃は、夏休みになると両親の実家がある集落で過ごすことが常だった。イタチや狸が出るような辺鄙なところで、民家の後ろには山がそびえていて、庭先には田畑が広がっていた。
のどかな田園風景といえば、聞こえはいい。
だが都会育ちの俺からすると、まるで監獄にでも閉じ込められたような気分で、やる事もなければやりたい事もない不自由な場所だった。
そのうち、そんな俺を見かねた近所のガキたちが、ときおり遊びに誘ってくるようになった。
男の子と、女の子だった。
あいつらは毎日退屈していた俺に田舎ならではの遊び方を教えてくれた。
最初は、虫取りだったか。次は川遊び。その次は山菜採り。どれも呆れるほど億劫で、けれど途方もなく新鮮だった。
都会っ子の俺からすると、子どもだけで山に入るなんてのは悪だと決めつけていたけれど、田舎での暮らしはそれが普通らしく、よく付き合わされた。
男の子──信ちゃんはあの集落に住んでいて山菜採りが得意だった。「わらび取りに行こうぜ」が決まり文句で、よく強引に連れ出されたのを覚えている。
女の子は、寡黙で控えめな少女だった。俺と同じくいつもは遠くに住んでいて、夏の間だけ祖母のいるこの村にやってくる。
いつも体力バカの信ちゃんにやっとこさついていってる感じで、それでも俺より田舎の嗜み方を知っていた。たぶん大好きだと言っていたおばあさん──国枝さんだったか──の影響だと思う。
二人は俺のことを「やっちゃん」と呼んでいた。
何をするにもまずは信ちゃんが言い出しっぺで、俺とあの子はおとなしく後をついていく。
できそうなことなら付き合う。たとえば野菜の収穫とか、山菜採りとか、川遊びとか。できないことは眺める。虫取りとか、木登りとか、川魚の手掴みだとか。
そこらへんが上手に切り分けできないあの子はすぐに無茶をするから、疲れたその手を引くのは、いつからか俺の役目になった。
「ん」
「……え?」
「手、ほら」
俺が手を差し出すと、あの子は恥ずかしそうにそっと顔を赤らめて手を伸ばす。そうして俺の手をぎゅっと握って「やっちゃんは、やさしいね」とはにかむ。
たまらない気持ちになった。
信ちゃんに比べれば俺はここではてんで役に立たないけれど、そんな自分を少しでも頼りにしてくれることが、どうしてか堪らなく誇らしかった。
できないことも、あの子の前だと無理してやってみたり。けれど大抵のことは信ちゃんに及ばなくて、それがまた歯痒くて。
そんな夏を、何度も繰り返した。
俺が小五に上がると、両親が離婚した。
突然のことだった。それからはめっきりあの村に足を運ぶことはなくなった。
あれ以来、二人には会えていない。じいちゃんやばあちゃんたちのいる集落とは疎遠になり、俺は母親にひきとられる形で今までの棲家すら離れた。
つらかった。
あんなに億劫だったはずの川遊びも山菜採りも、もうできないのかと思うと悲しくて、なにより二人に二度と会えないのだとわかると心臓に刃を突き立てられたみたいだった。
子どもはいつだって大人の都合に合わせるばかりで、本当の自由なんてのはないのかもしれない。
しばらくすればそんな痛みすら徐々に薄れて、中学を卒業する頃にはもう思い出すことすらなくなっていた。
なかったことにした。幻だと思うことにした。思い出すと辛くなるから。
だから、もう二度と会うことはない。そう、思っていたんだ。
「よかったら手伝おうか?」
俺が雄英に就職して二年後、ある女性が庶務課に入ってきた。
善意も悪意も、下心すらなく、ただ鈍臭そうに書類の箱を運ぶ彼女に後ろから声をかけて、振り返ったその顔に、息を呑んだ。
あの、女の子だった。
胸がどくんと鳴って、鼻の奥に夏の野草の香りが立ちこめる。川のせせらぎが聞こえて、手に山菜をちぎった時の感覚が蘇った。
いや、待て、本当に彼女か?
あれからもう何年も経っている。思い出も、随分と色褪せた。
きっと俺の勘違いだ。そう自分に言い聞かせて、ふとその細い足首に目が留まった。パンプスで半分隠れているけれど、確かにそれはあった。
「その、傷……」
蘇る、あの夏の日。
カンカン照りの日差しを避けて立ち入った山道で、俺は足を滑らせた。
「え、傷? ……ああ、えっと……これは、その、幼い頃に転んでしまって」
「どこで」
「え?」
「どこで転んだの」
「たしか……友達と、山に入ったときに──」
『やっちゃん!!』
咄嗟に腕を引かれて、気づくと山道の上に膝をついていた。
振り返るとあの子がいなくて、ガサガサとかバキバキとか、聞いたこともないようなすごい音が聞こえて、咄嗟に崖を覗き込むと彼女が転がり落ちていた。
動かないあの子を見て、信ちゃんが俺に向かって叫んだ。ものすごい形相で、大人を呼んでこいって。
「……ごめん」
「え?」
走って、走って、走って。
怖くて、恐ろしくて。
なにより、自分が許せなくて。
「あ、いや……嫌なこと聞いてごめんって意味」
「いえいえ! その、幼い頃の話なので。お気になさらないでください!」
俺を庇って崖下に転げ落ちたあの子は、足首に一生消えないほどの深い傷を負った。
後悔している。あのときも、今も。
焦って空回りして、カッコつけても無様で、それでもやっぱり君が好きな俺は、あの頃から何も変わっていないのかもしれない。
「俺は経理の、財前優人、よろしくね」
「あ、し、新人の……えっと、庶務課の苗字名前です。よろしくお願いします」
言えばよかったんだ。君と再開した、あの日。
本当は初めましてなんかじゃないんだって。
俺は昔、君と何度も山に入って、山菜を探して、花を摘んで、一緒に野を駆けたことがあるんだって。
そう、素直に言えばよかったんだ。
「久しぶり」
首元にヒヤリと冷たい何かが当てられて、それが鋭い刃物だと気づくまであまり時間はかからなかった。固まる体が徐々に震えはじめて、口から声にならない音が漏れる。
「っ……ぁ……」
「安心して、傷つけるつもりはないんだ」
小型ナイフのようなそれをちらりと私の視界に入れて、すぐさま首元へと戻すと、彼はなんてことないように呟いた。
「だから、そんなに怖がらないで」
耳元に寄せられた声で全身に恐怖が巣食う。
まだ、顔は見えない。けれど、振り返らずとも誰なのかわかった。彼の声には覚えがあったから。
「俺も家に入れてほしくてさ」
淀みのない声。やさしい声の孕む冷酷さに、この人が相応の覚悟を持ってこの場にいるのだとわかる。決して譲る気はない、折れる気はないのだと言外に言われている気がした。
「ほら、ここじゃゆっくり話せないから」
マンションのエントランスの煌々とした光の中で、床に落ちた影が一つに混じり合ってゆく。じりじりと重なるほどに距離を詰められて、彼の手がそっと私の背中に触れた。その瞬間、背筋に恐ろしい戦慄が走る。
「っ……な、」
「なんでこんなことするのかって? それともなんでここに居るのか、かな?」
はは、と男が乾いた声で笑った。
「ここ最近ずっと君のことつけてたから、って言ったら、どう? 驚くかな」
嘘、どうして──だって、まったく気付かなかった。
そもそもこういうのは予感があるものじゃないの? 背後に気配を感じて振り返ったり、身辺が漁られている形跡があったり、届くものが届かなかったり。そうでなくても、もっと何か、あるはずじゃないの。
けれども私の日常には、なんの変化も訪れなかった。
「本当に申し訳ないと思ってる。でもゆっくり話すにはもうこうするしかないと思ったんだ。雄英も退職したしね」
全身にまとわりついた恐怖が、徐々に肺へと達して呼吸を奪う。はくはくと、口が開いては閉じる。上手く息が吸えない。
「最後に、どうしても二人きりで話したかったから」
背筋を冷たい汗がつたう。言葉の端々から感じられる揺るぎない決意に身の毛がよだった。
「君には大したことじゃなくても、俺にはすごく大切なことなんだ」
そんな、なんで。
「だから、少しだけ付き合ってよ」
どうして忘れていたんだろう。前から知っていたじゃないか。人間は本当に恐ろしいとき、声も出ないんだって。
そう、山道から転げ落ちた、あのときから。
ブラウス越しに感じる生ぬるい手が私の背中をゆっくりと押す。けれど足が縫い付けられたように動かない。
ダメだ、部屋に入れちゃダメ。
「っ、……やめ、て……くだ、さいっ」
「悪いけど、そのお願いはきけないよ」
「っ!」
ぐっと刃物の存在感が増して、もう逃げ場はないのだと悟った。固まっていた足が反射的に動き出して、じりじりとぎこちなく前に進みはじめる。
「そうそう、その調子」
たすけて。
「すぐに済むよ。だから大丈夫」
助けて、消太さん。
「イレイザーは元気にしてる?」
後ろ手にぎゅっと絞められた結束バンドが手首に食い込む。恐ろしくて歯がガチガチと噛み合って上手く返事ができない。けれど彼は気にする素振りすらなかった。
「あいつ女に興味なさそうにしてたくせに、ずるいよなぁ」
リビングのソファに座るよう指示をされた。
けれど、恐ろしくて動けなかった。そこに座れば何かが始まってしまう気がする。
身体が強張る。ここまでどうやって歩いてきたのか思い出せない。それほどガチガチに固まってしまっていた。
「まあ、言わなかった君も君だけどね」
とん、と優しい力で押されて、ソファへと転がり込んだ。
「きゃっ……!」
「裏では二人して俺のことを笑ってたんだろ?」
「ちがっ!」
「どうかな」
見上げると、黒くて底知れない瞳が私を見下ろしていた。
これからどうなってしまうんだろう。殺されてしまうんだろうか。それとも、辱められてしまうんだろうか。
「っ、ぅ……」
どちらにしても、もう終わりだ。
「しょ……、さん……」
怖くてポロポロと涙がこぼれた。
もうダメだ、そう思った瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
──ブー、ブー、ブー
メッセージではない通知音が、静かな一室に響く──彼だ。消太さんからの電話だ。今日もかけますと、そう話していた昼間の笑顔を思い出す。そうだ、電話に出て、なんとかこの状況を。
そう思った瞬間、目の前の男にポケットの中をまさぐられてスマホを奪われた。
「ぁ……」
彼は画面を見て、何をするでもなくその手にスマホを鳴らし続けている。
そして視線を落としたままつぶやいた。
「誠実で、優しくて、カッコよくて……それから強い男だっけ」
「……え?」
「イレイザーの話だよ」
飲みの席で言ってたじゃないか、と彼が呆れた声で笑った。
「俺は最初から眼中にすらなかったってわけか」
どう返したらいいのか分からない。肯定も否定も違う気がした。
返事をできずにいると、あの噂さ、と彼が小さな声で語りはじめた。
「本当はまわりを……いや、イレイザーを牽制したかっただけなんだ。君がいくら彼のことを好きでも、成就しない限りは俺にもチャンスがあると思ってね。そしたらまさか、もう付き合ってたとは」
「お、お付き合いのことは、だ、誰にも言ってなくて……だから、財前さんにも」
「そっか。でもこんな滑稽な話もないよ。俺はただ一人芝居をしてたってことだろう?」
自嘲の笑みが顔に張りついている。
どんなに都合良く考えたって、このまま易々と解放してくれるわけがない。
すぐそこに迫る悪意に、恐怖が喉を潰す。
「……わ、わた……」
「なに?」
「わ、たし、を……どうしたいん、ですか」
「さあ、どうしたいんだろうね」
もうスマホの震えは止まっている。
消太さんは、来ない。
「まずは一枚、写真を撮らせてもらおうか」
幸せとはいとも簡単にこの手からこぼれ落ちてしまうことを、俺は無情にもスマホに送られてきた一枚の写真を見て思い出した。
走れ、走れ、走れ。
無限の井戸へと突き落とされるような激しい恐れが四肢にまとわりついている。
いや、怒りかもしれない。胸の動悸が激しく追い立てるばかりで思考が追いつかない。
やめろ、今はそんなことどうでもいい。
走れ。彼女を守るんだ。
林立するビル街を横切り、障害物のない電線の上を駆け抜ける。
急げ。一秒でも早く彼女の元へ。
息つく間は要らない。手のひらに湧く汗が捕縛布に染み込んでは消えてゆく。
彼女から送られてきた、一枚の写真。
後ろ手に拘束され、ソファに横たわり怯える彼女の姿。目にした瞬間、職員室から飛び出していた。
目指すは、彼女の自宅。
しかし、あれは本当に彼女の家だろうか。連れ去られた先のどこかかもしれない。いや、彼女が帰宅してからそう時間は経っていないはずだ。遅くまで執務室に残る姿を廊下から眺めたのは、つい一時間ほど前。
「くそっ……!」
なぜあのとき声をかけなかった。なぜ家まで送らなかった。どうして!
焦燥の中、湧き上がる後悔の渦を処理しながら、冷静になれと自身を叱咤する。
落ち着け。まずは彼女の自宅へ、最短の道を。
鳴らし続けるコール音は止まない。
自分の女一人守れないで、何がヒーローだ。
そうして雄英からさほど遠くない距離に住む彼女の自宅が見えたとき、カーテンから漏れる光を見て安堵と焦燥が駆け抜けた。
捕縛布をのばす。
マンションの外壁伝いに上層階へと登り、彼女の部屋のベランダへと静かに降り立つ。
明かりの漏れるマンションの一室。中から声がする。ここだ。男がいる。
気づいた瞬間、窓を突き破っていた。
ガラスの割れる凄まじい音がした瞬間、私の足元にいた財前さんに細い布が巻きついた。すぐさまゴンッという鈍い音がして彼が床に叩きつけられる。
「怪我はないかッ!」
その言葉を耳にするまで何が起きたのかわからなかった。咄嗟に言葉が出なくて、こくこくと小さくうなずく。
「しょうた……、さん」
しょうたさん。消太さん。消太さんッ。
心の中で何度もその名を呼ぶ代わりに涙が溢れ出して、とっくに乾いていたはずの頬にまた涙がつたった。
そんな私を見て、彼は額に怒りをほとばしらせた。
「やっぱりてめえか」
ドゴッという鈍い音と共に財前さんが蹴飛ばされて、壁に叩きつけられた。
「ぐはッ……!」
身体が床に伸びたのを確認すると、カツカツと鋭い音を立てて歩み寄った消太さんは、すかさず男の上に跨る。そのまま拳を振り下ろした。
「こんなこと許されると思ってんのか」
──バキッ
「強姦か、それとも殺人未遂か」
──ガンッ
聞いたこともないような痛ましい音が鳴り響いて、思わず目をつむる。待って、違う。
「ちがっ……」
声が震える。
怯えて潰れた喉に力を込めた。
「ちがうっ」
されど、彼の拳は止まらない。何度も振り下ろされる拳から、ほのかに死の匂いがした。
「消太さん、違うんですっ」
やまない。激昂した彼に、私の声は届かない。
馴染みのある彼の背中が、かつてないほどの怒りを放っていた。まるで別人になってしまったかのようで、怖い。あれは本当に、私の知っている彼だろうか。
「消太さん! お願い、やめて!」
振り下ろされた拳で、またバキッと骨の軋むような音がした。馬乗りにされた男からは鼻血が吹き出している。振り下ろされる拳にも真っ赤な血がべっとりとついていた。
違うの、お願い、やめてッ!
「彼はっ、私の幼馴染なんですッ!」
ピタリと止んだ暴行の音。宙で止まった拳がゆっくりと降ろされて、ようやく彼が私を視界に入れた。
「……どういうことだ」
彷徨う刃のような拳はゆらゆらと地に落ちて、行く場をなくした虚ろな目が私を見ていた。
ほどなくして警察がやってきたのは、時計の針が零時をまわった頃だった。塚内さん、という警察官の方が到着した頃には、私も少し落ち着きを取り戻していた。
塚内さんは静まり返った部屋に意識を失って拘束された男と、二人寄り添うようにソファに腰掛ける私たちを目にして、ふぅと息を吐いた。
「やりすぎだ、イレイザー」
今まさに拘束された財前さんはすでに顔が血まみれで、連れて行こうと腕を抱える二人の警察官ですら驚きを隠せていない。
案の定、事情を説明した相澤さんは塚内さんからお叱りを受けていた。
「これじゃどっちがヴィランがわからん。いくら身内とはいえ、ここまで冷静さを欠いては──」
「すいません。取り乱しました」
そっと頭を下げる消太さんに、胸が痛んだ。
私はヒーローとしての彼の振る舞いはあまり知らないけれど、正義を貫く彼のことだ、きっとこういうことは珍しいことなんだと思う。
「あ、あのっ、私がすごく怯えてたから……だから消太さんは!」
「もちろん、君たちの事情はわかってるつもりだよ。だがね、こうも冷静さを欠いてはヒーローの威厳に関わるだろう。下手すれば責任問題になりかねない。こちらも公にはしないが、後日始末書は書いてもらうよ、イレイザー」
「はい」
「消太さん……」
私のせい。全部、私のせいだ。
私が鈍臭くて、襲われたせい。あの人を家に招き入れたせい。
違う、私があの人にひどく当たったせいだ。
「ほら、起きたなら立て」
「う……」
小さな唸り声と共に、財前さんが目を覚ましたようだった。
額から流れる血が顎までしたたって、朦朧した様子の彼は薄い瞳の中に私を捉えた。
「名前、ちゃん……」
「っ」
昔の呼び名に、記憶が呼び起こされる。
ねえ、どうして。
どうして、こんなことしたの。
「やっちゃん……」
どうして、あなただって教えてくれなかったの。
「話してくれてたら……私だって、もっと……もっと!」
ちゃんと、あなたの言葉に耳を傾けたのに。
懐かしいねって、一緒に笑い合えたのに。
「どうして……どうしてこんなことッ」
私の叫びをきいて、彼は顔を伏せた。
そうしてしばらく沈黙した後、なぜか笑い出した。
「ふふ……はははっ」
あまりの奇怪な姿に、かつての幼馴染の姿は重ならない。何が彼をここまで変えてしまったのだろう。あの頃のやっちゃんは、何処に行ってしまったのだろう。
「ははっ……ごめん、でも話すつもりなんかなかったんだ最初から。そしたら俺は、ただの幼馴染になっちゃうだろ」
「ただの幼馴染で、何が悪いの……?」
どうして幼馴染じゃダメなの?
私にとって、あなたは、やっちゃんは、かけがえのない友人で、大切な思い出で、それから──。
「名前ちゃん」
部屋が、しんと静まり返る。
「彼は、まだかっこいいヒーローかい?」
その一言が、心にどっしりと重りのようにのしかかる。
ああ、と思った。まるで身体が底なし沼に沈むように、黒い感情が広がっていく。
彼の目的が、わかってしまった。
刃物で私を脅して、拘束して部屋に閉じ込めて、消太さんに画像を送りつけて、それなのに何もしなかった理由が──。
消太さんを貶めたかったんだ、彼は。
怒って、自分を屠る彼を、私に見せつけたかったんだ。ヒーローだって、ひとりの人間なんだと。道を誤ることもあるのだと。
きっと、私が彼の強さがすきだと、そう言ったから。
「おしゃべりはそこまでだ、連行しろ」
去り行く後ろ姿を静かに見送る。消太さんは何も喋らない。
「やっちゃん……」
言葉が、行動が、ほんの少し違えば、私が消太さんと出会っていなかったら、もしかしたら彼とお付き合いをする未来もあったかもしれない。
ただ、それでも。
「……さようなら」
私は消太さんを選んだから。消太さんが、私を選んでくれたから。
「気持ちに応えられなくて、ごめん……」
そうして彼は、警察署へと連行されていった。
我を失っていた。
自分の中の正義が揺らいで、ただ目の前の悪意に飲み込まれそうになった。
彼女が、俺にとっての大切な人で、何にも代えて守らねばならない人であることを、俺自身が自覚していなかったのかもしれない。彼女はもうとっくに、俺にとってのすべてになっていたというのに。
「消太さんっ」
「名前さん……」
ふわりと胸に飛び込んできた彼女に、はっとした。思考が途切れる。いつの間にか、部屋には俺たちだけになっていた。
「助けてくださって、ありがとうございます」
「……ああ。怖がらせたな」
「私は平気です。消太さんは、その、大丈夫ですか?」
「俺は、別に……」
夜風が吹き込む。目を向けると、飛び散ったガラスが床に散乱していた。カーテンが棚びいて、ひんやりとした空気が素肌を撫ぜる。
「今夜は俺の家においで。ここじゃ、もう住めないだろ」
「……いいんですか?」
「ああ。嫌でもそうするつもりだよ」
「はい、すみません」
それじゃあ、荷物をまとめてきます。
そう言って寝室に消えた彼女を、俺は複雑な心境のまま見つめていた。