あなたの香りに包まれて
「何もない部屋で悪いな」
そう言って通された部屋は本当に何もなくて、消太さんらしいなと思ってしまった。家具といえばノートブックの置かれたローテーブルくらいで、いい意味で生活感がない。
まとめてきた荷物を壁際へ置いて、小さな丸テーブルの前に腰掛ける。そこで初めて気がついたけれど、この部屋にはテレビすらなかった。
思わず笑みがこぼれる。そんな小さな発見でさえ、消太さんの営みを知ることができて、どうしようもなく嬉しくなった。
「コーヒーでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
渡されたマグカップには猫ちゃんの絵柄があしらわれていた。これまた本人とのギャップにほっこりする。
もしかしてとは思っていたけど、やっぱり彼は猫ちゃんがお好きらしい。いつかのお昼休みに彼が校舎裏で猫たちに餌をあげていた後ろ姿を思い出す。どうやら見間違いではなかったようだ。
何もない無機質な部屋。一見生活感がないようで、とても彼らしい部屋。訪れて数刻も経たないというのに、どうしてか心をほぐしてゆく。
マグカップから立ち昇るコーヒーの香りが鼻を抜けると、強張っていたからだから最後の力が抜けた。
「ふぅ……」
「インスタントで悪いな」
「いえ、おいしいです」
眉を下げる彼に笑顔を返した。消太さんはそっと隣に座り、同じくコーヒーの入ったマグカップに口をつけた。
こくりと動いた喉仏から、はあと深い息がもれている。
「……無事で、本当によかった」
「消太さんが助けてくださったおかげです」
肩が触れるほどの距離。どちらからともなく重なる手に、心がじわりと満たされた。静まった部屋に、ときおりコーヒーを嚥下する音だけが響く。
ふと頬がゆるんだ。昔はあれほど緊張していたのに、今では彼がそばにいるだけでどうしようもなく安心する。
そうして落ち着きを取り戻した頃、彼が小さく口を開いた。
「もし名前さんが嫌じゃなければ、聞かせてくれないか」
何のことかは言葉にされずともわかった。小さく首を縦に振る。
さて、どこから話せばいいだろう。あれは、まだ幼かった頃の話だ。一番深く刻まれた記憶の中で、私はいつも泣いていた。
すべての始まりは、やっちゃんが村に来なくなった小学五年の夏。
その夏はどうしてか村の人たちがよそよそしくて、幼いながらに不穏な空気を感じとっていた。
何かが、あったんだ──そう確信して、私と信ちゃんはやっちゃんの母方のおじいさんに尋ねに行った。
「やっちゃんは、どうして来ないの?」
そうしたら彼は、うんと苦しそうな顔をしてこう答えた。
「……たぶん娘と孫は、もう二度とここには来ない」
振り絞るような言葉。自分が一番納得がいっていないとでも言いたげな、ひどく皺の寄った表情。そこにさらに深いしわを刻みながら、おじいさんはすべての感情を省いて事実だけを口にした。
信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
『う、うそつき……!』
人に向かってひどい言葉を吐いたのは、これが初めてだったと思う。涙よりも先に〝事実を確認しなくちゃ〟といきり立って、されど幼い私にその術はなく、ただ無情にも過ぎゆく夏を見送った。
当時のことはあまり覚えていない。けれど、ふしぎと涙は出なかった。たぶんおじいさんの言葉を心から信用していなかったからだと思う。
翌年、私たちはまた懲りずに尋ねに行った。されど、貰える返事は変わらなかった。住んでる場所を尋ねても「誰にも教えないように娘に強く言われている」と突っぱねられて、やっちゃんの足取りすら追えなかった。
ああ、人ってこんなかんたんにいなくなっちゃうんだ──。
沼底に沈み込むような足取りでおばあちゃんの家に帰る途中、今度はどうしようもなく涙があふれた。
ようやく自覚したのだと思う。途端に、絶望が波のように押し寄せてきた。
ぼろぼろと涙をこぼして、叫ぶように声を上げて泣いた。信ちゃんが背中をさすってくれたけれど、彼も流す涙は同じだった。
そんなやりとりを、夏が来るたびに繰り返した。
今年こそはと願って、打ち砕かれて、それでもと願って、されど打ち砕かれて。そうして、最初の夏から三年。私たちはようやく悟った。ああ、やっちゃんにはもう二度と会えないんだって。
絶望なんて言葉じゃ足りなかった。
だから、全部なかったことにした。幻だと思うことにした。
思い出すとつらくなるから。
「……あいつのことが、好きだったんだな」
消太さんの言葉に、視線を落としたまま小さく頷く。涙が出そうになった。幼い頃の淡い恋心が胸の奥にふわりと舞い戻る。
ずっと、忘れていた。いや、忘れたくて蓋をしてきた。
そう、これは私の初恋の物語。もう色褪せてしまった、遠い夏の思い出。
「やっちゃんの名前は山手優人っていうんです。今はもうないけれど、たしかに昔、山手さんというお宅が集落にはあったんです。そのすぐ近所に、お母さまご実家である寺下家もありました。……でも、財前さんというお宅はなかった。きっとやっちゃんのお母さんが再婚されたんだと思います。それにしたって、ご両親が離婚したのなら苗字が変わるなんて当たり前のことなのに、私なんにも気づかなくて……」
今思えば、ふしぎなくらい彼は私に執着していた。
『お前見てるとイライラすんだよ』
財前さんに誘われたのは、もう恋愛なんて懲り懲りだと思っていた矢先のことで。当時は大学時代の彼と別れた直後ということもあり、そういう類のお誘いは全て断っていた。その中でも財前さんは最後まで諦めなかった。
断っても断ってもあの手この手で食事に誘われて、庶務課には他にきれいな人なんていっぱいいるのに、どうして私なんだろうって、その程度にしか考えていなかった。
「言わなかったってことは向こうにも理由があるんだろう。名前さんが気に病むことじゃない」
「……はい」
彼の中では〝幼馴染〟という関係は悪だったのだと思う。きっと別れてしまったご両親がそうだったからだ。
でもたとえ親の関係がどうであれ、私たちの友情まで否定してほしくなかった。私にとって幼馴染は──やっちゃんは、とても大切な人だったから。
「あいつには本当に何もされなかったのか?」
「はい、何も……」
彼は拘束するだけで、何もしてこなかった。ただ私との最後の時間をどこか噛み締めるように過ごしていて、そうしてふと私の足首にキスを落とした。
最初はなぜ彼がそうするのかわからなくて怯えていたけれど、苦しそうに口づける財前さんを上から眺めて、どうしてかその姿が幼い頃の想い人と重なった。
『ごめんっ、ごめん! 俺の、せいだっ……!』
怪我をした私の前で、ぽろぽろと涙を流す大好きだったやっちゃんが、ふと彼に重なった。慈しむような口づけで、まるで魔法が解けるみたいに。
「……そうか」
たとえ罪を犯したとしても、人間だもの、その人の中には善意もあれば悪意もある。やっちゃんも、心根はやさしい人だと、私は知っている。
でもだからこそきっと、彼が一番苦しんでいたのだとも思う。幼馴染じゃない別の関係でもう一度出逢えたなら──そうして私に気づいてもらいたい気持ちと、親の轍を踏みたくない気持ちとの狭間でずっと。もしかしたら、その二律背反の中で心が砕けてしまったのかもしれない。
「……すまなかった」
「え?」
「経緯はどうであれ、名前さんにとって大切な人を傷つけてしまって」
「そんなっ、どうして消太さんが謝るんですか!」
繋がった手に力がこもる。
「たしかに、辛かったです。幼馴染があんなふうに変わってしまって……でも人としてやっちゃいけないことは確かにあって、彼はそれを踏み越えてしまった」
どんなに好きだった相手でも、それは許されていいことじゃない。
「私はやっちゃんに脅されたこともそうだけど、なにより消太さんを貶めようとしたことが許せません。あんなふうに……消太さんのヒーローとしての矜持を試すような、そんなやり方は絶対に間違ってる」
彼の手が、小さく揺れた。
「見くびらないでください。私はこんなことで消太さんを嫌いになったりしない」
どれほど長い間、あなたのことを目で追っていたか。
知らなくていい。だけど、消太さんには自分の行いを否定してほしくない。
「だから、どうか謝らないでください……」
信念をもって、彼の瞳を見つめた。
小さな黒目が揺れている。そっと腕の中に抱き込まれた。
「……無事で、よかった」
耳元で小さく叫ぶ彼に、心が震えた。かつてないほど強く抱き込まれて、それが彼の想いの丈を表しているようで胸が熱くなった。
こんな私だけどわかる。この人にとって、もう自分は替えのきかない人間なのだと。今、はっきりとそう信じられる。
「だいすきです、消太さん」
「……俺もだ。もう、手放してやれそうもない」
彼は自嘲気味に笑って、私の肩にそっと頭を預けた。
バスタブにはられた熱いお湯に、ゆっくりとからだを沈めた。ふうと漏れでる呼吸とともに、溜まっていた疲れが滲み出てゆく。
「服、ここに置いておきます」
突然聞こえた声に、からだが跳ねた。脱衣所からだ。
「あ、ありがとうございますっ!」
バタンと扉の閉じる音がして、湯船の中にずるずると顎を沈める。一糸まとわぬ状態での恋人との会話、緊張するなというほうが無理な話だ。
「はぁ……」
顔を出して、改めて呼吸を落ち着ける。
大丈夫、いつもよりも念入りに洗ったもの、隅々まで。
パジャマは持ってきているけれど、あえて消太さんのTシャツを借りた。臆病な私にしては彼シャツなんてかなり攻めたことだけれど、なぜか今夜はそうすべきだと思った。
『でもまあ、あいつも男だから。そこんところは理解しといてあげてな』
マイクさんにも、ああ言われたことだし。どんな形であれ、ちゃんと受け入れる意思があるということは私も示しておきたいのだ。
「よしっ……!」
ざぷんと、湯船から上がる。借り物の大きなTシャツに袖を通して、髪を整えた。火照った唇に艶のでるリップバームを塗って、鏡の前で最終チェック。
頬に手を当てる。うん、大丈夫。
そうして意を決して扉を開けた、すぐ後のことだった。
「何かあれば起こしてください」
想定外の対応に拍子抜けした口はあんぐりと開いたまま、すぐに返答ができなかった。
「え……あ、はい」
思い出したように返事をすると、頭をさらりと撫でられた。
なぜか、すぐそばにいるのに目が合わない。
「それじゃあ、おやすみ」
そう言ってぴしゃりと閉じられた寝室の扉を前に、しばらく呆然としていた。高まっていた期待が、すんと萎んでいくのがわかる。
振り返れば、そこには無機質な部屋にベッドがひとつ。とぼとぼと近づくと、つい先ほど取り替えたような真新しいシーツが張られていた。
一緒に、寝ないんだ──。
私があんな目に遭ったから気を遣っているのだろうか。だとしたら消太さんの対応はとても正しい、と思う。
けれど、どうしようもなく突き放された気分になった。胸の奥でじわじわと膨れ上がった期待が、たしかな痛みを生んでいる。
『次、ふたりで会う時は覚悟しといてください。朝まで帰しません』
正直なところ、今日が〝その日〟だと思っていた。
ベッドに潜り、掛け布団を頭までかぶる。すうと大きく息を吸い込んだ。
ふわりと香るそれは愛しい彼のにおいそのもので、まるで抱きしめられているような気分になる。
このままじゃ、やだ──。
こんなにも彼を感じる場所で一人で眠るなんて、そんなの耐えられない。事件に巻き込まれて、むこうは遠慮しているのだろうけど、私はむしろ傍にいてほしいと思う。それって、そんなにだめなこと?
消太さんのぬくもりを、もっと近くで感じたいのに。
「……」
悶々と考えた末、意を決してベッドを出た。
扉をそっと開けて、リビングを覗き見る。すぐさま黄色い寝袋がもぞもぞと揺れた。
「眠れませんか」
「……はい」
「もう一度温かいものでも淹れようか、もしくは──」
「そ、それよりもっ」
とたとたと近づいて、寝袋の前に座り込む。黒いスウェットの袖を掴んだ。
「あっちで一緒に寝ませんか? ……寝袋とかじゃなくて」
掴んだ手に力を込めると、彼は驚いた表情のまま固まってしまった。確固たる意志をもって腕を引くと、大きな体は意外にもするすると私に引かれた。
どうしよう。指先が熱い。からだも熱い。顔も、耳も、すべて。きっと、ぜんぶ真っ赤だ。暗闇でもばれてしまいそうなほどに。
心臓がバクバクと激しい音を立てている。破裂しそうなほど脈打って、手から汗となって吹き出している。
それでも私はもう、この人の手を離したくない。
引き込もうとした寝室の手前で彼の足がぴたりと止まった。
その小さな抵抗に振り返る。見上げると肩をすくませた大きな男が顔を伏せていた。長い髪に隠されて表情は見えない。
「……ここを越える意味、わかってますか」
ちらりと見えたまなざしはこちらを窺うように揺れていて、たまらず抱きしめたくなった。
わかっているも、なにも。
「はい」
静かな部屋に、決意が根を下ろす。
「……私だって子どもじゃない、ですから」
こんなにも甘くて重苦しい朝は初めてだった。
まるで底なし沼から抜け出すみたいに意識が浮上して、指一本ですら動かすのが億劫に感じる。身体にはかつてない倦怠感がまとわりついていた。
ゆっくりと目を開く。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
見慣れない部屋の、自分ではない香りのするベッド。そこに横たわる二つの身体は隙間なく絡み合っていた。触れる素肌が温かくて、どうしようもなく愛おしさが込み上げる。
「はあ……」
背後に感じる彼の吐息に、身体がふるりと震えた。すんと後ろ首を嗅がれている。
彼がいつからそうしていたのかはわからない。けれど人の機微をいつも過敏に感じとる自分の直感が、かなり長い間、それが繰り返されていることを察した。
腰に絡まる太い腕は、完全にこちらの動きを封じている。
シーツの中を泳いで、お腹に巻きついている太い腕に自らの腕を添わせた。息を潜めていた彼がシーツの中で大きく身じろぐ。
「おはよう」
「お、おはよう……ございます」
恥ずかしい。とてもじゃないが振り返れない。
薄いカーテンが朝日をふんだんに取り込んでいることに、初めてこの部屋に対する不満がわいた。
「こっち、向いてくれないのか」
「だ、だって……明るい、ですし」
「そうだな」
「ま、前が見えちゃいます……」
「悪いが、昨夜ぜんぶ見たよ。隅々まで」
「ひぃ」
観念してゆっくりと振り返ると、やさしい顔をした恋人がしあわせそうに目を細めている。
どうしよう。昨夜よりも少しだけ伸びた顎髭のせいで、男らしさに磨きがかかっている。視界に飛び込んできた上裸が、これみよがしに色気を放っていてクラクラする。シーツを泳ぐ長い髪が胸筋の間に──だめ、見るのはやめよう、目に毒だ。
「け、化粧もしてないので、あんまり見ないでください……」
「そのままできれいだ」
「っ」
お世辞はいいですよ、と顔を隠そうとすると、腕を掴まれて呆気なく阻止された。ぴくりとも抗えない力加減に、ヒーローってずるいなと思う。
「うぅ……」
恥ずかしさと、なにより刺激の強い視界に耐えられず目をつむると、ふふと小さな笑いが降ってきた。
やさしく頬をすべる手が、私の固く閉じられた目尻をなぞっている。
「前から言おうと思ってたんだが」
「……はい」
「一緒に暮らさないか」
「えっ」
なんてことだ、目を開いてしまった。すぐさまグラマラスな裸体が飛び込んできて叫びだしそうになる。
口をはくはくとさせていると、彼が眉を下げた。
「だめですか」
「いえっ、そ、そうじゃなくて……急だったからビックリして……ここで、ですか?」
「いや、ここじゃ狭いんで。お互いの家を解約して、新しい家で」
「えっ、でも、そこまで迷惑をかけるわけには」
「迷惑じゃなくて、俺がそうしたいんです。だめですか」
「だめじゃないです。……すごく、うれしいです」
「じゃあ決まりだな。一緒に住めば、昨日みたいな危険がひとつ減る」
「……はい」
「なにより、毎朝これが見れるしな」
「これって、まさか……」
「裸の名前さんが、俺の腕の中で恥じらいでる姿」
「い、言わないでくださいよっ!」
「そっちが聞いたんでしょう」
「だとしてもです!」
こちらは本当に恥ずかしくてたまらないのに。
彼は意外にもさらけ出すことに躊躇がなくて戸惑ってしまう。
「ふっ、そんなにムキにならないでください」
「ムキになってないですっ」
「では、引っ越しに異論でも?」
「……異論は……ないですけど」
「それなら、物件を見に行きましょう」
「え、今からですか?」
「ああ、善は急げだ」
「……今日は、無理ですよ……」
「なぜ」
真剣に眉を寄せた彼に、狭いシーツの中で詰め寄られた。というより、腰を引き寄せられたら逃げる隙もない。やっぱりヒーローってずるい。
「だって……」
観念して理由をささやくと、彼は一度だけ目を大きく開いた。
「それは仕方ないな。今後は善処しよう」
それからやさしい嘘をまとった彼は、大変満足そうに目尻を細めて、その顔にしあわせをみなぎらせた。