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十、ノート事件

 授業の合間には、十分間の休憩時間がある。
 たいていは前の席に座る百ちゃんと話しているのだが、今日は視線のずっと先で緑谷くんと目が合った気がした。気のせいかと会話に戻ると、その後もたびたび送られてくる熱い視線を感じる。
 
 はて、どうしたものか、と席を立った。
 
「百ちゃん、ちょっとごめんね」
「ええ、どうされました?」
「緑谷くんに、少し用を思い出して」
 
 後ろからそっと近づくと、彼の机の上には汚れてボロボロになった一冊のノートが置かれていた。それを見て、昨日の帰り道での出来事を思い出す。
 
「あ、そのノートは!」
「うわ、苗字さん! うん、持ってきたんだけど、本当に汚れてるからどうしようかと思って……」
「今、見てもいい?」
「も、もちろん!」
 
 わたしは話の流れで一つ前の椅子に座って、緑谷くんの机に置かれたノートに向き合った。表紙には【将来の為のヒーロー分析】と書かれている。
 
 見た目以上に重厚感を感じるノートを、ぺらりとめくった。


 中学までは、陰気な僕に声を掛けることすら嫌がる人たちばかりだった。
 
 でも苗字さんは、その逆だ。
 
 会話が苦手な僕の言葉をいつまでも待ってくれていたり、訓練で傷ついた僕の身体を労わって荷物を持とうとしてくれたりする(もちろん断ったけど)。
 彼女が誰にでも分け隔てなく接する人であることは、この三日間で既に自分の中での確信へと変わっている。
 
 昨日は気を失っていたのでオールマイトづてに聞いた話だけど、戦闘訓練ではあのかっちゃんをパートナーに指名して、推薦入学者の轟くんと八百万さんのコンビを打ち負かしたらしい。
 
 とんでもない偉業だ、と僕は思う。
 
 能力も然り、度胸も然り、人柄も然り。すべてを持ち合わせた人だからこそ、なんとなく視界の端で気になってしまうのかもしれない。それはきっと、僕だけに限ったことではないだろう。
 そしてそんな非の打ち所のない彼女が今、僕の書き溜めたノートを眺めている。好奇心、剥き出しで。
 
 うれしくて、むずがゆい──。
 
 じわりと汗の滲む手のやり場に困って、握りしめた拳を足の上に置いた。背中が丸まる。ページをめくる音が大きくなって、彼女の吐息が、やけに近く感じられた。
 
 ノートにまとめるなんて、変、だとか思われないかな。
 
 いや、彼女はきっと、そんなこと考えもしないだろう。頭の隅で、もう一人の僕が安心している。だからこそ彼女にはすんなり見せられたのだ、長年書き溜めたこのノートを。
 
 ときたま「すごいね〜」とか「なるほど!」とか「ふふっ」て笑ったりする顔をそっと向かいから眺めていると、ピタッとあるページで彼女の手が止まった。
 そのページを真剣な眼差しで上から下まで丁寧になぞった彼女が、ふっと穏やかな笑みをこぼした。そのやわらかい笑顔が、昨日今日の仲には決して見せるものではない〝特別なそれ〟だと気付いて、つい見惚れてしまう。
 
 もしかして〝憧れ〟なのかな。
 僕にとっての、オールマイトみたいに──。 
 
 ノートに視線を戻し、自分の書いたヒーローのイラストを見てハッとした。そうだ、待てよ、彼女のコスチュームにもたしか。
 
「苗字さんって、もしかして──」
「オイ、邪魔だ、どけ」
 
 ビクッと肩が跳ねる。顔を上げると、眉間に皺を寄せたかっちゃんが立っていた。
 
「あ! ご、ごめんね」
 
 かっちゃんの椅子に座っていた苗字さんが大急ぎで立ち上がる。そのまま僕の隣に立つと、かっちゃんは僕らを一目し「ケッ」と漏らしてドカンと座った。
 
──うん。いつも通りの、かっちゃんだ。
 
 昨日の放課後の一件から特に何があるでもなく、僕らは普段の関係に戻っているらしい。その〝いつも通り〟の後ろ姿に、安心感すら覚える僕も僕だけど。
 肩に入っていた力を抜くと、苗字さんが僕の耳元でささやいた。
 
「今日も怒ってるね、爆豪くん」
「……あ、うん、いつものことだから」
 
 一つ前に座る人物に極力聞こえない程度の小声で返す。
 すると彼女は、ハッと何かに気付いたような仕草をした。顎に手を当てて考え込んでいる。それから口元に手を寄せて、また僕の耳に近づいた。
 
「……もしかして、お腹すいてるんじゃない?」
「へ?」
 
 時刻は十時半過ぎ。二限目終わりの休憩時間。
 いくらなんでも腹の虫が鳴るには早過ぎる。
 
 ああ、そうか──。
 
 彼女には理解できないんだ。こんなに常時キレっぱなしのかっちゃんを。そこに原因を模索するほどに。そして、その理由が〝空腹〟だと疑わないほどに。
 
「──ぶはっ」
 
 僕は、つい吹き出してしまった。
 その瞬間、怒号が飛び交う。
 
「テメェ……今なんつった、俺は腹なんか空かせてねェ!!!」
 
 かっちゃんの右手から火花が散った。鬼の形相でこちらを振り向く。怒りが身体から噴き出している。
 
「てめェも笑ってんじゃねーぞ、クソナードがァ!!!!」
 
 爆音を伴って立ち上がったかっちゃんに「ひいっ!」と後退する苗字さん。彼女は近くに立っていた瀬呂くんの背後へと一目散に逃げた。
 クラスメイトたちが何事か、とこちらに注目する。──が、今はそれどころじゃない。かっちゃんの目がすごい角度になってる! ヤバい、ヤバい! この角度はヤバいぞ!
 
「ご、ごめんッ! かっちゃん!」
「うるせェ!! 黙って聞いてりゃ、このカラス女ァ!!」
「やめたまえ、爆豪くん! また君はそうやって! 今朝、相澤先生に注意されたばかりじゃないか!」
 
 跳んで助けに来てくれた飯田くんが、僕とかっちゃんの間に立つ。そのまま僕たち当事者二名を除いた口論は、切島くんや瀬呂くんたちまでもを巻き込んでいく。なんとか収めようにも、すでに着火された爆弾には手がつけられない。
 
 恐ろしい魔物に怯えるように、彼女は耳郎さんに囲われて小さくなっていた。ちょうどそのタイミングで教室の扉が開いた。セメントス先生が立っている。
 
「おや、何事だい?」
「セメントス先生! 爆豪が!」
 
 切島くんと瀬呂くんになんとか押さえられながら、誰彼構わず歯向かうかっちゃんと、横から「まあまあ」と宥めるセメントス先生。
 
 ぐちゃぐちゃ、だ──。
 
 教室内が軽いどんちゃん騒ぎになっていると、影に潜んでいた苗字さんがひっそりと僕に近づいた。
 
「あ、苗字さん、気にすることないよ、かっちゃんはいつもこんな調子で──」
 
 そう言いかけた僕の言葉を遮って、彼女がささやく。
 
「……カルシウム不足だね、あれは」
 
 そう言って憐れみの眼差しでかっちゃんを見つめている彼女に、僕は呆気に取られた。
 カ、カ、カルシウム……?
 
「ど、どうだろうね、ハハ、」
 
 このとき、僕は悟ったんだ。彼女の人生において、こんなにキレっぷりのいい人間は、きっと一人も居なかったんだろうな、と。

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