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三十一、希望体験先
「はあ、どうしたものかなあ……」
先生のデスクに置き逃げしようにも、七限終わりまで待っていたら、帰りのHRで顔を合わせることになってしまう。放課後はどうせ職員室に戻ってそのまま仕事に取り掛かるのだろう──あの必殺仕事人のことだ、まず間違いない。
書類の提出期限は、今日までだ。
やはり先生が職員室にいない隙を狙ってこっそりデスクまで〝運ばせる〟のが得策だろう。そしてHRの後、わたしは先生から指摘を受けるよりも早く窓から脱出。逃げるように飛び去る!
よし、それで行こう。
これ以上ない作戦を思いついて、わたしはまるで霧が晴れたような心地になった。ニヤリと口元がゆるんで、大きく頷く。
そうして、わたしは時が来るのを待った。
逃げ足だけは誰にも負けない自信がある。
七限が終わり、HRの時間が近づいてきた。窓の鍵をカチャリを開けて、薄く窓を開けておく。すぐ手に取れるように、荷物をカバンに押し込んで机の横に掛ける。
よし、これで準備万端。──の、はずだった。
満面の笑みでHRを待っていると、相澤先生がスパンッと勢いよく扉を開けて教室に入ってきた。
「えっ⁉」
わたしは、思わず目ん玉をひん剥いた。その手にはなんと、一羽のカラスが握られている。え、は、なんで?
先生の大きな手によって、首も羽もまるごと鷲掴みにされたカラスが「カーッ! カーッ!」と命の危険を叫んでいた。人語に訳すと、まさに「ヴィランッ! 逃げてッ!」だ。
「うわっ! 相澤せんせー。どうしたんすか、そのカラス」
切島くんがすっとんきょな声を上げて、察しの良い数名の生徒たちがわたしの方をちらりと横目で見る。嘘でしょ……?
だって七限目は、隣のB組でヒーロー情報学の授業だったはずだ。絶対にそのままA組に寄ってHRをするはずだったのに。
てか、いつもそうしてるじゃん! だからこそ、七限目の間に職員室に運ばせておいたのだ。なのに、どうしてだか、カラスは先生の手の中におさまっている。
ま、ま、マズい……!
そのまま教壇を通り過ぎ、ゆっくりとわたしの席まで近づいてくる。こちらは重力に負け、どんどんと首が垂れ下ってゆく。
どく、どく、どく。
自分の心臓がマイク先生みたいにうるさい。カッと熱くなった身体が、カツカツと近づいてくる足音とともに急激に冷えていくのを感じた。
先生が、わたしの前にたどり着く。視界の端に黒いブーツが見えた。だめだ。怖くて顔が上げられない。
「おい、苗字」
「……は、はい」
「重要書類だぞ。自分の足で持ってこい」
「う、……ごめんなさい」
下からそろりと覗き込むと、恐ろしい顔をした先生がプロヒーローの威厳たっぷりに上から圧をかけていた。クラスメイトからは「あ~…」という同情めいた声や、クスクスと小さな笑い声が漏れている。
「それとお前の希望先について話がある。後で職員室に来い。……逃げるなよ」
そう言い放って、先生はわたしの机の上にカラスを置いた。その顔は、どこかしてやったりな表情だ。
カラスが怯えるように、すぐさまわたしにすり寄ってきた。
「カー……」
うん、ごめんね。怖い思いをさせて。あの人はヴィランじゃないよ。
わたしは半泣きで「うぅ」という間抜けな返事をかましてしまうのだった。
放課後。クラスメイトの前で辱められたわたしのもとへ、みんなは群がるようにやってきた。
「名前、何しちゃったの、ウケるんだけど」
「それそれ! めっちゃ笑った!」
「う、うるさいよっ、二人とも」
わたしは響香のプラグで膨れた頬をつつかれながら、その横でケラケラと笑う三奈ちゃんを余所に、渋々とカラスの頭を撫でていた。
こっちは大真面目に殺されるかと思ったんですけど。せめてイジるのは勘弁してくれませんか。
懐に抱えたカラスがわたしの思いに呼応するように、カー、と力なく鳴いている。
「でも苗字が怒られンのなんて、珍しくね?」
「はあ……上鳴くん。いいもん見たぜ、みたいに言わないで」
「だってよー、なんか面白いよな。優等生が叱られてるとこ見んの。ちょーっと気分が良いっつーかなんつーか」
上鳴くんの相方みたいにひょこっと現れた瀬呂くんが楽しそうにニヤついてていて、なんかもう泣けてくる。
「名前さん、それよりも相澤先生のもとに行かれなくて大丈夫なのですか?」
「う、うん。行ってくるよ。行ってくるんだけどさ……ちょーっとまだ気分が乗らなくて」
百ちゃんからの悪気のない指摘に、ズンとからだが重くなる。
「名前ちゃんも災難やなあ。うち、デクくんと待っとるから。行っといでよ」
お茶子ちゃんからのやさしい後押しに、隣の緑谷くんが「うん、そうだね」と頷いている。
「二人ともありがとう。でも、なんとなく長くなりそうだから、先に帰ってて大丈夫だよ……気持ちだけ受け取っとく」
「そういえば相澤先生、苗字さんの希望先の件で話があるって言ってたよね。どこの事務所を希望したの?」
「えっ⁉ あ、あ~」
不思議そうに首を傾げた緑谷くんに、わたしは苦笑いを返す。今際の際で弱りきったメンタルでは「まだ秘密……」と返すので、精一杯だった。
「ったく、お前なァ。これじゃただの帰省だろうが。もっとよく考えろ」
「やっぱり、そうなりますよねぇ……」
職員室に重たい足取りで赴くと、相澤先生から隣の生徒指導室と書かれた小さな部屋へ通された。向かい合わせでソファに腰掛けると、先生がわざとらしい大きなため息を漏らした。それから説教を始めたのは、つい先刻のことだ。
「で、でも! 卒業したら、わたしはお兄ちゃんのサイドキックとして働くつもりだし、……それで、いいかなって……おもって……」
目の前の鋭い視線に気圧されて、つい言葉尻が小さくなっていく。
「まあ、こっちも別に禁止はしてないがな。……見聞狭まるぞ」
「う」
〝見聞〟というワードに、お昼時に耳にしたお茶子ちゃんの言葉が頭をよぎった。
『こないだの爆豪くん戦で思ったんだ。強くなればそんだけ可能性が広がる! やりたい方だけ向いてても見聞狭まる、と!』
自分がたった紙切れ一枚の提出方法で頭を悩ませていたことが、なんだか滑稽に思えてくる。
言われてみれば、まあ、たしかにそうなんだけど──。
「でも……」
それでもまだ折れる様子のないわたしを見兼ねて、相澤先生は腕を組んで諭すような言い方に切り替えた。
「お前の指名に関しては体育祭での爆豪戦を評価されたんだろうが、俺からしてみれば、お前は近接戦闘に弱すぎだ。そこら辺も視野に入れて、もう一度考え直せ。三年間はあっという間だぞ」
「……はい」
「自分の力だけで卒業するんじゃなかったのか?」
「うー、……します」
的確すぎる指摘に、ぐうの根も出ない。
近接戦闘か。そこを突かれると弱いんだよなあ。てか、そんな恥ずかしい宣言をいちいち覚えないでほしいです、相澤先生。
とりあえず今晩、お兄ちゃんに電話を入れるしかない。わたしは首も肩も落として残念がる兄の姿が、まるで予知能力でも発現したかのように鮮明に浮かんでくるのだった。
「……相澤先生」
「なんだ」
「あの、ご迷惑おかけするので先に言っておきますけど……たぶん明日、電話がかかってくると思います」
「はあ、まったく。なんなんだ、お前ら兄妹は……」