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三十五、轟くんは見た

「っ、おい!!」

  暗闇の中で、誰かの叫び声が聞こえた。ここにいるはずのない男の子の声。その叫びを聞いて、鍛錬場の内鍵をかけ忘れていたことに気がついた。

──やっば、見られたっ!

 口から垂れ流しになった血を腕で拭いながら、ままならぬ足でのっそりと立ち上がる。
 ああ、どうしよう。どこに血がついている? 床にはきっと、おぞましい胃液がとっ散らかったままだ。なんて言い訳すればいい?
 軽いパニックに陥っていると、背中に誰かの手が添えられた。身体がビクッと跳ねる。

「あんたッ、やりすぎだろ!」
「ああ?」

 真隣から発せられた怒鳴り声に慄く。まだ会話ができる状態ではないけれど、急いで目隠しを取った。強い光に目が眩む。それでも精一杯にまぶたを開くと、右隣に紅い髪が映った。──あ、轟くん。 

「ゲホッ、だ、だいじょ、ゴホッ!」

 胸から込み上げる液体に、言葉は飲み込まれた。むせ返るほどの胃液が食道を迫り上がって口から吐き出される。
 大丈夫だから──。その一言すら言えず、もどかしさだけが募ってゆく。

「喋るな、苗字。もう大丈夫だ──おいッ、あんたヒーローだろ! 女の子に何やってんだ!」

 轟くんの、聞いたこともないような怒声が響いた。ミルコさんをまるで会敵したかのように睨みつけている。──まずい、完全に勘違いされてる。

 いや、正確に言うと、勘違いでもないのだけど。そりゃあ、目の前でクラスメイトが目隠しされて吐血するほどにボコられていたら、わたしだって止めに入るよ。けれど、これは例外だから。

 ミルコさんに視線を移して、止まらない咳をそのままに「彼は、知らないんです」と目で訴えると「ああ、どうりで」と、同じく目線で返された。
 状況を把握した彼女が、ニカッと笑って手刀を切る。

「悪い、悪い、つい本気出ちまった。苗字、ちょっと休んでろ」

 そういって、ミルコさんはそそくさと鍛錬場を後にした。

 ごめんなさい、ミルコさん。謝るのは鍵をかけ忘れたわたしの方です。と、心の中で謝っておく。

「ケホッ……」

 へなへなと萎れるようにその場に座り込むと、轟くんがわたしの顔を心配そうに覗き込んでくる。彼はわたしが落ち着くまで、ずっと背中をさすり続けてくれた。

「大丈夫か? ……いや、大丈夫、じゃねえよな」

 ようやく息を吸えるようになって、すぐさまニコッと笑顔を向ける。

「大丈夫っ! ごめん、びっくりしたよね」

 へらへらと笑って、目隠しにしていた布で口元の液体を拭き取る。布には赤い血がついている。少しだけ鉄臭さが香った。

「これ、口の中を切っただけなんだ。ほんと大丈夫!」
「いや……」

 彼の言葉を遮って「ほら、元気っ元気っ!」と力こぶをつくって見せたが、それでも轟くんの眉毛はハの字を描いたままだった。──あ、轟くんもそんな顔するんだ。
 その顔に見とれていると「苗字?」と、心配そうな顔が近づいてくる。ひゅっと、呆けていた思考が戻った。

「そ、そうだ、お茶! ペットボトルのお茶、頼んでいいかな?」
「ああ、待ってろ。すぐ持ってくる」

 轟くんが駆け出した。そのまま、ものすごい勢いで鍛錬場を飛び出していく。

 なぜだか分からないけれど、少しだけ頬が熱い。三奈ちゃんの「轟ってイケメンだよね~」という言葉が頭をよぎった。


 しばらくすると、轟くんは約束通りにペットボトルのお茶と、救急箱を持ってきてくれた。

「口の中、見せてみろ」と言われて跳び上がったわたしは「じ、自分でするからっ!」と啖呵切って、彼の手から救急箱をもぎとる。
 もう、どこにも傷はない。
 とりあえず見てくれだけでも、と口の中をガーゼで圧迫した。緊張も相まって、唾液がガーゼに吸い取られてゆく。

「ほうだ、ほほろきくん、ヒーローごろひに、ほそわれたって……」
「ああ、緑谷から聞いたのか」
「えんではぁー、来てくえて、よかったね」

 複雑な表情の轟くん。長い沈黙の後に彼は「実は──」と言って事件の真相を語り始めた。

 期せずしてヒーロー殺しと会敵し、三人での死闘の末に奴を捕らえたこと。エンデヴァーを功労者とすることで事実は伏せられ、職場体験中の事故ということで処理されたこと。そして、飯田くんの左手に後遺症が残ること。

 そもそも飯田くんが保須の事務所を選んだのはヒーロー殺しを探すためだったと知らされて、自分が恥ずかしくなった。こんなに近くにいたのに、何も気づいてあげられなかったなんて、ふがいない。

 彼が、お兄さん──憧れの人を傷つけられて、どれほど怒り狂ったことだろう。あの温厚で規律を重んじる飯田くんが私怨で動くほどなのだ。よほど追い詰められていたに違いない。
 きっと、わたしたちの想像を超えるほどの怒りだったはずだ。そんな彼の気持ちを想うと、やりきれない。

 真実を聞かされて、言葉を失った。がらんどうの鍛錬場に溶け込むように、わたしたちは冷たい沈黙を噛み締める。

──バンッ!

「焦凍ォ! 戻ったか!!」
「わあっ!」

 突然開け放たれた扉に、口の中の脱脂綿が飛び出た。わたしと二人きりでいたことが予想外だったのか、エンデヴァーが訝しげな目でこちらを見つめている。

「焦凍。何をしている」

 急に現れた父親に睨みを利かせながら、父親の問いかけを無視して轟くんは立ち上がった。

「もう、口ん中大丈夫か?」
「え、あ、うんっ! もう平気!」
「……本当か?」
「うん、本当だよ! 心配してくれてありがとう」
「……帰りは下で待ってる」
「うん! 最終日、お互いがんばろうね」
「ああ」

 扉に向かって歩き出した彼は、エンデヴァーの隣を無視して通り過ぎる。

 轟くんの背中は、以前よりもずっとたくましく見えた。けれど、そんな息子を見つめる父親の背中は、なんだかとても小さく見えた。

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