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秘密の特訓
「え、……苗字?」
雄英の敷地内、うっそうと生い茂る森の中。その少しひらけた場所に、紫の彼は立っていた。手を振りながら駆け寄る。
「やっほー、心操くん! 体育祭ぶりだね〜」
「なんで居るの?」
「わたしも相澤先生に声かけられたの。二人で秘密の特訓してるんでしょう?」
「……いや、まぁ」
首に手を当てて視線を外す彼は、体操着を着ていて、額にはすでに汗が滲んでいる。普通科の方が早く授業を終えたようで、つまり彼は小一時間ほどこの場所でトレーニングに勤しんでいたようだ。
「心操くんが、まだ諦めてなくてうれしいっ」
「……別に、あんたには関係ないだろ。それにまだ体力づくりの段階だよ」
「そうなんだね!」
「だからお前も呼んだんだ」
「ひっ!」
突然の来訪者に、ビクッと身体が跳ねる。すたっと木の枝から飛び降りて、相澤先生が音もなく現れた。
「きゅ、急に現れるのやめてください、先生! ただでさえ、顔怖いんですから……」
「おい。さり気なく教師を侮辱するな」
「……はぁ、相変わらずだな、苗字」
こうしてわたしは心操くんとの鍛錬(体力づくり)に付き合うことになった。
彼は体育祭の後すぐに、相澤先生から声を掛けられていたらしい。──お前が本気でヒーローを目指すなら俺が指導してやる、と。
心操くんは毎日、朝5時から始業までの間に有酸素運動と、夕方から就寝までには基礎体力トレーニングをこなし、週2回はこうやって先生から直接指導を受けているそうだ。
ちらりと見せてもらった指南書には、PFCバランスの考慮された食事メニュー、つまりご飯は一食何グラムだとかタンパク質は鶏むねとささみを中心にだとか、他にも基礎トレのメニューだとかが、こと細やかに無駄なくびっしりと記されていた。
コンプリートしたら闇の魔術でも使えるようになるじゃないかってほど完璧なメニューだ。恐ろしい。
待てよ──?
つまり今からわたしも、その指南書に沿ったセットアップをこなすことになるわけで……。
気づいてしまった事実におののいて、ゆっくり後ずさると、とんっと翼が先生の身体にぶつかる。ふるふると見上げると、白い歯を見せながら「早速始めようか」と、闇の魔術師がつぶやいた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
二人の息切れが折り重なって奇怪なハーモニーを奏でている。いつかの血の味が蘇ってきた。
「次、腹筋3セット。終わったら、腕立て3セットな」
地を這うような声が身体に鞭を打ち続ける。しかも「心操、反動を使うな」とか「おい苗字、背中反ってるぞ」とか、フォームが崩れた瞬間にめざとくお小言を連発してくるから1秒たりとも気も抜けない。
「先生って……ハァ……鬼畜……」
「今日は、まだ……ハァ……楽な方だよ……ハァ……」
「そんじゃ、10分休憩」と言われた時には、芝生に顔が埋まってしばらく動けなかった。
もうじき、日が暮れる。心操くん曰く、最後にダッシュしてフィニッシュが定例らしい。……正直どうでもいい。キツい。何も考えられない。
ようやっと起き上がって、近くに転がしていたボトルを手に取る。片手でシャカシャカとミルクティ色の液体を振るわたしを見ながら、心操くんはめずらしく目を丸くした。
「え、それ、プロテイン? 苗字が飲んでるとか、意外だな」
「だよね、昨日クラスメイトからも笑われたよ」
ごく、ごく、ごく、と一気に飲み干して、プハ〜! と味わったように振る舞ってみても、やっぱり不味い。粉っぽくて味も変だし割ったのが牛乳ですらないから、そりゃ不味いよねと割り切っている。
「……言っちゃ悪いけど、苗字には似合わないな」
「いいもん。これから似合う女になるんだよっ」
相変わらずの無遠慮な態度にじとりと睨んでも、なに? みたいな澄ました顔が、ああ心操くんだな〜なんて受け入れてしまう。
「まあ、プロテインが似合う女もなんか嫌だけどさ」
「え、普通にひどい」
ミルコさんの職場体験で身を持って実感したことは、わたしにも僅かではあるが筋力がつくらしい、ということだ。ただし急速に元通りになる身体に効率良くタンパク質を補うには、当たり前だがプロテイン飲料を飲むのが手っ取り早い。一周回って当たり前のことに気がついた感じだ。
「プロテイン摂取は筋力アップへの合理的手段だ。悪くない」
「先生は、おすすめのプロテインってありますか?」
わたしからの質問に、先生はポケットからスマホを取り出して、サッと画面を見せてくる。
「わ〜、やっぱり先生も飲んでるんですね。これ美味しいですか?」
「味は関係ないだろ」
「え〜〜、毎日飲むんだから美味しい方がいいじゃないですか」
「どうせ味はどれも似たり寄ったりだ。探すだけ時間の無駄だよ」
「……先生、毎日ゼリーばっかりだからなあ。味覚ヤバそう」
「そこには俺も少し同意します」
「食事の時間は合理性に欠ける。ゼリー飲料で十分だ。……にしても、お前ら随分と余裕だな」
あ、これダメなやつだ、と脳内で危険信号が鳴っている。すっと立ち上がって先生が本日二度目の楽しそうな顔をした。今日の先生は、よく笑う。
「よーし、休憩終了。ダッシュ10本追加しようか」
「ひぇー……」と容赦ないスパルタ教育に、二人でふらふらと立ち上がる。
それでも心操くんはちゃっかりプロテインの商品名をメモしてたから、イレイザー教の崇拝者で確定だ。