第二曲 恋しくて 〜あなた〜
忘れようとがむしゃらに働く日々を越えて、私は久しぶりの週末を迎えていた。
ふぅ、とベランダで一息。
半袖、短パン、片手にはキンキンに冷えたオレンジの缶チューハイ。晩夏の生暖かい夜風が、いやに心地いい。
プシュッと開けば、ようやく休みを迎えるのだと頭が認識し始めた。駆け巡っていたコードが、プツッと電源を落とす。
先週、人知れず引っ越した。
もともと家具付きのアパートに住んでいて、荷物なんて仕事着とパソコン以外ほとんど持ち合わせていないのだから、苦でもなんでもない。今はマンスリーアパートに身を寄せている。
次に引っ越す時にはさすがに家具家電を買い揃えなければとなって、面倒くさがりな私はその考えを先延ばしにすべく、ここへと身を寄せた。
縛られるのは嫌いだ。モノにも、人にも──。
あの日、相澤くんの連絡先を消した。
というか、すべて消した。友人も、セフレも、昔の仕事仲間も、家族も、すべて。私用スマホは、もう何日も電源を入れていない。そんなことならいっそ解約しようかという一歩手前で、ひざしの文句を垂れる顔が浮かんで、耳がキーンとなって、なんとか踏みとどまった。
大丈夫、実家の番号は覚えている。いつかすべてを受け入れ飲み込めたら、ひざしには実家づてで連絡してみよう。
そんな日は、来るのかな──。
連絡手段のない生活になってみて、こんなに困ることがないのかと驚いた。
私の人生のほとんどは、社用携帯で事足りるのだ。
そしてその会社とも、もうすぐおさらば。ヘッドハンティングを受けた次の企業に移るまで、あと二週間を切った。もちろん、家族にも伝えていない。
ゴクッ、ゴクッ、と低アルコール飲料が身体に染み込んでいく。喉を通り抜けるオレンジの香りが、夏の夜にさわやかさを運んでくる。
侘しい香りがした。
いつの間にか盆が過ぎ、夏も終わろうとしているらしい。しばらく会社に泊まり込んでいると、季節なんてすぐにわからなくなってしまう。
夏、か──。
昨年の夏、雄英時代のクラスメイトだった女の子から電話がかかってきた。
卒業して十年。旧友からの電話は久しい。交流は盛んではないが、結婚かあるいは出産か。いずれかだとしたら、直接おめでとうと言うべきだと思い至り、電話に出た。
「もしもし、久しぶり。どうしたの?」
しかし、内容はそのどちらでもなかった。
『名前、久しぶり。元気? あのさ……最近、フユミと連絡とった?』
「いや、とってないけど。なんで?」
『連絡先にいなくて、……うちら、消されちゃったみたい』
そう言われると、たしかにグループ名の横にある数字がひとつ少ない。
『番号も変えてて、連絡取れなくてさ』
三十路に近づくと、そういう突然消える女の子が、何人かいた。
当時は、私たちまで消すことはないのにね、と悲しみに暮れながらも漠然と受け入れていた。もう交流は盛んではないけれど、それでも青春をともに過ごした仲間でしょう、と。
しかし、今。
自分が同じ状況を迎えて、ああ消えた女の子たちはこんな気持ちだったのかと、ようやく理解できた。
誰にも気づかれず、そっと社会から消えてなくなりたい。私が、私という形を保って、これからをちゃんと生きていくために。まっさらな気持ちで再スタートしたいの、ごめんね、さようなら、と。
笑えてくる、本当に──。
こんなセンチメンタルになっているのは、きっとこのオレンジの缶チューハイのせいだ。
懐かしき学生時代。オランジェショコラを背中に隠した、一年の冬。彼の背後から小さく、すき、とつぶやいた。私の人生で、たった一度きりの告白。
『なにか言った?』
『……ううん、なんでもない』
二度も口に出すほどの勇気はなかった。だって、あなたの手には、すでに可愛い袋が握られていたから。
『それ、もしかして』
『……まぁ。捨てるのも、なんだし』
『そっか……よかったね』
『……別に』
呼び出されて告白されてたでしょ。知ってるよ。普通科の髪のきれいな女の子だったね。私とは、大違いだ。
煤だらけの私からの贈り物じゃ、ちゃんと食べれるものか怪しいでしょ? そんな風に思われるのが、怖くて。
最後まで渡せなかった。
あの時、好きなら好きと、もう一度言えばよかった。そうすればこんなに長いこと拗らせることもなく、そんなこともあったねと、今頃友人として笑い合えていたかもしれないのに。
切ない。悲しいオレンジの香り。
恋しくて、泣きたくなるよ。
こんな夜は、あの海のように蒼いマルガリータが恋しい。
手元のオレンジを親指でひとなでして、ゴミ箱に投げた。
過去とは、おさらば。
でも、ふしぎと気持ちは前を向いている。
すべてから解き放たれた私を、今度こそ大切にして生きていこう、と。
あなたが好きだと思い知った、この肉体で──。