第二曲 恋しくて 〜相澤〜

 いつになく満たされた気持ちで目覚めた朝。

 空になった冷たいベッドに、言葉を失った。

 

 飛び起き、洗面台まで走り、迷いなくシャワー室の扉を開けて、吐き気がした。

 名前が、居ない──。

 床に放り投げられたスマホを拾って電話を掛けた。

 繋がらない。繋がらない。繋がらない。

 同じ動作を三度繰り返し、なけなしの希望で掛けた四回目のコールで、現在電源が入っていないか電波の届かない場所にありますというお決まりのアナウンスが流れて、そこでようやく理解した──自分が拒絶されたのだと。

 その後、どうやって帰宅したのかはあまり覚えていない。

 しかし俺は腐ってもヒーロー。腐っても、教師。私情が業務に差し支えるなんてことはあってはならない。あってはならないのだが。

 週明けに絡んできた山田の、

『……なんか、あったか?』

 その言葉に上手く返答できなかった。

 

 雄英は夏季休暇を迎えたばかりで、受け持ちクラスの合宿やら補講やらが重なり、なんとか立て込んでいた業務を片付けた頃には、気付けば二週間が経っていた。

「ちィーと付き合え」

 半ば強引に連れられた居酒屋の個室で、山田は迷いなく俺に尋ねた。

「もしかして、ヤっちまったか?」

 笑うでも、責めるでもなく、めずらしく無表情で。

 しかし俺がその質問に答えたのは、ビールの大ジョッキやら日本酒やらをすべて胃に収めた後だった。

 身体は熱いのに、心臓はやけに冷えている。

 もう何日も生きた心地がしないから、それも当然かもしれない。手で口元を覆って、ようやく、ああ、と小さく観念した。

「ン。一応訊くが、合意の上だよな?」

「……わからん」

「オイオイ、わかんねェなんてことあンのか? Are you asleep?」

「…………」

「オーイ、マイフレンド。仮にも俺の大事な幼馴染だぞ。三つからだゼェ? 三つ。一緒に風呂にも入れられた。アイツはこう言うと嫌がるが、俺はマジで名前のことを妹だと思って──」

「俺が」

「…………」

「……強引に連れ込んだ。合意は、あった……と思う」

 いや、強引に連れ込んでおいて合意はあったなど、矛盾もいいとこだ。言葉にすればなおのこと、罪の重さに苛まれた。

「……ンで?」

「……朝起きたら、居なくなってた」

「そうかァ……ちゃんと伝えたんだよな?」

「……何を」

「ホワッツ⁉︎ テメェが好きだってことだよ! アイ・ラブ・ユー!」

「言うわけねぇだろ、……っ!」

 バコンッ、と頭に強い衝撃が走る。居酒屋にしてはなかなかに硬いメニューが頭に振り落とされていた。拍子で顔を上げると、山田は怒りで震えながら、されどどこか哀れみを含む目で俺を見ていた。

「ファック! ソコ言わねェと意味ねェだろうが!」

「迷惑だろっ、こっちの気持ち押しつけても」

 捻じ曲がった見栄がどっと湧き起こって、ふっと消えた。

 違う。

 本当は伝えようしていた。起きたらすべて話そうと思ってた。迷惑だ、は言い訳だ。本音は、怖くて言えなかった。体の関係だけなら、友人の延長で許してもらえそうな気がして、そこに漬け込んだ。最低だ。

「オゥ、マジかよ……ぜってー泣いてるわ、名前……」

「…………」

 山田はビールのジョッキを口元まで持ち上げ、ハァ、と吐き出して口をつけず卓に戻した。手で口を覆って、まるで言葉にもならないとでも言うように押し黙っている。

 また、心臓が冷えた気がした。

「……もう、色々と手遅れかもしんねェなァ。携帯もオフ。家はもぬけの殻。実家にも連絡なし。どっからどう見ても手遅れバイバイだ。俺がアイツの親だったら、テメェを殴り殺してる」

「…………」

 言われずとも、もう手遅れなのはわかっている。

 もしかしたら名前は、一度関係を持った男の連絡先は抹消するスタイルなのかもしれない。……いや、しかし。あの夜、あのバーにいた男には、またね、と返していた。つまり逆をとれば、俺はあの男以下ということになる。

 二度目の来ない、及第点以下の男──。

 それもそうか。あんなに手酷く抱いておいて、弁明のしようもないのだから。 

 ふたたび訪れた静寂は冷たく、暖簾の向こうの喧騒がいやに遠い。通夜のような静けさを破ったのは、山田からだった。

「……でもなァ、消太」

 コイツが下の名を呼ぶ時は、気持ちが入っているときだ。

「お前ェが先に諦めんのは違ェだろ。テメェの好きな女ひとり守れねェで、なァにがヒーローだよ」

 俺はいつになく、コイツの言葉をありのまま受け止めている。

「なァ、覚えてるか? 名前がメカを爆発させてよ、ダチに怪我させちまった時」

「……あぁ」

 初めて人前で泣いてる姿を見た。なんて声を掛けたら良いか分からなかった。

「白雲が帰ってこなかった時もだ」

 嘘だ、と言って逃げ出した。そのまま葬式まで顔を見せなかったくせに、会えば俺と山田の心配ばかりしていた。顔が変わるほどに、目が腫れ上がってた。

「どんだけ辛いことがあっても、人知れず屋上の隅ィーっこで、声も出さず泣いてるような奴だぞ?」

 知ってる。でも、知ってるだけで俺は何もしてこなかった。慰めの言葉を掛けるのは不器用な俺じゃなく、山田や白雲の役目だと思っていたから。

 俺はあいつに相応しくない。

「ちなみに、お前がどこぞの可愛い子ちゃんに告られてた時もそうだ」

「…………は?」

「女と腕組んで帰ってたっつー時も。つーか、いい加減察しろよ、マジで」

「何の話だそれ。俺じゃねェだろ」

「テメェの話だよ‼︎ ……ハァ~。こういうのは当事者以外が口出すべきことじゃねェとは思ってるケドよ……」

 心臓にゆっくりと血が通い始める。

「名前は昔も今も、お前のこと好きだと思うぜェ。今更、素直になれねェだけでよ」

「…………」

 仕草で、態度で、もしかしたら、と感じる場面がこの十年、全くなかったと言えば嘘になる。しかし伝えようにも、伝えさせてくれるような状態にはなかった。

 好きならなぜセフレがいる。なぜ男が尽きない。なぜ言葉にしてくれないんだ。俺には逃げたお前の気持ちなんて、皆目検討もつかないってのに。

「白雲も天国で泣いてんゼ~、マジで。消ちゃんは想像以上のクズだ、どうするよ白雲~」

 天を仰ぐような仕草に、眉を顰める。握った拳がじんわりと温かい。

 あいつなら何て言うだろうか、こんな時。

 俺たちと違って、歳を重ねないままの白雲がテーブルから身を乗り出した。

『なーにやってんだよ、ショータ!』

 何やってんだろうな、俺は。

『ほら! 早く会いに行かねぇと、まーた他の男に取られちまうぞ!』

 ずっと……俺の知る限りずっと、他の男のもんだったよアイツは。

『ショータなら、ぜってー大丈夫だ!』

 確証もないのに絶対と言ってのける奴だったな、お前は。その自信どっから来るんだ。

『いいからほら、行けよショータ! 名前が待ってるぞ!』

「いいからほら、行ってやれよ消太。それは惚れた男の役目だろうが」

 重なった言葉に意識が浮上する。

 ずらしたサングラスの向こうから、薄緑の目が俺をせかしていた。

 

 そうだな──。

 赦してもらえなくとも、責任はとるべきだ。

 選ばれなかったと嘆くのは、全てを伝えた後でいい。

 俺は冷えた水を喉に流し、心臓に収束した熱を冷やした。

「山田」

「アァ?」

「……頼みがある」

 合理的にいこう。望み薄なら尚のこと、合理的に。

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