第五曲 バンザイ 〜相澤〜
「俺が必ず説得します。その件もう一度検討してもらえませんか」
事の発端は、彼女の仕事用鞄からはみ出していた一通の封筒だった。
その封筒の色に見覚えのあった俺は、彼女が風呂に入っている隙にそっと抜き取って、こういうことは良くないと自問自答しつつも、つい中を見てしまった。
寄付金関連だろうとたかを括っていた俺は、その内容に驚愕した。
すぐさま封筒を元に戻し、スタスタとリビングを意味もなく往復して、風呂から上がったほかほかの彼女に抱きついてしまった。
「なぁに~、消太ぁ…………ご飯、後にする?」
俺の背中に腕を回しながら、こともなげに笑う彼女は、俺にとんでもない隠し事をしていた。
「やあ!」
「…………は?」
「お待たせしてすみません」
「え、ちょ、え? ……ご両親は?」
「そっちは来週にずらした」
「は? ずらした?」
「まあまあ、とりあえず二人とも座っておくれ」
お偉方の接待で使われるような高級料亭を前にして、彼女はひどく緊張した面持ちだった。しかし今や、その張り詰めた空気はとうに消え去り、日本庭園の映えた窓から一向に視線を戻さない。
小さい口が、はあ、と深いため息をもらす。事態を収集したのだろう。
「私を……騙したのね」
「騙してない。斡旋しただけだ」
「それを騙したって言ってるの!」
「それを言うなら、お前だって俺に黙ってただろうが」
「っ……!」
「いやはや、何年も声を掛けてきたけど、ようやくだね」
根津校長は目を瞑ったまま、俺たちの向かいで玉露の香りを楽しんでいる。あれは勝利を確信した顔だ。
「まさかこんな近くに交渉の切り札が転がっていたとは、頭脳派の僕も驚きさ!」
俺がニヶ月前に彼女の鞄から見つけた一通の封書は、根津校長から彼女宛に出されたスカウトの手紙だった。筆書きのていねいな字で、母校のために尽力してほしいと書かれていた。
「君たちが同期だとは知っていたが、まさかそれ以上の仲だったとはね。ところで、契約書類上はどっちがいいかな?〝苗字〟? それとも〝相澤〟?」
「四月からですし、〝相澤〟で」
「……は、え、は?」
「それまでには籍を入れておきます」
「……え、ええええ⁉︎ 席? 籍⁉︎ え、せ──」
「一応、俺と山田と香山さんが推薦者だ。このとおり根津校長も了承してる。あとはお前がここにサインするだけだ」
「あ、ああ、す、推薦……席ってことね。え……? んん?」
よし、完全にパニクってるな。
雇用契約書と書かれた書類を突き出されて、名前は思考停止したまま固まっている。二枚目に隠されている書類を目にしたら、ぶっ倒れそうな勢いだ。
そんなに見開いてたら目がこぼれ落ちるぞ、お前。
「じゃあ書類上は〝相澤〟で進めておくよ」
「はい。よろしくお願いします」
「実はセキュリティ面に関して、新しいシステムの導入を考えていてね。これからは特に君の力が必要なのさ! 期待しているよ」
校長の取ってつけたような説明は、おそらく名前には届いていないだろう。
言葉を失った彼女はよもや半分気を失ったまま、ほれとボールペンを差し出すと、訳もわからずサインし始める。
「〝相澤名前〟だぞ。間違えるなよ」
「っ!」
ぐりんと振り向いた顔は、あやふやだった状況をようやく理解したらしい。
涙が目の淵まで押し寄せている。あわあわと唇を震わせ、かと思えばきゅっと結んで、揺れるペン先で新しい名前を綴り出す。
準備良すぎだって? 当たり前だ。こっちはもう、打てる手はすべて打っている。なんならお前の親にも、すでに会ってる。
半分放心状態で労働契約を済ませた彼女に、校長は、ようこそ雄英高校へ、とつぶやきながら、向かいの席から雇用契約書をかっさらった。
「っ……‼︎」
「こっちは来週、出しに行こうか」
彼女から、蛇口をひねったように涙が溢れた。
証人欄には、俺と彼女の父親の名前がそれぞれ綴られている。
名前が両手で顔を覆った。俺はそれを、人生最高のしたり顔で眺める。
「おめでとう、二人とも」
頭の中で、カシャンと手枷がはまる音がした。
泣き腫らした目を夜空に向けて、冷たくて気持ちいいと笑う彼女は、とぼとぼと俺の隣を歩く。
真っ赤な鼻でぐずる名前に、自分のマフラーを外して巻いてやれば、やっぱりこのマフラーにしてよかったね、と吐く息を白く変えた。
彼女がくれた初めての誕生日プレゼントは、大切すぎてなかなか出番がない。
捕縛布があるからマフラーは必要ないだろ、と言う俺の隣で、消太が休める時間をつくるための贈り物だよ、とほだされて、何も言えなくなってしまったのはいい思い出だ。
「年末に香山さんの言ってた〝首輪〟って、このことだったんだね」
「……不満か?」
「不満もなにも、選択権なかったじゃない」
ふふふ、と洩らす名前は、とてもしあわせそうな顔をしている。
「……それでも、お前の意思は尊重したいと思ってるよ」
事なきを得て、少しばかり強引すぎたか、と反省する部分もあったから。
詫びるように、夜風になびく髪をなでる。
「びっくりしてる間に、まんまとサインさせられちゃった」
「ああ、最初からそれが狙いだった」
「ふふっ……きっと天国で笑ってるだろうなぁ……」
言葉にしなくとも、それが誰なのかはわかってる。
「……私ね、朧に顔向けできるような大人にならなくちゃって……そう思って、ずっと走り続けてきたの」
「ああ」
「朧が頑張りたくても頑張れなかった分を、私が少しでも、って……」
「……ああ」
「でも、ほんとうはね……きっと朧は、そんなこと望んでない、とも思ってるの」
「…………」
「いつも明るくて、前向きで、自由で、何にも囚われない朧は……今の私を見たら、きっとこう言う」
『そんなん、名前がやりたいようにやりゃいいじゃねーか!』
さわやかな風が吹き抜けた。
「そうだな」
あいつなら、きっとそう言うだろう。
「私、一生、消太のそばにいたい。もっと近くで、消太のこと支えていきたい」
見上げる瞳は覚悟を決めた色に染まって、企てた俺を圧倒する。
「俺も、お前には傍にいてほしい」
そっと、彼女の手を攫った。
「そのための婚姻と労働契約だ」
「ははっ、ほんとだね」
たしかな温もりが、ここにある。
「飲み足りないんだろ?」
「え……?」
「お前の好きな青いマルガリータ、飲みに行かないか」
大きな瞳がさらに広がって、星のような煌めきを放つ。無言の愛をささやく。
「……いく、行きたい!」
こんな些細なことで跳ねる愛おしい姿が、これからも隣にいてほしいと願う。嬉しさををこぼす俺に、名前がわかりきった答えを催促した。
「ねえ、消太……私が雄英にきたら、うれしい?」
小首をかしげ、下から覗き込む彼女は、俺を虜にして離さない。
君を好きで、よかった。
「ああ、バンザイしたい気分だよ」
「ふふっ、なにそれ」
君に会えて、よかった。
『なあ、ショータ』
『なんだよ』
『名前のこと、大事にしろよな』
『ああ? ……どういう意味だよ、それ』
『別に意味なんてねーよ! ただ名前がいたらさ、ショータはきっと──』
『……頭でも打ったか、白雲』
『打ってねーよ! ほら、行くぞっ!』
ずっとふたりでいよう。
そうすれば俺たちは、死ぬまでハッピーらしいから。 終