壺切りほうじ茶の正しい淹れ方 一

「良い香りですね」

「え?」

 

 相澤先生に声を掛けられたのは、これが初めてだった。驚きのあまり私は壊れた複合機のごとく暫くの間フリーズしていたように思う。だって、給湯室の入り口で壁に凭れ掛かる彼を前に、こちらは夢でも見ているのかと錯覚するほどだったから。

 

 先日、母と京都旅行に行った際に自分への土産として買ってきた壺切りほうじ茶。封を切ったばかりの熟成された茶葉を急須に落とし、お湯をとくとくと注ぎながら鼻歌交じりに香りを楽しんでいた。

 

 初夏に摘み取られた新茶を夏の間に熟成させたものを、壺切り茶というらしい。職場で誰かに聞かれたらそう説明しようと、頭の隅に持ち帰った解説文を脳内で復唱してみる。立ち昇る円熟した香りが鼻を抜ければ、趣のある神社仏閣と色付き始めていた紅葉が、まなこの裏に甦った。

 

 ああ、良い香り。

 

 そんな私の心音とシンクロするように、背後から放たれた低い声。その声に振り返ったのが、まさに、今。

 

「ほうじ茶ですか」

「……はい」

「いいですね」

「は、はい」

 

 私が今いる場所は、庶務課から一番近い給湯室だ。雄英高校ではヒーロー科の職員室と事務方の執務室は離れていて、あちらには寝泊まりする先生方への配慮ゆえか、ここよりも立派な給湯室が完備されている。だからヒーロー科の教師である相澤先生がこの場に居るはずがないのだ。なのに、なんで。

 

 あ、もしかしたら事務的な要件で庶務課に立ち寄ったのかもしれない。そこで近くの給湯室から漂ってきたほうじ茶の香りに誘われて、ここまでやってきたのだ、きっと。

 ありがとうほうじ茶。ありがとう壺切り。ありがとう、京都。

 しかし今はそれどころじゃない。だって、あの憧れの相澤先生が私の目の前に立っているのだから。

 

「好きなんですか」

「え?」

「ほうじ茶」

「あ、はい……好きです」

 

 今の会話に、どきりとするくらいには相澤先生に恋をしている。好きです、に自分の想いもこっそり上乗せされた。

 

 どうしよう。相澤先生だ。カッコいい。本物だ。やっぱり、いい声。すき。滅多に聞けないバリトンボイスが「好きなんですか」と音を紡げば、つい意味を捻じ曲げそうになる。俺のこと好きなんですか。はい、好きです。じゃなくて。そんなことよりもっと会話を、なにか。

 

「先日、京都に行ってきたので……」

「へえ、京都に。観光ですか」

「……はい」

 

 緊張してなかなか合わせられない視線が狭い給湯室を右往左往してしまう。私は悪戯が見つかってしまった子供のように視線を泳がせながら、ついでに両手を弄びつつ、なんとか会話を繋いだ。こんなのもう、不審者極まりないけれども。

 

「いいですね京都」

「……はい」

「よく行かれるんですか」

「いえ……そんなには」

 

 そこは「よく行きます」で話を広げればいいじゃない。もう一人の私が横槍を入れるも、脳内処理が会話のスピードについていけないから仕方がない。

 

 もちろん、自分の立場は弁えている。相手は立派なヒーローで立派な教師。反対に私は替えのきく、ただの一事務員。彼の隣に立ちたいなんて、そんな烏滸がましいことは望んでいない。だからこの気持ちは恋なんかじゃなく、推しという事にしている。いや、していた。今の今までは──。

 

「あ、あの」

「はい」

 

 こちらを何の気なしに眺めている三白眼をちらりと一瞥すれば、まるでパズルのピースがパチンとはまったかのような衝撃が、体を駆け巡った。押し込んでいた恋心が瞬く間に芽を息吹き、双葉をつけて欲を実らせる。

 ああ、これはダメなやつだ──。

 だって業務ですら殆ど接点のなかった私に声を掛けてもらえたんだもん。そんなのもう欲が出ても仕方ないじゃない。

  

「もし、よかったら……」

「いただきます」

「え」

「違いましたか?」

「いえ、いえいえ、違いません!」

 

 そんな秒で了承されるとは──。

 

 いや待て、もはや初見かもしれない私に声を掛けるほどなのだ。きっと相澤先生は、よほどほうじ茶がお好きなのだろう。推し、いや想い人の嬉しい発見に思わず口がムニムニしてしまう。堪えようと更に視線を落とせば、彼の手元には見慣れた書類が握られていた。どうやら庶務課に用があったらしい。それならば。

 

「よかったら、お持ちしましょうか」

「もしかして、俺の席まで?」

「はい……ご迷惑で、なければ」

 

 私がそう呟くと相澤先生は少し考えるように視線を外して、また戻した。

 

「ならお願いします。丁度、他に立ち寄るところがあったので」

 

 先ほども言ったが、ヒーロー科の職員室と庶務課の執務室は離れている。お茶を運ぶとなればそれなりの距離だが、そんな事、今の私には苦でもなんでもない。何往復だってしたい。いや、させてください。

 

「遠いのに大丈夫ですか」

「はい! お気になさらないでください。仕事柄、お茶出しは慣れてるので」

 

 なんせ庶務課ですもの。だからお願い、遠慮なんてしないで。断らないで、相澤先生。

 突然早口になった自分の不自然さに、顔の温度が跳ね上がる。頬が熱い。表面に色が表れてないか不安でまた顔が下がった。

 

「それなら」

 

 待ってます、の後に呼ばれた私の名前。え、と顔を上げた私に、相澤先生はゆるやかに口の端を上げてそのまま立ち去った。

 

 カツカツと遠ざかっていく足音。

 

 え、今──。

 

 ボンッと自分の中のなにかが爆発して、しゅるしゅるとその場に座り込む。完全に色の刺した頬を手で包み込んだ。

 

 ああ、どうしよう。

 相澤先生に、名前、呼ばれちゃった。

 


 

 ヒーロー科の先生と付き合いたいなんて、そんなの事務職の女性なら誰だって一度は考えることだ。強くてかっこよくて、しかも生徒を指導する立場の人間であれば人格者としてのお墨付きがあるようなもの。よもや人気が出ないはずがないのだ。

 

 しかしだからこそなのか、初めて参加した職場の飲み会で「私はマイク先生が好き」だの「いやいや絶対にブラド先生の方がカッコいい」だの、お互いを牽制し合っているような先輩たちの姿に、私は女の園ならではの恐ろしさを感じてしまった。

 

 だから今まで、推しである相澤先生に対して声を掛けようなどと思ったことは一度もない。仕事でもなるべくヒーロー科の先生方とは関わりを避けて、静かに穏便に過ごしてきた。だって、推しなら遠くから眺めるだけでも十分だったから。

 

 そんな中で訪れた千載一遇のチャンス。

 

 たっぷり多めに入れた茶葉に、どうか名前以上に私を認知してもらえますようにと下心を込める。

 

 しかし──。

 

「はぁ、どうしよう……」

  

 茶葉が開く短い間に、私は相澤先生へとお茶を渡す場面を脳内でシミュレーションしてみた。

 その結果、やはりどう考えても庶務課の私が個人的に一教師へとお茶を淹れるというのが、あまりにも烏滸がましく感じられてしまったのだ。

 

 だってわざわざ職員室に出向いてどうぞなんて、あなたに好意がありますと宣言しているようなもの。さすがにそれは相澤先生にも迷惑が掛かってしまう気がする。それに庶務課の人間から目を付けられるのも、正直怖い。

 

 そうして、色々と考えた結果が、この状況である。

 

 職員室の前で深呼吸をして、大きなお盆に沢山の湯飲み茶碗を乗せた私は意を決して扉を開けた。

 

「お、お疲れさまです」

 

 複数人の先生たちがこちらを向いて、ビクッと体が硬直してしまう。きっと彼らの目には不慣れな新人職員として映ったことだろう。新人ではないが。

 それでもレディファーストで名高いマイク先生が「ワーオ、どしたの?」と駆け付けてくれたおかげで職員室にはするりと入ることができた。

 

「あの、京都に行って、美味しいお茶を買ったので、よかったら……」

 

 言葉尻を窄めながら頑張って呟くと、意外にも先生たちは喜んで集まってくれた。

 

「あらやだ、京都のお茶? 美味しいわね」

「……お口に合ったようで、よかったです」

「飲み過ぎた胃に優しいわ。ありがとう」

 

 ニッコリと微笑むミッドナイト先生は、女性だけども庶務課ではとっても人気の先生だ。隣の席の同僚が「いつかあのムチで扱かれたい」と言っていたから、きっと多方面での需要があるのだろう。

 

「悪いな。ヒーロー科まで届けてもらって」

「いえ、美味しいものはみんなでシェアしないとなので」

 

 ブラド先生の筋骨隆々な腕が小さい湯呑みを持ち上げると、なんだかおもちゃみたいでちょっと面白い。お茶を啜る時に少し邪魔そうな八重歯が可愛いなと思った。

 

「わあ! 香り高いですね、このほうじ茶」

「そうなんです、私も気に入ってて」

 

 13号先生のご尊顔は、京都で手を合わせてきたお釈迦様の誰よりもなんだか尊く感じてしまう。うっとり眺めていると「ん、どうしました?」と聞かれて慌てて視線を逸らした。

 

 とりあえず、先生方にはほうじ茶を気に入って頂けたようで一安心だ。談笑に混じっていると、緊張が少しずつ体から抜けていく。

 

「離席中の先生方には、お席に置いておきますね」

 

 そう言って粗方配り終えると、マイク先生が湯呑み茶碗を片手に笑顔で語りかけてきた。

 

「サンキュー! 悪ィな、わざわざ俺らの分まで淹れてもらっちゃって」

「いえいえ! 皆さんにはいつもお世話になっていますから」

 

 マイク先生にはこの壺切り茶を購入したお店について聞かれて、暫く話し込んだ。職業柄、喉のケアを大切にしているから、よく緑茶やほうじ茶を飲むらしい。マイク先生はとても楽しげに私の拙い説明を聞いてくれた。覚えてきた壺切り茶の解説も披露できて、こちらも自然と笑顔がこぼれる。

 今まではリアクションの大きさから勝手に苦手意識を持っていたのだが、それがまるで嘘のように巧みな話術で絆されていく。なるほど。これは先輩方に特別人気があるのも頷ける。

 

 しかし集まってきた先生たちの中に、なぜか本命の相澤先生は居なかった。見渡すと隅の方の席でひとりデスクに向き合っている。こちらには目もくれず業務をこなしている姿は、さすがとしか言いようがない。

 

 湯飲み茶碗をひとつ手にして、そそくさと本命の席に近づく。折角なら熱いうちに飲んでもらいたい。だってあなたの為に淹れた渾身のお茶なんだもの。

 

「あの、相澤先生も、どうぞ」

「……どうも」

 

 デスクの端に添えた湯飲み茶碗は、変な手振れもなく置くことができた。きっと他の先生たちと上手く会話できたおかげだ。よし、と心の中で小さくガッツポーズすれば、緊張もだいぶ落ち着いていることに気づく。

 その甲斐もあって、相澤先生がお茶を手に取る様をゆっくりと隣で眺めることができた。口元に運び、ずずっと呑む姿は普段拝めない喉仏が少し露わになって、不覚にもどきりとする。

 

「あの、どうでしょうか」

 

 あわよくば、給湯室で見せてくれたあの笑顔を、もう一度──。

 綻ぶようにほほえむ姿を想像して、期待が膨らむ。しかし残念ながら、彼の反応は私の予想を百八十度覆すものだった。

 

「……まあ」

 

 あ、これダメなやつだ──。

 

 人の顔色を伺うのに慣れた私には分かる。これは、想像よりも美味しくなかった時の人間の反応だ。よもや、なぜ私は相澤先生に美味しいと思ってもらえると確信していたのか。

 

「お口に、合わなかった、ですか」

「…………」

 

 そりゃそうか。

 なにせ道すがら他人のほうじ茶に足を伸ばす程なのだ。舌もさぞ肥えていることだろう。期待したほどでもなかったなら、それは仕方のない事だし、そもそも大したことないお茶を選んで勝手に満足していた私に落ち度がある。相澤先生は少しも悪くない。

 

 しかしそのショックは想像以上だった。すみません、という言葉も憚られるほどに喉が萎縮してしまう。

 ああ、ダメだ。思ったより辛い。茶葉への信頼が絶大だっただけに、この失態は辛過ぎる。

 

 きっと欲張ってしまったせいだ。大人しく眺めているだけなら、こんなことで傷付くこともなかったのに。少しでも私を知って記憶に残して貰いたいなんて、欲を出してしまったから。

 

「……すみません」

 

 小さな言葉を絞り出して急いで湯呑みを下げようと手を伸ばす。

 

「さ、下げちゃいますね」

 

 美味しくないお茶なんて迷惑でしかない。早く、下げてしまおう。今度はびっくりするくらい手が震えて仕方ないが、とにかく今はどうでもよかった。今すぐここから立ち去りたい。

 

 しかし私の握った手に被さるように、大きな手がそれを遮った。というか、包み込んだ。包み込んだ?

 

「え」

「美味いです。飲みます」

「……あ、いえ、そんな無理には」

「無理もしていない」

「……でも、」

「ただ、俺だけに淹れてくれると思っていたので」

「……え?」

 

 今、なんて?

 

「少し、がっかりしただけです」

「……」

「明日、また淹れ直してもらえますか」

「……」

「今度は、俺だけに」

「……」

 

 キーンと静まり返った世界に、ぎゅっと覆われた手だけが熱を宿す。じくじくとその熱が伝播して、冷え切った心に火を灯していく。近距離からの刺すような鋭い視線が、私を貫いた。

 

 握られたまま唖然としていると、マイク先生の大きな声が私の名前を呼んだ。バッと顔を上げるとデスクの島の向こう側でマイク先生がこちらを向いている。

 

「ヘーイ、ご馳走になっちゃったから今度お礼させてくれよ。キュートな事務員さん」

「え⁉︎ ……お、お礼」

「イェス!」

 

 お礼なんて、と言い掛けた口がギュッと締まる。手の甲をするりと撫でた指が、五指の狭間をねっとりと分け入る。湯呑みからゆっくりと解かれた手の平を、硬い親指が味わうように撫で上げた。それは一生にも思える一瞬の出来事。

 

 ぶわっと猛烈にたぎる体温に、なにがなんだかワケがわからない。手を、私の手を、相澤先生が、な、なで、ああ、ダメ、もうダメ!

 

「け、結構です!」

 

 想像以上に大きな声が出てしまって、マイク先生が「そーお?」と申し訳なさそうな顔を作る。

 

「わ、わ、私が勝手にお出ししただけなので、その、大丈夫、です」

「だそうだ、マイク」

「まァ、そこまで言うなら……」

 

 私はドタドタと出口まで走って「し、失礼しました!」と逃げるように立ち去った。そのまま全速力で廊下を駆け抜けて、自分のテリトリーにある給湯室に駆け込む。

 

「~~~~っ!」

 

 言葉にならない叫びが、学校中に木霊した。

 

 ああ、どうしよう。

 相澤先生に、手、触られちゃった──。

 

 きっともう、趣のある神社仏閣も色づき始めていた紅葉も思い出せない。だって彼に染められてしまったほうじ茶の香りは、もっと甘く痺れる記憶として体に深く刻まれてしまったのだから。

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