つまり、そういうことじゃないのか

「いい加減、白黒つけませんか」

「……なにを」

「わかってるでしょ」

 

 居酒屋の個室。俺はビールジョッキを片手に、かつての恩師に楯突いた。断崖から突き落とされても構わない覚悟で。

 

「俺たちの、三角関係のことですよ」

 


 

 久しぶりの邂逅に「たまには飲みに行くか」と誘ってきたのは恩師であるイレイザーだ。今朝、俺たちが所属する事務所とのチームアップにイレイザーヘッドが呼ばれたと聞いて、彼女には静かな喜びが水のようにあふれていた。漆黒の瞳が瞬く間に光を取り込み、青い春の色に染まる。ああ、今もまだそうなのか、と俺を暗い穴蔵へ突き落とす。

 となりで苦虫を噛み潰した俺に「人使くん、体調でも悪いの?」と頓珍漢なことを言うのだから、なんでこんな奴を何年も追い続けているのかと自分が憐れでならない。

 

「……知らん」

「逃げないでください」

 

 一拍、決意の呼吸を挟む。

 

「……好きなんですよね、彼女のこと」

 

 微かに揺れる恩師のグラスに、動揺はありありと湧いていた。仮にその小さな戦慄きを見逃したとて、結果は差して変わりない。俺の確信は、既に疑う余地のないところまできている。

 

 イレイザーヘッドは、教え子の彼女に惚れている。

 俺もまた、同じく、彼女に──。

 そして俺たちの想い人は、もう長いこと〝相澤先生〟に恋をしている。

 

 もういっそ、一思いに、とも思うよ。

 矢印を考えれば、完全に俺だけが邪魔者なワケだし。素直に白状して俺が彼女に告白してしまえば、関係性は曲がりなりにも変化を遂げて前へと進むことができるのだから。いや、俺の場合は後退か。

 

 ただ、そんな邪魔者の俺にも、ひとつだけ気に食わないことがある。自分の恩師が、彼女からの想いも己の気持ちも理解した上で、行動のひとつも起こさない、ということだ。

 教師と生徒の関係だったとはいえ、卒業から三年が過ぎている。俺たちは酒を飲める年齢になったし、イレイザーは今年、三十六になる。まだ世間体を気にしているのか、それとも俺に気を遣っているのか。だとしたら余計に腹立たしいが、こんなふざけた現状に俺は満足もしていない。

 

「いや~、長蛇の列でした」

 

 襖を開けながら、ほんのりと頬を染めた彼女が、若干の千鳥足で戻ってきた。

 はあ。ちょっとは空気を読んでくれ、と隠れて理不尽を投げる。

 正面のイレイザーを一瞥すれば、独眼は視線を逸らしていた。まるで話は終いだ、とでも言いたげに。

 

「最近よくテレビに出てるな」

「はいっ! 一度ファットさんとコラボしたら、なぜか呼ばれることが増えちゃって」

「心操は出ないのか、同じ事務所なのに」

「俺はアングラでやってるんで……誰かさんを踏襲して」

「人使くん、テレビに出たら絶対人気出るのに」

「興味ないよ」

「ヒーローにはあんまりツンデレキャラ居ないし、いけると思うんだけど」

 

 ほら、男性ヒーローなら女性ファンの獲得も大事でしょ? ヒーローも人気商売なところあるし──。

 学生時代の彼女なら、そんな世間体を気にするようなことは言わなかった。その分、彼女も大人になったということか。

 

「ツンデレってんなら、爆豪がいるだろ」

「いやいや、あれは完全なツンだもん」

 

 ツンオブザトップだよ、と彼女は朗らかに笑う。

 その顔を横から眺めて、俺は思う。きっとなにも気づいてないんだろう、と。俺が言葉にしなければ、これから未来永劫、彼女は知ることもないんだ。この席を囲んでいる俺たちの複雑な三角関係など。

 二人がさっさとくっついてくれれば、俺がこんなに思い悩むこともないのに。

 また毒を吐きたくなって、ビールを流し込んだ。

 

「……まあでも、人気でちゃうのもそれはそれで嫌なんだけどね。寂しくなっちゃうし」

 

 ほら、こういうところ──。

 マジで勘弁してくれ。一人だけ蚊帳の外の、こっちの身にもなれよ。不貞腐れて、勢いよくジョッキを煽った。

 

「それなら、心操と付き合えばいいじゃないか」

「っ!」

「ゲホッ、ゴホッ……はぁ⁉︎」

 

 思い切り咽せた。おいおい、どういう雑なもって行き方だよ。踏み込みすぎだ。

 気が動転して言葉が見つからない俺のとなりで、顔を曇らせた彼女が肩を落として項垂れる。そうして、小さく洩らした。

 

「……先生、ほんといじわる」

 

 ああ、マジで、なに考えてんだこの人はっ。

 自分に想いを寄せる女性に別の男を勧めるなんて。それがどんだけ残酷な行為か解ってないのか。いや、分かっててやってンだとしたら、悪質すぎる。

 

「イレイザー、ふざけたこと言わないでください」

「俺はお似合いだと思うぞ」

「お似合いもなにも、俺たちはそういうんじゃありません」

 

 イレイザーがジントニックを喉に流し、俺を見た。

 

「白黒つけようと言い出したのはお前だろ、心操」

「は⁉︎ ……いや、さっきのアレは、その……問いかけであって、まだ事を起こすとかの段階じゃ……ああ、もう。とにかく話をややこしくしないでください」

「いい加減どうにかしたいんだろ、お前も」

「いや、どうにかしたいからって……」

 

 こんな野蛮なやり方は、彼女にあんまりだ。だって彼女は、もう何年もアンタのことを追いかけて──。いや、それを言うなら自分も同じか。同じ分だけ彼女のことを追いかけている。

 

 長年の付き合いだ、そりゃあ俺も解ってる。覚悟を決めたこの人は恐ろしく合理的で、瞬く間に目的を完遂させてしまう人だということを。

 

 でもさ、でも──。

 

 俺だって簡単に諦められるような気持ちなら、ここまで引きずってないんだ。だからこんな理不尽なやり方で彼女に勧められても嬉しくないし、俺の理念にも大いに反する。

 黙り込んでいた彼女が、頑として頭を垂れたまま重たい口を開いた。

 

「もしかして、バレちゃってますか……?」

 

 わたしの、気持ち。そう、さびしく声を落とす。

 噛み締めた唇から、呻きを上げる寸前の純真無垢な心が漏れ出ている。

 ここまでか──。

 俺は覚悟を決めた。自分が今、この場で、振られる覚悟を。

 

「あのさ、俺──」

 

 彼女が居住まいを正す。すっと糸に引かれるように表を上げ、密閉された空気がやわらかな決意で揺れた。

 

「わたし……好きです、ふたりのこと」

「……は?」

 

 え、なに。なんて?

 

「先生のことも、人使くんのことも……すきなの」

 

 え、ちょいストップ。俺のこと好きなの?

 

「……うん」

 

 ヤバい。声に出てた。

 思考停止した俺の向かいで、イレイザーが「はあ……」と額に手を当てる。

 

「だから進展させたくなかったんだよ、俺は。ややこしくなるだろ関係性が」

 

 え、ちょっと待って。

 その言い方だと、イレイザーは知ってたってこと、なのか?

 

「待ってください。いまいち状況が掴めません」

「鈍感なのはお前だよ、心操」

「やっぱり先生にはバレてたんですね……」

「……まあな」

 

 もじもじと手遊びを始めた彼女は、つまり今、二人の男に同時に告白したってことで合ってるか?

 

「ずっと、自分が真っ当なレールから外れてるみたいで、誰にも言えなかったの」

「う、うん」

「でも雄英を卒業して、先生と離れて、そしたらどんどん先生のことが忘れられなくなって……逆に、人使くんとは長く一緒に過ごす内に、わたし、人使くんのこともどんどん好きになって……それで」

 

 ダメだ、思考が追いつかない。

 なんで俺は今日、酒なんて飲んでしまったんだ。

 吹き飛びそうなアルコールが、吹き飛ばずに胃の中でぐるぐると巡っている。

 

「どうしよう、ってなっちゃって……」

 

 うん。あの、本当に、どうしようか。

 どうしたらいいのか分からない。

 頭を抱え込んだ俺は、耳を塞いで雑音を遮断した。

 

 想定外すぎる。二人とも好きって、そんなのアリかよ。いや、そもそもコイツには抜けてるとこも多い。俺の考えてる〝好き〟ってのが、彼女の考えてる〝好き〟とは限らない。

 よし、まずは確かめよう。

 確かなところから、確かめよう。

 

「あのさ」

「……うん」

「その、今言った〝好き〟ってのは、キ、キスしたいとか、そういう方向の〝好き〟で合ってる?」

「……心操、お前童貞か」

「どっ! か、仮にそうだとして何か問題でもあるんですかっ。今関係ないでしょ、そんなこと」

「いや、別に。聞いただけだ」

 

 おい、なんてこと聞くんだっ、あんた教師だろ。

 

「わたしは」

「……うん」

「……もっと先も、したいけど」

 

 ゆるやかに蒸気する頬。上目遣いの眼差し。ひかえめにも、男を誘惑する、劣情。

 あ、ダメだ。俺、今日、帰ります。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、人使くんっ」

 

 ごめん。ちょい、キャパオーバーだから。

 

「今帰ったら、わたし先生にお持ち帰りされちゃうよ! いいの⁉︎」

「良くない……いや、良くないのかもわかんない。頭痛い」

「お前ら、一応ここは公共の場だということを忘れるな」

 

 イレイザーはテーブルに肘をついて、呆れた様子で首を掻いている。

 

 ちょっと冷静になろう、俺。

 話は変な方向に進んでいるが、つまり俺の片思いは詰んでない、ってことだよな。彼女はふたりの男を好きになってしまって、どちらかを選択するに至ってないだけで、まだ俺には望みがあるってことでいいよな。

 

 深呼吸をして、ゆっくりと腰を落ち着けた。

 

「イレイザー」

「……なんだ」

「どうしますか、この状況」

「俺に聞くな」

「いやつまり、要約すると、俺かイレイザーか、どっちかが彼女と付き合うって認識でいいですよね」

 

 そうだ、俺にもまだチャンスがあるということを忘れてはいけない。開戦の火蓋は、まさに今、切って落とされたんだ。ここで引いてどうする。

 

「えー、選べないよぉ……」

「っ、ちょっと黙ってて」

 

 ダメだ。彼女が居るとかえって話がややこしくなってしまう。今日は切り上げて、後日イレイザーと二人で話し合う方が建設的かもしれない。

 うん、そうしよう。

 俺が心に決めた瞬間、阻むようにイレイザーが重たい口を開いた。

 

「……俺は好きだよ、お前のこと」

「せんせぇ……」

 

 は──?

 

「健気なところも、俺の教えを守って立派にヒーローしてるとこも」

「ちょっとストップ! それ、今言いますか⁉︎ その権利をどちらにするか話し合おうということになったんじゃないんですか、今!」

「内面もそうだが、見た目も。男として惹かれるところは多分にあるよ」

「わたしも……先生の見た目も、中身も、全部すきです」

「聞いてます? 聞いてますか、イレイザー」

「お前がその気なら、俺は男として受け止めたい」

 

 イレイザーの手が伸びで、テーブルの上で彼女のそれに重なった。彼女は胸を打たれたように目尻に涙を浮かべて、まるで恋人のように指を絡め出す。

 

 いやいやいやいやいやいや、待ってくれ!

 

「それを言うなら俺だって! アンタのこと、どれだけ傍で見守ってきたと思ってんだ! どんな想いで……どれほど俺が、す、好きかなんてアンタには──」

 

 分かりっこない。そうだ。

 自分の惚れた相手が、恩師を追いかけて健気に頑張る姿なんて、そんな残酷な仕打ちを六年も引き受けて、なのに諦め切れない俺の気持ちが、一体どれほどの深さで、どれほどアンタを想ってやまないかなんて──。

 

「つまり、そういうことじゃないのか、心操」

「ええ。わたしも同感です、先生」

 

 え? は?

 

「もっとも危惧していた事態だが、こうなりゃどうしようもない。腹括るか」

「ありがとうございます先生! わたし、一生ついていきます♡」

 

 は──?

 

 人使くんも、と彼女が俺の手に触れる。ぬるりと滑るように五指が絡め取られ、思わず心臓が跳ねた。彼女の上目遣いが悪戯っぽく濡れる。

 

「……人使くん、すきだよ」

「あ、あ、うん……」

「わたし、いっぱい、がんばるね」

 

 鞭打つような脈拍の衝撃が、込み上げる怪しげな予感が、俺を連れ立ったことのない何処かへと誘う。

 彼女の手は、俺と、イレイザーと、両方のそれに繋がっている。

 いや、なんか、上手くまとまった感じだけどさ、その──。

 

「……え、なに。どういうこと。どうすんの、これから」

「どうするもなにも……ねえ、先生」

「だな」

 

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