病めるときも、健やかなるときも

〝今日は会いたくない〟

  

 心のままに打ち込んだメッセージは、気遣いの欠片もなく相手に送信されてしまった。多忙を極める彼が忙しさと恥ずかしさの合間を縫って連絡してくれたというのに。

 理由を述べるとすればそう、生理前でどうしようもなく落ち込んでいた。その上残業続きで身体は疲弊していて、退勤間際に締切の近い業務を振られて、帰りの電車がいつも以上に混んでいて、立ち寄ったコンビニの店員がひどく無愛想で、挙げ出したらキリがない。

 

〝仕事で疲れてんの、ごめん〟

 

 掻き集めた理性で謝罪を追送してスマホをソファに投げた。もう限界。

 

 彼とは週末同棲というやつで、平日に顔を合わせることは殆どない。あちらはヒーロー業と教師業の掛け持ちで休みは日曜日だけだし、しかもその日曜日さえ私の家で持ち帰りの仕事をしている。週に一回会えればいい方。酷い時には月に一回すら会えないことだってある。

 淡白だろうか。

 いや、これが彼にとって、いい塩梅のライトな付き合いだと自負している。

 今日はまだ週の半ば。

 沈み込んでいくソファの海に、落としていない化粧が染み込んでいく。壊れかかった機械のようにギクシャクした身体が、ゆるやかにほどけて同時に意識を手放した。

 


 

「起きたか」

「え、夢……?」

 

 ふいに目が覚めた。明るいままのリビングに、ああまたメイクを落とさず寝てしまったと後悔がよぎった刹那、なぜかいいにおいのするキッチンへと目がいった。

 寝起きで意識と肉体がまだつながっていなくて、ぼんやりした視界に映るのは会えないと断ったはずの恋人。

 

「丁度できたところだ。食べれるか?」

「え、なんでいるの」

「仕事が早く終わったんだよ」

 

 なにかを丼に注ぎ分けながら、なんてことないように彼が呟く。湯気の立つ丼にまな板から小葱らしき緑を落として、それから、お小言をひとつ添えて。

 

「最近、働き過ぎじゃないか?」

 

 丼を盆に乗せゆっくりとこちらに歩いてきた恋人は、はっきりと明度を落とした顔をしていた。その訝しげな表情を目にすれば、ここ最近考えないようにしていた小さな不満がじくじくと膿んで、カチッと反抗心のスイッチが押される。働き過ぎのあなたにだけは言われたくない。

 

「会えないって送らなかったっけ、わたし」

 

 そもそも私の夕飯ならダイニングテーブルに投げ置かれたビニール袋に入っているはずだ。仕事帰りにコンビニで買ったサンドイッチ。疲労が溜まって食欲すらなくて、今日はもう家に帰るだけで精一杯だった私への丁度いい夕飯だ。その袋に彼が気づかないわけがない。なのにあなた、なにをつくってるの。

 

「会えないとは言われてない。会いたくないとは言われたが」

「それ会えないって意味だよ」

「そうか。一味はかけるか?」

 

 だんだんと強まるこちらの口調に、彼は物怖じせず淡々と返してくる。は、一味?

 

「冷蔵庫になにもなかったから、これしか作れなかった」

  

 そういって差し出されたのは、我が家に常備してある冷凍うどん。温かいつゆにつかって、ご丁寧にふわふわの卵まで。長さのバラバラな刻みネギが控えめにも彩りを添えている。

 ソファのサイドテーブルに置かれた湯気の立つうどんに、休日の私なら飛び起きて「嬉しい。ありがとう!」と笑顔を向けられただろう、けれど。

 

「頼んでないよ」

 

 荒んだ心では消太の好意を素直に受け取れなかった。それどころか火に油を注がれて火の粉が飛ぶように文句が溢れてくる。必死に隠していた、どす黒い澱が舞い上がる。

 

「え、なんで? 会えないって言ったじゃん。急に来られたら困る」

「疲れてるときは温かいものを食った方がいい」

 

 話が全く噛み合わない。は、なにそれ。あなたが言える立場なの? 自分はいつもゼリー飲料で済ませてるくせに。

 

「私の話、流さないでよ。迷惑だって言ってるの」

「……そうか」

 

 一拍の間に、はっとした。

 迷惑──。

 自分が吐き出した恐ろしい言葉を、もう一度口の中で反芻する。

 

 違う。違うよ、消太。そんなこと思ってない。でも思ってもないことが口から溢れて止まらない。だって私の余裕は全部、会社に置いてきてしまったから。今の自分はただの燃えかすみたいなもので、本物の私じゃない。

 浮かんだ考えに違和感が混じる。違う。それも違う。

 これが本物の私だ。やさしくされても素直に受け取れない、可愛げの欠片もない、これが隠していた本当の私だ。いつもは余裕でガチガチに固めた鎧で着飾っているだけ。あれ、どっちが本物なんだろう。

 

 そんな鎧の剥がれた私を見て、消太はふっと漏らすように笑った。は、なに。なんでこのタイミングで笑うの。瞬間的に怒りがぶり返して、ぎゅっと眉を寄せた。

 

「頬、跡がついてる」

「なっ……」

 

 思わず顔を背けた。今朝見つけた新しいシミが頭をよぎって、そんなことまで思い出させないでよと不機嫌が上乗せされる。

 

「どうせ、戻りの悪い老いた肌ですよ」

 

 吐き捨てた言葉がそのまま棘となって自分に降ってくる。そうだ、私ももう若くない。

 ふと、ソファが揺れた。ドカンと隣に隙間なく座った大きな身体に、驚く間もなく引き寄せられる。倒れた先で大きな体に包み込まれた。

 

「きれいだよ、お前はずっと」

 

 は──? 

 

 きれい? きれい、と言ったのかこの人は。

 そんなこと初めて言われたんじゃないだろうか。恥ずかしがり屋の消太が、きれいだなんて、そんな小っ恥ずかしいこと口にするはずない。まさかお酒でも呑んできたんじゃないのか。それとも私がまだ夢を見ているだけなのか。

 

 そもそも、きれいなはずないじゃないか。だって今週は帰宅してクレンジングシートで顔を拭き取るのがやっとで、今だってドロドロに溶けた化粧にどうせ目の周りは真っ黒でくまも隠せてなくて、横になった顔にはソファの跡までついて、結んだままの髪の毛はぐちゃぐちゃで。なのに。なのに。

 

「そういう見え透いた嘘つかないでよ、ちっともうれしくない」

 

 怒りを込めて吐き出したはずの言葉尻は段々と小さくなって、最後には喉がグッと締まった。今まで消太に接してきた自分は全部嘘だったんじゃないか。それくらい、今日の自分は豹変してる。それくらい、余裕がない。

 

「嘘じゃない」

 

 彼はより一層私の耳元に近づいて、やさしい声色でつぶやいた。小さく揺れた心は、きっとゼロ距離の彼にはお見通しだろう。くそ、私のこと本気で宥めにきてる。しかも私が消太の低い声に弱いってことを利用してまで。やり方が悪徳すぎる。

 

「……チョロいとか思ってるんでしょ」

「思ってないよ」

「だいたい急に来る方が悪いんだよ、こっちだって準備もあるのに」

「準備なんか必要ないだろ、お前の家なんだから」

「私の家だから! 掃除とか片付けとか、いろいろあるんだよ!」

 

 腕の中で暴れようにも、ヒーローの力を前にしては到底敵わない。それでもドタバタと身じろいで放せと態度で示す。結局は腕の力が強まって、更に抜け出せなくなってしまった。そこで初めて気がついた。消太の腕が小さく震えている。

 

「そうか、いつもありがとな」

「……」

 

 結んでいた髪を勝手に解かれて、くしゃくしゃになった髪を梳かすように撫でられる。もっとささくれ立った心に突っかかってくれたらいいのに。突っかかってほしいのに。

 

「急に来られても、うれしくないよっ」

「ああ。今日は俺がお前に会いたかっただけだ」

「っ……」

 

 なに、それ。いつもはそんな甘いこと、ひとことだって言ってくれないくせに。今日の消太は変だ。猛烈に迫り上がってくる涙が黒い視界を更にぼかしていく。ダメだ、こんな時に泣いちゃダメ。消太の思う壺じゃないか。

 

「……なん、でっ……怒ってよ、喧嘩したいんだよ、私は!」

「怒る理由がないよ」

「……っ、あるでしょ、いくらでもっ」

 

 怒ってよ。せっかく来たのに文句言うなって言ってよ。ご飯まで作ったのに迷惑だはあんまりだろって。あるでしょ、怒ることならいくらでも。

 そしたら全部言えるのに。こんな誰でもできる仕事に心血注いでバカみたいでしょって、吐き出せるのに。

 

 だって、嫌なんだもん、こんな弱い自分は。消太みたいに体を酷使する仕事じゃないのに。デスクに座って上司の言いなりにこなすだけの毎日なのに。自分の仕事すら上手に捌けない私は、崇高なヒーローの隣にいる資格ないでしょ。

 

 背中をポンポンと小さく叩かれて、それがひどくやさしくて、荒んだ心がひとつ、またひとつと絆されていく。止まらない涙が消太の肩に染みをつくっていく。干からびた心に水を与えられていく。それがまた涙に変わって溢れていく。

 

「しばらく前から、お前が仕事に本腰を入れたの知ってる」

 

 思わず、息を呑んだ。

 

「俺が、入院してからだろ」

「……ちがうっ」

「心配させて、悪かった」

「……ちがうってば」

「お前は、そういうこと気負いすぎるタチだってわかってたのに」

「っ……」

 

 数ヶ月前。

 病室で全身を包帯に巻かれた消太を見たとき、血の気が引いた。腰が抜けてその場に座り込んで、立てなくなった。看護師さんとマイクさんに心配されてしまうくらいには、狼狽えた。

 今までも、いつ命を落とすかわからない仕事だと言われてはいたし、こっちも理解してるつもりだったけど、それは本当に、ただの〝つもり〟だった。

 

 消太は、いつ死ぬかわからない世界にいる。

 

 そうでなくとも、いつ身体がダメになるかわからない。腕が無くなるのか、歩けなくなるのか、視界を奪われるのか、言葉を話せなくなるのか、寝たきりになるのか、はたまたその全部なのか、私にはわからないけれど。

 

〝もし消太が動けない身体になったら、誰が支えていくの〟

 

 そんなの、私でしょ。

 私が消太の人生を支えていくんでしょ。

 彼に、私とずっと一緒に居るつもりがなくたって、わたしが──。

 狼狽える頭に、すんなり浮かんできた答えだった。

 

 今までは、仕事で会えなくてさみしいとか、我儘にもそんなことばかり考えていた。あまり言葉をくれない消太に私ばかり好きな気がして苦しくて、でもヒーローとして教師として頑張っている彼を応援したくて、邪魔したくなくて。

 会えるはずだった予定が急にキャンセルされても、デート中に逃げるように帰って行かれても、そのまま一ヶ月会えなくても、送ったメッセージに返事がなくても、全然平気だよって言ったし、平気な顔してた。

 もしかして私に興味なくなったの? 違う人を好きなったんじゃないの? そもそも私なんかじゃ、消太に釣り合ってないんじゃないの?

 独りになるとそんなどうしようもないことを、死ぬほど考えてしまう。嫌な妄想ばかり浮かんできて、うじうじと一人で腐っていく。心の底に澱が溜まる。

 

 そうじゃないでしょ──。

 

 会えないなら仕事くらい頑張りなさいよ、私。それしかできないんだから。

 消太は命を掛けて世の平和ために頑張ってるんだから、もしもの時にお金にだけは困ることがないように、消太がどんな身体になっても私が支えていけるように、大丈夫だよって笑顔で迎えられるように──。

 

 上司に頼み込んで、新しい業務を増やしてもらった。出世欲の欠片もなかったけど、これからはもっと上を目指したいんですと、小さく嘘を吐きながら、決意だけは立派に頭を下げて。文字通り、ここ数ヶ月は身を粉にして働いた。

 

 なのに、蓋を開けてみればこれだ。勝手に仕事を増やして無理をして、本人に八つ当たりしている。こんなんで彼女なんて言えるんだろうか。私はこんな自分が、この世の誰よりも許せない。

 

「俺のために、無理をするな」

「むり、なんか……」

「じゃあ言い方変える」

 

 消太が、大きく息を吸った。

 

「俺のために、俺から離れていくのはやめてくれ」

 

 私の耳に落とされた声は、わずかに震えていた。咄嗟に覗き込んだ顔は、なぜかひどく怯えた表情だった。初めて見る消太のそんな表情に、えっという驚きの声と同時に申し訳なさが噴き上がる。

 彼のお願いは、至極真っ当なことだ。彼のためにと頑張った先で私は今日、彼にとんでもなく酷い言葉を吐き出している。

 

「消太……ごめん」

「……」

「ごめんなさい」

 

 彼は返事の代わりに、また私を腕の中に閉じ込めた。その腕は意識を向ければ驚くほど不自然に震えている。消太の畏れをしたたかに表している。ああ、どうして気づかなかったんだろう。どうして彼は平気だなんて思い込んでたんだろう。栓が外れた。

 

「……消太が、けが、して……」

「うん」

「いつか、どうか、なっても……」

「うん」

「っ……わたしが、支えなきゃ、って……」

「ああ」

「……なのに、私はっ」

「いいんだ」

 

 背中をさする手は、相変わらずやさしい。

 

「お前はいつも、俺を支えてくれてる」

 

 それに、と彼が言う。

 

「お前が仕事してなくたって金には困らないよ」

「でも」

「俺の体がどうなっても、二人で暮らしていけるくらいにはある」

「そうじゃなくてっ」

「それでも、じっとしてられないんだよな」

「……」

「何かしてないと、不安が消えないんだろ」

 

 そう、私は消太のためにといいつつ、実は自分のために働いていた。分かってなお、残酷だ。いつか大切な人が居なくなる不安を抱えて、家で大人しく待つだけなんて到底耐えられない。社会の歯車として組み込まれていなければ、不安に押し負けてきっと夜も眠れない。もしも消太が居なくなっても、私は残された世界を生きていかなければならないから。

 

「すまん。その不安だけは拭ってやれない」

 

 うん、それも分かってる。だから先の見えない暗闇で、私はずっと踠いてる。踠いて、足掻いて、それでも私は──。

 

「拭ってやれないし、ずっと傍にいることもできない。……でも」

 

 そう、それでも。

 

「俺を選んで欲しい。これからもずっと」 

 

 私は、あなたを選ぶ。

 

 濡れたままの目元を手で擦った。やんわりと止められて見上げると、怯えた顔の中に少しのやわらかさを見つけた。もしかしたら消太も、私と同じような影の中に長いこと居たのかもしれない。私に先行きの見えない不安を押し付けることの、畏れの中に、彼も。

 

「……うどん、食べたいな」

「ああ。温め直そうか」

「……うん」

 

 もう少し、今日は甘えていよう。明日からまた、あなたを選び続けるために。

 

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