マッド・クリスマスナイト

「私、この後、お見合いなんだよね」

 

 ワンパターンの毎日にやってきた特異な予定に、心が踊らなかったといえば嘘になる。

 先日、相変わらず頭の可笑しな母からのメールに、「【重要】お見合いの日程が決まりました」とあって笑ってしまった。

 腹が立つなんてレベルはとうの昔に通り過ぎ、曲がりくねった道を私なりの感性で歩んできた結果、やはり母は頭が可笑しいという結論に辿り着いている。

 

 隣に座る男が口に含んだブラックコーヒーをブフッと見事な霧状に吹き出して、モニターが美しい水玉模様に変わってしまったけど、私は良心の呵責に苛まれなかった。

 

「ギャグみたいなことするね、相澤」

「ゴホッ……お前のせいだろ」

 

 同僚が吹き出すほどのネタになったなら、なにより。この後の退屈な時間も報われるというもの。

 デスク上のボックスからガサガサと引き抜いたティッシュを渡すと、相澤はがしりと受け取ってモニターのコーヒーを雑に拭き取った。いや、まずは口元拭こうよ相澤、と脳内でツッコむ。

 

「ワーオ、メリークリスマスなこの夜にかァ?」

「ウケるでしょ。うちの親〝あたおか〟なんだ」

 

 クッと喉で笑うと、山田も隣でクククと喉を鳴らせた。聖なる夜に大人しく残業してるあたり、どうやら今年は、なにかとお騒がせマンの山田にも予定はないらしい。

 

「ちなみに今日で五回目なんだけどさ」

「ゲホッ!」

「ちょっと相澤。もう吹かないでよ、ティッシュなくなる」

「……吹いてない」

 

 苛立つ相澤は私のデスクから勝手にティッシュをスカスカぶん取り、勝手に口を拭い始めた。三白眼が「お前のせいだぞ」と語っていて、私は思わずくすりと笑ってしまう。

 

「結果は変わらないのにやり方だけ変えてくる朝三暮四のやり手なんだ、うちの母親は」

「へ~、そりゃ見合い相手の話か?」

「そ。最初の人は、全方位偏見武装の童貞銀行マンでしょ。次はボンボンの無職マザコンで──」

「ちょっと待て、なんで童貞なんてわかんだ」

「人の話は最後まで聞こうよ、相澤。顔と挙動でわかんでしょ、そんなの」

「……俺ァ、お前がイイトコの嬢ちゃんってことが未だに信じらんねェわマジで」

「うるさい山田。業務増やすよ」

「それ、ただの押し付けだろォ……?」

 

 はぁ、と三人分のため息が折り重なった。

 冬の夜の訪れは早いもので、まだ七時だというのに窓の外はとうに暗い。この学校が高台に立つせいもあって、近場の景色は真っ暗だ。

 それでも街中に出れば、きっと今夜は明るいだろう。中心街の巨大なクリスマスツリーの前では聖夜の恋人たちが待ち合わせ、美食のフルコースを前にグラスを傾けた後、そっと夜の街へと消えていく。

 しかし、現実でそれを実行するにはなかなかにミッションインポッシブルで、年の瀬は教員職に限らず誰でも多忙を極める時期だ。ヒーローだって街中のイベントに乗じたいざこざに駆り出されてしまう。

 この超ド級に忙しいタイミング、しかもクリスマスに、お見合いなんてできるのは、仕事してない奴か、社会から戦力外通告された奴に決まってる。

 そのくせ見合い相手はいつも傲慢な男ばかりで、自己顕示欲の塊だ。私は、そんなプライドばかり高い男じゃなくて──。

 

「血と汗と涙で出来た、しごでき男」

「が、良いワケ?」

「……とロミジュリみたいな恋したい」

「ワーオ、急に乙女じゃん!」

「おい死んでんじゃねぇか、それ」

 

 また山田がクククと笑った。今の笑いは気に食わなかった。

  

 相澤と山田は同い年ってこともあって、よくこうやって三人で戯れている。

 私は雄英出身ではないから知り合ったのはここに赴任してからだけど、凸凹がはまったような居心地の良さには驚いた。仕事終わりには三人で飲みに行くことも多い。二人は学生時代からの仲というから、さすがの睦まじさで(というか腐れ縁で)まっこと仲がよろしいけれど、それがほぼ山田の一方通行なところが私の勝手な一推しポイントだったりする。

 

「あ~、アルコールでのたうち回りたい」

「見合いなら酒飲めンだろー?」

「それもそっか」

「オイ、今日は連れ帰る奴いねぇだろうが」

「じゃあ山田か相澤、迎えに来てよ」

「ノーセンキュー!」

「……」

 

 黙り込んでしまった相澤を横目に流して、ああ、こりゃガチ目に引いてんなと悟っても今日の私はそこまでヘコたれない。なぜかって。

 

「たまには味見しようかな~、なんて」

 

 あ、完全に引かれたな──。

 四つの丸い目が両サイドから抉るようにこちらを見て、私はスイッチを切り替えたようにキーボードの手を動かし始めた。あと数行で報告書を完成させて、とりあえず今日はお暇せねば。約束の時間に間に合わない。

〝あたおか〟な母の用意した席とはいえ、従順に赴くあたりが親子の歪な関係をよく表している。

 

「味見って……」

「はっはーん! わりかしタイプだったんだろー Don’t you?」

「まあ、顔だけはね」

 

 本当に、たぶん、顔だけだ。中身はどうせ今までの奴らと変わりないはず。

 それでもここ二、三年は恋人をつくってないので、たまには味見くらい良いかなと思い直したのだ。だってクリスマスだし。しかもそういう前提で提案される男なわけだし。当たり前だけど、女にだって性欲はある。

 

「そもそもさ、どんな顔がタイプなワケ?」

「うーん……タイプかぁ」

 

 山田のさりげないリサーチに、私は言葉を使って上手く答えることができなかった。強いて言うなれば、仕事ができそうな男、の顔が好きだ。人生に紆余曲折があって、数多の苦難を乗り越えてきたんだろうなと側から見て実感できるくらいの──。

 

「苦労してそうな顔、かな」

「ふーん」

「……どんな顔だ、それ」

 

 戯れのような会話を終え、スパンと強制終了させたパソコンが暗くなる。真っ黒な画面に映った自分の顔が思った以上に淀んでて、ああ、ネタにしたところでやっぱり行きたくはないんだね、と他人事のように嗤った。

 

「じゃあ、行くわ。仕事納めの日はまた三人で飲みに行こ」

「おー、達者でなァ~。Merry Christmas, 素敵な夜を」

「……」

「メリクリ。おつかれ~」

  

 私は帰り際に更衣室でフォーマルなドレスに着替えて、雄英を後にした。

 


 

 校門前に停められた黒のセダン。

 ナンバーを確認して乗り込めば、見知った顔がバックミラー越しに私を見る。ひどく安堵した中に、申し訳なさを織り交ぜて。

 

「久方ぶりです、お嬢様」

「うん、爺やも元気そうで何より」

「……本日、ご予定はございませんでしたか」

「あっても行かなきゃでしょ、どうせ」

「申し訳ございません」

「爺やが謝ることじゃないもの、いいから出して」

「かしこまりました」

 

 この車に乗り込むと、若かりし頃の記憶が蘇ってくる。従順だった頃の、痛ましげな私がここにいる。

 ヒーローを目指してからはだいぶ薄れた〝繋がれている〟という感覚が、真水に黒の絵の具を混ぜるかの如くゆらゆらと呼び覚まされて、息がつまった。家を出ても、ヒーローになっても、やっぱり私はまだ、ここに繋がれているのか。

 

 しばらくして、急に目と耳が賑やかしくなった。気づけば、車はもう大通りに出ている。あ、もうすぐ──。

 

「もうすぐ左手にツリーが見えますよ、お嬢様」

「……もう子供じゃないよ」

 

 一瞬見えたクリスマスツリーの前には、やはり多くの人だかりができていた。

 私もいつかあの中に混ざる日が来るのかな。なんて考えていた幼い私は、もう、いい大人になってしまった。

 誰かを愛し、愛されて、そんな相手といつか、あのツリーを──。

 単純でされど霞を掴むような淡い願いが、胸をくすぶる。澱みのような鎖を断ち切ってくれる王子様を、私はもう、長いこと待っているというのに。

 

「本日のお相手はご覧になりましたか?」

「ええ」

「奥様からは一言、〝粗相はないように〟と」

「それって前々回の、お酒かけちゃった話してる?」

「ええ、おそらく」

 

 爺やはおだやかに笑った。私もまた、おだやかに笑った。

 

「今日の人さ」

「ええ」

「もし、感じのいい人だったら……結婚してもいいかなって思ってるんだ」

 

 彼が驚いた顔に変わったのが、ミラーを通さずとも分かった。

 

「ご心境に、変化でも?」

「んーや、ただ……」

 

 ただ、なんだろうか。続きが、自分でもわからない。

 

 今日の相手はそこそこ大きなサポート会社の御曹司だ。若い頃から事業の一端を任されてきて、落ち込んでいた事業部の業績を回復させた、やり手らしい。

 仕事ができる男。顔も、悪くない。正しく苦労を積んでそうな宣材写真だった。

 私も、もうすぐ二十代が終わる。

 資産家令嬢としてはかなり行き遅れている方だろう。ただ、行き遅れた分を無駄にしたわけじゃない。ずっと憧れだったヒーローにもなれたし、運良く雄英の教師として働けている。

 だから、もし相手が、この仕事を続けさせてくれるというなら──。

 

「って、現実は甘くないか」

「何かおっしゃいました?」

「いえ、なんでも」

 

 ポワソンを流れ作業のように口に運びながら、合間に白ワインを流し込む。眼下に望む街並みは、自分も住んでいるはずなのに、今夜は別世界みたいだ。

 

 今日の見合い相手は、確かに今までの男とは違った。手柄をひけらかさないし、もし結婚しても私のキャリアを中断しなくていいとも言ってくれている。おそらく、ダントツに当たりくじだろう。

 でもそれは、彼のふしぎな一言からゆっくりと瓦解し始める。

 

「今、お付き合いしている人がいます」

「……へ?」

 

 まあ、総括すれば「ビジネスの結婚をしましょう」ということだった。僕はヒーローとしての君の知名度が欲しいだけだから、隠れて他の男と恋愛を楽しんでくれて構わない、僕もそうするつもりでいる、といった内容を言葉巧みに湾曲して告げられた。

 

「恋愛と結婚は切り離して考えるべきだと思うんです」

「そう、ですかね……」

「その方が合理的でベネフィットも多い」

 

 男は理路整然としていた。温かみを感じない張り付いた笑みは、完璧な営業スマイルだ。

 ああ、なるほど。こういうパターンもあるのか。今日、私は、仮に結婚しても相手が必ずしも好きになる努力をしてくれるわけではない、という新しい発見を得た。

 冷え切ったテーブルに次の皿が運ばれてくる。口直しのソルベだった。

 この後に肉料理も残っているのかと思うと先が思いやられる。大して食べてないのに胸焼けがした。

 

 頭ではわかってる。この男が、母から紹介される見合い相手の中で、おそらく最良の相手なのだと。

 今し方、男が口にした条件は、きっと母が折れた部分なんだろう。自由奔放な娘にゆとりを与えて、でもその代わりお前はしっかり役目を果たせ、と。

 そうして、差し向けたのだ。私が無闇に家族の鎖を断ち切らず、自分自身も好き勝手やれて、皆もハッピーで、〝一族〟の将来を確立する上での適任者として、この男を。

 でも、でもさ──。

 

 愛は、ないんでしょう?

 

 喉につっかえた言葉を飲み込んで、ガラス張りの外を眺める。夜景に混じって幼い私が泣いている気がした。ごめんね、王子様はやっぱりいないみたいだ。私はゆっくりと目を閉じて、その子に言い聞かせる。

 

「恋愛は不確かなものですよね。僕は自分の人生をそこに委ねる気はない」

 

 男は続けた。

 

「恋愛はドキドキや楽しさを味わうもので、ただ、もし責任をとるなら〝責任を取っても構わない相手〟を、僕は選びたい。そういう意味で、この結婚は互いの望むものを得られるはずです」

 

 恋愛と結婚は切り離して考えるべき、か。

 なるほど。納得はできないが理解はできる。今までの男は理解も納得もできなかったから。つまり、ここが私の人生の妥協点なのかもしれない。

 正直なところ、この胸に湧いた違和感に目を瞑ることで、他が万事うまくいくと思えば、それはそれでホッとする気持ちもある。私の自由は、孝行心との二律背反であるから。

 もう、その諦めに身を委ねてもいいんじゃない?

 結ばれていると信じてやまなかった愛と結婚は、私の世界では対極に位置したまま動かない。思い描いていたしあわせな結婚は、きっと、限られた人の特権なんだろう。

 ならば、潮時か。

 私は両者を断ち切ろうとハサミに手を掛け、大きく息を呑んだ。

 

「ちょっといいですか」

 

 思考を遮ったのは、低く這い寄る潮騒ような声だった。

 


 

 そこに立つ男を目にして、私は言葉を失った。

 全身を黒のスーツでめかし込んだ男は、後ろで髪をハーフアップに束ねていて、いつもの髭面はどこへやら。さっぱりした顔は、絶対にありえないのに、でも驚くほど聖夜に馴染んでいる──相澤だった。

 いや、どんなメタモルフォーゼよ。

 固まっていると、奥で真っ赤な影がちらつく。自然と目を移した先には、見事にドレスアップした香山さんが立っていた。胸元が大胆に開いた艶やかな姿に、思わず釘付けになる。

 

「え……?」

 

 もしかして、二人はできてたの?

 今までまったく、微塵も気づかなかった──。

 

 って、そんなワケないか。さっきまで相澤は横で疎ましそうに残業してたし。

 じゃあ一体、どういうこと? もしかして緊急の潜入任務でも入ったんだろうか、だとしたら。

 瞬時に判断した頭は周りのテーブルに視線を移す。もしかしたら近くに標的が座っているのかもしれない。この格好だと、戦闘は少し困難か。

 

「うちの連れが、あなたを気に入ったようでして」

「「……はい?」」

 

 男と私の声が重なってハーモニーを奏でた。えーと、つまり、要約すると、香山さんが私の見合い相手の男を気に入ったと、相澤はそう言っているらしい。……は?

 

「ね~え、あなたのこと気に入っちゃった♡ ちょっとだけ話せない?」

「いや、僕は……」

 

 引き抜かれるように立たされた私の見合い相手は、もたつく足で香山さんに引きづられていく。

 開いた口が塞がらない。少し離れた場所で、香山さんが男の首に巻きつき、上目遣いに絡んでいるのが見えた。壁際に追い込まれた男の股には、スリットから出たおみ足が差し込まれている。あの距離で、あれだと、まあなんとも、凄まじい威力だろう。

 

「えーっと、どういう状況?」

「……お前、あんなのが好みだったのか」

「は? え、待って。任務じゃないの?」

「ンなわけないだろ」

「え、じゃあ何してるの、あの人」

 

 指を刺した先で、二人はもうこちらに戻ってきていた。いや、話をつけるのが早すぎない? 男はほんのり顔を染めて、なのに意図的に私から目を逸らしている。まるでやましい気持ちでもあるみたいに。嫌な予感がする。

 香山さんが「はぁい、キティちゃん」と怪しげな笑みを私に投げた。嫌な予感が、加速する。

 

「じゃあ、取り替えっこしましょうか」

「と、とりかえっこ?」

 

 ウインクをかました香山さんが、今度は呆然と座る私の腕を引き上げる。よろけながら立ち上がれば、彼女はそそくさと空いた席に座って私のクラッチバッグを投げた。

 

「私たち、意気投合しちゃって~」

「は、はあ」

「今夜は楽しみたいから、アンタたちもよしなに」

「どうも香山さん。じゃあ、そういうことで」

「は⁉︎」

 

 え、どういうこと? 香山さんが見合いするってこと⁈

 

「行くぞ」

「え、え、なに」

 

 ふわっと、手を掠め取られた。

 突然のことにどきりとして、言葉が飲み込まれる。そうして、私はまんまと相澤に拐われてしまった。

 

 店を出る直前、振り返った先で香山さんはこちらに手を振っていた。私たちを至極楽しげに眺めて、その口が「おめでとう」と言った気がしたが、読唇術は持ち合わせてないので真相はわからない。

 

「本当に、任務、とかじゃないんだよね?」

「ああ」

「大丈夫かな、香山さん」

「どうせ飯だけ食って、眠らせてとんずらだろ」

「えーっと、それって犯罪にならない?」

「まあ、緊急事態だからな」

 

 緊急事態って……。

 

「ねえ……なんで、来てくれたの」

「迎えに来いって言ってただろ」

「いや、そう、じゃなくて」

 

 確かに言ったけども。

 ああ、本当に迎えにきてくれたのね、で済ませられる話じゃない。

 これって、もしかして。

 いや、もしかしなくても、期待していい状況、なのかな……。

 相澤ってところが想定の斜め上だけど。でもあの合理主義で無駄なことに一切時間をかけない相澤が、私用で、スーツまで着て、助っ人まで連れて、人のお見合いの席に割って入ってまで、って考えたら──。

 バクバクと音を立てる心臓が一向に鳴り止まない。これが淡い期待からくるものなのか、物理的接触からくるものか。だって、さっきからずっと、手が握られたまま、だから。なんで。

 

 エレベーターの扉が開くと同時に中に押し込まれて、大きな箱の隅っこに追いやられた。高鳴る心臓から、さらに警告のような爆音が鳴り始める。目の前に迫る顔に、じくじくと膿むような予感が膨らんでいく。あれ、相澤ってこんなに精悍な顔してたんだっけ。

 

「お前は家に囚われすぎだ」

「そんなこと、ないよ」

「受けようとしてただろ、縁談」

「それは……」

「ああいうのが嫌で、実家を出たんじゃなかったのか」

「そうだけど……でも」

「じゃあ、見合い以外で男を探す気はあるか」

「え?」

「〝ロミジュリ〟は無理だが……まあ、要望はなるべく叶えるよ」

「え、なんの話?」

「……だから、苦労してそうな顔してるだろ」

「誰が……?」

「俺が」

「え、あ、あ、相澤が?」

 

 ねえ、私、今、口説かれてる?

 同僚からの容赦ない猛攻にたじろいで、後ずさろうにも後ろはない。攫われたままの手が、さらにぎゅっと握られて心の逃げ場もない。

 

「どうなんだ」

「ど、どうなんだって、そんな急に言われても……」

 

 チンと無機質な音を立ててエレベーターの扉が開いた。

 

「くそ」

「っ」

 

 ふう。酸素がたりない。顔が熱い。

 

 扉の先は駐車場フロアだった。スタスタと前を歩く相澤を、手を引かれながら高いヒールで必死に追いかける。と、そこには山田の車が止まっていた。

 

「ヘーイ! 聖なる夜にプレゼントマイク様が華麗に登場ってな!」

 

 馬鹿でかい声がサイドウィンドウから放たれる。駐車場に響き渡った山田の叫びに耳がキーンとなった瞬間、握られていた手がパッと離された。突然放たれた冬の冷たさに、すこしの心細さが残る。

 

「……山田も、来てたんだ」

「死んでも行くって聞かなかったんだよ、くそ」

「アレレ~? なんだよ、もうお熱かァ?」

 

 突然の揶揄いにボンッと顔の温度が増して、思わずそっぽを向いた。

 

「ちゃんと攫ってきたみてぇだなァ、消太くんよ~」

「……るせえ」

 

 近くにお馴染みのセダンが停まっている。

 

「あ……」

 

 思わず体が強張る。ゆっくりと様子を伺うように降りてきた爺やに、掛ける言葉を探した。

 

「お嬢様……なにか、あったのですか?」

「爺や……」

 

 マズい。どうしよう。

 心配そうに眉を寄せた彼に、なんて返したらいいのか分からない。

 私は爺やを困らせたくない心と、どう説明しても困らせてしまう状況の中で立ち尽くした。それに、もし実家に連絡でもされたら、いろいろと黙認してきた母も今度こそは牙を剥くかもしれない。勝手に見合いの段取りを進めてしまう強引さを持ち合わせた母だ。嫌な想定なんていくらでもできる。

 うまく、伝えなければ、ここで。開いては閉じる口で、なんとか、どうにか。上手に立ち回らないと。

 

 ふと、手にぬくもりが戻った。

 掴まれた手は、力強く、告げている。鎖を、今ここで断ち切れと。見上げた先の彼は事態を静観し、されど逃さないという気概の籠った目をしていた。

 その視線が絡んだ瞬間、私は、言葉にできない衝動に弾き出された。

 

「爺や……ごめん」

 

 ごめんなさい。

 

「……私、この人と、クリスマスツリーを、見に行きたいの」

 

 脳天を突き抜けるような恥ずかしさで、震える声に涙まで滲んでくる。困らせるかもしれない。そんなことで、と笑われるかもしれない。

 けど、もう自分に嘘なんてつけないよ──。

 たとえ私の勘違いでも、この手が一夜限りの優しさでも、私は、今夜、この人の手を取って、あのクリスマスツリーを見に行きたい。強く、そう思った。

  

「……はい、仰せのままに。御仁も、こちらへ」

「え……」

「いいんですか」

「もちろんです。お嬢様の頼みですから」

 

 爺やはゆっくりとセダンに戻っていく。そして今日一番の顔でほほえみながら、後部座席の扉を開けてくれた。

 

「Happy Merry Christmas & Congratulations !!!」

 

 この夜もっとも大きな祝いの言葉が、無機質な駐車場に響き渡った。

 


  

「香山さんに悪いことしちゃった。今日は先に帰ってたのに」

「山田が応援呼んだら飛んできたんだよ、あの人」

「応援って、そんなヴィラン退治みたいに……」

 

 彼の手は、もう何にも憚ることなく、私の右手に繋がれている。

 

「爺や、ごめん。これってお酒かけるより粗相だよね……」

「……お前、酒かけたのか」

「ええ。でもたまには、それもよろしいかと」

 

 彼は私を送り届けた時と同じ顔で、おだやかに微笑んだ。その中に、たっぷりの嬉しさを滲ませて。

 

 車が大通りの端に停まる。相澤のエスコートで街に降り立つと、爺やは「お嬢様、素敵な夜を」と言い残して、去っていった。

 

「行こうか」

「……うん」

 

 側までくると、それは想像よりもずっと大きかった。

 私たちの目の前には、身長の何倍も大きなクリスマスツリーが悠然と立っている。赤と白と緑だけじゃない、七色のイルミネーションが燦々と輝いて、聖なる夜を照らしていた。

 どこからか漂うホットワインの香りが、聴こえてくるクリスマスソングが、いともたやすく私を北欧の街に飛ばしてしまう。ここには無いはずの雪さえも、羽のように心に舞い落ちる。

 数多のオーナメントの中で、ひときわ大きく胸を張って私たちを迎えている星があった。シンボルのようなあの一番星が、いつか祈るように見たあの頃よりも、ずっと手が届きそうな気がしてならない。

 

「きれい……」

 

 笑顔がそこかしこにあふれていた。愛を携えた人たちが、ツリーの光をその眼に宿している。重なり合う光と光の中に、しあわせが満ち満ちている。

 私も、来れた。

 彼の熱で溶け出しそうな手の中にも、もしかしたら小さなしあわせが握られているのかもしれない。そんな甘い予感を連れて。

 

「相澤。ありがとう、連れ出してくれて」

「少しは目が覚めたか」

「うん。私の人生だもん、妥協は良くないよね」

「わかったならいい」

 

 ふっと息をもらすように、彼が笑った。相澤の黒水晶のような瞳の中にも、今夜は七色の光が楽しげに踊っている。

 

「ねえ……ちょっとは、期待してもいい?」

「ちょっとでいいのか」

「え?」

「味見、していくだろ」

「あじみ……って、え!」

 

 いつもと違ってアヴァンギャルドな彼は、颯爽と現れて、今夜、ものの見事に見合いの席を踏み荒らした。王子様のごとく私を連れ去って、この後しっかりとワンナイトまで決めたのだから、きっと後にも先にもこんなにエキサイティングな夜は来ない。

 

 翌朝、ベッドのシーツに包まって「金輪際、見合いはするな」と言われた頃には、もうすっかり彼の虜になってしまっていた。

 頭の中でシャンシャンとベルが鳴って、胸の内では幼い私がときめきのドアをどんどんと叩いている。私の王子様に会わせろと、小さな拳を振り上げながら。

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