相澤先生は、わたしを愛してくれない
お読みいただく上での留意点
● 相澤消太・死柄木弔(志村転弧)がお相手の夢小説です
● AFOが死柄木弔(志村転弧)と出逢わなかった世界線です
● 設定に捏造あり
● 最後はハッピーエンドです
● 一部、R-18です
● 暴力・嘔吐の表現があります
嗜好に合う方のみ、どうぞ。
「せんせ……ごめんなさい」
「大丈夫だ。気にするな」
「ゲホッ……」
「とりあえず水持ってくる。待ってろ」
はい、と返事をしたいのに痰が絡んで上手く言葉にならなかった。
冬休みに入り、実家へと帰省していったクラスメイトたちに取り残されるように、わたしは寮の自室で床に伏している。
相澤先生はパトロールやら警備やらで出動要請が来ていたはずなのに、この忙しい年末、寮の当直係に任じられたらしい。それもこれも受け持ちクラスの生徒であるわたしが、一人この学校に残ってしまったせいだ。
両親の仕事の都合がつかず、アメリカから戻ってこれないと連絡を受けたのは、冬休みに入る直前だった。空気のように身についた我が家の常識にはもう慣れたもので、海の向こうで研究に勤しむ父と母にならい、わたしは幼い頃からおそらく年不相応に自立している。
──冷たい親だねぇ。
親戚から同情されたこともあったけど、わたしは嘘偽りなく、心の底から父と母を尊敬している。世のため人のためと心血を注ぐ姿はヒーローにも勝る格好良さがあった。
──だからね、わたし、お父さんもお母さんも、いっぱいすき。
中学に上がったわたしは、両親のためにも早く自立したい思い半分、独りの夜を画面の向こうから支えてくれたオールマイトへの憧れ半分で、流れる水の如くヒーローになる道を選んだ。
雄英高校で迎える初めての冬。
広々としたハイツアライアンスでの、一人きりの年越し。
とは言え、わたしももう立派な高校生だ。寂しくはないし、自主練に励めるならむしろ良かったなんて気楽に考えていたのに。
一つだけ白状すると、みんなが帰省していった日から少しだけ喉の痛みが気になっていた。それが節々の痛みへと変わったのは、昨夜のこと。数時間後には体がガクガクと震え始め、まさかと気付いた頃にはしっかり発熱していた。体温計は微熱とは言い難い温度を示している。
どうしよう。
いや、どうしようもこうしようもないよ。今までだって一人で全部やりくりしてきたじゃない。こういう時は横になって水分をとって、いつもの置き薬を飲んで──そこで、ハッとした。
ああ、そうだ。入寮してから風邪をひいてなかったせいで、この部屋には置き薬もなければ冷却シートもない。実家に常備されてた氷枕も、レトルトのおかゆも、なにもない。
マズい──。
暗澹たる空気が肌を掠めた。
いやいや、こんなことで弱音を吐いてどうする。風邪くらいなんだ。気合いで治そう。そう意気込んでわたしはベッドへと潜り込んだ。
寒い。うまく眠れない。外はもうすっかり暗いというのに。
ガタガタと吹き荒ぶ風がやけに恐ろしく感じるのも、窓の外の暗闇に引き摺り込まれそうな気がするのも、きっと全部風邪のせい。大丈夫、大丈夫。
こんな年越しも、あるんだなぁ。
毎年この時期になると、両親は必ず日本に帰ってきてくれていた。でも今年はきっと、それがままならないほどなんだろう。本当はお父さんとお母さんだって、わたしに会いたいに決まってる。大丈夫、大丈夫。
それになかなか会えないからこそ、将来は立派なヒーローになるって決めたじゃないか。二人が世界中のどこに居たってわたしの活躍が伝わるような、そんなビッグな存在に。そうしてお父さんとお母さんを早く安心させてあげよう。大丈夫、大丈夫。
大丈夫、だいじょうぶ……。
──コンコン
「──、部屋にいるか」
「ぁ……」
暗くじめついた部屋に、相澤先生は軽快な音と共にやってきた。胸の内に焦燥と安堵が渦巻く。
「すまん、余計な世話かもしれんが──」
教師寮で開かれる忘年会にお前も参加しないか、と先生はおだやかな声で語り始めた。
教師たちの多くは出払っていて、マイクもラジオの年越しライブで不在だから、ほんの数人での簡単な会だが、女性教師もいるから安心しろ。もちろん無理にとは言わんが──。
言葉の節々に先生らしい気遣いを感じる。扉の向こうから、いつもより覇気の少ない声が、暗がりのわたしを誘っている。先生の声ってなんだか落ち着くなぁ。思わず一人じゃない温かさに浸りそうになって、危うく閉じかけた瞼を開いた。
「おい、聞いてるか」
そんな嬉しいお誘い、普段のわたしなら飛びついてでも参加しただろう。けれど今夜ばかりは断らなくては。こんな醜態を晒すわけにはいかない。
しかし返事をしようと吸い込んだ息は、悔しくも咳に変わってしまった。
「ゲホッ、ゴホッ」
「……おい」
様子がおかしい、たぶん先生はそう感じたんだろう。「すまん、入るぞ」と半ば強引に扉を開けられたらもう逃げ場なんてない。そこにはハァハァと熱い呼吸を漏らしながら、寂しさに溺れたわたしが力なく横たわっているだけだ。
そうして、今に至る。
「ったく……」
一階からペットボトルを持ってきてくれた先生が、廊下の光と共に視界に差し込んだ。冥冥とした部屋。布団に包まるわたしを一目見て、先生はすべてを察したらしい。とうとう見つかってしまった。
「いつからだ」
「今日、あさ、からです……」
蛍光灯の眩さに当てられて、暴かれるほどに申し訳なさが加速した。湛えていた涙が、横向きの重力に負けてほろりと流れ落ちる。
いつも迷惑かけてばかりなのに、こんなの比じゃない。年末、それも今日で一年が終わるというその日に、先生は寮に残るわたしを気遣ってくれたというのに。なのに、わたしはこんな有様で──。
「……なにも、泣くことじゃないだろう」
「ごめ、なさい……」
風邪をひいて、体のコントロールがおかしくなっているのかもしれない。一度落とした涙は坂を駆け降りるように、ポタポタと枕へ流れていった。ベッドの前にしゃがみ込んだ先生から隠れて、布団の中へと顔を埋める。涙を枕に擦りつけた。
「ほら、水飲みなさい」
「……」
最初に白状しておくと、わたしは相澤先生のことが好きだ。
頼りになる担任としてでも、尊敬するヒーローとしてでもない。一人の、男の人として。
この感情には未だに自分でも戸惑っている。なんで寄りにもよって〝先生〟なのかと。どうせ親代わりを探すような淡い恋なんでしょ。憧れが少し道を逸れてしまっただけでしょ。そう、何度も自分に言い聞かせたけど、ダメだった。
もちろん先生とどうなりたいとか思ってない。何かアクションを起こすつもりも毛頭ない。
〝悪いが俺は、お前のこと生徒としか見てないよ〟
言われたこともない台詞が頭の中を駆け巡って、胸にきゅっと痛みを残す。足蹴にされて終わる恋なんて、はなから無かったことにするのが一番だ。
ただ、好き。
先生が、すき。それだけ。
「ごめ、なさ……ゴボッ……わたしの、せいで……」
「わかったから、顔出せ」
先生は掛け布団をゆっくり剥いで、弱り切ったわたしの額に触れた。涙でぐちゃぐちゃの顔が先生の前に晒される。
「かなり熱いな」
「ぅ……」
「とりあえずここに居られちゃ面倒もみれん。すまんが教師寮の仮眠室に連れていくぞ。何か薬は飲んだか?」
小さく首を横に振る。
「そうか。たしかあっちに置き薬があったはずだ。今夜はばあさんも不在だからそれでしばらく様子をみる。起きれるか?」
「……はい」
パジャマ姿を見られるのも恥ずかしいのに、寝苦しいからってブラジャーも外してしまった今の姿は、とてもじゃないが先生の前に出られる格好じゃない。もこもこの厚手生地さえも、今日は心許ない。
先生はラックにかかった一番温かそうなダウンコートを取ってわたしの肩にかけた。もぞもぞと隠れるように着込むわたしに「恥ずかしがってる場合じゃないだろ」と一蹴してしまうところが、相澤先生らしくてちょっぴり悲しい。
「ほら」
そう言って目の前に広がる大きな背中。捕縛布を脇に抱えて、チラリとこちらを一瞥した顔がくいくいとわたしを急かしている。
「……あ、歩けますっ」
「さっさとしろ。時間の無駄だ」
朦朧とする頭に片恋からの警戒心が募ったが、火照った体は目の前へと差し出された誘惑に為す術もなかった。意を決して、先生の背中にしがみつく。わたしはゆっくりと、瓦解する牙城を眺めるように、重たい目を閉じた。
教師寮への道を、ゆらゆらと先生のおんぶに揺られる。
脇に差した捕縛布の先、たくましい腕がわたしの足へと伸びていた。一生触れてもらえることのない場所。そこが先生の腕と触れ合っている。
ごくりと唾を飲み込んで、ぎゅっと目の前の首筋に頭を埋めた。鼻をすんと鳴らせても、今のわたしならなにかを疑われることもない。
あ、先生のにおい──。
柔軟剤でもコロンでもない、馥郁とした先生の香り。男の人、って強く感じるのは、この人に想いを寄せているからだろうか。のぼせた頭がしっとりと酔いしれていく。冷たい首に控えめに擦り寄せた頬が、その接点から火花を散らすんじゃないかと思えるほどに熱を放った。
あつくて、熱くて、心地いい。
「熱、かなり高いな」
「せんせ、冷た……きもちぃ……」
「……」
「せんせ……あったかい……」
「おい、どっちだよ」
好きな人の背中は夢のような心地よさで、沈み込むように眠りへと落ちていった。
先生が、白い靄の中に立っている。
「いつも、よく頑張ってるな」
「ありがとうございます」
「俺はお前を誇りに思うよ」
「うれしいです……先生」
カラカラに乾いた口が、潤いを求めて口を結んだ。先生はわたしの意図を察したかのように、黙ってこちらを見つめている。こんなときなのに、頭を撫でてほしいなんて考えてしまう。
「先生……わたし……先生のこと、あの」
「……なんだ」
「先生のことが──」
声が音にならない。なんでだろう。おかしいな。
そういえば、汗でぐっしょりと体が濡れている。緊張してこんなに汗をかいてしまったのかな。
きれいなわたしで、伝えたいのに。
苦しい、喉が、ぎゅってしまって。なんで。
先生、わたし──
「目が覚めたか」
「せんせ……」
教師寮の仮眠室とおもしきベッドの上で、わたしは目を覚ました。
「っ……ゲホッ」
「まだつらそうだな。できれは薬を飲ませたいが」
そんなことより、わたし変なことを口走らなかったですか、先生。
喉まで出かけた言葉を飲み込んで、体を起こそうと枕に手をやると、先生がやわくそれを制した。
寝る前よりも少し楽になった気がするのは、眠れたからかもしれない。それでもやはり、体には風邪特有の気だるさと節々の痛みがひしめいている。
「お前、今日飯はどうしてた」
「なにも……まだ」
「ばあさんに電話で聞いたが、何か口にしてからの方がいいそうだ。吐き気がないなら、なおさら」
幸い、吐き気はないと思う。頭ばかりがぽやぽやして、はっきりとはわからないけれど。
「なんか食えそうか」
「でも、この時間じゃ」
「粥くらい作れるよ。薬も飲まなきゃだろ」
「いいですっ……そんな、迷惑まで……」
「じゃあ、おれも腹減ったから隣でなにか食うよ。だから一緒にどうだ」
「……はい」
頭にぽんと軽い重みが増して、なのに高い位置から「少し待ってろ」と声が降り注いだ。バタンと、扉の閉まる音がする。
ゆっくりと、部屋を見まわした。
先生は仮眠室と言っていたが、ベッドの近くにはデスクがあって、その上にはノートパソコンが開かれている。明かりがついた画面。どうやら先生はついさっきまで仕事をしていたらしい。
ここは教員寮の二階だろうか。下の階からはずいぶん楽しげな、がやがやとした声が漏れている。もしかしたら先生が誘ってくれた忘年会が開かれているのかもしれない。ちょっとー、テキーラまだぁ──? たまに聞き取れるミッドナイト先生の甲高い声が、わたしの胸にも小さな花を咲かせた。
人の声、あったかい──。
目を閉じているのにわたしは一人じゃないと思える安心感が、熱を宿した頭にもじんわりと染み込んだ。
でも相澤先生はきっと、あの会に参加することなくここでわたしを看てくれていたんだろう。自室にいた時にはなかった氷枕も、おでこに貼られた冷却シートも、なぜか足元に差し込まれた湯たんぽらしきものも。もうすぐやってくる、お粥も。
ああ、好き。
掛け布団を頭まで被ると、さっきまでは気づかなかった違和感が鼻を掠めた。
あれ、これはさっき、先生に背負われていたときに嗅いだ香り。なんで仮眠室から先生のにおいがするんだろう。
はしたなく、すーっと胸いっぱいに吸い込めば、疑念が確信へと変わった──やっぱり、先生のにおいがする。
顔を出せば、そこは仮眠室にしてはおかしな点がいくつもあった。パソコンの横に置かれている積み上がった書類たち。デスク横のカラーボックスに詰められたいくつかの書籍。仮眠室には絶対にないはずの小さなクローゼットが、扉を閉じられてそこにある。
ここは、先生の部屋だ。
わたしは今、先生のベッドで寝てるんだ。
意識すれば意識するほど、掛けられた布団も、傍にある本棚も、積まれた書類も、見えない扉の奥に隠された先生の服たちも、すべてが愛おしく思えてくる。
先生、いっぱい、すき──。
現実では絶対に口にしない言葉を、されど口の中で幾度となく繰り返した言葉を、今日もまた唱える。そして、そっと胸に手を当てた。秘密にしなきゃいけない苦しさを、じくりと噛み締めるために。
──ガチャ
「できたぞ。起きれるか?」
「はいっ……ケホッ」
枕に手をついてのろのろと持ち上げた体の後ろに、そっと大きな手が差し込まれた。片手にお粥ののった盆を携えた先生が体を支えてくれる。あれ、と目をやるとそこにはわたしの分の食事しかなかった。一緒に食事をすると言ったのは、遠慮させないため嘘だったのか。どうやら、まんまと騙されてしまったらしい。
それから先生は、控えめにベッドの際に腰掛けて、膝にのせたお粥を掬ってふうふうと冷やし始めた。
「え……」
びっくりして、つい目を見開く。
「じ、自分で食べれますっ」
「いいから、ほら」
「ゲホッ……だって、こんなの……熱が、上がりそうです」
先生がふっと漏らすような笑みを浮かべて、子供の戯言を流すような目をした。口元へと運ばれた蓮華は、なぜか絶対に折れないぞという意思を放っている。
「ほら、早くしろ」
根負けして、小さく口を開けた。流し込まれたお粥は、ふんわりした卵とネギとお出汁の味がして、吸い込まれるように胃の中へと消えていく。朝から何も口にしてなかった体が、栄養を求めていた。
「おいしい……」
「そりゃなによりだ」
いつもゼリーばかり飲んでる先生が、こんなやさしいお粥を作れる人だったなんて。いい意味で知りたくなかったけれど、嚥下するごとにわたしの体にはしあわせが満ちていった。
「先生が、お粥を作ってくれたこと。わたし、一生忘れません」
「一生って、ずいぶんと大袈裟だな。……まあ、そうだな。いつかお前が立派なヒーローになった時、飯でも奢ってくれればいい」
「はい」
嬉しい、先生とのご飯の約束を取り付けた、と心のノートにメモを残す。いつか必ず実現させましょうね、先生。
その後、お粥をほぼ全て完食してお薬も飲んだわたしは、気持ちも体も安心させられて、ようやく靄が晴れた。ここまできてやっと、自分はお腹がすいてたんだと気づかされた。
さらに先生は、水も飲めとか、下が煩くて敵わんなとか、お小言をいくか添えて部屋の空気を明るくしてくれる。それがいつも教壇に立つ先生より随分と人情にあふれてて、わたしはこっそりと舞い上がった。
まるで〝わたし〟だから、そうしてくれているみたいで、勘違いしそうになる。
「ごちそうさまでした」
「ああ、ついでにそれ替えとくか」
熱くて少し乾いてしまった冷却シートを、突然ぺりっと剥がされて思わず目を瞑る。よく考えたら、この距離で、しかも今日一日汗でベタついた顔はきっと見れたものじゃない。
思わず下を向いた。肩から髪が流れ落ちる。
「ほら、上向け」
靄が晴れてしまった視界では、急に恥ずかしさが増して、なかなか先生の方を見れなかった。そもそもわたし、こんなに汗かいて先生のお布団濡らして、大丈夫だろうか。汗臭くないだろうか。後でお願いしたらシーツを洗わせてもらえるのかな。絶対に断られそうだけど。
そんなことを考えていた、一瞬の隙。
さらり。
落ちた髪を掬われて、耳へとかけられた──わたしは、え?と思う。少しささくれた大きな手が、間違いない、今わたしに触れた。
跳ねた心臓からドドドと血が流れ出して、大きな熱が顔に集まっていく。
先生の手は、なんと、そのままわたしの頬を撫でて、首へと降りてピタリと張りついた。
「っ!」
息が止まる。
「汗かいてるな。熱もまだ高いか」
「っ、ごめんなさい! ゲホッ」
「あ? ……ああ、すまん。嫌だったか」
「嫌じゃ、ないっ……けど、だって、」
心臓が、大きく跳ねた。
なんで、髪を耳に掛けたの。なんで、おでこじゃなくて首に触ったの。疑問符があちこちに飛んで、挙動不審になっていく。おでこのシートを退けたんだからおでこに触ればいいのに。じゃなくて、ほっぺた撫でた、よね? なんで? そんな、男の子が好きな女の子にするみたいな仕草じゃないですか。え、ってことはもしかして? ……いや、ないない。絶対ない。顔があつい。
けれども先生はヒートアップするわたしを他所に、きょとんと間の抜けた顔をしていた──その顔を見て、ああ、と思う。わたしの気持ちなんて、微塵も理解していない顔だった。
そりゃそうか。
おでこの代わりに首に触れたのなんて、冷静に考えれば脈を測りたかっただけだ。押し寄せる羞恥心が胸に槍を投げる。
でも、でも。
気安く女の子に触れるなんて、ひどい。あんまりだ。
舞い上がった分だけ、突き落とされた。
「……汗かいて、ごめんなさい」
「いや、すまん。言い方が悪かったか。着替えが必要かと──」
「こんな姿、相澤先生には見せたくなかったです」
「……そんな病人が気にすることじゃないだろ」
そうじゃないです、先生。
ぜんぜん違います。
「お前は本当に、なんというか……俺は迷惑だなんて思ってないよ。むしろ今年はお前のおかげで、年越しの間中、街を走り回らなくて済んだしな。むしろ感謝してるくらいだ。たまには人を頼ることも覚えろ。以前から思ってはいたが、お前は一人で背負い込みすぎるところがある」
そうじゃないよ、先生。
首に押された手形の焼き印が、熱い。痛くて、どうにかなりそう。
首がぐらりとした。いろんな感情がごちゃまぜになっていく。
愛しさ。苛立ち。切なさ。諦め。それらが全部ぐちゃぐちゃになって、わたしはもう半分無意識に、離れていった先生の手をとっていた。
「せんせ……」
その手を、自分の心臓に持っていく。
両手で鷲掴んだ先生の手を、自分の胸に押しつけて、抱き寄せた。ドクドクと早駆けの鼓動が、伝われ、伝われ、と叫んでいる。声に出せない悲鳴をあげている。少しは思い知ればいいと思う、あなたの鈍感さを。
「っ、おい……!」
引っ込められそうな手を、必死に掻き抱いた。
助けて、先生。
わたしを助けて、先生。
どうしたらいいのか分からないよ。
さみしい。胸が張り裂けそう。
どうにかしてよ、先生。
わたしを──
「……感心しないな」
降り注いだ声は、別人のように冷たかった。失望の色が混ざった声色に、一瞬呼吸が置いてけぼりなる。おそるおそる顔をあげると、拍子で涙が頬を伝った。眉が寄った先生の顔が、奇怪なものを、憐れなものを見るように歪んでいく。後悔に支配されて動けない。ああ、間違えた。
「ごめん……なさい」
間違えてしまった。
けれど、もう後には戻れない。
「ったく、そういうことかよ……」
「っ……」
がしがしと頭を掻く先生に、今度ははっきりと呆れ返ったような表情が浮かんだ。
「お前は優等生だと思ってた──とんだ問題児だな」
「っ……ごめんなさい……」
「賢いお前なら、わかってると思うが」
「はい、あのっ……い、言わないでください」
わかってるから、言わないでほしい。
その言葉だけは、聞きたくない。
魔が刺したわたしが悪いけど、それでもどうか、トドメだけは刺さないで。
起きたら今まで通りするから。いや、むしろ、今までよりもっと上手に立ち回って、こんな気持ち早くどこかへ捨ててしまうから。だから甲斐甲斐しくお世話をしてくれた今日だけは、どうか許して、先生。
胸の中で何度も唱えた〝すき〟を、先生が全部受け流してしまっても。これから先生への恋心を飼い殺して生きることになったとしても。
わたし、いっぱい頑張るから、だから──。
「いや、はっきり言っておく。
悪いが俺は、お前のこと生徒としか見てないよ」
耳の奥で、何かがパリン、と音を立てて割れた。
「っ……」
「今のは忘れることにする。もう寝なさい」
呆然としている間に、先生の手がするりと抜け出ていく。あ、と思った頃には先生は立ち上がっていた。瞬間的に肝を潰されたような衝撃が走って、咄嗟に胸のあたりを掴む。
あれ、なにやってるんだろう、わたし。
ひゅっと息を吸うと、肺に刃を突き立てられた気がした。サクッと入って、そのままグリグリと回されるような激痛がやってくる。奇妙な灼熱感が、体中にひしめいた。
ああ、いたい。痛い。痛くてたまらない。
「っ……ふっ……ぅ」
かと思えば、首に残った焼き印が火を吹いた。わたしの身を跡形もなく焼き払っていく。痛い、痛い、痛い、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい──。
全身が痛い。頭が揺れる。うまく息が吸えない。すべてが夢のような気がした。いや、ゆめじゃない。これは現実だ。恐ろしい現実なんだ。
バタン、と扉が閉まる音がする。
相澤先生は、わたしを愛してくれない。
失恋した世界は色がなかった。
ああ、噂に聞いてたけど、失恋って本当に失うってことなんだなぁ。この世の終わりみたいな気持ちになって、ご飯も味がしなくて、生きる気力がまるで湧いてこない。体の一部分をごっそり削り取られたような喪失感が消えない。外側はなにひとつ失ってはいないはずなのに。信じられないほどの孤独感の中で、ただ時間だけが過ぎていく。
あの時、熱に浮かされてうっかり魔が差した。
全部、わたしが悪い。仕方ない。先生は正しい。
もう忘れよう。大丈夫、大丈夫。
死刑宣告を受けて頭が割れそうなほど泣いた夜、無情にも新しい年を迎えた。あの日、宴会すら静まり返った夜明けに、吐き気のする体でそっとベッドから逃げ出した。這うように自室へと戻りながら、こんなにも遠かったのか、と驚いたのを覚えている。負われていたときは、あんなにも一瞬だったのに。
それ以降、わたしは心身ともにボロボロになった体で、どうにか療養するだけの日々を送っていた。熱が引いただけで、体に残る奇妙な感覚は拭えなかったが、たぶんこれは自分でどうにかなるものじゃないということだけは、はっきりと分かっていた。
ふっと意識が浮上したタイミングで、部屋の前に人の気配を感じることがあった気がする。つい身構えたけど、声をかけられはしなかった。そりゃあ、様子を見たくてもみれないでしょう、自分が振った生徒の様子なんて。
ずっと横になっていたせいか、年が明けてからクラスのみんなが戻ってくるのは早かった。
「は!? なんかあったの?」
顔を見て、びっくりされるほど痩せてたらしい。まあ、人としての生活もままならない状況だったし、なにより食事をほとんど摂っていない。
「ちょっと風邪ひいちゃってさ」
苦笑いを返すわたしは、外の空気もしばらく吸っていなかった。
冬休み中、部屋の前に何度か食事が置かれていたが、口をつけずに全部捨てた。匂いを嗅ぐと、吐き気がしたから。
冬休みが明けると、わたしはこれまで以上に鍛錬に打ち込むようになった。誰かと対峙している時だけは、唯一、先生の存在を忘れることができる。
逆に、座学の授業中はてんでダメだった。ふと気が抜けた瞬間にいろいろ思い出してしまって、胃をせくような痛みが押し寄せた。
食事もあいかわず美味しくなくて、それでもなんとか食べることはできた。いやむしろ、今まで以上にもりもり食べれる日もあった。けれど調子に乗ると、食事の後に嘔吐することが増えた。
吐くことよりも、吐いているとみんなに知られる方が怖い。痩せてしまったわたしを、みんなは毎日食堂に誘ってくれる。けれどわたしは食べるスピードばかりが速くなって、その後、隠れるようにトイレで吐き出した。何度も口をゆすいで、何食わぬ顔で教室に戻る。そんなことが、得意になった。
本当に、どうにも、どうにも立ち行かなくなって、ネットで失恋って検索してみたりした。心底馬鹿げていることのように思えて、でもそれが命を繋ぐための数少ない手段のようにも思えた。
〝恋は、やがて他の恋によって癒されます〟
ああ、そうだよね。それも知ってたはずなのに、どうして思いつきもしなかったんだろう。時間が、次の恋が、きっと解決してくれるはず。大丈夫、大丈夫。
一ヶ月が経った。
あれ、わたし、生理いつ来たっけ──。
カレンダーを確認すると、もう三週間も遅れている。こんなことは初めてだ。知った途端、急に足元が冷えてガクガクと震え始めた。生理が来ないことが怖いんじゃない。まるで自分が女の子じゃなくなるみたいで恐ろしかった。
からだのあらゆる変化が、わたしに限界を伝えている。
でも、誰にも相談できない。
失恋して体調を崩したなんて、言えない。ましてやヒーローを目指す同志には、とても。リカバリーガールにも。だって体調不良なんて訴えたら、全部担任の耳に入ってしまう。
縋るように中学の友達に連絡した。
「彼氏が欲しいから誰か紹介して欲しい」
そう言うわたしに、友人は「あんたにも春がきたんだねぇ」なんて笑って、「いいよいいよ、今度ご飯でも行こう」と快諾してくれた。なぜだかわたしが失恋したことを察したふうで、けれども触れてこないやさしさに酷く安心した。
彼女が今度の週末に、むこうの学校の男の子を紹介してくれるらしい。そういう出逢いには抵抗があったけど、もうなりふり構っていられない。
早く、好きな人を見つけないと。
わたしは、わたしじゃなくなってしまう。
「お前、ちゃんと食ってるか」
土曜の授業終わり、正門へと向かう道すがらで、後ろから掛けられた声は訝しげだった。振り返らなくても、その声で誰なのかわかる。胸がじくりとした。
「……外出届けは、出してます」
「そうじゃない。ちゃんと食ってるかって聞いてんだ」
「はい、食べてます」
「本当か? あいつらからも心配の声が上がってる」
あいつら、に心当たりがあり過ぎる。
「その、なんだ……俺が言えた義理じゃ無いが、体は資本だぞ」
「……」
「……あと、急いでるところ悪いが、あっちで少し話せないか」
「バスの時間があるので、五分でいいですか」
「ああ、構わんよ。すまんな」
ベンチに座る先生の横に、一人分の距離を空けてそっと腰掛けた。先生はわたしの右に座っている。
「辛いかもしれんが、色々と棚上げした上で言わせてもらうよ」
頭の中に〝説得は右耳から〟と浮かんで、消えた。
「……もし、あの夜の件が尾を引いてるなら、無理に治せとは言わん」
あの、夜の件──。
たったひとことで済まされた事実に、驚くほど心臓が冷えた。
「看病のためとはいえ、気安く触れてしまった俺にも落ち度があるし、悪かったと思っている。……お前の気持ちを汲めば、浅はかな行動だった」
あの夜も、この夜も、どの夜も、わたしの中ではひとつなぎだ。それをこの人は知らない。
「……ただ、俺は教師で、お前は生徒だ。その立場もわかってほしい。いや、頭のいいお前なら、そんなこと俺に言われずとも分かっているとは思うが……」
先生の中ではわたしが告白した〝あの日〟だけがエックスデーで、それによってわたしが変わってしまったと思っているんだろう。
「痛みを知っていることは、悪いことばかりじゃない。いつか必ず自分の糧になる」
あれはただのきっかけに過ぎない。なぜならわたしは、あの夜の、ずっと、ずっと前から、ゆっくりと積み重ねてきているから。
「そしてお前はヒーローを目指す者として、ここに在籍してるはずだ」
小さな絶望を、コツコツと。
「体調管理も、ヒーローの立派な勤め。もしすぐれないんだとしたら、俺じゃなくていい。誰かに頼れ」
すべてひとつなぎの切れ目のない時間の中で、積み重ねられたすべてが、わたしを壊している。そのことに先生は気づきもしない。
「迷惑をかけないことばかりが、正しいこととは限らない。お前の場合は、特に、背負い込みすぎる節がある」
いい子のわたしが泣いている。
「クラスメイトでも、ばあさんでも、他の教師でもいい」
助けて欲しいと泣いている。
「もちろんお前の両親でも」
お父さん、お母さん。
「原点を忘れるな。お前が自分で選んでこの場所にきたことを」
オールマイト。
「ヒーローになりたいと思った自分の気持ちを、大切にしなさい」
相澤先生。
「俺は、ヒーローの卵としてのお前に期待している」
誰も、わたしの隣には居ない。
「今は辛くとも」
わたしの欲しいものは、いつだって霞の中で。
「いつかプロになった時、今のお前の研鑽と努力が、仲間との絆が、そのすべてを支えてくれる」
わたしの元へと、やっては来ない。
「俺から言えるのは、それくらいだ」
ずっと、いい子にしてたのに──。
世界が、黒く塗りつぶされていく。
「先生、ありがとうございます」
「っ……」
「わたしは大丈夫ですよ。時間なので、失礼しますね」
わたしはにこやかに笑って、その場を後にした。
正門をくぐり、長い坂を下り終わるまで、その笑顔はわたしの顔に張り付いたまま、静かに灰色の夕焼けを見つめていた。