人ん家の前で吐いてんじゃねえよ

 ガキが家の前でゲロ吐いてた。

 まあ家といえば聞こえは良いが、実際は廃墟ビルに廃棄寸前のギリ使えそうなゴミを集めただけの、ただの寝床だ。落書きだらけの裏路地にあるゴミ溜めから、使えそうなもんを引っ張り出して並べただけ。

 ただそんなふざけた場所でも、俺の城だ。他人がその城の前でゲロなんざ吐いてたら、殺意も湧くってもんだろ。

「おい、邪魔だ。どけ」

 そいつは長い髪を地面にすりつけて、まるで土下座でもするみたいに吐いてた。この裏路地には似合わない小綺麗な格好。〝表側〟の人間。

 吐くのに必死で、俺の問いかけにピクリとも反応しないそいつに、俺は無性に腹が立って思い切りそいつの腹を蹴り飛ばした。

 ──ドゴッ

「うっ……」

「人ん家の前で吐いてんじゃねえよ、殺すぞ」

「おぇ……げほっ」

 ガキが見事に転がって、衝撃でまた吐いた。

 家の前をゲロまみれにしやがって。酔ってんのか、それともヤクか。どっちでもいいが他所でやれ。

 なんせこの時の俺は、すこぶる機嫌が悪かった。

 

 廃墟ビルに構えた俺の家には、当たり前だが暖房器具はない。つーか、そもそも電気も水道も通ってない。ただ瓦礫とコンクリートの外壁があるだけだ。これも雨除けに過ぎない。室内の温度は外の冷気そのもので、割れたガラスを板で塞いではいるが、気休め程度でしかない。

 家の中は凍えるほど寒いってのに、しかも今日は雨のせいで湿度まで高くてカビ臭さが鼻についた。部屋がじめつくと、体のあちこちが痒くてたまらない。顔も、首も、背中も、腹も、全部。

 それだけでも最悪だってのに、義爛に「急ぎの運びがあるから来てくれ」なんて呼び出された。返事の代わりに「ふざけんな」と吐き捨てたが、それでも残りの金を見れば、行かないわけにもいかない。生きる為には、金がいる。

 くそっ──。

 そうして我が家の玄関でもある裏口を開けた。そこで一番に目についたのが、このガキだった。

 

 ごろんと転がった体が仰向けになって、その顔がゆっくり俺を見上げる。

 一度痛めつけときゃ、もう近寄らねえだろ。なんせ、ここはそういう場所だ。

 このヒーロー溢れる社会でも、一本裏路地に入れば弱い奴はあっという間に淘汰される。俺はこのスラムの世界しか知らない。

 とどめに顔を蹴り上げようと、足を振り上げた。

「っ……」

 でも、なぜか、止まった。ピタリと、空中に張り付いたみたいに。

 ──ガキは、女だった。

 いや、女だから容赦したわけじゃない。俺はやられたら女にだって情けはかけない。じゃあ、なんでだ。

 身なりだけは整ったくせして、こんな裏路地で吐いてたからか。違う。じゃあ、こいつのゲロで俺の靴が汚れそうだったからか。いや違う。蹴る前に目が合ったからか……違う。ぜんぶ違う。

 ガキは自分の終わりを予知しながら、避ける気なんてさらさらなかった。それが逆に、鼻についた。まるで望んでその場にいるような、いや、もっと言うと、いっそ蹴飛ばして殺してくれとでも言いたそうな、そんな目をしていた──気色悪い。

 持ち上げた足を、ゆっくりと下ろす。同時にガキがのろのろと起き上がって、袖で口を拭った。また、俺を見る。

 妙なガキだ──。

 どっからどう見ても〝こっち側〟じゃないのに。なのにどうしてこんなにも、真っ黒な目をしているのか。違和感に眉を寄せていると、そいつは胸を押さえてようやく口を開いた。虫のような声が囁く。

「……いい、ですよ」

「あ?」

「殺して、くれるなら」

 ──は、うぜぇ。

 死にたがり屋の面倒なんて見てられるか。てめえで勝手にのたれ死ね。わざわざ俺の手を汚させるな、クソガキの分際で。

 俺は考えのすべてを放棄して、ガキに背を向けた。

「俺が戻るまで片付けとけ。じゃねえと次は殺す」

 痒みの増した顔をボリボリ掻いて、俺はその場を後にした。

 

 


 

 

 運びの仕事から戻ったとき、家の前は元通りになってた。視界の端に映ったゴミ捨て場。あふれるゴミの中に、不釣り合いな真新しい服が見える。昼間、ここに転がっていたガキが着ていたものだ。どうやら自分の服でゲロを拭き取って、そこに捨てたらしい。

 ざまあねえな──。

 どことなく癪に触るガキだったが、もう来ないならそれでいい。そう思って安心していた、次の日のことだ。

 ──コンコン

「……あ?」

 扉を叩く音がして、飛び起きた。

 この場所は義爛以外、誰も知らないはずだ。俺を訪ねてくる奴なんか当然居ない。それにもし義爛なら、扉を叩くことなく遠慮なしに入ってくる。

 いったい、誰だ。

 もう何年も解体されることなく放置された廃墟ビル。今更誰か取り壊しにでもきたのか。

 警戒心から、五指に力を込める。

「……あの、すみません」

 予想外にも女の声がした。ゆっくりと戸に近づく。まさか、と思って扉を開けると、そこには昨日のガキが立っていた。

「てめえ……」

「……あの、昨日はごめんなさい」

「次会ったら殺すって言ったよなあ、俺」

「はい」

「だったら──」

「昨日、あなたのお家の前を汚してしまって」

「あぁ?」

「だから、これ、お詫びの品です」

「……」

 ずい、と差し出された袋の中には、何が入っているのか見えない。俺は反射的に手の甲で払い除けた。袋から箱のようなものが飛び出して、地面に落ちる。紙が巻かれたそれに、高そうなもん、ってことだけがわかった。

「ふざけてんのか、てめえ」

「いえ……」

「失せろっ!」

 俺の叫びにビクッと肩を震わせて縮こまる姿に、やっぱりただの弱そうなガキじゃねえかと鼻で笑う。なのに、こいつはまた恐る恐る俺を見上げた。

「……今日は、殺さないんですか?」

「あ? お前、バカなのか?」

「……また新しいの、持ってきます」

「は?! 要らねえよ、二度と来るな!」

 ガキは走り去った。箱は中身を見ずに壊した。気色悪すぎんだろ。

 

 一週間後、そいつはまたやってきた。

 今度は扉を開けなかった。当たり前だ、こちとら運び屋の仕事で疲れてんだ。知らないガキに使う暇なんざねえ。

 何度か扉を叩く音がして、それでも無視していると、人の気配はすぐに消えた。ガキが立ち去ったことを確認して扉を開けると、前回と同じような箱が置かれていた。宣言通り、新しいのを持ってきたらしい。中を開けるとそこには見たこともない菓子が入っていた。

 翌日、義爛に「売れるか?」と聞いたら「そんな菓子、売れるわけねえだろ」と一蹴されたので、しかたなく──本当にしかたなく、俺の食糧にしてやった。

 まあ、普通に美味かった。

 

 次の週、ガキはまた飽きもせずにやってきた。

「お前、マジでなんのつもりだよ。ウザいんだけど」

「……今日も、殺す気になりませんか?」

「そんなに死にてえなら勝手に死ね。俺の手を煩わせるな。ただでさえサツに目つけられてんのに、家の前でガキの死体なんざ転がすわけねえだろ」

「それも、そうですね……」

「わかったなら、さっさと帰れ。暇じゃねえんだよ、こっちは」

「あの、あなたはヴィラン、なんですか?」

「……だったらなんだ」

「人を、殺したこと……あるんですか?」

「てめぇに関係あんのかよ」

「ないです……また来ます」

「だからもう来んじゃねえ!」

 

 一週間後、なんとそのガキはまたも懲りずにやってきた。ここまでくると、気色悪さを通り越してほとほと呆れる。

「あの、もしかしたらご飯に困ってらっしゃるんじゃないかと思って……」

「あぁ?」

 袋の中はパンの詰め合わせだった。俺はいつも通り、そいつの袋を払ってぶちまける。肩を落として帰っていくガキに「二度と来んな!」と叫ぶ。ルーティン作業みたいだと気づいて、余計に腹が立って壁を蹴り上げた。マジで頭沸いてんのか。

 でもガキが帰った後、転がっていたそれを一つ食べたら、予想以上に美味くて怒りがおさまった。散らばったパンを残さず拾う。腹が減ってたから、まあ、これもしかたなくだ。

 

 ガキは、毎週決まって土曜の夕方にやってくる。土曜に居留守を使うと、翌日の昼にまたやってくる。それでも無視すると、次の日は来ない。回数を重ねるにつれて、あのガキはなぜか週末だけにやってくることがわかった。

 俺の運び屋としての呼び出しは、人気の少ない平日の夜中がほとんどだ。だから必然的にガキが来る時間帯には家に居ることが多く、多分、ガキが来たほとんどのタイミングで、俺は家にいた。

  

 二ヶ月も経てば、さすがにこっちも警戒心が薄れてくる。ただ、そうなるとふしぎなもので、今度は逆になぜ食料を持ってくるのかが気になり始めた。有象無象のゴミ溜めから、浮浪者なんて石投げりゃ当たるのに、あえて俺を訪ねてパンの詰め合わせを置いていく。俺に、なにを貰うでもなく。

 単純にその真意を知りたいと思った。

「入れ」

 叩く前に開けられた扉に、ガキは目をかっぴらいて固まっていた。

 そもそも中に招いたって、俺の部屋には片手で数えるほどの物しかない。義爛に譲ってもらったお古のマットレスと、ソーラーチャージャーとスマホ。あとはゴミ溜めで拾ってきた暇つぶしの雑誌くらいだ。

 スマホは義爛の仕事を請け負う時に渡されたやつで、電気のない所に住んでる俺に「これならどこでも充電できるだろ、電話にはなるべく出ろよ」なんて言って合わせてチャージャーも渡された。それも、もう随分昔のこと。

 室内を見回して、ガキがゆっくりと足を踏み入れる。何度も訪れるうちに慣れたのか、怯えている様子はない。俺は単刀直入に訊いた。

「死にたいからか」

「え……?」

「毎週毎週、食いもん持ってくるのはなんでだ」

「消え物なら、ご迷惑にならないかなって思って……」

「だから〝なんで〟持ってくんだって、聞いてんだよ!」

 ガキは黙り込んだ。

「答えねえなら出ていけ」

「っ……最初は、たしかに……楽に死ねるならって。でも……」

「なんだよ」

「……放っておけなくて」

「ああ?」

「……おんなじだと、思ったから」

「なにが」

「……あなたの目が、わたしと」

「はァ……やっぱお前バカだな」

「そうかもしれません……」

 同じわけがないだろ。こんな恵まれたガキと、俺が。

 いつも違う服を着て、食いもんを買うだけの金があって、しかもそれを見返りもなく他人に渡せる余裕まであって、偽善かなんかか?

 平日に来ないのはどうせ働いてるか、それか学校にでも通ってんだろ。地獄も知らねえガキが、ふざけやがって。

 猛烈に怒りが湧いた。

 ただ、同時に、そうか──と、妙に腑に落ちる部分もあった。

 こいつに初めて会った時、二度目の蹴りを入れようとした、あの時。俺は多分、こいつと同じことを考えていた。〝堕ちた〟奴の目だと。

 気色悪いと感じたのは、あまりにも俺とはツラが違うのに、中身は同じ物でできてるみたいで気味が悪かったからだ。だから遠ざけた。

 しかしどうやらこのガキは俺と違って、遠ざけるんじゃなく〝放っておかない〟方に舵を切ったらしい。

「……名前」

「へ……?」

「名前、あんだろ」

「──」

「俺は……弔で通してる。とむらう、の弔だ」

「とむら、さん……」

 ガキは何度も、俺の名前を噛み締めるように呼んで、こう言った。

「弔さん……あの、よかったら一緒に食べませんか」

 差し出されたのは、もう親しみすら感じるパンの袋。あれが美味いのを、俺はよく知っている。

「……食う」

 別に気を許したわけじゃない。排除するほどの脅威じゃないと、認識を改めただけだ。

「つーか、なんでパンばっか持ってくんだよ、お前」

「……わたしの、ご飯の余りなんです」

「はっ、おこぼれかよ」

「う、ごめんなさい」

「謝れなんて言ってねえだろ、早くよこせ」

「っ……はい」

 

 それからも、あいつは毎週のようにやってきた。土曜日の夕方に、パンの詰まった袋を携えて。俺は、部屋にいれば自然と迎え入れるようになった。

「いつも同じパンですみません」

「別に、食えりゃなんでもいい」

「……よかった」

「てめえこそ、ンなガリガリならもっと食えばいいだろ」

「っ……そう、なんですけどね」

 そうなんですけど、なんだ。味が好みじゃないってか。ったく、これだから金のある奴は傲慢で嫌いなんだ。反吐がでる。

「また来週、来てもいいですか?」

「……二度と来んな」

「また、来ますね」

 

 そうこうしている内に、いつの間にか冬が終わり、春が来た。

 ようやく寒々とした生活にも一時のおさらばとなって、少しは鬱屈とした気持ちがマシになった頃。あいつはいつものパンと、パンじゃないものを持ってきた。

「あの、これ、弔さんにどうかなって」

「なんだこれ」

「塗り薬です、アトピーの」

「……売ったら金になるか」

「う、売らないでくださいっ」

 結局、売った。あんまり金にはならなかった。

 

 そうやって俺は、何度も、何度も、こいつを部屋に引き入れた。

 謎の食い扶持を手に入れて、害はないからと自分に言い聞かせて。

 思わぬ弊害が出るとも知らずに。

 

 


 

 

 あいつがここに顔を出すようになって、五ヶ月が経った。

 もうすぐ夏が来ようとしている。蒸し暑くて痒くてたまらない、俺の嫌いな夏が。

 土曜だけは家に居るようになってしばらくが経つ。義爛に怪しまれても、なんとなく土曜の電話には出なかった。さらにあいつが来ればその翌日も出なかったりした。

 金は欲しい。金があればなんだって買えるし、生活も潤う。食いたいもんが食える。銭湯にも行ける。寒さも、暑さも凌げる。

 でも──。

 俺は多分それ以外の、金だけじゃないなにかに、少しずつ欲が出始めている。その正体がなんなのかを、じわじわと噛み締めるようにゆっくりと、自分の頭でも理解して、そんで──気持ち悪さに吐き気がした。

 遠ざけたくなって態度に出してみても、効果はなかった。

 あいつは俺にどんだけ罵声を浴びせられようと、腐臭が蜘蛛の糸のようにまとわりつこうと、素知らぬ顔でここにやってきた。もういつからか、あいつは俺のことを「弔さん」じゃなくて「弔くん」と呼び始めている。

 

「弔くん、今度は売る用のお薬と塗る用のお薬持ってきたの」

「そんなん塗っても治んねえよ、どうせ」

「でも、治るかもしれないから」

 あいつが、少しずつ、図々しくなっていく。

「……ねえ、ちょっとだけ、塗ってもいい?」

「は? 気安く触んな」

 でも、それが、思ったほど嫌じゃない。

「……痒い」

「やっぱり塗ります」

 

 一度だけ、ひどい言い合いをした。

 あいつがヒーローになるための学校に通っていることを知って、裏切られた気分になったから。力一杯怒鳴って、部屋から追い出した。雨の中、あいつがびしょ濡れになっても中に入れなかった。ここが潮時だと思ったから。

 扉の前で、あいつが叫んでいる。

「黙ってて、ごめんなさいっ」

「俺を突き出すんだろサツに! ヒーローに!」

「そんなことしない! ……しない、したくないよ、弔くんっ」

 ドンドンと、扉を叩く音がする。ザアザアと、雨の叩く音がする。

「消えろっ! 二度と来るな!」

「……やだ、やだよっ、弔くん!」

 

 ずっと、忘れていた記憶があった。

 すべてを思い出したのは、この気持ち悪い感情に気がついた時だ。今の俺を嘲笑うように、蔑むように、その記憶は鮮やかに蘇った。

 俺は、幼い頃、家族を殺した。

 とめどなく流れ込んでくる記憶に、頭がカチ割れそうになって、思わず皮膚を掻きむしって、なのに止められなかった。

 裸足で踏みしめたコンクリートの感触。

 血に塗れた両手。

 ぬぐえない死の匂い。

 俺を避けるように歩く大人たち。

 その顔まで、すべて。

 罪悪感が喉に張り付いて声が出なかった。あの頃の俺には、その罪を受け止めるだけの心がなかった。だから忘れてたんだ、きっと。

 でも今の俺は、あの頃とは違う。

 悪いのは、お父さんだ。手を上げた、お父さんだ。

 それにお母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、華ちゃんも。殴られる俺を見てるばかりで、手を差し伸べてくれなかった。

 助けて欲しかったのに。たった一言、言って欲しかったのに。転弧なら、ヒーローになれるよって。

 悪いのは、みんなだ。見て見ぬ振りをした、みんなだ。

 でも今の俺は、こうも思う。

 

 〝あんた〟は、どう思うんだろう──人殺しの俺を。

 

 家族をバラバラにした俺を。逃げ出した俺を。すべて忘れてしまっていた俺を。気持ち悪い感情を宿した俺を。

 軽蔑して、もうここには二度と来ないんじゃないか。ヒーローに突き出すんじゃないか。人殺しと指を刺して、俺を拒絶するんじゃないか。

 そうじゃなくても。

 そうじゃなくても、きっと、嫌われる。

 だって、俺はあんたにとって、何者でもないから──。

 

「いやだっ! 開けて! 開けてよ、弔くんっ!」

「どっか行け!」

「弔くんっ……お願いだから……っ……ねえ、」

 なのに、手放す勇気すらなかった。

 泣きながら部屋に入れてと懇願するあいつに、胸がぎりぎりと痛んで、だけど加虐心が満たされて気持ちよくてたまらない。

 バカなのは、俺だ。頭がイカれてんのは、俺だ。気色悪いのも気味悪いのも、ぜんぶ俺だ。

「ひとりにしないで! わたしのこと、ひとりにしないでッ!」

 観念して扉を開けると、あいつはガキみたいにわんわん泣いて、手に負えなかった。胸を拳でばかすか叩かれて、服がちぎれるほど引っ張られて。そうしてあいつは、ぐちゃぐちゃの顔で俺の胸に頭をこすりつけた。

「とむらくん……わたしを、ひとりにしないで……お願いだから」

 なんだよそれ、そんなの俺が。俺の方が……!

 縋りつかれて──ああ、もうダメだ、と思った。

 もう、返してやれない。正しい場所に、あんたを、二度と。

 

 翌週、あいつはお詫びだと言って甘いものを持ってきた。別にもう、終わったことなんざ、どうだっていいのに。

「飴玉なんかで、ごめんね」

「別に……」

「弔くんは、なに味がすき?」

「どうせ、どれも覚えてねえよ」

 飴玉食ったのなんて、五歳かそこらが最後だ。

 それも全部、俺が壊す前のこと。

 ただ、あいつの持ってきた飴玉は、俺が知ってる飴玉じゃなかった。箱の中でひとつずつ、仕切られるようにきれいに並べられていて、色や形がすべて違った。

 朧げにしか覚えてないが、ガキの頃、華ちゃんが同じようなものを集めてた気がする。宝箱に大事に仕舞ってた、おもちゃの宝石。あれと、よく似ている。

 たぶんこの飴玉は、味も、俺の記憶の中のそれとはまったく違うんだろう。まるで俺とこいつの住む世界がまったく違うように。

 あいつが大事そうに、黄色い宝石をひとつ取り出した。

「これはね、たぶん、レモン味」

「げっ、酸っぱいやつだろ、それ……」

 手の平に転がっていた飴を、あいつが自分の口に放った。片方の頬が小さくふくらんで、また反対の頬が小さくふくらむ。その度にカラカラと音がする。俺と違ってやわらかそうな頬だな、と思った。

 そんなどうでもいいことを考えて、ぼけっとしてたせいだ。だから咄嗟に反応が遅れた。

「っ!」

「……お、おいしい?」

 真っ赤になった顔が、近くにあった。考えられないほど、近くに。

「……やっぱり、酸っぱいじゃねえか」

「そっか……」

 小指に力が入って、折り曲がった。自分の個性が初めて疎ましいと思う。

 近くにあった真っ赤な顔と、距離がなくなっていく。逃げないように、逃がさないように、小さな頭の後ろに手をかけて、俺はもらった飴玉を元の位置に戻した。

「なんで、泣いてんだよ」

「……レモンの……っ……味、するから……」

 そんなん当たり前だろ。こいつはたまに妙なことを口にする。

 またいつもの戯言かと横に流して、俺は目の前の行為に夢中になった。

「ほら、返せよ」

「……あっ……とむら、くん」

 互いの口の中で転がした。それを出して、押し込んで、また受け取って、そうやって飴玉が溶けて消えるまで。何度も、何度も、無我夢中でくりかえした。

「はぁ……んっ」

「もっと舌、出して」

 形がなくなっても、残ったかすを舐めとるみたいに、訳も分からず貪った。絡んだ舌が熱い。あいつの舌が控えめにも俺の口の中に入ってくると、それはまるで優しい生き物みたいに、俺の中を泳いでいく。それを捕まえて、舐めて、なぶって、口の端からありえないほどの涎がこぼれた。なのに、やめられない。

 あんたは、人殺しの俺をどう思うんだろう。

 飴玉は、甘くて酸っぱくて──罪の味がした。

 

 


 

 

「コイツは義爛だ」

「は、はじめましてっ」

「どうも、初めましてお嬢さん」

 ──とうとうバレたか。

 突然やってきた義爛に、あいつはそそくさと立ち上がって頭を下げた。んな敬うような相手じゃないのに。馬鹿みたいにペコペコしてんなよ。

「いやあ、ようやく会わせてもらえて嬉しいよ。随分長いこと俺の電話を無視してくれちゃって……なあ、弔」

「いっつもタイミング悪いんだよ、あんたは」

「さすがに週休二日はどうかと思うけどなあ。女を養うには金が要るぞ?」

「いえ、あの、わたし、弔くんに養ってもらうつもりはなくて。ちゃんと、自分で──」

「チッ、バカが! 話に乗るなよ、カマかけられてんだよッ」

「え、……え?」

「ハハハハハ! 素直で可愛いお嬢さんじゃないか。弔のどこに惚れたのか、気になるねえ」

「気色悪い、やめろ」

 義爛は厚かましくもあいつの持ってきたパンを「丁度いいおやつだ」とか言って食った挙句「急ぎの運びがあるんだ、今から頼む」とかなんとか言って、俺を追い出した。

 おい、こっちが家主だぞ。なんで俺が追い出されなきゃなんねえんだ。

 それでも、唯一の稼ぎ口であるこいつに頭が上がらないのも事実で、俺は「そいつに手出したら、殺すからな」と言い残して部屋を出た。

「い、いってらっしゃい、弔くんっ」

 わざと話に乗ってやったんだ。最近は、気分がいいから。痒みも前ほど酷くないし。だから、今日くらいは義爛の思惑どおりに進めてやろうと、そう思っただけだ。

 開け放った扉をバンッと音がなるように閉める。

 しばらくすると、二人の話し声が聞こえてきた。全身を耳にすると、音が言葉になってくる。

「あの子が、暗い路地裏で行き倒れてるところを拾ったのは、もう随分昔のことなんだ」

「義爛さんが、弔くんを……」

「その時に、あいつを弔と名付けた」

「そう、だったんですか……」

「俺は裏社会のブローカーでね。まあ、君からしたら許せない面が多分にあるだろうけど。弔の個性は都合がいいんだよ、運び屋として」

「……」

「もしヒーローに見つかりそうになったら、迷わずブツを壊せばいいだろ? そうすれば絶対に足はつかない」

「……」

「あいつの個性を見たことはあるかい?」

「はい……この前一度だけ、見せてもらいました」

「どう思った」

「え?」

「彼の個性を、君は、どう思ったんだい?」

「……わたしは、すてきだなって。わたしなんかの個性より、ずっと誰かの助けになる、すばらしい個性だなって」

「助けになる、ねえ……」

「あっ、ごめんなさい」

「いや、気にすることはない。俺は君に表通りへと突き出されないだけマシだと思ってるよ。だって君は、いずれはヒーローになる身だろう?」

「……わかりません」

「それはつまり、弔のため、って意味かい」

「いえ、……ずっと、迷ってて。弔くんと一緒に居たいからってのも、もちろんだけど。それ以前に、なんでわたしがヒーローになりたかったのか、その原点を見失ってしまったから……」

「君が選ぶ道だ。誰かに忖度することじゃない。ただね、もし……もし君が、弔との道を選ぶというなら、その時は彼をよろしく頼むよ」

「え……?」

「弔には、君の存在が必要だ。俺はそう思う」

 扉の前から、ゆっくりと音を立てず歩き出した。

 両手の小指に巻き付けた布に手汗が染みて、なのにそれが、まったく嫌じゃなかった。

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