お前、毎週家に帰ってなにしてる

 手の掛からない生徒だと思った。

 

 成績も、座学・実技ともに申し分なく、文字通り優等生だ。協調性があり、状況やチームに応じて臨機応変に対応できる柔軟性も持ち合わせている。

 欠点を挙げるとすれば、周りが見え過ぎるところか。

 その素質はヒーローを目指す上では評価されるべき特長だが、学校での共同生活においては自己主張に乏しい一面として表れている。

 

 いつだったか、そんな彼女の本心を垣間見た瞬間があった。

 あれは対ヴィラン戦を想定した戦闘訓練でのこと。他クラスとの合同演習ということもあり、場内はいつも以上に熱気を帯びていた。

 錯綜したフィールドでの混戦。当初のグループ戦はものの見事に分断され、流れは徐々に個人戦へともつれ込んでいく。

 最終盤に残されたのは、頭脳戦を得意とする彼女と、体術を得意とする生徒の一騎打ちだった。激しい攻防戦の中で、じりじりと土俵際に追い詰められていく彼女。勝負はついたかに見えた。固唾を飲んで見守るクラスメイトたちですら、その勝敗を予見しただろう。

 しかし、彼女は諦めなかった。

 泥臭く、粘り強く、燃えるような闘魂をその拳に宿して、一瞬の隙から相手の機先を制する。そうして悪戦苦闘の末、彼女は見事に打ち勝ってみせた。

 怒号のような歓声が飛び交う。

 その中で、俺は思った──ああ、彼女の中にもちゃんとあったのか、と。いつもはその片鱗すら見せることのない不屈の精神が。ヒーローになるためのオリジンが──。

 訓練を終え、軽やかなステップで彼女が戻ってくる。まるで先ほどの激戦が嘘のように羽のような足取りだった。遠くから彼女がこちらに手を振る。額を流れる血も汗もそのままに、浮き立った声が届く。

「せんせいっ、相澤先生!」

 普段のなかなか本音を明かさない彼女からは、想像もつかないような喜びを頬に浮かばせていた。

「見てましたか?! わたし、やりました!」

 頬を朱に染め、気持ちを露ほども隠さず、ありありと。

 それは俺の口元もほころぶほどの、曇りなき笑顔だった。

「ああ、よくやった」

 いくら大人びて見えようと、やはり紛れもない十五の子どもなのだ。あの時はそんな発見が、ふしぎと喜ばしく感じた。

  

 可哀想、だと思う──こんなおっさんを、好きになってしまって。

 

 教師から一目置かれるほどの有能さで、仲間たちからも慕われている。引っ込み思案さえ直せば、いずれ彼女はトップヒーローとして世に躍り出るだろう。お淑やかで利他的な面こそが強みなのだと、自信に変えられさえすれば。

 そんな彼女が、熱に浮かされ、少し道を誤った。

 残念と思う他ない。行動に移してしまった彼女だけでなく、あるいは、そんな感情を抱かせてしまった自分にも。

 しかし、それがどうした。

 そもそもあれくらいの年頃の子は、まわりの大人に対して憧れに似た感情を抱きやすい。それに恋愛感情自体は思春期という成長の表れでもあるし、決して悪いことじゃない──教師がダメだ、というだけで。

 賢い彼女ならよくよく理解してるだろうが、こういう自分ではどうにもできない感情は、当事者から言葉にしてもらう方がいい。はっきりとダメだと伝えてやることが、教師としての俺の役目であり、また未来の明るい彼女のためでもあった。

 ──悪いが俺は、お前のこと生徒としか見てないよ。

 後悔はしていない。己の信条を曲げるつもりもない。

 ただ。

 虚な彼女を見ると、胸がちくりと針に刺されたような痛みを伴った。

 いやしかし、それとて終わったこと。彼女は仕方ないにしても、俺がいつまでも引きずってどうする。それこそ、不合理の極みじゃないか。

 そうやって何度も、俺は自分に言い聞かせた。

 

 クラスメイトたちが戻ってきたのは、冬休みが明ける前日だった。

 寮に戻ってくるなり、痩せただの、何があっただのと騒ぎ立てるあいつらに、頼むからそっとしといてやれと、自分のことは棚に上げて眉を顰めた。今思えば、傲慢だったのかもしれない。

 胸がちくりとしたが、気の所為だと紛らわした。

 しかしそれ以降、胸に刺さる針は次第に成長を遂げる。一日、二日、一週間、二週間と経つにつれて、ゆっくりと幹が樹葉を生やすように大きくなった。

 ──どうしたんだ、お前。一体、何があった。

 もし事情もなにも知らなければ、俺だって彼女にそう尋ねただろう。

 明からさまに痩けた頬。目の下にできたくま。

 窓の外を眺めてばかりの、侘しそうな瞳。

 徐々に、しかし確実に落ちていく体力。実技ばかり熱心で、けれどもそれが毛ほども成果に結びついていない現状──どこから指摘してやればいい。

 そもそも俺が指摘したところで、という問題もある。まさか優等生のあいつに、こんなことで頭を悩ませることになろうとは、思いもしなかった。

 

 気づけば、年明けから一ヶ月が経つ。

 季節は暦の上での春を迎えたが、外はまだ冬の冷たさが残っていた。

「お前、ちゃんと食ってるか」

 土曜の授業終わり、正門へと向かう彼女に後ろから声を掛けたのは、俺の我慢が限界に達したからだ。生気すら感じない背中は、つつけば壊れそうなおもちゃのように脆く見える。

 ゆっくりと、不自然に首を回し、こちらを振り返る彼女。いつもにも増して、死人のような目をしていた。思わず胸がじくりとする。また、太くなったか。

 もう、随分と嫌われてしまったことだろう。

 いつかの眩しい笑顔は、もう二度と向けてもらえないのか──と、酷く断罪しておいてどの口が、と思う。

 提出された外出届には〝帰宅のため〟とあった。

 実家に帰ったところで、親御さんは居ないだろうに。なにをしに戻ってるんだ。……とは聞けないでいる。プライベートに踏み込むような質問は、傷を抉ることになりかねない。

 ベンチに腰掛け、頭の中で周到に用意していたセリフをはっきりと言葉に落とした。これ以上傷つけないように、されど前を向いて歩み出せるように。自らの後悔と、これからへの期待を織り交ぜて。

 今は辛いかもしれんが、恋の悩みなんて一時的なものだ。春秋に富むお前なら、きっとすぐにでも立ち直って、ついでに新しい相手もさっさと見つけてしまうだろう。……それでいいんだ。

 そうして、少しずつ元気を取り戻したら、またお前らしく努力していけばいい。卒業すれば、こんな萎びたおっさんのことなんかどうせすぐに忘れてしまうだろうよ。可愛い生徒に慕われていた記憶なんか、俺の胸にだけ残しておけば十分だ。

 お前なら、きっと大丈夫。

 大丈夫だ。

 そんな想いを込めて。なのに──

「先生、ありがとうございます」

 向けられた笑顔に、ぞっとした。

「わたしは大丈夫ですよ。時間なので、失礼しますね」

 背筋に冷たい汗が流れる。

 どうやら俺の言葉は、何一つ届いていないらしい──と、理解が追いつくまでに時間を要した。

 いや、それだけじゃない。

 俺はあの子の笑顔を、あんな風に変えてしまったのか。

 かつてない太さの針が、俺の心臓にぶすりと突き刺さった。

 

 


 

 

 春を迎え、あいつらは無事に進級した。

 雄英では一年ごとにクラス担任が変わるが、今年、俺の受け持ちはない。たまにはヒーロー活動に注力する年が欲しいと校長に進言しておいたからだ。まあ、本音を言えば、少し違ったのかもしれん。

「新学期からお前らも二年生だ。仮免取得、ひいてはインターンに向け、各自しっかり励むように。以上」

「「はい!」」

 最後の日まで、視界の端に映した彼女と目が合うことはなかった。

 ようやく解放してやれるな──。

 顔を合わせる機会が減れば、必然的に思い出す回数も減るだろう。これでよかったんだ、これで。

 願望にも似た確信は、俺に奇妙なほどの清々しさを残した。

 

「ちょっといいかい、イレイザー」

 胸に刺さる針が落ち着きを取り戻してしばらくが経った頃、不穏な予感はさざなみのように小さく訪れた。

 同僚に呼び出されたのは、あまり使われていない古い資料室。なぜ、こんな人気のない所に。

「なんだセメントス。こんなところに呼び出して」

「いや、大したことじゃないんだがね」

 そういって、紙資料を差し出された。俺はピクリとする。小さく四角い枠の中で、こちらにやさしくほほ笑む少女。彼女のことで、と久しぶりに聞く名前に、小さく鼓動が高鳴った。

 そうだ、こいつの新しいクラス担任は、セメントスだったな。

 資料を受け取り、俺はなんてことないように返答した。

「あいつがどうかしたのか」

「わたしの気にし過ぎならそれで構わないんだが……外出届がね、毎週出されているんだよ。それと」

 成績がじわじわと下降傾向にある──座学、実技ともに。

「履歴を遡ったが一年の冬休み明けから、どうもその傾向があるようなんだ。届出の方はすべて受理していたかい?」

「ああ。外出届が出始めたのは、たしか、二月頃からだったか……特段、問題はなかったはずだが」

 生徒たちは寮生活を送っているとはいえ、休日の外出理由については割と自由が利く。年頃の子は友人と出掛ける用事もあるだろうし、家族が近くに住んでいる場合は週末に帰省することも多い。だから目立つほどの回数じゃない。……まあ、それはあくまで一般論の話だが。

「彼女、少し痩せたような気がするんだが、君はどう思う」

「……ストレスじゃないか、とは思っている」

「うーん、やはりか」

 セメントス曰く、成績が下がったとはいえ、元が優秀だから問題を指摘するほどの順位でもないとのことだ。実際にもっと手を掛けるべき生徒は別にいる。

「一度、彼女に直接訊いてはみたんだがね。『今までがむしろ背伸びをしていたんです』と言われたよ。頑張り過ぎていたからストレスが溜まってしまって、だからこそ、今は少しずつ本来の自分のペースに戻している最中だと。外出しているのは外の友人との時間をつくって気分転換をしているともね」

「……そうか」

「まあ、わたしは休日まで自主練を強要するタイプじゃないからね。高校生らしい時間も、大人になる上ではある程度必要だと考えている。……ただ、だとしたら少し違和感が残るなと思ったんだよ」

「違和感?」

「その言い分だと、成績は落ちたとしても、せめて体調は良くなっていくもんじゃないかい?」

「まあ、そうだな」

「どうにも、ね」

「……まだ他に要因があると」

「うん。それも含め、元担任の君に心当たりはないかと思ってね」

 心当たりか、ありすぎるな。

「……セメントス」

 潮時か。

「なんだい?」

「……その、実は──」

 俺のせいなんだよ、彼女があんな風になってしまったのは。彼女に告白されて、俺ははっきりと言葉にしてしまった。彼女のためになると思って。ただ、それがどうにも逆効果だったようで、それで──。

 喉から出かかった全てを、出し切る前にごくりと飲み込んだ。

 いや、ダメだ。

 これだと彼女の胸の内を教師全員へと知られてしまうことになりかねない。そんな大層な話か? いや、身体に不調が現れているのだから、大層な話だろ。しかし、もしそのことを彼女が知ったら、最悪の結果になりかねない。

 いや待て。俺はそもそも、彼女に──。

「どうしたんだい? イレイザー」

「……いや、すまん。何でもない。ただ……あいつの両親の件が少し気になっただけだ」

「ああ、二人とも研究者らしいね。アメリカを拠点に活動しているとか」

「ほとんど家に居ないらしい。だから、土曜から日曜にかけての外泊に関しては、何度か指摘したことがある」

「なるほど。いくら実家に泊まるとはいえ高校生ですもんね」

「ああ」

「それならしばらく様子を見てみるとしよう。手間をかけたね」

「いや、俺の方こそ。力になれず、すまん」

 俺たちは資料室を後にした。

 

 


 

 

「せんせ……」

 濡れた瞳。

 紅く染まった頬。

 か細い声。

 艶やかに濡れた唇。

 ゆっくりと、体が引き寄せられていく。

 彼女の胸に俺の手が触れた。押し付けられた柔らかさが手の中に広がって、次いで心臓の震えが伝わる。反射で手を引くが、彼女は俺を離さない。

「──、先生」

「すまん、俺は……」

「──、先生」

「なんだ。すまん、もう一度」

「わたしを、たすけて、先生」

 

「っ……ああ、……夢か」

 目を覚ますと外は仄かに明るかった。夜明け前か。

「くそ……」

 また、同じ夢を見ていたようだ。

 汗で濡れた額に張り付いた髪を掻き上げる。おかしなほど、しっとりと濡れていた。まだそんな季節じゃないってのに、身体にも服が張りついている。

 あの時、開かれていた忘年会が煩くて、喧騒から逃げるようにこのベッドへと彼女を運んだ。それが良くなかったのかもしれん。ここで眠ると、度々、彼女の夢をみるようになった。このベッドに寝かせたときの、あの夜の夢を。

 しかし思い返せば、ここだけじゃない。

 あらゆる場所で、あらゆる場面で、ずっと彼女のことを考えている気がする。呪いのような、祈りのような想いが、胸の中にひしめく。最近は、自分の頭の中が自分じゃない誰かにのっとられているんじゃないか、とすら思い始めている。

 寝返りを打った。枕がうまく馴染まない。

 そうしてまた思い出したのは、彼女の両親の姿だった。入寮前に一度だけ面談をした。人柄の良さそうな二人から、善人のにおいがしたのを今でも覚えている。

 

 幼い頃から、彼女の両親は度々家を空けていたらしい。

「昔からあの子には、苦労をかけてばかりで──」

 面談時にそう話していた彼女の母親は、いい意味であまり心配そうには見えなかった。むしろ、早くから自立していた娘をとても信頼している。そんなふうに見えた。

「よく育ってくれてます。僕はあの子を、父親として誇りに思う」

 隣に座る父親は、誇らし気に彼女の話をしていた。さぞ、可愛い愛娘なんだろう。本音を言えば、一緒にアメリカへ。しかし、あの子の憧れのオールマイトがここの卒業生だと聞いてから、雄英に行くときかなくて──。

 俺はまだよく知らない少女の顔を思い浮かべながら、はっきりと口にした。

「娘さんは雄英で立派に育てます。ご安心ください」

 彼らの心配を払拭するように揺るがない決意でそう応えた。

 

 結局眠れなくなってしまい、体を起こしてデスクに灯りをつける。時計の針はまだ夜明け前を指していた。

 積まれた資料の山の、一番上に置かれた書類。昨日、セメントスから預かったものだ。

 四角い写真を親指でなぞる。もはや懐かしささえ感じる笑顔。こんな希望にあふれた顔をしていたのに。

 胸のあたりがズキンとした。

 最近はもう、驚くこともない。俺が招いた痛みだ。甘んじて受け入れている。

「なあ……俺は、どうしたらよかったんだろうな」

 虚しい独り言は、新緑の夜に溶けて消えた。

 

 季節は梅雨を越え、夏を迎えようとしていた。

 茹だるような暑さが目前に迫っている。

 職員会議を終え、ぞろぞろと教師たちが職員室へと戻ると、扉の前に彼女が立っていた。両手にたくさんのノートを抱えている。

「ああ、すまない。待たせてしまったね」

「いえ……」

 駆け寄るセメントスに小さく返事をして、彼女が職員室の中に入っていく。俺の席は離れているが、視界の端でセメントスのデスクにノートを置いたのが見えた。ここ最近は、俺の方からも〝見る〟ことを控えていたが、久しぶりに目にした彼女は、少し体調が戻ったのだろうか、以前ほどの青さはなくなっている気がした。しかしそれも担任として毎日顔を合わせることがなくなったため断言できるほどじゃない。俺の願望が、単にフィルターを変えているだけかもしれない。

「あと、セメントス先生。今週の外出届なんですけど、お願いします」

「ああ……えっと」

 目を通しているのか、言いかねているのか。セメントスはしばらくの間、口を閉ざしていた。また外出届か。

「土曜日の夕方から、日曜日までか……親御さんは帰ってきているのかい?」

「え?……いえ」

「それならあまり外泊は許可できないな。君を信用していない、という意味ではなくてね。まだ一応、高校生だから」

「でも、以前は許可頂いてたと思うんですが……」

「まあ、そうなんだけどね。……ほら、体調の面もあるし」

「ですから、その体調を──」

 彼女にしては随分と食い下がっている。それが気になった。

 俺が口を出すことじゃないとはわかっている。だが、足が勝手に動いた。多分ここ最近ずっと、俺自身が気になって仕方なかったからだろう。

「お前、毎週家に帰ってなにしてる」

「イレイザー」

 セメントスと彼女が、同時に俺を見た。すぐさま目を伏せて、彼女は言う。

「……別に……気分転換に、いろいろと」

「親御さんも帰ってないんだろ。友人に会うなら日曜だけじゃダメなのか」

 彼女が気まずそうに眉を寄せた。

「わたしも、同感だよ。今も体調がすぐれないようだし、たまには寮でゆっくりしてみてはどうかな。期末にも少なからず影響が出ていたようだしね……それに夏休みになればまた外の友達とも会う時間は十分取れるだろう。どうだい?」

 諭すようなセメントスの言葉に、彼女は俯いたまましばらく黙っていた。

「……どうしても、ダメですか」

 声は、はっきりとしている。悲しむでもなく、妙に落ち着いている。その様子を見て、俺は元担任としてつい口を出してしまった。

「何か理由があるなら、はっきり言え。じゃないとこっちも──」

 わからないだろう。そう、言うつもりだった。

「わたし、拒食症なんです」

 ふっと、音が消えた。

 多くの視線が集まる。彼女は続けた。

「……今年の、年始あたりからです。食事をすると吐き気がして、食べたもの、ほとんど吐いちゃうんです。いっぱい食べてもダメで……胃薬もきかなくて。黙っててごめんなさい」

 彼女はおだやかな顔をしていた。とうの昔に受け入れ、諦めて、仕方なく飲み込んだ後のような、おだやかな顔だった。

「ある人と……外の友達と食事をすると、ふしぎと吐かなくて済むんです。休みの日はその人と一緒に過ごしてます。だから休日は、できれば長くここを離れたい。ゆっくり療養したいから」

 言葉にならなかった。何を言ったらいいのか、わからなかった。

 俺の隣で、セメントスが口を開く。

「……すまなかった。気づいてあげられなくて」

「いえ、誰にも話していなかったので」

「……しかし、だとすればむしろ、そういう場当たり的な対症療法ではなく、お医者さんのもとでしっかりとした治療を進めていく方がいいんじゃないかい?」

 セメントスが彼女の手を取る。両手でやさしく掬うように握った。

「まずは、リカバリーガールに──」

「少しだけ。……もう少しだけ、時間をもらえませんか」

「しかし……」

「じゃあ、あと一回だけ。そしたら病院でもどこでも行って、治療を受けます。今は、その人だけが頼みの綱で、そこを絶たれるのが……わたしは、死ぬよりずっと怖い」

 声が揺れ始めた。彼女が一歩下がる。床に膝をついた。ハッとする。

「お願いします、セメントス先生」

 彼女は土下座をしていた。職員室の、真ん中で。

「ちょっと! 何してんの、やめな!」

 ミッドナイトが駆け寄る。彼女を止めようと、肩に両手を添える。しかし彼女は動かない。セメントスが驚いたように、遅れてしゃがみ込んだ。

 俺の足はぴくりとも動かない。彼女から、目が離せない。

「……お願いします、相澤先生」

 きらりと、光るものが見えた。

 息が詰まるほどの針が、俺の胸にどすりと突き刺さった。

 

 


 

 

 結局彼女は、最後の外出届を受理されて、今週末も実家に帰ることとなった。ことの次第は速やかに校長とリカバリーガールへと報告され、来週、彼女が戻り次第、検査入院を含めた長期療養が予定されている。

 クラスメイトたちへの報告や、単位取得の件については一時保留とされ、すべての判断は入院での検査結果に委ねられた。

 摂食障害にはさまざまな症状があり、彼女の場合は過食と拒食が混在するという。

 ばあさんに理由を聞かれた彼女は「日々のストレスによるもので、実力以上に頑張り過ぎてしまった」と答えたそうだ──まるで、俺に対する「言うな」とも取れるメッセージ。

 何度も上に報告すべきだと自分に言い聞かせたが、それでも、もし周りの人間に知られてしまった彼女が、最悪の結果として自殺にでも思い至ろうものなら──と考えると、たちどころに口は塞がれた。

 俺はどうしたらいいのかわからなくなっていた。違う。どうにも動けなくなっていた。

 

「……あの、すいません。セメントス先生いらっしゃいますか?」

 日曜の夕方、教師寮のソファで物思いに耽っていたところに生徒が尋ねてきた。周りにセメントスの姿はない。

「どうした」

「あ! 相澤先生、すいません。セメントス先生、呼んでもらえませんか?」

 俺は寮の出入り口に掲げられたボードに目をやった。セメントスの枠に〝ヒーロー活動中〟との磁石が貼られている。

「あいつなら今は出ている。なんかあったか」

「あー、そうなんスね……んーっと、その……」

「なんだ、早く言え」

「その、集合時間に帰ってなくて……」

 ──が、と今し方頭を悩ませていた人物の名が紡がれる。

「は?」

「外出中らしいんスけど、電話にも出ないから、どうしたもんかと……あ、でもその、あんまり怒らないでやってほしいんです! あいつ、最近元気ないから。もしかしたら友達とまだ遊んでんのかもしれないし──」

「バカか。規則だぞ。ダメに決まってんだろ」

 俺はそのまま生徒と一緒に、あいつらの寮へと向かった。共用スペースにはクラスメイトたちが集まっている。心配そうな顔をした生徒が多い。

「相澤先生!」

 俺と一緒に戻ってきた男子生徒に「おい、なんで相澤先生なんだよ!」と誰かが小声で訴えている。聞こえてんぞ、お前ら。

 どうせ俺に知られたら除籍にしかねないと思ってるんだろう。それは担任の権限で今は──って、まあいい。それどころじゃない。

「連絡したのはどいつだ」

「あ、わたしです! 電話には、出ませんでした」

 あいつと一番仲のいい女子生徒が答える。

「今日、どこに行くとか聞いてたか」

「特には……いつもの友人に会うと話していました」

「そうか。んじゃ、しばらく俺もここで待つよ。戻ったら説教だからな」

 

 しかしその後、彼女は待てど暮らせど戻っては来なかった。一時間が経ち、さすがになにかあったんじゃないかと、生徒たちが騒ぎ始めている。

 外はもう暗い。

 俺は電話をかけた女子生徒を呼び、あいつの電話番号を聞き出して自分のスマホから電話をかけた。

『現在お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか──』

 電話口から思いもよらぬアナウンスが流れる。

「……は?」

「先生、どうしました?」

「……電源、切ってやがる。くそ、どうなってんだ」

 いよいよきな臭くなってきた状況に、苛立ちと心配が募る。なにかに巻き込まれたのか。いや、もしくは──

 最悪の状況が頭をよぎって、思わず立ち上がった。

「本当に帰ってないんだろうな。誰か部屋を見て来い! とりあえずお前らもあいつから連絡が来てないか確認しろ」

 まずは校長に。セメントスは、今連絡がつくかわからん。後でいい。彼女の両親に連絡を入れて確認を。いや、先に警察に届け出るか? ──となると、いよいよ状況を報告しなければならなくなる。あの事も含め。

 くそっ、どうしたらいい。どこにいるんだ、お前。

 いったい、どこで何してる! 

「せんせ! 相澤先生!」

「なんだ」

 走り寄ってきたのは、さきほど電話に出ないと言っていた女子生徒だ。取り返しのつかない絶望に陥ったような、青ざめた顔をしている。

 嫌な予感がした。

「これが……机に……」

 震える手が差し出したそれは、白い封筒だった──〝退学届〟と書かれている。

「……へ、部屋の真ん中に、段ボールがあって、廃棄って書かれてて……きれいなんです! 不気味なくらい、何もなくて……」

 俺は勢いのまま、封を開けた。丁寧に糊付けされたそれに、こんなところまで彼女の面影を見つける。苛立ったまま封筒を力任せに破ると、中から白い紙が出てきた。急いで開く。

 うまく文字が頭に入ってこない。正しい書式で書かれているそれに、退学の意思だけが淡々と綴られていた。息がつまる。

 足元にひらりと、もう一枚、紙が舞い落ちた。小さなメモ書きのようなそれを宙で掴む。文字を読んだ。

 そこに書かれたものを目にして、俺は天を仰いだ。比喩じゃない。本当にそうなった。そこには彼女らしい丁寧な字で、こう書かれている。

 

〝もう、いい子は辞めます〟

 

 俺の心臓を、槍のような何かが、確かに貫いた。

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