お前はひとりじゃないよ

「わたしの、……せいですか」

 そろそろやって来る頃だろうと踏んでいたが、想定よりも早く彼女はやってきた。放課後の人気のない廊下に、後ろからひっそりと鉛色の声が届く。窓からは西陽が差し込んでいた。

「……なんの話だ」

「とぼけないでください!」

 人生の窮地を救ってやった恩師にひどい言い草だな、なんて言葉はこいつの前では泡のように消える。

「わたしを庇ったせいですよね? だったら今からでも退学します。わたし、先生をそんな目に合わせてまでここに残りたくない! ヒーローなら、別の学校でも目指せます!」

 ふっと笑みがこぼれた。ひと昔前の彼女なら、ヒーローなんて諦めます、と叫んでいたに違いない。彼女の中で譲れないものが生まれていることに、教師として誇らしく思った。

「それは違う。俺は教師を辞めるわけじゃない。ただ少しの間、ヒーロー業に専念するだけだ。ちょっとばかしやりたいことができたんでな」

「やりたいことって、なんですか」

「お前は他人のことよりまず自分のことだろ。補習、遅れるぞ」

「……どれくらい、なんですか」

 カツカツと背中に荒ぶった気配が近づく。俺は振り返らない。どれくらい掛かるかなんてこっちが聞きたいくらいだ。それくらい曖昧で、先行きの見えない選択に身を投じようとしている。これは多分人生最大の〝お人好し行為〟に違いない。

「先生……、なんとか言ってください」

 ぎゅっと背中の布が引っ張られて、呼応するように俺の胸が締まった。

「っ……やめ、ないで……ください」

「だから辞めるわけじゃないって言ってるだろ」

「でも!」

「……いつかわかるさ、お前にも」

 結局、最後まで彼女を視界には入れなかった。顔を合わせれば名残惜しさに拍車が掛かるのが目に見えている。そんなの合理的じゃない。

「次に会うときは、立派なヒーローになってろ」

 面会室の外から眺めていたときの弱った彼女はもう居ない。あの場所から、こいつらの人生はゆるやかに前へと進み始めている。

 そしてそれは、俺も例外じゃない。

 くるくると回っていた方位磁針は、あの日にぴたりと動きを止めた。もう不安定に揺れることもない。あやふやだった想いを束ねて、今や俺の胸に決意の根を下ろしている。

 


 

 

 これは、彼女の知らない〝あの日〟の出来事──。

 

 不眠の疲労とあの子が目を覚ましたという安堵で、俺は気が抜けていた。丸椅子に腰掛ける目の前の二人にも、背中から滲むような疲労が見て取れる。そんな彼らの疲労なんて梅雨知らず、白衣を着た男が説明を始めた。

「MRIの結果は変わらず異常ありませんでした。しかし頭部外傷ではまれに重症化することもありますので、様子を見て二日ほど入院していただいた方がいいかと思います。今のところ意識障害もないようですし、まあ彼女はうちの眼科にもかかっていますので、念のためそっちの方も検査しておきましょう。それから──」

 流れるような説明の中で、脳神経外科と名乗ったはずの医師が妙なことを口にした。彼女の両親が小さく動揺する。俺は二人の後ろに立ったまま、心が波立つのを感じた。

「え、眼科ですか?」

「はい。……えっと、ご存じありませんでしたか?」

「ええ。娘からは何も」

 父親の返答に、今度は医師の方が動揺した。手元の資料を何度もめくっては手を止め、コンピュータを操作しては顎に手を当てた。

 母親が振り返って俺に視線を向ける。知っているか、とつぶさに問い掛けていた。

「いえ、こちらも特には……」

 何も聞いていない。いったい、なんだというんだ。

 医師はしばらく黙り込んだ後、どこかに電話を掛け始めた。

「眼科の──先生、この後空いてますか。……ええ、今データ送ります。親御さんがいらっしゃってるみたいで、……はい、できれば説明を」

 胸騒ぎがする。

 良くないことが起こりそうだという予感が狭い空間を満たした。

「詳しくは担当医でなければわかりませんが、今年の一月あたりからかかっているようですね」

 一月──その不吉なワードに、全身の毛穴が開いて嫌な汗が吹き出る。俺はこの悪魔のような気配を知っている。

 ポケットに突っ込んでいた両手を抜くと、手元がぬるりとした。

「……本当に、何もご存じないんですか?」

 念押しした医師は両親と俺に視線を投げ思慮深げな息をついた後、はっきりとした声で呟いた。

「娘さんは、色覚異常を患っています」

 

 戻ってきた病室には、葬式のような空気が漂っていた。

 昨晩、彼女が救急でこの病院に運ばれて以降、俺たちは眠る間もなかったため、二人の目元にはうっすらと暗い影ができている。今朝になって目を覚ました彼女は、午後の検査を終えて疲れたのか、今は病室のベッドで穏やかに眠っていた。

 窓の外では残照が空を染めている。

「少し休まれてください。彼女は俺が見てますので」

「いや、そういうわけには……先生も、寝てらっしゃらないでしょう」

「ええ、まあ。でもこっちは慣れてますので」

 二人は今朝、彼女が一時的に目を覚ました後に、警察署にて事情聴取を受けていた。こちらの病院に戻ってきてからは追い討ちを掛けるように医師との面会に呼ばれたため、さぞかし怒涛の一日だったことだろう。生気の抜けた二人は個室に備え付けられたソファに力なく腰を下ろしている。俺は彼女の顔が見えるベッド際の丸椅子に腰掛けた。

 改めて室内を見回す。

 彼女が眠る木製の艶やかな病床の他には、両親が腰を下ろすソファ、その向かいに壁掛けテレビ、奥には簡易キッチン、洗面室、シャワー室などが備え付けられている。さながらホテルの一室のようだ。

 有名な研究者夫婦だと聞いてはいたが、彼女に与えられたこの特別病室を見て合点がいった。こいつは思っていたよりもいいとこのお嬢さんだったらしい。

 本来ならば他所者の自分なんてさっさと退室した方がいいのだろうが、先ほどの眼科医の話を聞いた後では到底そんな気分になれなかった。

「……先生も、ご存じなかったんですよね」

 彼女の母親が静かな空間に言葉を落とす。そんな意図はないのだろうが、どこか棘を感じた。

「……ええ、教師として面目ないです」

「いえ、責めてるわけじゃなくて……むしろ、っ、わたしたちがっ……」

 糸が、切れたか。呵責が渦を巻いているのだろう。母親は言葉を詰まらせ、背中を丸め、目尻からは涙を溢れさせている。

 ああ、目元は母親似なのか──。

 その姿を見て、途方もなく場違いなことを考えている自分がいた。やはり俺も疲れているのかもしれない。

「あの男のことをっ、……責められる、立場じゃ、……っ、なかったんだと……」

 父親は険しい顔で唇を噛んだまま、妻の背中に手を添えていた。

「だって、……色が、見えてないだなんてっ!」

 担当医の言葉がよみがえる。

 

『お嬢さんは色が見えていません。全色盲といわれる状態です』

 

 掻い摘んだ医師の説明によると、全色盲とは色に関する感覚がまったくなく、すべてがモノクロ写真のように見えている状態だという。

 本来、人の色覚とは目から入ってくる光の量に応じて色を認識しているため、彼女の個性である〝色覚探知〟にはその影響がないはずであった。しかし診察の結果だと、どうやらその影響は個性領域にまで達しており、彼女は瞑目した世界においても色を失っているらしい。

 初診は今年の一月──ちょうど、あの頃だ。

『後天色覚障害の原因は様々ですが、彼女の場合は身体に異常が見受けられないため心因性要因ではないかと考えています』

 心因性、か──。

 昨晩、彼女が涙ながらに語った両親への告白。あれが本心だとすれば、ここ数年の家族間でのすれ違いが大きく影響していることは確かだろう。

 しかし、最後のきっかけを与えてしまったのは、おそらく自分だ。

『……あんたたち大人は、いつだって……いつだってそうやって、都合のいいことしか見ようとしないっ』

 悲しく、怒りに満ちた瞳。寂寞感を煮詰めたような表情。

 誰からも愛されない。必要とされない。そんな絶望の淵に彼女を追いやってしまった責任は俺にもある。

 そして今、彼女は支柱を失った。

 どうしてやることもできないが、命を賭して守ったはずの男は今や牢の中で、その手からは遠く離れてしまっている。あの男がこの娘にとってのたった一本の柱だったというのに。

 片手が寝不足で重くなった頭を抱えた。額に浮き出た皮脂が手のひらに纏わりつく。

 ああ、俺の痛みなんて、まったく大したものじゃなかったんだな──。

 ずっと死の入り口に片足をかけたような感覚だったのに、胸に突き刺さる槍のような痛みはもう感じなくなっている。なぜなら彼女から与えられた一言で、見事に吹き飛んでしまったからだ。

『……せんせっ、が……いっぱい、すきっ』

 喉がぐっと締まる。けれど、もう抉るような痛みはやってこない。眠る彼女の姿を目に映すだけで、どうしようもなく心がやすらいでいく。身勝手にも、俺だけが救われてしまったのか。

 泣き止まない母親の声を聞きながら、やさしい色のついた想いが宿った。

 なあ、お前はひとりじゃないよ。

 こんなにも皆に愛されているじゃないか。

 父親からも、母親からも、弔という男からも。

 クラスメイトたちからも、それに──。

 額に張り付いていた片手がずるずると下がって口元を覆う。行き場のない想いが雨の中をあてもなく歩くように、いつまでも俺の中を巡っている。

 どうすればいい。

 どうすればお前をこっちに引き戻してやれる──。

 形を成すにはまだやわらかな覚悟を胸に抱えたまま、俺は横たわる寝顔をそっと見つめていた。

 

 しばらく経って、母親が落ち着きを取り戻した頃、俺たち三人は場所を移し今後について話し合った。

 暗い廊下の長椅子。小さく光る常夜灯の中で。

 長い協議の結果、俺が診察室で見聞きしたことは己が内に留めることとなった。この問題に関してはどうしても家族の輪の中で解決したいという二人の想いに、俺も少なからず賛同したからだ。彼らの親としての責任と、医学研究者としての矜持を汲んだ形となった。

「私たちが必ず、あの子の色を取り戻します。それまでは、娘の想いを尊重してあげたいんです」

 概ね正しい選択だ。

 それに俺が聞いたとなると、当然学校にも報告の義務が出てくる。数ヶ月の間、彼女が必死で隠してきたことをわざわざ詳らかにする必要なんてないだろう。おそらくあの聡い少女は、今後想定される全ての苦難を受け入れた上で、口を閉ざしているはずなのだから。

 それゆえ、学校からも俺からも色盲の件に関しては一切の手助けをしない、という方針に決まった。苦渋の決断だが、俺たち三人はそう結論づけた。

 退院すれば少女は男との面会に臨むことになる。

 あの子が雄英に戻れるように、そして、少なからず在学中は自身のことだけに専念させてやるために、俺のやるべきことが何なのか──。

 それを考え始めると、夜はあっという間に更けていった。

 

 そうして、彼女は男との再会を果たす。

 

「そもそも〝運び屋〟ってのは立証が難しいんだ。詳細な調査はまだこれからだが、彼の場合、不起訴処分となる可能性が高い」

 塚内さんは署内の休憩所に俺を誘って、自販機の前で本音を漏らした。

「……それは、志村の個性ゆえですか」

「まあ、それもある……。これまでの記録からして、彼はほぼ確実に犯罪を犯しているとは思うが、しかし現行犯逮捕されたわけでもないからね。要はケースの中身が不正薬物だったのか、それとも銃器だったのか。はたまたただの手荷物だったのか。真実は闇の中というわけさ」

 志村は以前から運び屋として警察から目をつけられていたが、過去に取り調べを受けた際に危険物を所持していたという記録はないらしい。捕まる前に壊したであろうことは、奴の個性を知っていれば想像に難くない。

「まあ限りなく黒に近いが、証拠不十分ってやつさ」

「犯罪の証拠が出なかった場合、志村はどうなるんですか」

「不起訴処分になるだろうね」

「無罪放免か……」

「まあ、そこが我々の難しいところなんだよ」

 塚内さんは自販機から落ちてきたブラックコーヒーを俺に手渡した。

「嫌疑不十分、といったところだろうか。不起訴処分になれば、前科はないが前歴は残る。まあ彼がどれだけ反省しているかは、結局のところ釈放された後の彼の意思に委ねられてしまうのさ」

 彼の意思、か。随分と頼りない。

 塚内さんが続ける。

「だが真っ当な世界で生きていくには信用が圧倒的に足りないだろう。また悪の道に戻らないとも限らない。事実、彼にとって運び屋ってのは金を稼ぐ上で一番手っ取り早く、かつ手慣れた方法だろうからね。しかし残念ながら、現在の日本には彼らのような者に対する再販防止策が整っていないのが現状だ」

 だからってこのまま野放しにされちゃ、こっちはたまったもんじゃない。

 缶コーヒーを握る手が強まる。

「そもそも親玉を突き止めれば済む話では?」

「志村が話す義爛という男だが、奴は警察がずいぶん昔から目をつけている闇のブローカーだ。正体が割れているが活動範囲などの情報が少ない。……まあ、やり手だよ。すぐに逮捕するのは困難だろう」

「……んじゃ、奴はすぐにここから出られそうだ、と」

「そうなるだろうね。……あの子は、手放しでは喜べないかもしれないな」

 俺の立場を察するように、塚内さんは視線を待合室の方へと向けた。

 慣れない部屋に一人残された彼女は、我が身を削られるような想いだろう。好いた男がこれから数年、もしくは十数年会えないと思っている。その上で、自分はこれからどうやって生きていくのかを問われてもいる。

 もちろん彼女を辞めさせるつもりはない。そもそも俺はなにがなんでも彼女を雄英に引き戻すために、単独での捜索を願い出ていた。

 だがこれからを考えた時に、社会的信用のない男を傍で養いながらヒーローを目指せるほど、この世界は甘くないことを俺は知っている。しかも彼女はいつまで掛かるかわからない難病を患っている。

 体の中を巡っていた覚悟が押し合うように群れをなした。形になれば、事に起こすなんて造作もないことだ。

「……志村と、二人で話せませんか」

 塚内さんが眉を顰める。

「なにか他に気になることでも?」

「いや……あいつのこれからのことについて、少し話しておきたいんです」

 このままになんて、させてたまるか。

 この時、俺の方位磁針は確かに定まった。

 

 




 

 

 季節がめぐった。

 

 久しぶりに訪れた上り坂の上で、うるさい同僚が迎える。

「ヘーイ、こっちに顔出すのは久しぶりだなァ、マイフレンド」

 俺をフレンドなんて気安く呼ぶ奴は後にも先にもこいつくらいだろう。快晴の空の下、蕾が色づき始めた桜を背に、変わり映えのない黄色い頭が俺に手を振る。

 

 雄英での教職を休職して、二年半が過ぎた。

 

 昨年、同じ時期に訪れた卒業式に、俺は公には出席していない。校舎の中から雄英を発つあいつらを見送っただけだ。小さく見える影の中に、ひときわ目をかけた生徒がこちらに向かって頭を下げる姿を、俺は高層階から静かに見守っていた。彼女のことだから、もしかしたら俺の存在には気付いていたのかもしれない。しかしその姿は数秒頭を下げた後、こちらに視線を向けることなくこの場所を旅立っていった。

 いつかの宣言を叶えるため、あいつはヒーローとしての第一歩をたしかに踏み出した。

「ところでよォ、なァんで久々の来校が日曜日なワケ? おかげでこっちは休日返上してんだけど」

「平日に来ると、いろいろとうるさいだろ」

「ハハッ、主にミッドナイトだろ、それ」

 まあ、あながち間違いではない。あの人は俺の休職理由を聞くや、飛び跳ねて「青いわ~~!」と叫んでいたらしい。

 ちなみに俺は話をしていない。隣に立つこいつが勝手に口を滑らせただけだ。

「……そろそろか?」

 マイクが神妙な面持ちで俺に尋ねる。

「ああ。来年度から戻る」

「そうか」

 今は、三月初旬。

 先月中に校長への復帰の挨拶は済ませているため、今日は教職に復帰するにあたっての手続きと来年度の資料を引き取りに来ただけだ。

「あの子、最近ニュースに出てたな。ほら、ガスの充満した部屋から子どもを助け出したってやつ。サイドキックとはいえ一年足らずで立派なもんだぜ」

「……さあ、誰の話だか」

「オイオイ! そこまでやっといて流石にその返しはねェんじゃねーの?」

 マイクがニヤニヤと肘でつつくのを、軽くあしらう。

「……知らん」

「かァ~、これだからミッドナイトが突っかかってくんだろ!」

 いや、突っかかってくるのはお前が口を滑らせたからだろうが。

 目に角を立てた。校長とマイクにしか話していないはずが、今やどこまで広がっているかわからない。そもそもこいつに話したのが間違いだった。あまりにもしつこく問いただされ折れてしまった過去の失態を悔やむ。

 どうせ復帰すればミッドナイトあたりにでも状況を聴取されるんだろう。しばらくは飲み会の誘いもばっくれようと、俺は小さく心に決めた。

「……ンで、そっちはどーなのよ」

「まあ、だいぶ板についてきてるみたいだ」

「そっか。お疲れさん」

 肩に、とん、と手が乗る。

 まあ、この件に関して労いの言葉を掛けてくるのはこいつくらいのもんだろう。そう考えればここ数年の苦労も、僅かながらではあるが報われるような気がした。

 春の風に誘われて、あの日の記憶がよみがえる。

 

 俺は塚内さんの厚意により、少しの間だけ志村との面会を許された。

「〝せんせい〟が、俺に何の用だよ」

「相澤だ。俺はお前の先生じゃない」

「けっ……」

 見た目の年齢よりもずいぶん幼く感じる態度は、奴の生い立ちを聞いた後では相応しいもののように思えた。長きに渡り、人間社会から遠ざかっていた哀れな境遇。社会から切り離された子ども。このヒーロー溢れる社会で、取り零されてしまった弱者。

 あいつは、こいつのどこに惹かれたのだろうか。

 面と向かって対峙すると、志村からは彼女に似た厭世思想が薄らと伺えた。

 たぶん居場所が欲しかったんだろう、互いに。自分すら無価値だと決めつけてしまった己自身を、唯一、無条件に認めてくれる存在が──。

 耳の奥で彼女の叫びが聞こえる。

 

『苦しかった場所から、弔くんはわたしを救い出してくれた。寂しいとき、傍にいてくれたっ。……誰がなんと言おうと、弔くんはわたしにとって、ずっとヒーローだったんだよ』

 

 つまり、あいつを救い出すためにはこいつも同時に救う必要がある。それが俺の辿り着いた結論だった。

「長きに渡ってお前が犯してきた罪は、たとえ刑務所に入ろうが、罰金を払おうが消えるわけじゃない」

「はっ、いきなり説教かよ」

「お前の運んでいた〝なんらか〟が、もしかしたらあいつに危害を加えていたかもしれない。不正薬物が身体を蝕むか、はたまた鉛玉が彼女を貫くか。……偶然、お前はあいつと出逢い、偶然、あいつに被害が及ばなかっただけだ。彼女はいつでもお前の運んだブツの被害者になり得た」

「なにが言いたいんだよ、せんせい」

 深く息を吐く。呆れからくるものじゃない。

「……罪を、償う気はあるか」

「俺の気持ちなんか関係あんのかよ。……どうせ、ムショにぶち込まれんだろ」

「償いってのは、他人から罰を与えられることでも、自分で罰を与えることでもない。同じ過ちを二度と繰り返さないってことだ」

 志村が眉を顰める。

「あいつは近い将来、必ずヒーローになる」

「……」

「その時、横にいるお前がまた犯罪に手を染めれば、今度こそお前だけじゃない、あいつが一番苦しむことになるぞ」

 志村は顰めていた顔を、さらに歪めた。

「もう一度訊く。お前は一生をかけて、罪を償う気はあるか」

 まるで氷が張ったような静けさが訪れて、俺はその答えを待った。

 脅すことだってできる。大人の汚いやり口だ。でも俺は、彼女が信じたこの男を、一度くらいは自分も信じてみてもいいんじゃないか、という馬鹿みたいな選択肢に辿り着いていた。

 志村が口を開く。

「……あいつは、たとえ俺がどんだけ悪事を働こうと、たぶん見捨てないだろうさ」

 薄氷からひびが入り、そこから流れ出してきたのは、温められた男の孤独と、そして、滲み出るような俺の嫉妬心。

「それがあいつのダメなところで、いいところなんだ、きっと」

 ああ、そうだな。俺もそう思う。

「聞いてたんだろ? さっきの会話」

「ああ」

「……俺は本心しか言ってない。あいつが望むなら、俺は全部背負って必ずあいつのもとに帰る。義爛とはもう縁も切れてるしな。また会いに行くつもりもない。俺は……今度こそ、あいつが笑ってられるような存在になりたい」

 志村の顔が、僅かにゆるんだ。

 俺の知らない数ヶ月で、この男と彼女にどんな深い縁が結ばれたのかは分からない。それでも、自分が覚悟を決めるには十分な答えだった。

「んじゃ、罪を償ってからの話だが──」

 俺がそう口にすると、志村は伏せていた顔を上げた。

「お前は圧倒的に社会からの信用が足りていない。刑を終えたところで、家もなければ働き口もない。そもそもお前みたいな学なしの前科持ちなんて誰も雇っちゃくれないだろう」

「おい、急に辛辣だな」

「……そこでだ。俺からひとつ提案がある」

 

 その後、逮捕から約一ヶ月ほどの勾留期間を経て、志村転狐は釈放された。嫌疑不十分による不起訴処分として、結果は塚内さんの想定通りとなる。同時進行で俺は雄英に休職願いを提出した。意識が外に向いてしまっている自分には、大勢の生徒たちを相手に今まで通りの細やかさで指導していくことが物理的に不可能だと判断した。それ故の決断だった。

 後悔はない、微塵も。

 それは二年半が経過した今もなお、変わらない事実。

 

 ──だが、これは完全に俺の想定外だ。

 

「……え、え?」

 目を大きく開いた少女が、家の玄関で立ち尽くしている。

「な、なんで弔くんの家に、先生がいるんですか?」

 俺は額に手を当て、肺の底からため息をついた。

 なぜ彼女とこいつが絡むと、こうも上手くいかないのか──。

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