少しは思い知ればいいと思う、お前の鈍感さを

「……え、え?」

 目を大きく開いた少女が、家の玄関で立ち尽くしている。

「な、なんで弔くんの家に、先生がいるんですか?」

 俺は額に手を当て、肺の底からため息をついた。なぜ彼女とこいつが絡むと、こうも上手くいかないのか。

「おい弔。なんで説明なしに連れてくるんだ。混乱してんだろうが」

「面倒くさいのは嫌いなんだよ、先生。見せた方が早いだろ」

 にやり、とほくそ笑む弔の隣で、彼女は呆けたまま動かない。久しぶりの邂逅がまさか家の中の、しかもこんな着古した部屋着の状態とは思わなかった。事前に知っていれば、さすがの俺ももう少しやりようがあったってのに。

「え、え、あ……、え?」

 彼女は不可解な状況にとたとたと後退り、バタンと玄関扉に背を預けたかと思えばそのままズルズルと滑り落ちた。床に尻をついて、大きな瞳をパチパチと瞬かせる。口を開いては閉じ、俺の顔を凝視する。まるでどこぞの演者のような、見事な驚きようだ。

「……おい、どうした」

「あ、た、立てない、です」

「はぁ……」

 どうやら腰が抜けてしまったらしい。まあ、この状況だと無理もないか。

 

 


 

 

「なあ、先生……そろそろ会いに行ってもいいか?」

 それは雄英へと復帰の手続きに赴く朝のことだった。普段と変わらぬ朝食を囲みながら、弔がトーストに目線を落として呟く。

 四月からは俺も教職に復帰するためこの家を空けることが増えそうだ、と昨晩伝えたからだろう。別に良いも悪いも。俺からは〝彼女の卒業まで〟と伝えていた手前、異を唱える義理もない。逆に堪え性のないこいつが、よくこの二年半(俺に隠れて)会いに行かなかったもんだと感心していた程だ。

 だが、なるほど──。

 先日、ヒーロー一年目を終える彼女が小さなニュースに出ていたのを、もしかしたら弔も目にしていたのかもしれない。地元に残り、大手事務所のサイドキックとして活動を始めた彼女は、この一年で地味な見回り役を率先して引き受けており、地元民からの信用も厚いという。先日の事件だって住民からのタレコミが情報源だというから、目に見える表立った悪事というよりはそういう街の裏に潜む小さな犯罪や困り事を優先して引き受けているようだ。実に彼女らしいなと思う。

「なあ、先生。無視すんなよ」

 ふっと、逸れていた意識が戻った。

「別に俺は止めてないだろ。勝手にしろ」

「……俺はまだ、あんたから〝卒業〟もらえてねえから」

「あ? 卒業ってなんだ。家のこと言ってんのか」

「それもある」

「んじゃ、四月から家賃でも折半するか。それともこの家から出て行きたいとか言うんじゃねえだろうな」

「……」

「出て行きたいなら社会的信用を得てからにしろ。お前はまだ家を借りられる身じゃない。そもそもそんな薄給で自立できるわけねえだろ」

「ハッ、世知辛いぜ。これでも一生懸命働いてんのによ」

「一年目のぺーぺーが大口叩くな」

「けっ……ンだよ、たまには飴も欲しいんだよ」

 

 ──んで、我慢できなかった結果がこれか。

 

「コーヒーでいいか」

「あ、はい。すみませんっ」

 弔に強引に引き上げられた後、なんとかリビングへと押し込まれた彼女は今、我が家のソファで控えめに腰掛けている。こちらの言葉にぎこちなく頭を下げて小動物のごとく縮こまった姿は、先日の勇ましい報道写真とは似ても似つかない。

 ドリップコーヒーを型違いのマグカップにセットして、湯気の立つケトルを持ち上げた。細い湯を垂らすと、馴染みの香りが立ち込める。

 カウンターの向こう。

 小さくなった彼女の隣で、弔がソファの背もたれにどっしりと腕をかけたままその顔を覗き込んでいた。随分と不服そうだ。

「俺と会った時は腰抜かさなかったのに、なぁ?」

「え、あ、うん」

「……なんでそんな緊張してんの」

「いや、だって」

「なに、俺より先生の方が会いたかったわけ?」

「そ、そんなことはっ」

「……あんの、ないの。どっち」

「えっと……」

 なんだ、このふざけた尋問タイムは。他所でやれ。俺を巻き込むな。

「お前が悪いんだろ。何の説明もなしに連れてきやがって」

「そんなの俺だって突然会いに行ったんだから条件一緒だろ。なんで俺の時は腰抜かさないんだよ……髪色だってこんな変わってんのに」

 注ぎ入れる湯が僅かに揺れた。

「そうだよね、ごめん」

「まあ、わんわん泣いて手に負えなかったけどなぁ」

 ニヤリと笑う口から地味なマウントがキッチンまで届いたが、手元のコーヒーに揺らぎはない。いちいちガキの嫉妬には付き合ってられん。

 そもそもガキと呼ぶ年齢ではないのだが、庇護下にある内は俺の中での弔はいつまでもガキの扱いだ。去年までは家になかったはずのテレビやらゲーム機やらが目に入ると、より一層ため息しかでない。

「ほら」

 彼女にコーヒーを差し出せば、かさりと指先が触れた。慌てて受け取る細い指には小さな傷が目立つ。

 俺はひとりダイニングテーブルについた。

「ありがとうございます」

「先生、俺の分は?」

「客じゃねえんだ、自分で淹れろ」

「ちぇ、んだよ機嫌悪ぃ」

 ズッと一口啜ると、コーヒーの香りが鼻を抜けて心地よい苦味が広がった。いつもの味なのに、いつもの味じゃない。彼女が居るからだろうか。

 

 休職して二年半が経った。顔を合わせるのも学校を去って以来だ。

 今は、もう十九か──。

 日常の半分はヒーロー活動に費やしていたが、大々的にチームアップするようなヴィラン犯罪もなかったためか、はたまた担当地区が隣町のせいか、現場で彼女と鉢合わせたことはない。

 卒業の日、そっと高層階から見下ろした姿は、僅かにその輪郭を拝める程度で直接言葉を交わすこともなかった。高校生なんてのはまだまだ子どもだと思っていたのに、卒業してたった一年で彼女は見違えるほどに変貌を遂げている。まあ、成長なんてのは傍から見れば呆気ないほどにあっという間だ。弔が浮き足立つのもわかる。

「……息災か」

「はいっ、おかげさまで」

「そうか。なによりだ」

「先生もお元気そうで安心しました」

「俺は殆どこいつの面倒見てただけだ」

「……あの、そもそもなんで二人は一緒に?」

「先生に色々教えてもらってんだよ」

「いろいろ?」

「そ。個性の使い方とか、勉強とかいろいろ」

「野放しだとまた犯罪に加担しそうだったからな」

「……そう、だったんですか。わたし全然知らずに、すみませんでした」

 彼女が顔を傾けて、マグカップに目を落とす。

「なんで謝る。つーか事前に知らせてたら『わたしが養います』とか言い出しかねないだろ、お前」

「うっ」

「俺は断っ然っ、そっちの方がいいけどな! なあ、今どこ住んでんの」

「馬鹿言うな。家にいくらも入れてもねえ分際で」

「ンで地味に俺の株落とすんだよ先生! 来月から折半すんだからいいだろ!?」

 弔の言葉に彼女が大きく反応した。

「え、弔くん、働いてるの?」

「……おう」

「すごいっ! お仕事見つけられたんだね!」

「まあな」

「まあな、じゃねえ。どんだけ一緒に頭下げて回ったと思ってんだ。雇ってもらえたのなんて奇跡だぞ」

「だぁー! ンだよ、働いてんのは俺だろ!?」

「お前の信用だけで雇ってもらえるわけねえだろうが。俺への信用ありきの雇用だ」

「ンだよ先生! やっぱ急にこいつ連れてきたから怒ってんだろ! いい加減、機嫌直せよな」

「わ、わぁ……」

「当たり前だろ。まず気安く女の子を家に連れ込むな」

「はぁ? 俺の女なんだから別に良いだろ!?」

「手出すのが早いって言ってんだよ。第一にお前の家じゃねえ、俺の家だろうが」

「だから先生が居る時に連れてきてやってんだろ! 何の文句があんだよ!」

「ぷはっ」

 頭に風が吹き込んで、我に返った。あはは、と柔らかな笑い声が響く。まるで春風のような爽やかさだった。

「ふふっ、仲良しなんですね。先生と弔くん」

 日常の延長でついヒートアップした自分が阿呆らしくなる。弔と暮らし始めてからどうも自分が冷静さを欠いている気がしてならない。共に生活をしていると他人同士でも似てくるものなんだろうか。

 頭をガシガシと掻いて、視線をキッチンに向けた。

「……それより、あの袋はなんだ」

 随分とパンパンに膨れ上がったビニール袋がキッチン横に置き去りにされている。弔は普段自分でスーパーには行かないから、おそらく彼女が持ってきたものだろう。

「あっ、そうだった。すみません。弔くんだけだと思っていたので、近くでお昼の材料買ってきたんです」

 ソファで踏ん反り返る男にまたひと睨みする。

「腹減ったよなぁ、先生」

 確信犯が白い歯を見せて笑った。

 

 じゅーっと音を立てて、香ばしい匂いが湧き立つ。

 赤く染まったチキンライスを炒めながら、彼女が呟いた。

「じゃあ、弔くんは解体業者さんのお手伝いしてるってことですか?」

「ああ。あいつの個性柄、そういう仕事じゃねえと不便だろうからな。まあ、逆に言えば天職ってやつだ」

「なるほど……考えつきもしませんでした」

「五指が使える仕事じゃないと〝合理的じゃない〟だろ?」

 カウンター越しの弔の問いかけに、彼女が目を見開く。やはり他人同士でも似てくるものらしい。それを俺だけじゃない、彼女も感じ取ったようだ。

「ふふ、本当だね」

 大皿にチキンライスを取り分けながら、彼女が花を咲かすように笑う。その顔を、隣からそっと盗み見るように眺めた。

 担任だった頃は、毎日顔を合わせていたはずなのに、あの頃は意識すらしなかった。一度は失ってしまった笑顔が、なぜか今、こうして自宅のキッチンで鮮やかに咲いている。

 彼女は手際良くフライパンを洗い、それをまた火にかけた。俺は手持ち無沙汰に冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルに割り入れる。何個必要だ、と訊こうとして視線を向けると、一パック全部お願いします、と会話を先読みされた。慣れない手つきで十個の卵をせっせと割り、かき混ぜる。

「ったく、座ってないでお前も手伝ったらどうだ」

「俺、パン焼く以外できねえもん」

「そんなんじゃいつまで経っても自立できねえぞ」

「自立しても飯担当は俺じゃねえもん、なあ?」

「そうだね」

「おい、甘やかすな」

「は、はいっ」

 まるでカップルの巣窟に部外者が紛れ込んだような居心地の悪さだ。されど、ふしぎと違和感はない。謎に調和した奇妙な関係性の中で、家主という矜持だけが俺を支えている気がした。

 弔は相変わらずソファで寛いだままだ。

「なんかカップルの家にお邪魔しちゃったみたいで、ちょっぴり肩身狭いです、ふふ」

「「はぁ?」」

「わ、息ぴったりっ」

「……はぁ、俺も今同じことを思ったよ。カップルはお前らだけどな」

「当たり前だろ、先生」

 正直なところ弔にああ言っておいてなんだが、俺も料理は得意じゃない。結局、卵をかき混ぜるくらいしか出来ていない。そんな中、手早く出来上がったのは三つのオムライスだった。香ばしいチキンライスの上に、今にも崩れそうなふわふわの卵が乗っかっている。洋食店で出されるような出来栄えだ。

 色も見えていないはずなのに、大したもんだな──。

 一番出来のいい皿を、彼女は一目散にダイニングテーブルへと持ち寄る。弔はいつのまにかソファから移動していた。こういうところは、ちゃっかりしている。

「はい、どうぞ。弔くん」

「美味そう。ありがとな」

 彼女がピシャリと固まる。俺は静かに見守った。

「……え?」

「あ?」

「いや、えっと、うん。……どういたしまして」

「なんだよ」

 弔の問いかけに、彼女はふわりと笑って匙を差し出す。

「初めてかも、と思って。弔くんにありがとうって言われたの」

「まあ、俺も少しは成長してんだよ」

「……うん。とっても、すてきな成長だね」

「なにが成長だ。人として最低限の礼儀だぞ」

「はい、出たよ説教~」

「ふふ、あははっ」

 教え子たちの微笑ましい光景に少しだけ自分の口も緩んだが、弔が調子づくので咳で誤魔化しておいた。

 

 


 

 

 教職に戻れば時が経つのはあっという間で、日が経つごとに帰宅時間が後ろ倒しになっていく。朝、同じ時刻に家を出る弔の姿は、自分が帰宅してからは見ない日が増えていた。三年近くも同居していれば互いの生活リズムには慣れたもので、変わらず仕事には励んでいるようなのでひとまずは安心している。

 そんな新しい生活を迎えた中で、もう一つ、明らかに変化したことがある。

 保存容器だ。

 冷蔵庫で度々見掛けるようになったそれは、側面に白いテープが貼られ、やわらかな字で惣菜名が記されている。たとえば、ごぼうの金平だとか、ポテトサラダだとか、他にもきゅうりとわかめの酢の物、ほうれん草の胡麻和え、小松菜のお浸し、さつまいもや蓮根の入ったデリ風なんたら。他にも〝焼くだけです〟と但し書きされた味噌漬けの豚肉やら、すでに仕上げられたハンバーグまで。

 挙げ出したらキリがないが、兎にも角にもそういうものが冷蔵庫の中を所狭しと占領するようになった。その中でも一番場所を占めているのが(弔のリクエストであろう)オムライスで、これはもう温めるだけで食べられる状態になっている。

 通い妻かよ──。

 もちろんその量は弔だけの分量でないことは明らかで、深夜帯に帰宅する身分には大層ありがたい晩飯になっている。ヒーローをしながら一体いつこの家に運び入れているのやら、と不思議に思っていたが、台所に増えていく調理器具や鍋やら大きめのフライパンやらを見るに、どうもここで作っているらしい。

 俺は遅くに帰宅することが多いが、もしかしたら平日、弔が帰る頃合いにでも顔を出しているのかもしれない。そう推測するのは、再会して以降、平日にも休日にも自分は彼女と顔を合わせたことがないからだ。

 今日もありがたくそのタッパーから二つほど選んで皿に取り出し、レンジに放り込む。ここ最近はこのありがたいおかずをチンするだけの生活が続いている。

 ジー、と機械音が響いた。

 この待つだけの時間にだけ、ふっと湧く疑問──この場合、俺の立場は一体なんなのだろうか、と。

 しかしそんな考えは、完成を知らせる軽快な音と共にすぐさま消え失せる。答えのない問いを考えるのは無意味だ。そう自分に言い聞かせ、今日もまた、俺は彼女の作り置きで命を繋いでいる。

 

 


 

 

 弔から出張に出ると連絡を受けた俺は、仕事を早めに切り上げ帰宅していた。新学期明けはこっちに戻ってくるのがなかなかに困難で、どうしようもなく教員寮の仮眠室に寝泊まりすることもあったが、俺が数日家を空けると、この家がゴミ屋敷になると気づいてからはなるべく帰宅するようにしている。実に不本意だが。

 しかし冷蔵庫の中には良い意味で俺の予定を組んでいない惣菜が詰め込まれているし、何よりそれを一日の楽しみにしている自分もいる。

 だからこうして彼女と意図せず顔を合わせることも、想定していたはずなんだ。にしてもまた、どうしてこうもタイミングが悪い時にやってくるのか。

「……来てたのか」

「わッ、す、すみません! か、帰りますっ」

 タオルを頭にかけた半裸の俺と、両手に買い物袋を下げた彼女。玄関前での鉢合わせに、彼女はひどく狼狽して踵を返す。

 危ねえ。一人だと思って完全に気を抜いていた。

 さすがに下はスウェットを履いているが、上半身はものの見事に裸だ。男の二人暮らしなら当たり前の光景だが、あの日以降、彼女とはこの家で出会したことが無かったため俺も気が緩んでいた。まさか家の鍵まで持っていたとは。

「あー、すまん。ちょい待ってろ」

 急いで上のトレーナーを被る。正直このくたびれた格好もどうかという話だが、前回も同じ格好だったと思い出し考えるのをやめた。

「いえ、さすがに帰りますっ。また明日にでも」

「別にいいだろ、せっかく来たんだから。それに、ほれ」

 両腕には食材がパンパンに詰められた袋が二つも揺れている。それを彼女の手から半ば強引に引き取った。

「運ぶよ。いつも悪いな」

「いえ、こっちこそ勝手に上がり込んでて、……その、ごめんなさい」

 頬を染めた彼女に僅かながら忍び笑いして、キッチンへと運ぶ。背後から控えめな足音が伴った。

「あの、弔くんに今日は二人とも居ないって聞いてたんですけど」

「まあ、その予定だったんだがな。あんまり空けるとあいつゴミを溜めるだろ。こっちも仕事が早く片付いたんでな」

「……そう、でしたか」

 弔はたしか、明日の夜まで遠方の現場に出ているはずだ。

「お前、もう飯は食ったのか」

 時計の針を見て無意識に尋ねたが、そこではたと気づく。この流れだと結局こいつに作らせることになりかねない。

「いえ、先生もまだですよね? たまには温かいご飯にしましょう。急いで作ります」

「あ、いや」

「先生は髪を乾かしてきてください」

 はい、どうぞ、と手で勧められる。少しの逡巡を挟んで、エプロンをつける彼女に負けた。

「……すまん」

 なんだか恋人みたいなやりとりだな──と雑念が頭をよぎって、肩にかけていたタオルでガシガシと頭を拭いた。

 

 結局、いつもの惣菜を拵えてくれている間に、折角なら作るだけじゃなくて食べていったらどうだ、となって俺は彼女とふたり食卓を囲んでいる。僅かばかし弔への申し訳なさが募ったが、帰ってきた時のこの家の惨状を思い出して気遣うのをやめた。

 キッチンにはすでに複数の惣菜が出来上がっている。今度は彼女への申し訳なさが募った。

「おい、あいつの為ってんなら、ここまで無理しなくていいんだぞ。今までも買ったもんでやりくりしてたんだから」

 今日の食卓に並べられたのはいつもの選べる二品だけじゃない。大皿の中に種類豊富な副菜が並んでいる。メインは生姜焼きだ。香り立つ湯気が腹の虫を誘う。

「第一、お前だって毎日大変だろ。ヒーローやって、そんでこっちまで来て飯作って」

「わたしは、別に……もしかしてご迷惑でしたか?」

「いや、そうじゃないよ。飯があるのはありがたい。……でも、また平気な顔して無理してるんじゃないかと思ってな」

 かつて、彼女がひとりで何でもこなしてしまうが故に孤独に苛まれていた過去を思い出す。俺の思考を汲み取ってか、ご心配には及びません、と歯切れの良い口調で返された。

「好きでやってるので、もし先生が嫌じゃなければ続けさせてください」

 わたしがやりたいんです、と念押しされると、こっちは何も言えなくなる。あの頃の〝大丈夫〟とは違い、言外にも明確な意思を感じた。

「それならいいんだが……んじゃ、冷める前に頂くとするか」

「はい、いただきます」

「いただきます」

 

 元生徒。同居人の恋人。その彼女と食卓を囲みながら、会わなかった間の話をおかずに箸を進める。

 彼女は卒業と同時に一人暮らしを始めたらしい。そんなすぐに親元を離れてよかったのかと訊くと、わたしは何よりもまず自分の足で立ちたかったんです、と強気に返された。あの両親とは今でも良好な関係を保っているらしい。当たり前だが、色盲の話にはならなかった。

 俺からは、弔の仕事先を見つけるために解体業者に片っ端から頭を下げて回ったことや、私有地を借りて何度も個性訓練を行なった話をした。ついでに、あいつが暴走して髪が白く変わってしまったことも、なぜか突然からだを鍛え始めたことも。あとは絶え間ない日々の口論まで。

 特段面白い話でもないのだが、その全てにおいて彼女は喜色満面だった。好いた男の話ならいくつあってもいいんだろう。そのことに少し腹の虫が疼く。話の種を目の前の食事へと挿げ替えた。

「いつもそうだが、今日も美味いな」

「よかったです。最初は迷惑かなって思ったんですけど、先生が復帰するって聞いて、わたしも恩返しがしたくて」

「恩返し?」

「はい。ヒーローになったら、飯でも奢ってくれって……忘れちゃいましたかね。奢るより、こっちの方が先生のためになりそうだったので」

 

『先生が、お粥を作ってくれたこと。わたし、一生忘れません』

『一生って、ずいぶんと大袈裟だな。……まあ、そうだな。いつかお前が立派なヒーローになった時、飯でも奢ってくれればいい』

 

「……ああ、あれか」

 彼女からあの日の話を出されたことに驚く。もう、気にしていないらしい。

「それと、うれしかったんです」

「なにがだ」

「わたしのせいで先生をお休みさせてしまってたから。教職に復帰されるって聞いて、うれしくて」

「それはお前のせいじゃないだろ。俺の独断だ」

「……って、先生ならおっしゃると思ってましたけど」

 そう言って綻ぶ彼女に、毒気を抜かれる。誤魔化すように、生姜焼きで白飯を掻き込んだ。

「ゼリーもほどほどにしてくださいね」

 また、笑う。今日はよく笑うな、と気付いて、同時に、よからぬ考えが脳裏を過ぎった。

 

 ──もし、あの時。

 

「先生?」

「……いや、なんでもない。ごちそうさん」

「はい、お粗末さまでした」

 

 カチャカチャと食器を洗う音が響く中、時計へと目がいった。

 時刻は十時を過ぎている。帰りはさすがに送ってやるべきだろう。いくらヒーローとはいえ、女の夜道は危険だ。しかし、恋人ですらない俺にそこまでされては彼女も迷惑か。思考を巡らせながら、ソファに身体が沈む。大盛り茶碗をおかわりして、いつもより腹が重い。

 先程、さすがに買った分の金は払うと申し出ると、弔くんの家賃分です、と意味のわからんことを言われて押し切られた。頑として受け取ろうとしない態度にこれは今後も手強そうだ、なんてその強情さに成長すら感じてしまうあたり、俺も歳なのかもしれない。

 サイドテーブルに、ことりと置かれた湯呑みに驚く。彼女が横に座った。

「この家に茶葉なんてあったんだな」

「ええ、わたしが勝手に置かせてもらってます。作り置きが煮込みだと時間がかかる時もあって」

 言われてみれば先週、ミネストローネが献立に含まれていたことを思い出した。その前は、肉じゃがも。

「あー……、いつもすまん」

「先生、今日は謝ってばかりですね」

「そうか?」

「はい」

 微笑が口角に浮かぶと、彼女も同じタイミングで笑った。

 ふう、と一息つく。怱忙な日々の、稀にしか訪れないやすらぎの時間。違和感のない静けさに、首が後ろに傾いて背もたれに寄りかかった。

 こういう時間は、いつ振りだろうか──。

 沈黙を破るように、彼女が声を上げる。

「え、あれって……」

 視線の先は、テレビボードの上だった。いつもと変わらぬ写真立てが、そこにある。同じ高さになって目についたのだろう。

「こんなところに飾らなくていいのに、弔くん」

 こいつらのアパートで初めて目にしたそれは、もう随分と俺の生活エリアに馴染んでしまっている。

「自分の部屋に飾ってもらうように言っておきます。……目に毒ですよね、こんなの」

「……別に、」

 そこまで気にしてない──と言いかけて、言葉に詰まった。

 嘘をつく事になるからだ。実際、俺はよくこの写真を眺めている。とりわけ、独りの時に。そんなこと、こいつは知りもしないだろうが。

 弔の腕にすがる嬉々とした表情は、本人を前にすれば幼さを感じるようになった。彼女が立ち上がり、写真立てを手に取る。

「ずっとなくしたと思ってたのに……こんな所にあったんだ」

 懐かしむ、やさしい声。彼女は立ち尽くしたまま動かない。

 思いを馳せているのは、あの二週間だろうか。

 実家の金品を売り払い、身分を捨て、家族すら捨て、逃げた先で愛しい男と過ごした二週間の逃避行。お淑やかで〝いい子〟だった彼女が、意を決して踏み出した、初めての非行。弔の好物だというオムライスも、そのときに初めて振る舞ったのかもしれない。あの部屋で、幸せそうに食卓を囲むふたりの姿が、目に浮かぶ。

 随分と古くて狭い部屋だった。

 なのに〝帰らない〟という覚悟が溢れていた。あらゆる家具が所狭しと詰め込まれていて、ここで生きていくつもりなんだと分かった。あの狭いベッドで抱き合って眠ったのか。追われている恐怖に怯えながらも、社会から隔絶されたあの二人きりの部屋で、手を取り合って──。

「……懐かしいなぁ」

 そう言って、撫ぜるように指を滑らす仕草が些か忌々しい。満たされていた腹から、どろりとした何かが滲み出た。まただ。黒い感情がじわじわと俺を支配する。

 

 なあ、お前は考えすらしないんだろ。あの時、俺がどんな想いでお前を探していたかなんて──。

 

 咄嗟に、頭を左右に振る。やめろ。

 目の前の背中を見つめた。幼さを捨て、背丈も輪郭も、髪の長さすら変わってしまった。強情さも身につけて凛々しく成長した彼女は、もう俺が守ってやるべき対象じゃない。立派なヒーローになると信念を突き通した少女は、今や自らの足で立ち、籠の外へと飛び出していった。もう俺の手の届かない、遥か彼方にいる。喜ばしいことじゃないか。すべて。悔やむことなんて、微塵もないはずだ。

 なのに、なぜ──。

 なぜ俺は、こんなにもあの頃の彼女を取り戻したいなんて、馬鹿げた考えに侵されているのか。何度も手にするあの写真に、未練が糸を引いて切れない。胸につかえたやるせなさが、どうにも消化できないまま、今もじくりと俺を蝕み続けている。

 艶やかな髪が揺れる。纏められたそれも、過ぎた時間を突きつけるように長さを増している。

 そうして、思いがけず目が止まった、その白く細い首筋に。

 息を呑む。心臓が高鳴った。紅い印。俺のものだと我を放つ、鬱血痕。

 ああ、そうか。そうだよな。

 目元に手が張り付いた。笑えてくる、自分の醜さに。心臓が痛いくらいに収縮した。腑を掻き回され、眉間に力が入って顔が歪む。神経に悪寒が走って、心が青ざめていく。そうして、全身から一気に感情が溢れ出した。

 また、よからぬ考えがぶり返す。

 

 ──もし、あの時。

 

 熱に侵されながら、お前が初めて俺に好意を向けてくれた、あのとき。もし俺が色良い返事をしていたなら、お前は俺を好いたまま、恋人として食卓を囲むことがあったのだろうか。

 こんな〝もしも〟は、不毛だ。意味なんてない。考えるな。合理性に欠けるだろ。手が、ぎりりと拳をつくる。爪が肉に食い込んだ。それでも、どうしたって俺は、そんな無意味なことを考えずにはいられない。これ以上、踏み込むな。戻れなくなるぞ。なのに、この現実に納得できない。

 喉が、硬くなる。

 この先には後悔しかない。だが、それでも。

「……いつ、返事を聞きにくるんだ」

「へ?」

 それでも、俺にもあるんだよ、浅ましい気持ちが。教師の立場すら忘れたくなる程の悍ましい気持ちが。あまつさえ、お前の好いた男を自立させてやった見返りを、少しくらい享受してもバチは当たらないんじゃないかって、そんな卑しい気持ちが。

「俺からの返事は、もう必要ないのか」

「え、返事って……?」

 振り返った彼女が、よく解っていない顔をした。その表情に、また澱が舞い上がる。もう疑問にすらならないのか、お前の中では。あんなに泣いて縋ってきたくせに。俺を好きだと、そう言ったじゃないか。なのに。そんな簡単に忘れられるような想いだったのか。

 だったら──。

 少しは思い知ればいいと思う、お前の鈍感さを。男の家にズカズカと上がり込んで、何もされないと思っている、女としての危機感の無さも。いつまでも先生と慕うお前の純真さにかこつけて、俺が頭の中でどんだけぞんざいにお前を扱っているか。

 立ち上がった俺を戸惑いの目が見上げる。体が焼け落ちるような苛立たしさが湧いた。

 細い肩に手をかけ、強く引き寄せる。紅い鬱血痕に吸い寄せられる。それに重ねるように唇を落とした。

「っ!」

 少しは、思い知れ。

 息の根を止めるように、噛み付いた。

「っ、や!」

 その瞬間、強く胸を押された。噛まれた首を彼女が手で押さえる。その顔は、みるみるうちに青く染まった。

「え、あ……なん、で」

 困惑した瞳が俺を見上げる。真っ黒な俺を。

 

 そうして、彼女は逃げるように走り去った。ドタバタと酷い音を立てて、ガチャリと終わりを告げる。

 ああ、なにしてんだ、俺は。

 奥歯を噛む。そのまま砕いてしまいそうだった。収拾のつかない自己嫌悪に駆られるのに、手の中には奇妙な程の愉悦が纏わりついている。

 もう、どうしようもないんだ。

 無かったことにはできない。

 だって俺は、もうずっと、お前が欲しくて堪らない。

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