あなたの香りを手繰り寄せて
『す、すいません、だ、男性に触られるのが苦手で……!』
彼女が飲みの席で口にした言葉が、ずっと頭の隅に引っかかっている。
過去に嫌な思いをしたことがあるのか、それとも単純に他人に触られることが嫌いなのか。確かめる術もなく、俺たちの関係はもうすぐ二つ目の季節を跨ごうとしていた。
こんな身なりだが、俺にも女性経験はある。今までは特定の女がいなかったというだけで。向こうから誘われて、気が乗れば応える。そういう割り切った関係だったからこそ、これまでは行為に及ぶのも早かった。そのせいか女性とまともに付き合ったことはない。
だから正直なところ、付き合ってどれくらいでそういった流れになるのか、俺には皆目検討もつかなかった。
ただ、それでも──彼女のことは大切にしたい。別に亀のような歩みであっても構わない。彼女がそれで安心できると言うのなら。
人生で初めてそう思えた女性が、名前さんだった。
「すみません、結局運転をお任せしてしまって」
「別にこれくらい、どうってことないよ」
マンションの前に車をつけると、彼女が申し訳なさそうに乗り込んできた。
「あの、これよかったら……」
細い指先が小さな水筒を差し出す。
「消太さんの好きなほうじ茶、淹れてきました」
俺が声を掛けたきっかけがこのお茶だったこともあって、彼女は俺がほうじ茶好きだと勘違いしている。
正直あの時は声を掛けるきっかけになれば何でもよかった。けれど今となっては、俺にとってもこの芳ばしいお茶が特別なものになっている。
「ありがとうございます。もしかして、あの時の茶葉ですか?」
「はい……実は昨年の秋に大量に買い込んでしまって、まだいっぱいあるんです」
恥ずかしげに告白する彼女に、頬がゆるんだ。まるで猫を撫でたくなるような、そんな可愛さが彼女にはある。
「それじゃあ、行きましょうか」
「はい、よろしくお願いしますっ」
俺たちが目指すのは、隣の県の山間部に位置する小さな集落だ。そこに、彼女にとって大切な人物が住んでいるらしい。
スーツで行くと言うと、慌てた様子で止められた。そんな大層な場所じゃないから、と。てっきり親御さんに会わせてくれるものと思っていたが、実家は別のところにあるらしい。
「その代わり、消太さんがいつも首に巻いてらっしゃる布を持ってきて欲しいんです」
謎の要望を受けて、仕方なくジャケットに捕縛布という何とも不恰好なスタイルで赴くことになった。
何か手伝ってほしいことでもあるのか、尋ねてもはっきりとした答えをくれない彼女だったが、なぜだかいつも以上に楽しげな様子だったので深くは訊かないでおいた。彼女が喜ぶのなら、別にこっちは何だっていい。
途中のサービスエリアで軽く飲み食いしながら、のんびりと目的地に向かう。彼女のソフトクリームをひとくち横取りすると、照れて伏し目になった赤い顔が、また心を満たした。
「い、言ってくれたら、消太さんの分も買ってきたのに……」
多分俺も、少しは浮かれているんだと思う。こういう旅行気分を味わうのはいつぶりだろうか。仕事で遠征することはあれど、心休まるような旅は長らくしていない。
「あなたの食べてるそれがいいんです」
「ひぇ……」
付き合ってもう半年も経とうというのに、彼女は一向に俺に慣れない。そこがまたいい、と思っているあたりがこちらもなかなかに重症だ。
そうして、約二時間半。車を走らせた先には風光明媚な景色が広がっていた。春本番を迎え、山の至る所で桜が咲いている。
「近くには江戸時代から栄える宿場町もあって、観光名所になってるんです。それから──」
慣れ親しんだ土地なのか、嬉々として語りだす彼女に、その内容よりも楽しげな声が耳に残る。
「そこの角を曲がって……あ、この家です!」
田園風景が広がる中、たどり着いた先は趣のある古い日本家屋だった。広い庭先と、敷地の道向かいには田畑も広がっている。初めて来た場所だが、どことなく懐かしい匂いがした。
車から降りて深呼吸すれば、都会とは全く違う空気を感じる。
──ガラガラ
「おばあちゃん、ただいま~!」
ああ、おばあさんの家だったのか──。
古い引き戸を開け、彼女が家の中に向かって叫ぶと、すぐさま住人の声が返ってきた。
「はぁ~い……って、まあ!」
出迎えてくれた人物は、かなり小柄だった。髪の色がきれいに抜け落ちて、けれどそれが正しく歳を重ねたとわかる清廉な女性だった。
彼女は想定外の俺の存在に驚いた様子で目を丸くしている。どうやら連れがいることは伝えていなかったらしい。ゆっくりと頭を下げた。
「初めまして」
「あらあら! もしかして、もしかするの?」
口に手を当てて大層驚いた様子のご婦人が、俺のことを上から下までじっくりと眺めた。
「うん……あのね、こちらは、その……今お付き合いしてる、相澤消太さん」
「まあ、まあ、まあ!」
「それとねっ、おばあちゃん……なにか気付かない?」
「え?」
じっと俺の全身を見つめて、それから首に巻かれている布に目が留まったようだった。こちらはなんのことだかさっぱりだが、捕縛布になにかあるのだろうか。
「……もしかして、あの時の?」
彼女の祖母が、驚いたように眼をみはった。あの時──?
「うん、そうなの。消太さんはおばあちゃんを助けてくれたヒーローなんだよ」
「改めまして、相澤です。名前さんとお付き合いさせていただいてます」
「まあ、……こんな偶然あるのかねえ」
どうやら名前さんはこのサプライズを随分と前から計画していたらしい。そもそも俺を意識しはじめたきっかけがおばあさんというから驚きだ。
「……すいません、こちらは何も覚えていなくて」
「いいのよ~! それだけ色んな方を助けてこられたってことでしょう?」
ことり、と置かれた茶碗から馴染みの香りがする。もしかしたら名前さんのほうじ茶好きは彼女の影響だろうか。
ずずっと啜れば、知らず知らずの内に緊張していた体がふわりと緩んだ。ふう、と一息つくと、隣に座っていた名前さんが事の真相を語りはじめた。
「実は、数年前におばあちゃんがぎっくり腰になっちゃって、うちの両親としばらく同居してた時期があったんです。その時に運悪くひったくりに遭っちゃって……」
「あの時はもうダメかと思ったわ。まだ腰も痛かったしねぇ」
「追いかけることもできなくて諦めていた時に、とあるヒーローが助けてくれたって言うんです。その人は黄色いゴーグルをつけて、首にグルグルと布を巻いていたって」
「そうそう! カバンを取り返してくれてね、怪我はないかって心配までしてくれて」
「だから私たちもお礼がしたくて、当時ネットで調べてみたんですけど、何の情報も出てこなくて……そしたらしばらく経って、消太さんが雄英に赴任してこられたんです。一目見て、この人だ! ってなって」
「そう、だったのか……」
「はい。そこからです、私がつい、目で追うようになったのは……」
巡り巡って、こんな奇跡もあるんだなと思った。
雄英に赴任するまではアングラとして日々がむしゃらに走り続けてきたため、よほど大きな事件じゃない限り記憶には残っていない。
ただ、こんなに嬉しい誤算があるのなら、あの頃の血豆を潰すような日々も報われるというものだ。
「あの時は本当に助かったわ。改めてありがとう」
「いえ、俺はヒーローとして当然のことをしたまでです」
俺がそう答えると、二人は顔を突き合わせてくすくすと笑った。微笑んだ時の目元がよく似ている。
「いい人と出会えたわね、名前ちゃん」
「うん!」
彼女が、普段はあまり見せない満面の笑みで頷くのを見て、俺も思わず口元が綻んだ。
しばらく過ごしてみてわかったが、彼女は生粋のおばあちゃんっ子のようだった。ご両親ではなく先に祖母に紹介したところを見ると、小さい頃から随分と可愛がられてきたんだろう。
夏休みなどの長期の休みは、ここで過ごすことが多かったらしい。よく見れば家のあちこちに幼少期の思い出の品が飾られている。
祖母──国枝《くにえ》さんと話すときの彼女は、とても伸び伸びとしていた。普段はなかなか緊張の糸を解いてくれない彼女だが、いつか俺との時間もこんなふうに自然体のままで居られるような、そんな関係になれたらと思う。
「少し、散歩しませんか?」
日の暮れかかる田んぼ道を二人で歩いた。
静かにその手を掴めば、ゆるりと絡まるようになった細い指先。時折俺の手を離れては、畑のへりに咲く黄色い菜の花やつくしを摘んで、笑顔とともに戻って来る。そしてまた、ゆるりと手がつながる。
この土地が彼女を育てたのだと思えば、初めて目にする風景ですら愛おしく思えた。
彼女の長い髪が風にたなびいている。夕焼けに染まる名前さんはいつだって清らかで、俺なんかが隣にいてもいいものかとたまに疑問にすら思う。
もちろん、手放す気などないが──。
『ふふふ、あの子のどこが好きなのよ~』
いつだったか、ミッドナイトに訊かれた問いが脳裏に蘇った。
どこが好きなのかと言われると、難しい。仕草や見た目はもちろんだが、彼女が醸し出す柔らかい雰囲気は何にも代えがたい俺の癒しになっている。
どこか自信なさ気なところも、俺の言動にいちいち可愛らしい反応を返すところも、すべて。
「名前さん」
こちらを見上げた彼女に、影を落とした。その桃色の唇に吸い寄せられるように、ゆっくりと顔が近づいてゆく。
ああ、そうだ。キスの前は確認するんだったな──なんて、守るつもりのない約束を思い出したその瞬間。
「あれ、名前ちゃん?」
突然かけられた声に、互いの肩がびくりと跳ねた。
声の方へ視線を向けると、そこには畑仕事を終えた装いの男が立っていた。肩に鎌と背負い籠を担いで、こちらをぽかんとした表情で眺めている。
──誰だ?
「……え、あ、信ちゃんっ」
「わぁ、びっくりした! やっぱり名前ちゃんだ」
男が、長靴の足で小走りに近づいてきた。
「帰ってたんだね」
「うん、一泊だけどおばあちゃんに会いにきたの」
「そうやったんか! そんなら国枝さん、喜んどったやろ~」
「うん、すごい喜んどった! 信ちゃんは畑帰り?」
「そうそう、春はやること多いけね」
「そっか~。信ちゃん、なんだか大人になったね」
「そりゃ同い年なんやけ、俺も同じ分だけ年は取るよ」
「あはは、それもそっか」
俺をそっちのけで進められる会話に、疎外感を感じる。
名前さんと同世代らしい男は、随分と親しげだった。にしても、ここまで砕けた話し方の彼女は初めて目にした気がする。
「ほいで、そっちの人は?」
「あ、うん……えっとね、今お付き合いしてる人で、相澤消太さんっていうの」
「……どうも」
彼女が頬を薄く染めながら俺を紹介した。小さく頭を下げる。
「消太さん。この人は私の幼馴染で、それからおばあちゃんのお隣さんの畑山信太郎くんです」
「どうも、初めまして! いや~、まさか名前ちゃんに彼氏ができとったとは!」
上から下までじろじろと観察されて、つい首の後ろを掻いた。
男は農村住まいらしい出立ちで、畑仕事の帰りなのか服はところどころ土に塗れている。日焼けした肌に筋肉質の身体は、一般人にしてはそこそこガタイが良い。
「あ、そうだ信ちゃん。よかったらこれ持ってってよ」
「お、菜の花もう咲いとった?」
「うん。おじさんとおばさん、好きだったでしょ? 菜の花の酢味噌和え」
「そうそう、よく覚えとるね。ありがと! おとんとおかんも喜ぶわ」
「こちらこそ、いつもおばあちゃんを気にかけてくれてありがとうね」
彼女がにっこりと満足気な笑顔を向ける。仲睦まじく笑い合うふたりの姿を隣で眺めながら、心に小さなさざなみが立つのを感じた。
家に戻ると、食卓の上にはすでに大層な品数の料理が並んでいた。山菜や畑で取れた色とりどりの野菜たちに、ご近所さんからお裾分けされたというイノシシの鍋がぐつぐつと煮えている。
調理場と居間と行き来するふたりに「俺も手伝います」と立ち上がると、「いいからお客さんは座ってなさい」と嗜められた。
「さあ、冷めない内にどんどん食べてね」
その言葉どおり次から次に出てくる料理に、居た堪れながらも腰を落ち着ける。手前にあるつくしの卵とじを一口頬張れば、素朴な味わいが口の中に広がった。いわゆる、田舎のおふくろの味というやつだ。
「初めて食べました。美味いです」
「よかったわ~」
「おばあちゃんの料理はどれも美味しいもん。消太さんにも気に入ってもらえて嬉しいです」
祖母を手伝いながら、台所に並んで立つ名前さんについ目が行く。
エプロン姿もいい。一緒に暮らせば、毎日拝めるだろうか。
「ああ、そうだ名前ちゃん。小山さん家にこれ持ってってちょうだい」
「うん、わかった。あ、これ! わらびのお浸し! 信ちゃん、これ好きだよね~」
「そうそう、あの子今でも好きなのよ」
祖母が彼女に大皿を差し出す。皿の上にはいくつもの惣菜が並んでいた。
「消太さん、私ちょっと出てきますねっ」
そう言ってエプロン姿のままバタバタと駆けていく名前さん。俺も行くよ、と席を立つが、すでに玄関からはガラガラと引き戸の音が聞こえる。
「いいのいいの、相澤さん! お隣さんなんだから、あなたは座って食べててちょうだい」
台所の方から声をかけられて、一瞬迷った。が、やはり席を立って玄関に向かう。
「……俺が、行きたいんです」
そう言葉を返すと、おばあさんは一瞬きょとんとして、それからすべてを見透かしたように、ふふふと笑った。
「じゃあ、お座敷にお布団敷いてるからね」
泊まるつもりで来たのだし、なにより本人も想定していただろうに、隣を見れば顔には恥じらいの色が溢れていた。
目の前には敷布団が二枚、ぴったりと隙間なく並べられている。
夕飯をいただいて、風呂に入って──その辺りからどうにもよそよそしくなった名前さんは、依然としてこちらを見ない。
風呂上がりの彼女はやさしい香りがして、少し濡れた髪や化粧の落とされた素肌がほのかな色香を漂わせていた。──が、ここは彼女の祖母の家。さすがの俺も、時と場所はわきまえている。
「んじゃ、寝ましょうか」
「っ、はい!」
「んな緊張しなくても、こんな所で取って食いやしないよ」
「っ、あ、はぃ……」
いや、なんで少し残念そうなんだ。その反応もおかしいだろ。
そうして並べられた布団に入ってしばらく経つが、隣からは寝返りをうつ音が度々聞こえてくる。なるべく彼女が休まるようにと背を向けて眠ってはいるが、あまり効果はないようだ。
しばらくすると、まるで小動物のような小さな囁きが耳に届いた。
「しょうた、さん……寝ちゃいました?」
「いや、起きてるよ」
目を瞑ったまま返すと、名前さんが上半身を起こした気配がした。
「……あ、あのっ! わたし、やっぱりおばあちゃんの部屋で寝ますっ」
「は?」
振り返ると、枕を抱えた彼女が布団の上に座り込んでいた。その身体が急ぎ立ち上がろうとして、思わずその手を掴む。
「ちょっと待て。俺が何かしたと思われるだろ」
「だ、だって、こんな場所じゃ寝られませんっ」
「こんな場所って……ここはあんたの実家みたいなもんだろうが」
「しょ、消太さんが隣にいると思うと、き、き、緊張して……」
「はあ……」
これはもう、よっぽどだな──。
そろそろ時期的にみても頃合いだろうか、なんて考えていた自分が情けない。この調子だとまだまだ道のりは長そうだ。
別に焦っているわけじゃないが、駄目なら駄目なりにできることから始めたいと思うのは俺の我儘だろうか。
「それなら、少し話しませんか」
あなたには指一本触れないので──そう約束して、掴んでいた手を解放すると、ガチガチになっていた彼女から力が抜けた。
「あなたが眠くなるまで付き合いますよ」
「う、はぃ……」
彼女が猫のように丸まって、また布団の中に潜ってゆく。
さて何を話そうか、と思案して、頭の隅で気に留めていたことを思い出した。
「んじゃ、ひとつ訊いてもいいですか」
「は、はい……」
「この間の──」
「この間?」
「ええ。あなたが言ってたでしょう。〝恋にならないよう、一生懸命おさえていた〟って」
「っ……い、言いましたね」
「俺のどこが好きなんですか」
祖母を助けてくれた無名のヒーロー。
たとえそれが最初のきっかけだったとしても、こんな見た目だ。ましてや人様に好かれるような性格ですらない。初めから好いてくれていたというなら、一体俺のどこが良かったのか。
「……」
「……」
「……」
長い沈黙が返ってきた。
「いや、別にないならいいんですが……」
「ち、違うんです! 見つからないんじゃなくてっ……その、いっぱいあるから、何から言おうか迷って……」
「へえ、いっぱいあるんですか」
天井を向いて床につく名前さんを、眺めるようにあえて横向きになった。少しばかり悪戯心がくすぶる。
じっと見つめていると、彼女が観念したように口を開いた。
「さ、最初の頃は、お仕事で絡むこともなかったので……本当に、遠くから眺めるばかりで……ただ、その、いい声だなって思ってました」
「声?」
「はい……低くて、すてきな声だなって」
「へえ、それは初耳です」
「お、お仕事で関わるようになってからは……その、丁寧さとか……律儀なところとか……なによりも、生徒さんのことを本当によく考えてらっしゃるんだなって気付いてからは……そういう、生徒さん想いのところも、すてきだなって」
「それは教師冥利につきるな」
「あと、見た目も……す、すき、ですし……それと、ご飯をいっぱい食べるところも、すごくすき、です……さっき知りました」
「へえ。じゃあ、一番は?」
「えっ! い、一番、は……えっと、うーん」
鼻の下まで布団をかぶっても、にじみ出る恥じらいまでは隠せない。俺のことを考えながら困っている名前さんを眺めるのは、すこぶる気分がいい。
「〝誠実なところ〟ですか?」
「え?」
彼女がきょとんとした顔でこちらを見た。まるで豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「……あなたが言ったんでしょう」
「?」
「俺の誠実なところが好きだと」
しばらくぽかんとしていた顔が、はっと何かを思い出した。
「もしかして、新年会の……?」
おい、なんだその反応は。
「まさか、嘘だったなんて言いませんよね」
「い、言いません! あれは本心です!」
はあ、と息をつく。
「だからこそってワケじゃないが、あなたの嫌がることはしませんよ。そんなに緊張しなくても、俺に慣れてくれるまでキスの先はいくらでも待ちます」
「……」
「いや、いくらでもってのは語弊がありますね。可能な限り待ちます、にしておくか」
彼女は黙り込んだまま、何かを思案している。
「まだ、何か?」
「……わたし、その、えっと」
彼女の言葉を待つ。
「い、嫌だとか、思ってないです。消太さんと……そ、そういうことするの」
そういうこと──その隠された言葉の裏に、一体どこまでが含まれるのかを推しはかりたくなる。
「むしろ、その……ひゃ!」
布団を泳いで、身体を近づけた。
「〝むしろ〟?」
「っ」
「むしろ、なんですか」
「……うぅ」
追い立てるように、流れた髪をひと束掴んで口付ける。まっすぐに視線を送れば更に顔を赤く染めて、彼女は俺から目を逸らした。
そうして、観念したように口を開く。
「ずっと、触れられないのは……なんでだろうって、悩んでて……」
「……」
「どうして、待たされているんだろうって……」
待たされてる? どっちの言葉だ、それは。
「もしかしたら、消太さんは……そ、そういうことに興味ないのかなって──」
「んなわけないだろ」
「えっ、あ……そう、なんですね」
「あんた、俺をなんだと思ってんだ」
「うぅ、だって……わたしばっかり、そういうこと考えてるのかなって……」
恥ずかしくて──そう小さく言葉を落とした彼女に、己の理性がグラグラと揺らぐ。
「俺はここ数ヶ月、ずっと待ってるんですが」
「っ」
「これだけ焦らされて『はい、いいですよ』なんて合図出された日にはどうなっても知りませんよ」
「……」
「ガキの恋愛じゃないんだ」
「……」
「そろそろ前に進ませてください」
抑えていた感情が溢れ出す。たとえ彼女が俺の誠実さに惚れているとしても、待てる時間には限度があるってもんだ。
「やっぱり、少しだけ触れてもいいですか」
「えっ」
「キスがしたい」
「っ……は、はぃ」
ゆらりと身体を起こして、彼女の顔の横に両手をついた。かぶりついてしまいたい衝動を押し殺して、やわらかな唇にちゅっと小さなリップ音を立てる。
ぴくりと震えるからだに、我慢が効かず矢継ぎ早にキスを降らせた。
「んっ……ふっ……」
布団を固く握る片手をほどいて、ゆるく顔の横に導く。その手のひらを己の人差し指でつーっとなぞれば、またぴくりと跳ねて眉尻が下がった。じっくりと育てた性感帯に、その効果がはっきりと表れていて心が躍る。
ああ、たまらんな──。
ぎゅっと目を瞑る彼女が愛おしくて、その頬に手をすべらせる。
あと、もう一回だけ──そうして目を瞑りながら顔を近づけると、頬に柔らかなぬくもりを感じた。
「っ」
彼女の手が、俺の両頬を包んでいる。目を開けると、ゆらゆらと揺れる瞳が物欲しそうに俺を見上げていた。
「……いい、ですよ」
「……」
「わ、たしは……その、いつでも」
そのとろけた顔に、ごくりと唾を呑み込んだ。
「はあああああ……」
肺の底からため息が出て、そのまま脱力する。名前さんの首元に力尽きると、彼女がびくりと震えて、そのまま俺の重みを受け止めた。
ここは、彼女の祖母の家。
こんな場所でOKを出すのは反則じゃないか。ただの拷問だろ。
「……次」
「え?」
「次、ふたりで会う時は覚悟しといてください」
「っ」
「朝まで帰しません」
「……は、はぃ」
頬に触れる彼女の体温が急上昇して、目にせずともどんな顔をしているのかがわかった。すんと鼻を鳴らして、湯上がりの香りの中から彼女の匂いを手繰り寄せる。
ああ、早くこの愛しい女を自分のものにしたい。そんな黒くて浅ましい感情が、俺の中をゆらゆらと渦巻いている。
「お世話になりました」
「いいのよ、またいつでもいらしてちょうだい」
「おばあちゃん、また来るね!」
「ええ、待ってるわ」
彼女が祖母から受け取った野菜たちを持って、車の方へと駆けてゆく。
その後姿を嬉しさ半分、さみしさ半分といった表情で小さく曲がった背中が見つめていた。
「国枝さん」
今はまだ、その時ではないけれど──。
「……今度はちゃんと、ご挨拶に来ます」
俺の言葉に彼女は大きく目を見開いて、それから喜びを顔にみなぎらせた。
「っ、ええ……ええ、待ってます」
俺の覚悟を受け止めるように、彼女は何度も頷きながら目元を濡らしていた。
「最後、おばあちゃんと何話してたんですか?」
「んや、別に大したことじゃないよ」
ふしぎそうに俺の顔を覗き込む彼女には、いつか必ず相応しい場所で伝えよう──この想いと覚悟のすべてを。
「消太さん、なんだかうれしそう」
「ああ、来れてよかったと思ってな」
今回の旅で、彼女の新たな一面を知ることができた。そして、彼女の大切なものも。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいです」
はにかむように名前さんが笑う。その顔を見れば、やわらかな喜びが全身を押し浸してゆく。
きっと俺はこれからも、こうやって少しずつ、彼女の隣で幸せを噛み締めていくんだろう──このときは、そう思っていた。
「そんじゃ、帰りましょうか」
「はいっ」
ゆっくりと歩みを進める俺たちに、思わぬ魔の手が忍び寄っているとも知らずに。