干からびて、されど
梅雨じきの陰鬱とした気持ちを晴らしたくてショッピングモールへ出かけたら、彼が幼い子どもを連れて歩いていた。
「……え?」
思考がすべからく停止して、されど食い入るように見つめてしまう。周囲の音がすっと消え去って、視線が縫い付けられた。仲睦まじいその親子は、肩車をしたまま子ども服店に吸い込まれていく。ものの数秒のできごとだった。
ああ、そういうことする人だったんだ、あの人──。
見た目のわりに、誠実で丁寧な付き合いをする人だと思っていたのに。
しばらく茫然と立ち尽くして、思い出したように息を吸い込むと、人混みのタイムラプスのようなモヤが消えた。されど地についているはずの足はおぼつかない。よろけるように振り返って、来た道を戻る。
ありえない、とんだクソ男じゃないか。
ゴールデンウィークが過ぎ去り、五月病が微香のように鼻につく時分。季節はすでに雨季を迎えていた。
あの長いお休み期間中、彼は一遍たりとも連絡をよこしはしなかった。まあ、案の定というか、なんというか。
生徒たちを受け持つようになってからというもの、当然のように二人の時間は削られ、いつしか自分が彼にとってのお荷物なんじゃないかと疑いはじめている。
あちらはずいぶんと前に寮生活へと変わった。それも、もうすぐ一年になる。
ひとり残された部屋で営む暮らしはもの悲しく、しかし無常にも日々は紡がれてゆくもので。こういうときは自分に仕事があってよかったと思うようにしているけれど、最近はそれすらも効力を失ってきていた。
仕事帰りの足はどこに寄るでもない。これといった趣味もなくて、いわゆるプライベートな時間ができると、どう過ごしたらいいのかわからないのは昔からだ。
そんな私も、最近はふと思い立って帰宅途中にある花屋に立ち寄るときがある。あまり陽の入らないこの北部屋にも、色が差せば少しは気も紛れるかと思ったのが最初のきっかけだった。今、ダイニングテーブルには花瓶がわりのマグカップに青い紫陽花が生けられている。
しかし花に不慣れな私は、びっくりするほど手入れも雑だった。花瓶すら与えられないそれは今や不恰好に広がり、生けるというよりは横たわっているように見える──この紫陽花は、私だ。
もう一ヶ月近く彼の顔を見ていない。声も聞いていない。メッセージの頻度も明らかに減っている。
すべてに、すべからく納得した。どうやら私は不倫相手だったらしい。
「はは……なにそれ」
出会った頃から、仕事熱心な人だと尊敬していた。態度によらず、愛の深い人だと信じていた。だから私もそんな彼の力になりたくて、会えない時間を顧みることのないようにと必死で藻掻いてきた。
力のない指先が、卓上に置かれた本に触れる。飛び出た付箋を指の腹で撫ぜた──からだに良いおかず。栄養学入門。
ああ、なんて馬鹿馬鹿しい。
彼が優先していたのは、仕事じゃなく家庭だったというのに。不倫相手の私がこんな本を読んで勉強したところで、彼にはちゃんと支えてくれる妻がいたのだ。そして、子どもも。
ずいぶんと可愛らしい女の子だった。しあわせそうな肩車に、いつかの自分が夢見た暮らしがそこにあった。あんなに大口を開けて笑う姿なんて、私は知らない。
「っ……ぅ……はは、っ」
どうしてだろう、涙と笑いは共存できるらしい。初めての感情に心がばらばらに砕け散ってしまいそうで、けれども一方では底知れぬ怒りが湧き上がってくる。
せめて、彼の口から聞けたなら、どれほど良かったか。
膝をつく。色違いのマグカップが大袈裟に跳ねた。その中で雑に生けられた紫陽花が頭をもたげている。
ガクが揺れた。まるで哀れな私を、あざけり笑うかのように。
突然、彼女からの連絡が途絶えた。
最後に受けとったメッセージは一週間前だ。おやすみ、とひとこと書かれている。俺はそれに既読だけをつけた。
ここ一ヶ月ほどは彼女に会えていない。電話すらかけていない。できない事情があった。それを言葉にすることも、あえてしなかった。
普段から苦労をかけているという自覚はある。寮に移ってからは会えても二週に一度がやっとで、眠る前の電話が俺たちをつなぐ唯一だった。
しかし彼女は仕事に芯をおく女性で、寂しいだの会いたいだのと縋られたことは一度もない。そのやさしさにどっぷりと浸かっていたのは紛れもない事実だ。
でも、だからといって気持ちの上で大事にしてこなかったわけじゃないんだ──むしろ、逆で。
彼女が彼女として生きる暮らしを、俺の身勝手な理由で脅かすことのないようにと、ずっとそう考えていた。
しかし今、その延長で事は起きている。
どうやら俺の連絡先は、彼女に拒絶されてしまったらしいのだ。
「くそっ……」
梅雨じき特有の、風のない雨を浴びる。滑る電線を駆け抜けて、かつての我が家へと急いだ。濡れた上着がいつも以上に重さを増して、機動力の悪さに苦虫を噛み潰す。
こんなことなら、やはりコスチュームだけでも取り替えるべきだった。今更後悔しても遅いが、せめてものと首に巻きつけた布を強く掴む。
急げ、勘違いならそれでいい。俺のせいだというなら謝れば済む話だ。……だがもし、事件にでも巻き込まれていたら。
誘拐。強盗。拉致。強姦。あの拒絶が発見を遅らせるための犯人の隠蔽工作という可能性もありうる。思いを馳せるほど、彼女に対する今までの怠慢を恥じた。
いつからだろう。いつから俺は、自分の女の安否すらわからない男になってしまったんだろう。こんなのもう、ヒーロー失格じゃないのか。
「──ッ!」
雑に合鍵を差し込んで、扉を開けると同時に名前を叫んだ。
返事はない。乱雑にブーツを脱ぎ捨て、床が濡れるのをいとわず上がり込む。
「いないのか!」
温度のない部屋に、長く換気されていない重苦しい空気が満ちていた。寝室、風呂場、漏れなく押し入って痕跡を探すが、彼女の姿はおろか荒らされた形跡すらない。焦りが募った。
ここではないのか、それとも──。
時間を感じさせないほどにしんとしたリビングは、長きにわたる家主の不在を知らせていた。干からびたシンク、薄っすらと埃をかぶった家具たち、がらんとした部屋の色褪せたにおい。
パタパタと雫を垂らしながら窓際まで来て、思い切りカーテンを開けた。
ベランダにも、やはりいない。安堵のような、それでいて切羽詰まったような息がもれる。
ここでないのなら、勤め先か。しかし愚かなことに、俺は彼女の勤め先すらちゃんと把握していない。
そうして万策尽きたかもしれないと振り返った先、リビングを見渡して息を呑んだ。
「っ……!」
入口からでは見えなかった。ダイニングテーブルの、奥。壁際。そこには割れたマグカップと、鈍く干からびた花が床に散らばっていた。すぐさま駆け寄り、その大きな破片を手にとる。
見覚えがある。これは俺のマグカップだ。
明らかに人の手で投げつけられたそれは、テーブルの下で隠れるように散らばっていた。なぜ今まで気付かなかったのか、一度目についてしまえばふしぎなほど、それは恐ろしく酷いありさまだった。
心臓が跳ねる。緊張が全身をめぐった。
辺りに散らばっている小さな花びらは、花に疎い俺でも覚えがある──紫陽花。茶色くしなびたそれは、時のながれを示すかのように床で朽ちている。
やはり事件に巻き込まれたのか? いや、だとしたらこれも片付けられているはずだ。なぜなら犯人には恋人の連絡先を消す余裕があったのだから。
ふと、近くのゴミ箱に目がいった。物が少ない部屋で、手がかりのように主張するそこに、数冊の書籍が突っ込まれている。乱雑に取り出した。
表紙には栄養学入門と書かれてある──料理本だ。
途端に、ぞわりと冷たいものが背筋を撫でた。耳がキンとする。思考を霞ませていたモヤが晴れて、新たな疑念がぼうっと浮かび上がった。
〝限界〟
誰に言われたでもない。ただ香り立つようなその気配に、この言葉がぴたりと当てはまった。
「くそっ……」
追い立てられるように、部屋を飛び出す。
考えたくもない。しかし彼女はおそらく、自分の意思でここを出て行った。
「もういいんです。だってあの人、子どもいるみたいなんで」
昨晩、かつて一度だけ会ったことのある彼の友人から電話が掛かってきた。
とうとう着信拒否したことがバレたらしい。声を聞いてすぐにあのハイカラな友人だとわかって、言葉を吐き捨てると同時に通話を切った。すぐさまその番号も拒否して、ふかふかのベッドに身体を沈める。
これでいい。またひとつ、厄介な仕事を終えた。
ビジネスホテルにすればよかったと後悔したのは、宿泊して三日目のことだった。一階のレストランの入口に置かれた〝父の日プラン〟という看板が、いちいち癇に障る。傷ついた自分を癒そうと奮発してシティホテルをとったのが間違いだった。
あれ以来、あいかわらず雨は降り続いている。
さすがに二週間ともなるとそれなりに費用もかさんできていて、今週末には不動産屋に行って新しい家を探さなければならない。そんなことを考えながら、仕事終わりのスーツでホテルのエレベーターを待った。
父の日、か──叶うことなら、私が彼を父親にしたかったのに。
繰り返される堂々巡りの思考に、首を振って雑念を取り払う。だめ、もう考えないって決めたでしょ。滲み出してきそうなまなじりをぎゅっと瞑ってみても、まだ自分の心までは誤魔化せないでいる。
ずっと大好きだった人だから、これが最後の恋だと信じていたから。だからきっと私はこれからも、この傷を抱えたまま生きていくしかないんだ──。
チン、とエレベーターの音が鳴って現実に引き戻された。はっとするのと同時に、背後からカツカツと大きめの足音が近づいてくるのがわかった。
「ちょっと、こっち来い」
突然、後ろから腕を掴まれた。
「えっ……はっ?」
肩にかけていた仕事鞄がずり落ちる。
見覚えのある顔が切羽詰まった様子で私の腕を強く引いて、そのままぐいぐいと連れられる。昨夜、電話をくれた彼の友人だった。
「ちょっ、何なんですかっ!」
反射で腕を引くけれど、あまりの力の差になす術はない。エンタメ色が強い彼だけど、それでもやはりヒーローなのだと思い知らされる。
仕方なく腕を引かれるまま、足を動かすしかなかった。振り払ってもよかったのだが、そうしなかったのは相手に心ばかしの申し訳なさがあったからだ。
「マイクさん……なんで」
目の前を金色の髪が揺れている。いつもは立ち上がっているはずの髪が今日は下ろされていて、オフなのかな、と思った。いや、オフというよりは身バレを防ぐためかもしれない。
「はあ……」
面倒なことになりそうだ。
大人しくついていくと、彼はラウンジのソファに私を無理やりに座らせて、自分も向かいの椅子にどしんと腰を下ろした。かつてお酒を飲んだ時とは違って、随分と横柄な態度だ。
「コーヒーふたつ」
メニュー表を持って近づいてきたウェイターに、近寄るなと言わんばかりに彼が注文を吐く。
「いや、一つでいいです。私はすぐ帰るので」
覆い被せた言葉に、マイクさんはサングラスの下で眉を寄せた。こちらも負けじと、わざとらしい息を吐く。タンタンタンと、黒いブーツが音を鳴らしていた。
「ごゆっくりお過ごしください」
しばらくしてウェイターがコーヒーを持ってくると、テーブルに置かれたカップに手をつけることもなく、彼は待ち切れないとばかりに話しはじめた。
「個性事故だ。入れ替わってんだよ」
「……はい?」
厄介そうにサングラスを外して、大きな手が黄金の長い髪を掻き上げる。ひどく不機嫌そうな態度が、あの日のやさしい彼とは結びつかない。
こせいじこ──入れ替わっている?
もしかして、彼とマイクさんのことだろうか。
つまり今、目の前にいるのは、私が拒否した元カレということになるのか。そんな、まさか。
「……随分とひどい言い訳ですね」
「言い訳じゃねえ、俺は──」
もし仮に、彼とマイクさんが本当に入れ替わっているとして、だとしたらなんだというんだ。
「それなら、ひとこと言えばよかったじゃない」
「っ……」
彼が口をつぐんだ。まるで嘘をついているという事実をほのめかすかのように。白々しい。
「そう言えって、消太に頼まれたんですか?」
「違う!」
なにせ隠し子がいた男なのだ。これくらいの工作も手慣れた範疇かもしれない。
「もういいんですよ。別に出て行ったのはそれだけが理由じゃないですし」
「……他に、なにかあるのか」
男の瞳が、大きく開かれる。馴染みのないペリドットの瞳が揺れた。
「何かあるのかなんて、ええ、そりゃあもう」
「なんだ。言わないとわからないだろ」
「……それ、あなたが言う?」
はあ、とため息をついた。もう正直なところ、この人の中身が誰だろうが、どうだっていい。
「疲れたの、ひとりで待ってるのに。いいきっかけだったんだよ。だって──」
私は、消太にとってお荷物でしかないんだから。
そうでしょう。会える頻度なんて、もはや友達以下で。電話だってそう。疲れた様子の彼に私は無理しないでねと声をかけることしかできない。そばに行けない。せめて自分に、さみしいと甘えられるだけの器量があったなら。
「言えばよかっただろ、正直に」
「……言ったら何か変わった?」
「変える努力はした」
「それこそ今更じゃない。だって私たちは、もう──」
とっくに手遅れなんだから。
「ごめんなさいっ!」
込み上げた想いが口をついて出る前に、突然あどけない声によって全てが掻き消された。声の方を振り返ると、そばに小さな女の子が立っている。
「え、あなたは……」
ふわふわと揺れる長い髪の隙間から、怯えた瞳がこちらを伺っていた。あのとき、ショッピングモールで消太と一緒にいた女の子だ。
「わ、わたしのせいで……お、お姉さんに嫌な思いさせてしまって……でも、先生たちが、入れ替わってるのは本当だから、信じてほしい、です……だから、その……」
女の子は俯き加減にスカートの裾を強く握りしめながらも、一生懸命に伝えようとしていた。……それよりも、今、先生と言った?
「よっ、ひさしぶり」
視界の端に、見慣れた黒いブーツが映り込む。視線を上げると、女の子の隣には久しぶりに見る元カレが立っていた。彼は片手を女の子の頭に乗せながらよしよしと撫でている。
「っ、」
目に入れた瞬間に、反射で眉間が寄った。堪えていたものが流れ出さないように力を込める。もう二度とこの顔を拝むことはないと心に決めていたのに、目にしてしまえば懐かしさと恋しさで胸が張り裂けそうだった。
しかしそんな私とは相反して飄々としたその姿は、まるで謝る気などさらさらないかのような軽さを含んでいる。いや、中身はマイクさんかもしれない。真相は、わからない。
「ごめんなァ、俺がヘマしちまったんだよ。にしても、こんなヘビーなことになってるっつーのは知らなかったケドよ」
ずいぶんと表情豊かに喋る元カレが、申し訳なさそうに手を合わせている。その表情を見て、すとんと腑に落ちた。彼は、相澤消太じゃない。
「もしかして、本当なの……?」
「ああ、ようやく信じたか」
金髪の男に振り返ると、彼は額に手を当てて項垂れていた。あれは、消太がよくやる仕草だ。
だとしたら、この子は一体──。
「その子は雄英で保護してる子だ。俺の子どもじゃない。だから安心しろ。それにたぶんお前が見たのは俺じゃないよ。もう入れ替わって一ヶ月になるからな」
なんだ、そうだったんだ──ほだされそうになって、思わず鞄を握り締めた。
「だとしても、あなたは連絡してくれなかったじゃない」
「……言いたくなかったんだよ」
「言いたくない? そんな重大なことを?」
それなら、やっぱり結果は変わらないんじゃない? だって、この人はどこまでもいっても私を信用してはくれなくて、大事なことは何一つ話してくれなくて、きっと私が日々どれだけ虚しい時間を過ごしてきたかなんて一生理解できないんだ。
苦手な料理の腕を磨いて、さみしい部屋に花を飾って、あなたが帰ってくるのをただひたすら待っていたっていうのに。
「もう、いい……疲れた」
立ち上がって、二人の間をすり抜けようとした。弱々しい力が、私の服の裾を掴む。
「ま、まって、相澤さんっ」
「……はい?」
「ごめんなさい……わたしの、せいで……ごめんなさい」
「ダァーから、エリちゃんのせいじゃねェって」
うつむいて涙を湛えた女の子を、消太の身体がしゃがんで抱きしめる。茫然として、その姿を眺めた。
「お別れは、先生が悲しむから……だからっ」
「エリちゃん。こいつらなら心配いらねェから、あっちで待ってよう、な?」
もし彼に子供ができたなら、あんな風に抱きしめて手を引く未来もあるのだろうか。
個性事故なら良かったじゃない、と思う自分と、それでも、またあの待つだけの部屋に戻るのかと問う自分がいる。ズタボロになった私は後者の意見に屈しそうだった。
消太の姿をしたマイクさんが、女の子を連れて離れてゆく。
二人残された空間には気まずさが残るが、小さく観念してソファに座った。
「……悪かった」
「もう、遅いよ」
「いや遅くない」
断言するのは、あなたじゃないでしょう。私の白い目に追い立てられて、彼の視線がたじろぐ。それからグッと目を瞑り、また私を見つめ返した。
「もし事故のことを話したら、お前は会いたいって言うだろ……だから、言いたくなかったんだ」
いつもよりもハイトーンな声が、愛しい人の口調で語りかける。
「どういう意味?」
「この身体でお前に会いたくなかったんだ……電話も」
「なんで電話もだめなのよ。せめて一言連絡くれればよかったじゃない! そしたら私だって……」
シワのない色素の薄い顔に、ぐぐっと眉が寄った。何拍も溜めて、彼は意を決したように、ようやく口を開いた。
「以前、お前を山田に会わせたとき……お前ら気の合う感じだっただろ」
「……え?」
「初対面のくせに肩なんか組んで……俺の前でやたらベタベタと……だから……あー、くそ」
頭をがしがしと掻いて、金色の髪が揺れる。そのまま口元を隠して視線を横にずらした。あれは滅多に見せない、彼が恥ずかしがっているときの仕草だ。
え、まさか──。
「嫉妬、してたってこと?」
思わず、ぽかんと口が開く。
「……悪いか」
「え、ほんとうに?」
「してたよ、だから〝これ〟で会いたくなかったんだ」
恥ずかしさも相まってか、ひどく不服そうな彼が私をやさしく睨んでいた。
なに、それ。
「……触れないのに会うなんて、不合理だろうが」
彼が、ぎこちなく続ける。
「連絡控えてたのは、声が聞きたいって言われるのが嫌で……それにこの格好で接してたら、お前が気移りするんじゃないかって……その、悪かったよ」
なにそれ。そんなことのために、私は一ヶ月も思い悩んできたの? そんなことのために、滅入るような日々に耐えてきたっていうの?
「ありえない……」
呆然としたままふらりと立ち上がると、彼が咄嗟に手首を掴んだ。
「おい」
──バンッ!
「ありえない!!!」
反対の手で持っていた鞄を思い切りぶつけてやった。
「私がいつもどんな思いで待ってると思ってんの?! 大して会えないくせに連絡も少なくて、もう愛想尽かされたんだってわかってても、何度も自分を奮い立たせてここまで耐えてきたのに! そんな、そんな理由で……こっちはもう、あんな部屋うんざりなの!!」
「っ、おい、」
「すごく、さみしかったのにっ!」
「っ……!」
ぽろりと零れた本音に釣られて、目元が熱くなる。消太が驚いた顔をして私を見ている。
「すごく……すごくっ、さみしかったんだよ」
ゆがんでいく視界の端で、乱暴に腕を引かれた。ぼすん、とレザージャケットに顔を押しつけられる。
「……くそっ、結局こうなるのかよ、」
遠くからは楽しげなバリトンボイスが聞こえる。女の子のかすかな笑い声も。
「今だけだから……気移りすんなよ、絶対」
光に透けそうな金髪が顔にかかって、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれてゆく。
するわけないじゃん、バカ。
レザージャケットをぎゅうぎゅうに抱きしめて息を吸った。愛おしい彼なのに、彼じゃない香りする。
「お引越し、おめでとうございます」
「ありがとう、エリちゃん」
プレゼントを受け取って、彼女は小さな体をぎゅっとその胸に抱きしめた。恥ずかしがる少女をそっと解放して、笑顔を返している。
俺たちは雄英の敷地内に設けられた世帯用の住宅に引っ越した。エリちゃんの可愛らしい勘違いは現実となって、今や彼女は本当に〝相澤さん〟になっている。
荷解きの中で、受け取った引越し祝いや結婚祝いが、段ボールに紛れて所狭しと並んでいた。座っていろと言っても、なかなかゆっくりしてくれない彼女が、しごく楽しそうに段ボールを解いてゆく。
「ふう、少し休憩しない?」
「ああ、そうだな」
差し出されたマグカップは、最近新しく買い直されたものだ。おそらくこいつは、もう昔のように花瓶にされることはないだろう。なによりも、そんなことにならないようにと俺が心に決めている。
ソファに腰掛けると、彼女が隣に座った。肩に頭を乗せられて笑いかけられると、もっと早くこうするべきだった、と幸せな後悔が頭をよぎってゆく。
「ねえ、今日の晩ご飯は何にしよっか」
「お前の作るものなら、なんでもいいよ」
ダイニングテーブルには、透明なガラスの花瓶に青い紫陽花が生けられている。山田とエリちゃんから受け取った引っ越し祝いだ。花を見つめる俺に気づいたのか、彼女が問いかける。
「ねえ、紫陽花ってどうしていろんな色があるか知ってる?」
「いや」
「土壌のpH値で変わるんだって」
「ふーん」
「だから私、消太にはいっぱい食べさせてあげようと思って」
「……どういう意味だ」
「いいヒーローは、いい土壌からってね」
カラカラと笑う彼女の声が、心地いい。
もうすぐアイツらがやってくる。俺の嫁に会わせろと、うるさく騒ぐ生徒たちの顔が浮かんだ。
つい、口元が緩む。そんなことを考えながら、彼女の腰に回した俺の手は、少し膨らんだ愛しい腹をやさしく撫でている。
おわり