Final Mission
耳に押し込んだ超小型のインカムから、ザザッとノイズ混じりの音が聞こえる。たまに流れてくる状況報告に、シャンパングラスを傾けながら耳を澄ませた。
あっちは今頃、取引エリアに潜入した頃か──?
「相澤ァ、そっちはどーよ」
俺にしてはめずらしく小声で、インカムにささやく。
『異常なし。むやみに話しかけるな、お前の声は気が散る』
「ワーォ、ソーリー……」
ダチへの気遣いが、まさかの嫌味にチューニングされて返ってきた。ひでーよな、あいかわらず。
それに話しかけるなつったってよー、もう軽く二十分はここで待ちぼうけだぜ? 暇にもなるっつーの。
入口近くの壁に背を預けてたたずむ俺の横を、イブニングドレス──床に触れそうに長い夜会服を着た淑女たちが通り過ぎてゆく。誰もがみな、俺があの有名なボイスヒーローだとは気づかない。
それもそのはずだ。
今夜は大人しく髪を下ろして、銀色のタキシードでばっちりキメてる。こういう社交パーティはDJやってる俺でも年に二、三度くらいしか訪れない。
──ああ、はやく会いてえなァ……。
しかし残念なことに、このサイコーにイカしたオレを披露したい〝あの人〟は、今この場所にはいない。
「ハァ……」
やっぱり俺にアングラは無理だわ。
「皆様、こちらの会場では仮面のご着用をお願いいたします」
扉の前に立つ警備の黒服がチャックしているのは、招待客が仮面を着用しているかだけじゃない。おそらくこの舞踏会の最中に、優先して案内すべき大口顧客の顔を確認しているんだろう。
なんとまあ、サービスの行き届いたこって。
歴史あるホテルの宴会場は、まるでヴェルサイユ宮殿のように飾り付けられていた。招待客たちのどぎついドレスで、視界は胃もたれするほどにヘヴィー。なのにピントの合わない視界は、まるでメインディッシュのないフレンチのよう。
あてもなく視線を巡らしていると、ふと、ある一点で目が留まった。急激にズームアップされた視界の先に──ああ、やっとか、と口の端が上がる。
「お出ましのようだぜ」
奥の扉からひっそりと入場してきた一組のカップルがいた。
一人は、噂どおり〝狼〟の顔をした小太りの男で、今夜のターゲット。裏で開催されている闇取引の元締めだ。
そしてその傍らには、バイオレットのイブニングドレスを着こなした、息を呑むほどにうるわしき女性。照明を反射するラメ入りのサテン生地が、会場にしっとりと華を添えている。
ビジューのついた黒いレースの仮面は得体のしれないうつくしさを際立たせているが、たとえ素顔を隠したとて、その美貌はつゆほども隠せてはいない。
心臓が激しいビートを刻みはじめる。
「接触する」
『頼んだぞ、プレゼント・マイク』
塚内さんの言葉に「ン」と返す。
今夜は仮面舞踏会──誰もが仮面の下に素顔を隠し、日常を忘れてひとときの自由を楽しむ時間。
ヘマなんてしねぇよ。
だって俺は、悪にまみれた野獣からプリンセスを救い出す、たった一人のナイトなのだから。
「ヘーイ、会長サン!」
「ああ! これはこれは、かの有名な〝ボイスヒーロー〟ではございませんか! まさか本当に足をお運びいただけるとは」
その声に、まわりのレディたちが小さく沸き立つ。
うん、想定どおり。
「ハハハッ! 会長サン、俺も一応アバンチュールで来てるんで、そこんところ頼みますよ」
自分の仮面をコツンと弾くと、男はわざとらしく天を仰いだ。
「そうでした! これはこれは、失礼いたしました。今夜はどうぞゆっくりと楽しんでいってください」
権力の誇示──有名なヒーローを招くだけのコネがあると、客に見せつけるための芝居。そしてこの舞踏会が、清廉潔白で正義の名のもとに開催された夜会であることの証明。
ウンザリする。
けれど、今夜の俺はおくびにも出さない。
「そういやァ、先月もラジオの提供ありがとうございました」
「いえいえ。ただのお気持ちですので、どうかお構いなく」
ちなみにィ──と声を落とし、腰を折って毛深い耳に近づく。
「あっちの件は、後日ゆっくり酒でも飲みながらでいースか。……今夜はリスナーが多すぎる」
「ええ、もちろんです。十分用意もございますので、いつでも」
男のマスクの奥がきらりと光った。獣の眼光。そこには商売人のあくどさが滲んでいる。
なーにが〝十分用意はございます〟だよ。
隠語を含ませた会話の奥は、吐き気がするほどに真っ黒だ。
そもそも今回の潜入捜査に俺が抜擢されたのは、偶然にしてコイツが俺に擦り寄ってきたことにある。チャラくて軽薄に思われがちなこの性格が〝利用しやすそうだ〟なんて思われてンのは気に入らねぇが、そこはまァ、今回の作戦に参加できたっつーことでチャラにしてる。
「今夜も盛況そうで」
「ええ。会場の準備もですが、商品の手配もそれなりに」
「ハハッ、そりゃなにより! ちなみに──」
男の隣に立つ女性に、ゆっくりと目を向ける。
ごくり、と生唾を飲み込んだ──ワーォ、すっげ……。
口元を片手で覆って、視界いっぱいに彼女を眺める。上から下まで舐めるように見つめると、仮面の奥で黒い瞳がやさしくほほえんだ。
あーもう、ガチで女神じゃん!
ただひとつ残念なのは、この会場で、いや、おそらくこの世でもっとも美しいレディの腰に、きッッたない男の腕が回ってるってコト。
「……そちらの麗しい女性は、会長サンのご婦人で?」
いえ、と赤いくちびるが弧を描く。
「ご挨拶が遅れました、マイクさま。わたくし、こういう者でして」
白い手が胸の谷間からトランプカードを引き抜いた。ぷるんと揺れて、おもわず釘付けになる。オイオイそりゃないぜ!
「ワーオ、粋な演出!」
うやうやしく受け取ると、カードには関係者のみ解読できる暗号で名前が刻まれていた。
「ミス、ヨミヤ……でオーケー?」
「ええ、よろしくお願いします。ちなみに会長のご婦人は、本日ご不在でして。私は単なる取引相手なんです。彼にはいつも贔屓にしていただいておりまして。……ですが、ちょうど」
妖しくにっこりと微笑む女神は、俺が視界に入っていないかのように野獣のからだに手を添えている。
胸がチリっと焼けた。
「──今後はもう少し深いお付き合いを、とお願いしておりましたところです」
「ハッハッハッ! よしたまえ、お客様の前だぞ」
「あら失礼。わたくしとしたことが」
「ヒュ~! こりゃまた羨ましい限りですなァ、会長サン」
野獣の視線の先には、コルセットで寄せられた胸元が玉のように輝いていた。我が物顔の狼が舌なめずりしてンのが、すこぶる気に食わねェ。
咄嗟に、腕が伸びた。
「ちなみに──」
白くて華奢な手を、下からそっと掬い上げる。
「麗しきレディ。俺とも一夜のおもいでに、一曲いかがですか」
「っ! でも……」
「いいじゃないか、君も行ってきたまえ。なんたって彼はわれわれの大事な〝お客様〟だ。今夜は存分に楽しんでいただかねば」
「……それでは、一曲だけ」
戸惑う手を引いて、会場の真ん中へとエスコートする。
その瞬間、気品のある音楽が流れはじめた。まるで俺たちを待っていたかのように、会場奥の楽器隊が演奏を始めている。
ハチャトゥリアン、組曲「仮面舞踏会」より〝ワルツ〟──読みどーり。タイミングもばっちしのショータイムだ。
「……この野蛮人め」
遠くから聞こえてきた狼の遠吠えが、俺のバイブスをぶち上げている。
「……なァ、本当にやんのォ? その作戦」
数週間前。俺たちは警察署内の会議室で作戦を練っていた。
今回は潜入捜査っつーことで、メンツでいうと俺だけが異色だ。他の連中はヒーロー名は知っているが顔は見たことないような奴ばかり。
「プレゼント・マイク、なにか不都合なことでも?」
俺の問いに塚内さんが首を傾げる。隣に座るイレイザーからの視線は痛いが、今は無視。
「ンーや……さすがに危険じゃねェのかなァーと思って」
「危険は百も承知です」
当事者の彼女が、被せるように言葉を返した。
「でもよォ」
「誰かがやらなきゃいけないんですよ、こういう汚れ仕事は。それに私は慣れてますから」
「……慣れるもんじゃねェだろ、こういうのは」
「お気遣いありがとうございます。ですがご心配にはおよびません。作戦が終わり次第、無事に逃げ出しますよ」
「逃げ出すっつっても男と二人っきりの部屋からだろォ? 危なくねェか?」
「……今回の作戦を実行するために、私は先んじて数ヵ月前から潜入してきました。いまさら代役は不可能ですよ」
それよりも──、と彼女の瞳が鋭く光る。
「大衆に広く名の知れたあなたこそ、本作戦は少々分が悪いのでは……?」
それに関しては、と塚内さんが手を挙げた。
「彼には後方支援を頼んでいるんだ。名の知れた〝ヒーロー〟が舞踏会の中心にいるとわかれば、どうしたって彼に注目が集まるからね。まあ言わば、君と同じおとり役さ。あたりまえだが、奴らを一網打尽にするためには金庫のブツを回収するだけじゃなく、舞踏会の裏で個別に開催されている取引現場を〝すべて同時に〟おさえる必要がある」
つまり、と塚内さんが続ける。
「そのためには包囲網を速やかに突破しなければならない。そのうえ、奴らのトップに報告がいかないような時間稼ぎが必要だ。だから君の〝もしも〟のために、口が達者な代役を置いておくのは悪くないと我々は考えている」
「まあ、そういうことでしたら……」
彼女が観念したように肩をすくめた。
Ummm, そんな仕草もソーキュート。
「逆に相手方の警戒を高める結果にならないといいのですが」
「信用ゼロ、シヴィー! ……But ! そこはどうかご心配なくレディ。口だけは達者なんで、上手くやりますよ」
バチっとウインクを送ると、今度は可愛い顔が眉をひそめた。これは想像以上に印象が良くないご様子。……ナンデ?
アングラで活動する彼女と出会ったのは相澤を通してだった。どうやら昔、何度か現場で一緒になったことがあるらしい。まァそこに関しては早く紹介しろよって話なんだけどさ。
彼女は潜入捜査を得意としていて、根っからのアングラヒーロー。普段から警察と連携して対処に当たっているらしく、そのうえ深夜帯での活動が多い。つまり俺とは正反対。
でも、〝だから〟ってのもあるかもしんねぇ。
こんなにも惹かれたのは、初めてだった。
思慮深くて、冷静沈着、状況把握能力にも長けていて、そんで極めつけはもう──めっっっちゃ美人。マジでヤバい。どタイプ。DJの俺から語彙力飛ばすくらいにはヤバい。
だから最近は、なかなかお目にかかれない彼女にひと目会いたくて、夜中に応援のかかるような事件にちょいちょい顔を出したり出さなかったり。運が悪いときは朝まで駆け回ったりもする。
でもよ、そんな地道な努力も数回に一回は報われることがあるワケで。辞めらンねえのよ、これが。会えたときには「こんばんは」なんてうっすら笑顔を向けてくれるようになったんだぜ? なあ、俺すごくねぇ?
翌朝、目の下を黒く染めたハッピーオーラ全開の俺を見て、相澤はなぜかすべてを察したふうで「バカじゃないのか」なんてほざくから、いつものごとく「シヴィー!」つって返すけど、まあ所詮、恋は盲目ってやつ。
コイツには理解できないだろうから言わねェけどさ。
「では、手筈どおりに」
そういって塚内さんは会議を締めくくった。
まァつまるところ、今回の山ではハニートラップ役として彼女が呼ばれてるってワケ。作戦としては正しい人選かも知んねえけどさ、俺としちゃそれは言語道断。ありえねェだろって話。だからァ──
「おい」
「ンあ?」
「……余計なこと、考えるなよ」
「わァーってるよ」
ダチの忠告を、いい子で守る義理はねえのよ。
第一印象は、うるさい人。ただそれだけだった。
プレゼント・マイク──ヒーローと雄英教師の傍らで、DJやらラジオのパーソナリティやらを務めているらしいこの男は、ひとたび目が合うと、ダムが決壊したみたいにしゃべり始める。
決壊しているから、果てもないし、終わりもない。
個性をかんがみれば、絶対に昼間の活動に適しているはずなのに、なぜだか最近は夜半にばかり活動している、極めて不可解な男。
しまいには大して親しくもない私に「この後、モーニングでもどォですか?」なんてすり寄ってくる始末。おそらく生粋の遊び人だろう。
だから総じて、ただのうるさい人。
それ以上は考えないようにしている。
「夜宮さん、さすがにお上手ですネ」
彼が、わたしの偽名を呼ぶ。
ステップを踏みながら、決して目を合わすことなく、背丈の高い彼の胸元を見ていた。銀色のきらびやかなタキシードが、鈍い照明を取り込んできらきらと輝いている。
よく似合っているな、と思った。
やっぱりわたしとは違う、表の人だ、とも。
「……マイクさまも、なかなかにご経験が豊富なようで」
渋々エスコートされた先は、会場のど真ん中だった。こんな特等席にいては招待客から視線を集めてしまう上に、あの男の機嫌を損ねかねない。予定外の行動は、潜入捜査においてご法度なのに。
ああ、もしかしたら彼の辞書には〝わきまえる〟という言葉がないのかもしれない。
やっぱり、日陰者のわたしとは、まったく違う人種だ。
「俺ァ、今夜のためにちィーっと練習してきましたんで」
「遊び慣れている方は、皆さんそうおっしゃいますよ」
「シヴィー!」
たとえその言動が理解できないとはいえ、恐れることはない。この人も所詮、人の子だ。
それに男なんて生き物は、少しステップを踏めば手に取るようにわかる。なぜならダンスとは、恐ろしいほどに性格がにじみ出るものだから。
そういう意味でいうと、さすがは〝ボイス〟ヒーロー。テンポはいい。自己顕示欲の塊だろうと思っていたけれど、意外にも歩幅を合わせる〝思いやり〟をもっていて、典型的な〝見栄〟も少ないように感じる。ステップも繊細。不規則な動きが少ないから、こちらも合わせやすい。
すこし、意外だった。
もしかしたらだけど、首輪をはめられれば、彼は案外大人しいタイプなのかもしれない。
それに──と、ほんの一瞬だけ、その顔を見上げる。
奇妙な髪型のせいで今まで気づかなかったけれど、見目も、悪くない、と思う。仮面で半分隠されているとはいえ、どこにいても人を惹きつけるそのカリスマ性は、さながらミラーボールのよう。
だからきっと、世の女性が放っておかないんだ。
まあ、それがなんだという話なのだけれど。
「そーんなにガードが硬いと、堕とせるものも堕とせないぜ?」
突然のささやきに、どきりとした。
不思議。このしゃがれたような声が、ずっと煩わしさに拍車をかけているものだと思っていた。けれど、今みたいに優しくささやかれると、途端にその声は甘さを帯びて色気を放つ。
だめ。わたしったら、また考えごとを。
左の肩甲骨に添えられた手が温かくて、つい身を委ねてしまっていたらしい。
調子が狂う。この人といると、ずっとそうだ。
ゆるんだ表情を、ぐっと引き締めた。
「あなたに言われたくないです」
ピンヒールのかかとで、ぎゅっと足を踏み抜く。
「いてっ」
「あら、失礼」
作戦にはこの人とダンスを踊るなんてなかったはずだ。長居すべきじゃない。
「いい加減に開放してくださらない?」
そう訴えると、彼はなぜかうれしそうに笑っていた。表情が溶けたようにデレデレと、まるでずっと欲しかったおもちゃを与えられた子どものように。
え、……もしかして伝わってない?
「まァまァ、そう冷たいことおっしゃらずに。もうちィーっとだけ楽しませてくださいよレディ。アナタと踊れるなんて、俺にとっちゃ夢みたいな話でさ。それに、こんな特別な夜は、きっともう来ない」
女性を支えるべき男の手が、ゆるりと指を絡めてくる。
眉間に、力がこもった。どういうつもりなの、この人。
「ほらほらァ、そんなに怖い顔しないで! みんなが見てるゼ? 俺たちのこと。まるでロミオとジュリエットみたいに」
「私を怒らせていること、もしかしてお気づきでない?」
触れ合いそうな仮面の下の攻防戦。
幸いなことに、タイミングよく演奏が途切れて拘束が解かれた。
無言を返す彼は、微笑みながらもやわらかく眉を下げていて、少しだけ残念そうに見える。
「素敵な夜をありがとうございました、レディ」
この数刻で一気に面倒になった男が、手の甲にうやうやしくキスをした。
「……よく覚えておいて、プレゼント・マイク。ここにキスをしてもいいのは女性が手を差し出したときだけなのよ」
「ワォ、そーなの? ソーリー、知らなかったんだよ」
うそつき。絶対にわざとだ。
「とにかく、私はこれで──」
その瞬間、ぐいと腕を引かれた。とんっと鼻先が彼の服にぶつかる。素肌の晒された背中に、べったりと大きな手が張りつく。
抱きしめられていた。
「──え?」
温かい手が、まるで幼子をあやすように、ポンポンと私をいなしている。
──まずいっ
肝心なことを思い出して、バッと目を向けた。遠くから狼の鋭い眼がこちらを射抜いている。怒りを通り越して、黒服に始末を頼みそうな物々しさだ。
「ふざけないで、早く開放してっ」
「……んじゃ最後に、誤解だけ解かせてくんねェ?」
「は? 誤解?」
ふぅ、と耳に熱い息をかけられる。
猛烈に嫌な予感がした。
「……俺ァは普段から遊び歩くような柄じゃねェーし、ましてや女慣れしてるなんてことは絶対にねぇよ。ずっとヒーローと教師とラジオで手一杯の毎日だ。だから、アナタが俺に抱いてるようなイメージは大いに間違ってるし、なんならむしろ真逆。その正体は、紳士で仕事熱心なタフガイってこと。……アーユーアンダースタンド?」
作戦の変更? それとも行き過ぎた演技?
なんなの、この人。
本当に言うこと成すこと、意味がわからない。
「まァ、そんな忙殺された毎日でも、好きな子のためなら疲れた身体に鞭打って頑張りたいワケよ。お呼びじゃない応援にわざわざ出向いたり、夜中じゅう駆けずり回ったりしてさ。その子のこと、ひと目でも拝めないかって心躍らせたりするワケ。……ナゼって? 俺ァなかなか会えないアングラレディに、一途に恋する純情ボーイだからさ」
「だからっ、それが作戦といったいどんな関係が──」
「……なァ、ここまで言ってもまだわかんねぇの?」
わからない、ぜんぜん。
意味がわからない。
「っ、それがなんだっていうのよ。今は大事な任務の途中で、そんなことはどうだって──」
「そんなこと、ねェ……」
だって、そうでしょう。
関係ないじゃない。
今は重要な任務の途中で、ターゲットはすぐそこにいて、しかもこっちを見て業を煮やしていて、彼にハニートラップを仕掛けるのは私だっていうのに。大切なのはその事実だけでしょ。
しかも、こんな汚れ仕事を請け負うわたしに、なんで。なんで、そんな。だって、あなたは〝表〟の人間じゃない──!
ほんの一瞬だった。
隙を見せた、ほんの一瞬。
「っ……!」
彼のくちびるが、わたしに重なっていた。
長い舌が、口のなかにするりと侵入してくる。頭の後ろでしゅるりと音が鳴る。
ほぼ同時に、耳の奥からノイズまじりの声が聞こえた。
『侵入開始』
もう、なんなの。なにが、どうなってるの。
「ちょっと! いい加減にして!」
強引に攫われたホテルの一室で、捕まれた腕を力いっぱい払い除けた。
「あなた、気は確か!?」
「ンなカリカリしないでくれよ、せっかくのきれいな顔が台無しだぜ?」
「台無しにしたのはあなたでしょう!」
この男は会場のど真ん中で、あろうことかハニートラップ役の私にキスをして、観客の視線を掻っ攫った挙げ句「あんまり暴れると身バレするかもよ?」などとうそぶいて、上層階のホテルへと連れ込んだ。
「いったい、何が目的なの!?」
作戦の変更なんて、こちらは聞かされていない。つまりこの状況は、この男の独断である可能性が高い。
「別に目的っつーほどのことでもねぇけど。……たださァ、好きな女がハニートラップ仕掛ける作戦なんて聞かされて、ハイソウデスカなんて言えるかよ」
「はあ!? ば、バカじゃないの!? 大事な潜入作戦を勝手にむちゃくちゃにして、どう責任とるつもりなのよ!」
「なんかあったら責任はとるケドよ。でもきっと don’t worry. そんな心配は、俺のチョー信頼できるダチがしっかり解決してくれる。……それよりもさァ」
彼が、仮面を脱いでゆっくりと近づいてくる。
「そっちこそ、ダイジョーブなわけ?」
「……え?」
急に表情の抜け落ちた顔。
黙りこくってしまった彼が、いったい何を考えているのかわからない。さっきから、わからないことだらけだ。
「なによ、どういう意味?」
「……今どういう状況か全然わかってねーんだな、マジで」
「え、だからなに──きゃ!」
唐突に視界が揺らいだ。バフッとシーツが揺れて、コルセットで締められた身体が軋む。
「うっ……!」
息が詰まる。驚いて目を開けると、影の差した顔がこちらを見下ろしていた。咄嗟にクロスした腕はあっさりと崩されている。動かそうとした両方の腕が、手首でがっちりと固められていてびくともしない。そのあまりの手早さに、理解が追いつくまで時間を要した。
「男と二人きりの部屋から簡単に〝抜け出す〟なんつー考えがどんだけ甘ちゃんなのか、マジで全然わかってねーんだなと思ってよ」
ぞくりとした。
身の毛がよだつほどの低い声は、圧倒的な力の差を感じさせる。さっきまでの甘さが嘘みたい。喉が硬くなる。動けないでいると、彼がパッと手を離して私の片足を持ち上げた。
「っ、ちょっと!」
その足をグッと折りたたんで、あろうことかこの人はめくれ上がったドレスの中を覗いている。
「……エッロい下着」
「は、はあ!? ちょ、離して!! この、変態!」
「ほら、男の力には敵わねェだろ? しかもこんなエッロい下着つけて、こんなんもう『どうぞ襲ってください』って言ってるようなもんじゃねーか。危ねえよ」
「なッ、任務なんだからしかたないでしょう!?」
「任務っつっても、ココは見せるとこじゃねーのよ?」
なんなんだ、この男。
意味がわからない。何がしたいんだ。
「み、見せることもあるかもしんないでしょ!? いい加減、放して!」
「だーかーらー、見せちゃダメだっての」
「あ、あなたには関係ないじゃない!」
力いっぱい暴れると、彼が耳奥に詰めたインカムをコツンと弾いた。
「まァ、お得意の状況把握ができてないくらい俺に夢中になってくれてんのは嬉しいけどネ」
「っ……!」
その言葉にハッとした。
……そうだ。おかしい、おかし過ぎる。
なんで今まで気付かなかったんだろう。
あれほど頻繁に鳴っていたはずの通信が、先ほどから一度も鳴っていない。この人に言われるまで、まったく気づかなかった。
あやふやな記憶をたぐり寄せる。
いったい、いつから? いつから通信が途切れてる?
『侵入開始』
ああ、そうだ、この人とダンスを終えてからだ。
あの通信を最後に、それ以降インカムは一度も鳴っていない。突入チームが取引エリアに侵入したのであれば、何かしらの連絡が入るはずだ。もしかして失敗した? いや、あれだけヒーローが居てそんなはずは──。
なのに、思い返せば不可解なほど、インカムは静まりかえっている。
「……どういう、こと、なの」
ごくり、と唾を呑み込む。満足そうな男が、白い歯を見せて笑っている。
あやゆる可能性をめぐらせて、ひとつの考えに行き着いた。というか、どんな道を介したとて、この考えにしか行き着かない。
信じられない。到底、理解できない。こんな馬鹿げたこと。それでも、
「戸惑ってンのも、カワイイね」
もしかしたら、私は侮っていたのかもしれない。
エンターテイナーとしての彼の本気を──。
折りたたまれた脚に、顔が近づいてくる。
「っ……!」
すねの上でチュッと軽やかなリップ音がして、腰が引けた。服従するような口づけをするくせに、服従させたいとでも言いたげなジェダイトの瞳が、妖しくこちらを見下ろしている。
意味が、わからない。
私情で計画を台無しにするこの男の魂胆も、それを行動に移してしまう愚かさも、そこまでして手に入れたいなんていう、ふざけた心情も。
そして、このすべてを暴くような翡翠色の瞳が、そんなに嫌いじゃないということも、すべて。
「一回しか言わねェから、よーく聞いててな」
金色の髪が肩から流れて、私の頬をなでる。
くすぐったくて、なぜか、もどかしい。目が、離せない。
「レディ……今夜は、仮面舞踏会だ」
そう、そのはずだった。大切な潜入任務だった。
「誰もが仮面の下に素顔を隠し、日常を忘れて自由を楽しむ時間」
なのに、わたしの仮面はとうに剥がされている。この男もマスクをしていない。いったいいつ剥がされたのか、思い出せもしない。
「……そんな素敵な夜に、キミだけを犠牲になんてしねェよ」
するりと、温かい手が頬を撫でる。
「そんなこと、俺が絶対にさせねェ」
抵抗を忘れた身体から、力が抜けていく──。
ああ、もう、全部どうでもいい。
どうでもよくなるくらい、この男にまんまとハメられた。
チャラいくせにいつも健気に追いかけてくる不可解な行動も、あしらっても諦めないデートの誘いも、視界に入ると弾けるように笑うあどけない表情も。
目立ってばかりのあなたと違って、言葉の裏ばかり考えてしまうわたしには微塵も理解できない。だって。
こんなわたしの、どこがいいの──?
重要な潜入捜査の裏で根回しして、みんなに迷惑までかけて、わたし一人を守るためにこんなにも労力をかけて。
そこまでして、あなたが欲しがるわたしは、
「……そんなに、いい人間じゃない、のに」
彼の目に光が差した。
どうしてだろう。この宝石みたいな瞳が、嫌いになれない。
個性が大したことないから汚れ仕事ばかりで、ヒーローとしては決して褒められないような戦い方をしてきた。かんたんに『好きだ』なんていう男は、いつも口先ばかりだったから、あしらうことでしか私はわたしを守れない。
大事にされない人生なんて、もう嫌。……だけど、それと同じくらい、女を武器にしている自分が大嫌い。
なのにあなたは、こんなわたしを好きだっていうの──?
「……好きだ。ぜんぶ好きだよ。このクリクリしたおめめも、ツンと高い鼻も、おべっかで固めた口も。本当は若いくせに毅然としてるところも、人一倍頑張り屋さんなところも、他人をかんたんに寄せつけないガードの固さも、誰かを守ったときに見せてくれる眩しいくらいキュートでプリティな笑顔も、ゼンブ」
やめてよ、そんなんじゃないのに。ただの、弱小ヒーローなのに。
「俺に足りないモンあるなら言ってくれれば直すし、相応しい男になれるよう努力する。一生かけて大事にすっから。……だから」
だから──。
「俺だけの、ハニーになってくれよ」
「っ! わたしは……んっ」
ふたたび落とされたくちづけは、抗えない恋の味がした。
諦めの悪い男は潜入捜査をめちゃくちゃにして、私の仮面を剥いで好きだという。必死に閉じてきた心の壁をバリバリとこじ開けて、垣間見えたわたしの弱ったらしい心にやさしくキスを落とす。
「んっ……」
力が、抜けていく。
それでもいいと思っている自分がいる。
こんなに強引な人は、今までいなかった。きっとこれからも現れない。いつか後悔する日が来るかもしれない。だけど、今夜だけは、言葉の寵愛を雨のように降らせるこの人に、この身を委ねてみたい。
「……わたし、も」
彼が、目をぱちくりさせる。
「……あ、あなたのこと」
ごくり、と喉が鳴る。
翡翠色の瞳が、頬を染めたわたしを映して揺らめいている。
「す、き……かも」
訪れた沈黙に絶えられなくて、ぎゅっと目を瞑った。羞恥の熱が耳の先まで駆けのぼって全身を染めてゆく。だめ、熱い。ぜったい変な顔してる。大切に守ってきた胸の内を、こんなにもあっさりと口に出してしまった。もう、後には引けない。
背中が丸まって、ぎゅっと掴んだタキシードの襟元に顔を寄せた。
「……ま、マジ?」
身体を揺すられて、覗き込んできた彼の表情が見えた、そのとき──。
『お楽しみ中悪いが、全員確保したぞ』
『おめでとう、ふたりとも。みんなもお疲れ。任務は無事完了だ。撤収しよう』
『よかったなぁ、プレマイ! おめでとさん!』
『こっちは任せて、朝までゆっくりしてけよヒーロー!』
『ヒュ~♪ 熱いダンスだったぜ~!』
『 『 『 お幸せに~! 』 』 』
え、……え?
「センキュー!!!!!」
長い沈黙を噛み締めて、思考がゆっくりと覚醒する。
……うそ、でしょ?
死んでいたはずのインカムが、突然生き返った。ちがう、生き返ったんじゃなくて、あ、あ。
耳の奥でクラッカーの音が弾ける。誰かの叫びが、別の誰かの叫びを掻き消している。浴びせられた言葉に頭が追いつかない。彼らがみんな知っているということは、つまり、こちらの会話が、すべて……そんな、まさか。
ねえ、うそでしょ。おねがい、誰か、うそだと言って──!
「YEAHHHH !!!!!!! 一生しあわせにするぜハニー!!!!」
雄叫びを上げる彼の下で、わたしは放心していた。
頭の中が真っ白になって、くるくると視界がまわっている。キャパシティを超えた思考回路が、ぷつん、と切れた。
──あ、もう、この仕事辞めよう。
それから数カ月後、わたしは本当にヒーローを引退することになった。なぜなら、週刊誌にすっぱ抜かれた舞踏会のキス写真で、顔バレ身バレ、おまけになぜか家バレしてしまったからだ。
まさに、アングラ生命の断絶といえる。
「まァ、撮られちまったもんはしょーがねェよ、ウン」
この、大うそつき。
本当はすべて、彼の思惑どおりだったんだろう。手の上で転がされてたんだ、ずっと。
それでも──
「グッモーニング、ハニー♡」
それでも今は、しあわせそうに隣で目を覚ます夫に怒ることすら忘れてしまった。
たぶん、これからもずっとそう。わたしは彼のハニーとして、果てないお喋りに付き合ってゆくのだと思う。
おわり