壺切りほうじ茶の正しい淹れ方 二
  〜目は口ほどに物を言う〜

 また、見られている──。

 

 最初にそう感じたのは職員室だった。

 その後も、授業中のグラウンド、担任クラスの教室、廊下でのすれ違い様。まあ、相手は学内の人間。見つけようと思えばどこでだって見つけられるだろう。

 

 職業柄、他人の視線には敏感だ。こちらは気付いていない振りを続けながら、何かあるのかと考えてすぐにその正体に行き着いた。たとえ俺のような野暮な見た目でもヒーローや教師をやっていれば、そういう類のアプローチが全く無いかと言われるとそうでもない。

 しかしその大半は面倒事が殆どで、ついでに言えば、それは年末の忘年会や年度末の慰労会などで存分に発揮されることが多い。

 

「お隣、よろしいですか」

 

 そう言ってあたかも偶然を装い、こちらの返事を待たずして隣の席を陣取る強者も中にはいて、それなりの世間話をしていれば「やっぱりか」とわかる。

 そんな奴、適当にあしらえばいいのだが、学内の人間となるとそうもいかない。世話になっている手前、相手への配慮もそこそこに断らなければならないからだ。

 とにかく面倒臭い。その一言に尽きる。

 あの事務員もその類だろうとレッテルを貼り、いつもの如く見て見ぬ振りをした。

 


 

 あまり使われていない古い資料室がある。

 教員用の物品置き場と化した埃っぽい室内は、数年前に増設されたらしい戸棚に古い資料が所狭しと詰め込まれている。中身はどうせ学内システムが導入される前の紙文化の遺産だろう。

 その奥に隠れるように佇む革張りのソファを見つけたのは偶然だった。仮眠場所に丁度いいかと拝借し始めて、最近では残業続きの体を横にするための簡易的なオアシスと化している。

 

 おそらく自分しか使用していないだろう資料室の扉がガラガラと開いたのは、定時をとうに過ぎた時刻だった。二人分の足音がドタドタと流れ込むように音を鳴らし、パチッという音で蛍光灯の鈍い光が室内に灯る。バタンと荒らしく扉が閉まる。

 嫌な予感がした。

 

「すいません。ですから、そういうのはちょっと」

「なんで?」

「……あの、興味なくて、そういうのに」

「もったいない、こんなに可愛いのに」

「いや、そんな……」

 

 なに課の奴だ、こんな時間に男女でコソコソと。仮眠を邪魔された不満半分、呆れ半分で、壁側にそっと寝返りを打つ。

 俺に気づかない内にとっとと出て行ってくれ。

 

「同期の奴がどうしても君を呼んで欲しいって言っててさ、頼むよほんと」

「すいません、でも本当に合コンとかそういうのは、ちょっと」

「いや、合コンじゃなくて! 懇親会的なあれでさ」

「でも……」

 

 明らかに困ったような女性の声。胸の内に小さなお節介がくすぶる。はあ、とため息を吐いた。

 でもまあ、無理強いは見過ごせない。仕方ないかと寝袋に入ったまま上半身を起こしたところで、思わず身体が強張った。戸棚の隙間から見えたのが、いつも自分に視線を送っている彼女だと気がついたからだ。

 

「でも、恋人は居ないんだよね?」

「まあ、はい」

「じゃあ好きな人がいる感じ?」

「……」

「ああ、いる感じかあ。それって学内の人?」

「あ、いや……」

 

 否定した彼女の顔は、俯き加減にも余裕を失っていた。誰が見ても肯定の意にしかとれない。しかも自分はおそらく、その正体を知っている。

 出るに出られなくなってしまった状況で、俺はやむを得ず気配を殺した。

 

「それってもしかして、ヒーロー科の先生だったりする?」

「え⁉︎」

「ああ、やっぱり君もそうなの?」

「い、いえ、違います!」

「いや、こっちも君の気持ちを否定するつもりはないんだけどさ」

「……」

「ヒーロー科の先生たちみんな忙しいし、恋愛なんてしてる暇ないと思うんだよね」

 

 いや、どの口が。

 確かに俺は避けているが、他の教師全員がと言われると必ずしもそうではないだろう。

 

「だからそこは外した上でさ、一度俺たちと食事にってのはどうかな?」

「どうかな、と言われましても……」

「視野を広げる意味でさ」

「いえ、広げなくて結構です」

「んー、頑なだなぁ」

 

 ちなみに、と男が続ける。

 

「どの先生なの?」

「え」

「やっぱりマイク先生? それともブラド先生?」

「あ、いや……」

「人気あるもんね、あの二人」

 

 そうなのか、知らなかった。

 確かに以前参加した懇親会で、あいつらの隣には女性職員がひっきりなしに列を成していたような気もする。

 

「男性だとエクトプラズム先生、セメントス先生、スナイプ先生。……あと、誰がいたっけ」

「……」

「え、もしかしてイレイザー?」

「っ……」

 

 いや、こいつ、俺だけ敬称なしか。

 

「え、本当にイレイザーなんだ。なんか意外」

「ち、ちがいます!」

「野暮ったい人が好み?」

 

 野暮ったい……まあ、間違いではないか。

 

「あ、相澤先生はすてきです!」

「まあ、うん。わかるよ」

「生徒さん思いで、書類もとても丁寧だし……」

「いや、うん。でもそれ普通じゃない?」

「ふつう、ですか……」

「うん。しかも一番興味なさそうじゃん、女性に対してさ。前も忘年会で迫ってきた女性に面倒そうにしてるの見たよ、俺」

「……はい」

「んー、イレイザーは無理じゃないかなぁ、って俺がいうのもアレだけど」

「……無理だなんて、そんなことわかってます」

「それなら」

「わかってるけど、お、推しにするくらい、いいじゃないですか!」

 

 オシ──?

 

「推しって……」

「お、推しは尊いんですっ!」

「……はあ」

「遠くから眺めるだけでいいんです! 相澤先生が私のことどう思ってるとか、知ってるとか知らないとか、そんなのどうでもいいんです! お、推しなんですから!」

 

 捲し立てた後の息切れが音のない資料室に響いた。

 

「ああ、君そっち系の子か……」

 

 男が手のひらを返したように声の温度を下げる。そのまま「じゃあ気が向いたら連絡ちょうだい」と、呆れた様子を隠しもせず部屋から出て行った。

 残された彼女は、小さく肩を落とす。

 

「そっち系ですよ、どうせ……」

 

 そして、去って行った。

 

 よくわからんが、どうやら自分は彼女の中で〝オシ〟にカテゴライズされているらしい。

 

 

「マイク」

「んァ?」

「オシってなんだ」

「ホワッツ? OSHI?」

「オシ……が尊いとか、なんだとか」

「アァ! 〝推し〟ね」

「心当たりあんのか」

「アレだろ~? ヒーローで誰が一番好きだとか、ファンが使う用語だろ。好きです、応援してます~って意味のな」

「応援……」

「なんだ、生徒が言ってたのかァ? ジェネギャには早ェぞ、イレイザー」

 

 片眉を上げた蔑んだような目が、グラス越しに俺を揶揄する。おい、呆れた目で見るな。そのジェネギャってのもよくわからんが、もういい。

 

 マイクに言われた通り〝推し〟で検索すると、検索結果には次のようにあった。

 

『主にヒーローやアイドル、俳優などについて用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう』

 

 そうか──。

 

 あんなに熱烈な視線を寄越しておいて、実のところ、彼女は俺を恋愛対象として見ていたわけではないらしい。この言葉に即すと、男としてではなく、むしろヒーローとして俺を〝応援〟してくれていた、ということのようだ。それも好感を持って、人に薦めたいと思うほどに。

 まあ、なんともありがたい話だが、ずいぶんと肩透かしを食らった気分だった。

 

 ヒーロー業を始めてから長らくアングラでやってきた手前、俺は自分のファンというものに出会ったことがない。

 だから、悪い気はしなかった。

 視線だけは熱心なくせに、なんのアプローチもないのは、つまりそういうことだったのか。そうとも知らずこちらは自意識過剰にも酷い思い違いをしていた。途端に羞恥心と罪悪感が込み上げ、思わず捕縛布の中に口元を隠す。

 

 俺は、彼女を〝熱烈なファン〟として認知した。

 


 

 その後も度々視線を感じることはあれど、以前ほど気にならなくなっていた。むしろ、今日もまた俺を応援してくれているのだと思うと、疲れた背中を押されたりもした。

 

 それからしばらく経ち、資料室での出来事すら頭から抜け落ちた頃。偶然居合わせたミッドナイトと並んで職員室までの廊下を歩いていた時のこと。

 

 また、彼女がいた。しかも今度は、別の男と。

  

 廊下の端に寄る彼女を遠目から視認できたのは、話し相手の男が手を合わせて頭を低く下げていたからだ。

 

「マジで先輩に殺されそうなんスよ、一回でいいんで頼みます」

「いや、ほんと……ごめんけど」

「……っスよね。正直なところ、俺もあの先輩は男としてはどうかと思います」

「……うん」

「あ、今のはここだけの話で!」

「もちろんだよ。いつもごめんね」

 

 通りすがりに聞こえただけの会話。彼女がまた誰かからの誘いを断っていた。すれ違い様に視線を感じたが、俺はまた気付かない振りでやり過ごした。

 

「ちょっとイレイザー。聞いてるの?」

「聞いてますよ」

 

 

 さらに別の日。

 

「失礼します」

 

 職員室の扉を開いたのが彼女だとわかったが、俺は視線を向けなかった。逆に、刺さるような眼差しを感じる。彼女が、俺を見ている。

 

「ブラド先生、少し宜しいですか」

「ああ、どうした」

「こちらの資料、サインが抜けているようでして」

「ああ、悪い。うっかりしていた」

 

 ブラドが書類に書き込んでいる間、またもや感じる視線。〝俺のファン〟が、俺を見ている。そこはかとない気恥ずかしさを感じていると、ブラドが手元を動かしながら彼女に囁いた。

 

「そういえば、大丈夫だったか?」

「え?」

「ほら、例のアイツ」

「……あ、あぁ。大丈夫でした」

「もしかして、いつも、ああなのか?」

 

 隠語をふんだんに用いた会話は、また彼女が誰かに言い寄られていたのだと分かる。おそらくその場に居合わせたブラドが、見かねて助けたんだろう。

 察してはいたが〝俺のファン〟は、随分と男に人気があるらしい。

 

「いえ、その……」

「困っていれば、俺からまた言おうか」

「い、いえ! 大丈夫です、本当にありがとうございます、ブラド先生」

 

 感謝を述べる彼女の声は穏やかだった。初めて聞く声色に、普段はこんななのかと柔和な声が耳に残る。そういえば彼女の笑った顔は見たことがない。困っている顔はよく目にするが。

 

 ブラドが「いや、その、なんだ」と感嘆詩を挟んで、書類に落としていた視線を上げた。

 

「……大変だな、モテるってのは」

 

 ブラド。なぜ、そこでお前が赤くなる。

  

 俺は、気付けばもう隠すことなく二人を見ていた。もしかしたら彼女と目が合ってしまうかもしれない、と小さな覚悟を決めたのも束の間。

 

「そんなこと、全然ないです!」

 

 ブラドに次いで真っ赤に染まった彼女が、急に声を荒げ、書類をぶん取り走り去った。バンッと荒々しく扉を閉める音が響いて、職員室に妙な静寂が戻る。

  

「お、俺は、何かマズいこと言ったか……?」

 

 戸惑いを隠せないブラドに、ミッドナイトとマイクがクスクスと笑いながら野次を飛ばす。

 

「んふふ。可愛いわねぇ~、あの子」

「もしかして~、狙ってンのかァ? ブラド」

「ンなわけないだろ!」

 

 必死の形相で「俺はただ困ってそうだったから助けただけだ」と言い張るブラドは、しっかりと耳まで赤い。

 

「あの子、満更でもなさそうだったじゃない。庶務課の可愛い子は急がないと売れちゃうわよ~? ヒーローじゃなくたって、事務方にも男はごまんと居るんだから」

「たしかに庶務課は入れ替わり激しいよなァ~」

「グッ……だから、冷やかすな!」

 

 ブラドの顔が更に赤みを増した。俺はそれを横目に、キーボードの上で止まっていた手を動かし始める。

 どうやら〝俺のファン〟は、ブラドに狙われているらしい。

 


 

 それからまた数週間経ち、桜が散り始めた頃。

 年度末の慰労会は、相変わらず忙しなかった。

 

 マイクに引きずられるように参加した俺は、仕方なく隣に腰を落ち着けてすぐさま後悔した。案の定というか恒例行事というか、瞬く間に女性職員がにじり寄ってきてキツい香水に包囲される。

 

「ヘーイ、いつもありがとうね、お嬢さんたち」

 

 陽気なマイクを残して、すぐさま逃れるように空いている席へと移動した。面倒事は勘弁だ。

 俺が逃げてきたことに気付いたのか、隣に座っていた男性職員が俺の空いたグラスへ向けて「どうぞ」と瓶ビールを掲げる。

 

「ああ、すいません」

 

 そう口にしてすぐ、あの男だと気がついた。資料室にいた、あの男。逃げてきたとはいえ、こちらも別の意味で臭い席だったかと後悔が過ぎるが、もう遅い。

 

「相変わらず凄い人気ですね、ヒーロー科の先生たちは」

「……はあ」

「イレイザー先生はよろしいんですか?」

 

 あっちに戻られなくて、と男が先ほどまで俺がいた場所を指差す。マイクとブラドが女性職員に囲まれて酒を注がれていた。

 

「興味ないんで」

「そうですか。もしかして結婚してらっしゃいます?」

「いえ」

「彼女さんがいらっしゃるとか」

「いえ、全く」

「そうですか。お忙しいですもんね」

「……まあ」

「ご興味ないですよね、やっぱり」

 

 やっぱり──?

 

 なぜか満足そうな声を上げた男に、怪しげな気配を感じて顔を拝めば、たまたま斜め前の席に目が留まった。

 

 彼女が、座っている。

 

 ああ、そうか。この男は聞かせていたんだ。俺が女に興味もない、ということを彼女に。

 

 俺が近くに座っていることは承知しているだろうに彼女は顔を伏せてこちらを見ない。いつもはあれほど遠目からでも〝推し〟である俺を応援してくれているというのに。

 

「よかったらご紹介しますよ、俺の友人。学外の子でよければ、結構可愛い子知ってるんで」

 

 その言葉と同時に彼女が足早に席を立ち、隣の同僚らしき女性に「お先に失礼します」と声を掛け、逃げるように立ち去った。「え、もう帰っちゃうのー?」と後ろから掛かる声に振り向きもせず、彼女はそのまま大広間を後にする。

 

「……いえ、結構です」

 

 今日、彼女からの〝応援〟は貰えなかった。

 


 

 春が過ぎ夏がきて、雄英は夏休みを迎えていた。授業がない分、業務が落ち着きを見せ始めた時分。彼女からの〝応援〟はひっそりと続いていた。

 

 変わった事といえば、俺がその応援に〝返事〟をするようになったことだ。

 最初は視線を返してみた。こちらは君の〝応援〟をちゃんと受け取っているよ、という軽い気持ちからだった。なぜか、すぐ逸らされてしまった。

 

 廊下でのすれ違い様に、また送られる視線。今度は頭を下げてみた。別に同じ職場の人間同士、挨拶するくらい可笑しなことじゃないだろう。健気にもこんな俺を敬い、応援してくれているのだから。

 

 しかし俺の考えは、傲慢だったのかもしれない。

 そうして二度三度繰り返していると、彼女からの〝応援〟は、ぱたりと鳴りを潜めてしまった。

 

 なぜ。

 

 てっきり、あちらも喜んでくれるとばかり思っていたのに。普通は自分の憧れのヒーローに手を振り返されたら喜ぶもんじゃないのか。

 

 それ以来、職員室を訪れても、廊下ですれ違っても、彼女は俺を一瞬たりとも見やしない。〝推し〟からの返答はお望みじゃなかったのか。あえて毅然とした態度を貫いていた方が、彼女にとって理想のヒーローだったのか。

 

 わからん。

 

 俺は、失ってしまった彼女からの〝応援〟が恋しくなっていた。

 


 

 さらに季節は移ろいで、秋が訪れようとしている。

 夏の終わりのにおい。それがこんなにも侘しいと感じたことが、未だかつてあっただろうか。

 なぜか、と考えるのは愚問だ。その答えを知るより先に、俺の足は用もなく庶務課の前を通るようになったから。

 

 いつもなら瞬く間に過ぎ去るこの季節を、一際長く感じる理由がある。

 

 今ではもう、彼女の名前はもちろん、庶務課のどの席で、何の業務に携わっているのかさえ把握している。誰と親しくしているのかも、昼時には自前の弁当を裏庭で食べていることでさえ。

 教室から戻る足は、遠回りをして庶務課の前を通るようになったし、社内便でやり取りしていたはずの書類ですら、庶務課に赴くための口実にしている。

 

 なのに、彼女は一向に俺を見ない。なぜだ。

 

 庶務課に足を運ぶようになって、度々その姿を確認することがルーティンとなった。となれば、彼女が数日間、席を空けていることに気付くのは当然で。

 

 焦り出したのは五日目だった。いくらなんでも休みが長すぎやしないか。

 土日と合わせて約七日。彼女の席は綺麗に整頓されたまま触られた形跡がない。

 

 こういう詮索するような行為は良くない分かっている。……が、俺は彼女が親しくしている女性に声を掛けた。

 

「すいません」

「あら相澤先生。どうされました?」

「……今日、彼女は」

 

 そういって、隣の席を指差す。

 

「ああ、有給の消化中ですよ」

 

 有給の消化中。そう聞いて途端に、いつかの誰かの言葉がフラッシュバックする。

 

『庶務課の可愛い子は急がないと売れちゃうわよ~?』

『たしかに庶務課は入れ替わり激しいよなァ~』

 

 もしかして──。

 

「……辞めるんですか」

 

 声が震えてやしなかったか。揺さぶられるような感情に、胸が詰まる。

 

「いや、来年度になると有給か消滅しちゃうそうで、閑散期にまとめて休みをとってるみたいですよ」

「そうですか……」

 

 なんだ、辞めるわけではないのか。ほっと息つく自分がなんとも情けない。俺は一体、何に安心しているのか。

 

「じゃあ、この書類はまた今度にします」

「もし彼女宛なら預かりましょうか?」

「いえ、急ぎではないので」

 

 俺はまったくもって無関係の書類を脇に差し、足早に庶務課を去った。

 

 たった数日。なのに俺は、彼女が恋しくて堪らなくなっていた。

 


 

 翌週の月曜日。

 朝一のまだ冷えた給湯室。

 俺の気持ちなど梅雨知らず、彼女はそこに立っている。

 

 鼻歌混じりに茶を淹れる姿はやけにご機嫌で、初めて拝む姿に焦燥が駆ける。この数日間、どこで何をしていたんだ。男と出掛けてたのか。そのご機嫌な理由は何なんだ。

 

「いい香りですね」

「え?」

 

 気付けば、声を掛けていた。

 

 話してみれば、新しい発見がいくつもあった。

 彼女は俺と話す時、あまり視線を合わせてくれないこと。こちらが勘違いしそうなほど真っ赤に染まって、手遊びを止められないこと。それでも必死に会話を続けようとしてくれること。

 そして、そんな姿を、俺がたまらなく可愛らしいと感じていること。

 

 いい加減、観念しよう。

 俺は自分のファンに手を出す、お粗末極まりない奴だったと。

 


 

 職員室に茶を届けてもらった翌日。

 

 またも彼女は朝早くから給湯室に立っていた。示し合わせたような待ち合わせが、ふしぎと心地いい。

 俺に気付いた彼女は「……どうぞ」と控えめに湯呑みを渡してきて、今日も今日とて頬を染める。立ったままそれを啜って、すぐに置いた。要件はこれじゃない。

 

「俺のこと、推してくれてるんですよね?」

「え……?」

「すいません、偶然立ち聞きしてしまって」

「え⁉︎ ……い、いつ、え⁉︎」

 

 一体、どこで? と書かれた顔は面白いほど真っ青に変わる。いつなのかも思い出せない、資料室での出来事。あの時はまだ、彼女がこんなにも表情豊かだとは知らなかった。

 

「最近、見てくれなくなりましたよね、俺のこと」

「っ……」

「理由を聞いても?」

「……え、あ」

 

 長い時間、彼女は押し黙っていた。口を開いては閉じ、手遊びを激しくして、ようやく開いた口が嘘をつけないことを俺は知っている。

 

「目が、合ってしまって……」

「ええ」

「その……推してるのが、バレるのが怖くて」

「そうですか」

 

 なんだ、そんなことか。そんなことで俺はここ数週間も振り回されていたのか。

 

「推してるってことは、好きか嫌いかでいうと、好きってことですよね」

「へ⁉︎ ……は、はい」

「ほうじ茶ご馳走になったので、今度お礼させてください」

「い、いえいえ! そんな、お礼だなんて!」

「俺のこと好きなら、断る理由ないですよね」

 

 これがただの礼ではなく、下心ありきの誘いだと分かってくれるだろうか。彼女の視線が縦横無尽に給湯室の中を飛び交う。頬に両手が張り付く。

 

「……お、お願いします」

 

 観念した彼女は茹蛸のように真っ赤に染まって、俺を見た。ああ、この顔が見たくて堪らなかった。

 

「はい。いつが空いてますか」

 

 緩む口元を隠しもせず、俺は加虐心を満たされながらスマホのスケジュールアプリを開く。

 

「ちなみにこれはデートなんで。そこんところ、勘違いしないでくださいね」

「っ!」

 

 勘違いしようもないだろう。

 強気に攻める俺の目は、これまで君がしてきたよりもずっと、口ほどに物を言うようになったから。

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