壺切りほうじ茶の正しい淹れ方 三
「合理的にいこうと思ってるんです」
初デートの待ち合わせ場所で、彼は出会い頭にそんな言葉を口にした。
「はあ……」と間抜けな相槌を打ってしまったのは、今日はあまり時間がないという意味だろうかと、考えを巡らせていたからに他ならない。だってヒーロー業と教師業の二足の草鞋で生きる相澤先生は、きっと無いはずの時間を縫ってこの場所に来てくれたに違いないから。
「合理的に……ですか」
つまりは、無駄のないデート。ふむ。近場で済ませたいということだろう。同意の意味で大きく頷く。
しかし実際は、私の考えていた〝合理的〟からは大きくかけ離れていた。
「今日一日、俺とのデートが楽しかったら付き合ってもらえませんか」
──ん?
思考がショートして、言われた言葉を反芻する。呆けた頭に、ゆっくりと言葉の意味が浸透してゆく。ようやくすべてを理解した私は、人生で出したこともないような大声を発してしまった。
「え⁉︎」
初デート早々に放たれた告白まがいの言葉。心臓までもが口から飛び出そうになって思わず両手で覆う。
いや、決して大袈裟な話ではない。だってそれは私の人生において、まさしく天地を揺るがすほどの一言だったから。
「……駄目ですか」
「い、いえっ! ……え、あの、冗談じゃ、なく?」
「ええ、冗談じゃなく」
沸騰した脳みそがグルグルと思考を回して「タノシカッタラツキアウ」と呪文を唱えはじめる。なんで。どうして。いつから。だって、私があなたのことを好きだったはずなのに。なのに、なんで。
「現時点で嫌なら言ってください」
「いや、まさか!」
「それは、よかった」
小さく眉を下げる彼は、少しだけ安堵したように見えた。
まさかそんな、嫌なわけがない。こっちはもうずっと長いこと、見つめるだけの日々を送ってきたのだから。夢のようなこのシチュエーションに浮き足立つのは当然のこと。
しかし、これは一体どうしたことか。
だって、私──。
「……もう、楽しいです」
思わず「あ」と漏れた。脊髄反射。自分への問い掛けが、思いのままに口から飛び出た。マズい。これではもはや返事をしてしまったようなものでは?
硬直していると、クククと喉が鳴るような音が降ってきた。見上げると相澤先生が片手で口元を押さえている。
あ、「フッ」の上は「ククク」なんだ。
喉を震わす仕草が新鮮で、つい魅入ってしまう。いや、待て。今はそれどころじゃない。戻っておいで、私の平常心。
「まだ始まってませんよ」
苗字さん、と名前を呼ばれた。胸の奥がきゅんとする。
「んじゃ、行きましょうか」
私に背を向け歩き出した彼は、今日は大人のモノトーンコーデという特集でファッション誌の表紙を飾りそうな色気を醸し出している。髪を結いてジャケットを羽織るのは、もう反則では?
ああ、どうしよう。バクバクと跳ねる心臓が終わりまで持ちそうにない。
「……お手柔らかに、お願いします」
「ええ、善処します」
彼はそう言って、振り向きざまに口の端を上げた。これは、夢じゃない。どうやら私はこれから、妄想ではない本物の相澤先生とデートをするらしいのだ。
焼き鳥屋のカウンター。シックな雰囲気を漂わす仄暗い照明の下で、右隣の彼はその大きな口でぱくりとねぎまを頬張っている。一口で串のほとんどが飲み込まれた。すごい。
「すいません。こういう店しか知らなくて」
「い、いえ。相澤先生の馴染みの店なら、わたしも嬉しいです」
ゆっくり過ごしたいという彼の要望で、プラネタリウムを観に行った。当然のように確保されていたカップルシートに、秘めやかな思惑を感じて赤くなり、こちらは正直、天体観察どころではなかった。
その後「晩飯に焼き鳥でもどうですか」と誘われて、夕飯までお供できることにバンザイしたいところを、「……ぜひ、ご一緒したいです」でおさめた私は今日一日でかなりの免疫力を獲得したと思う。
空いた皿が増えてきた。もうそろそろ、この幸せな時間が終わってしまう。侘しさと同時に、バクバクと駆け出す心臓。デートの始めに言われたあの言葉が、一口また一口とグラスに口をつける度に頭をよぎる。
タノシカッタラ、ツキアウ。
苗字さん。呼ばれた声に顔を上げると、彼は少しだけ不安そうな顔をしていた。
「……今日、どうでしたか」
──き、来た!
「あ、はい……あの、すごく楽しかったです。いつも遠くから応援してばかりの身だったので、こんな風に……で、デートに誘ってもらえて、その」
ダメだ。なんて言ったら良いのかわからない。というか、なんて言っているのかもわからない。プラネタリウムの感想も、このお店が気に入ったことも、モデルみたいにカッコいいことも、全部伝えたいのに上手く言葉にならない。
身体がたぎるのはお酒のせいでもあるし、彼のせいでもある。
どぎまぎしていると、テーブルの下で硬くなっていた私の拳を大きな手が包み込んだ。──あ。
「好きです」
「っ、」
「俺と付き合ってもらえませんか」
あの時と、同じだった。
職員室にお茶を届けた、あの時と。
ぎゅっと手を覆われて、手の甲をするりと撫でた指にはあらがえなくて、背筋がぞわぞわして、導かれるままに拳を開くと、武骨な指が五指を分け入る。
けれどもそこに宿る熱は、今日に限っては彼の方がずっと高かった。相澤さんの体温が、手の平からじんわりと私に溶けていく。
「あ、……あの、」
こんな人生の大どんでん返しがあってもいいのだろうか。私なんかただの事務員で、崇高なヒーローのあなたには釣り合うはずもないのに。
でも、それでも。
「……私も、すきです」
想いは喉を飛び出して、すっと声になった。この世に生まれ落ちた愛の言葉は、ちゃんと彼にも届いたようで、黒曜石の瞳がゆらりと光を宿す。
──コトッ
「良かったなあ、先生。はい、これデザートの胡麻プリンとほうじ茶ね」
空気を裂くような男性の言葉に、バッと前を向く。ニヤニヤしたこの店の大将が「ヒュ~」と口笛を吹きながら空いた皿を下げていった。
ポカンと口が開いて、ゆっくりと顔を突き合わせる。そして、吹き出した。そうだ、ここはまだ焼き鳥屋のカウンターだった。
「すいません、ここで言うつもりはなかったんですが」
「ふふ……はい、私もです」
目の前の湯飲み茶碗から立ち昇るほうじ茶の香り。深みのある芳香に、えにしを感じる。
「あの、不束者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
彼とのすてきな思い出を、いつも紡いでくれるほうじ茶。その香りも相まって、私は人生で初めて、祈りのような思いを胸に描いていた。
〝彼が人生最後の彼氏でありますように〟と、乙女のような無垢な願いが。
〝相澤先生〟から〝相澤さん〟へと呼び名を変えて、私達は少しずつ互いのテリトリーを拓いていく。彼は〝苗字さん〟から〝名前さん〟へと呼び名を改めた。こちらはまだ緊張して名前を呼べそうにないことを、彼も許してくれている。
付き合い始めて気づいたことは、相澤さんが意外とまめに連絡をくれる人だということ。毎日メッセージをくれたり、時間がある時は寝る前に電話をかけてくれたりもする。私との関係をゆっくりと進めてくれるところに、とても好感を覚えた。
今年で、二十代も後半に入る。当然、相澤さんが初めての彼ではない。けれども青春の甘酸っぱさを思い出すほどには、彼にぞっこんだった。最近の私は、もう何度も幸せの絶頂を更新している。
しかし、そのしあわせな気持ちと同じくらい、沸き起こる思いがあった。
〝嫌われたくない〟
そりゃあ、好きな人には嫌われたくない。
いつまでも好かれていたい。
ただ、好きが深まるほどに怖気づいてしまうのが、私らしいなと思う。
彼はとても忙しい人だから、会えない時間に嫉妬なんてしないように気をつけよう。今までどおり、お仕事を優先してもらおう。私のことは二の次、三の次でいい。
〝お前見てるとイライラすんだよ〟
そんな言葉を、彼には絶対に言わせないように。私のことで煩わせることのないように。この関係がいつまでも彼の拠り所であり続けられるように。
だから私は、今日も平然と嘘をつくのだ。
「付き合ってる人はいません」
季節がまたひとつ巡って、冬を迎える頃。年末の合同忘年会が今年も開かれていた。
遠くの席ではヒーロー科の先生方(主にマイク先生とブラド先生)が事務方のお姉様方に囲まれている。相澤さんはその隣のテーブルで、他の先生たちと談笑しているようだ。
「ほんとお~?」
猫撫で声の彼女は、同じ庶務課に勤めるひとつ先輩で席も隣同士。気心の知れた仲だけど、最近は少しだけ疑り深くなっている。
「ハッピーオーラが凄いんですけど」
「そ、そんなことは……」
ありますよね。はい、すみません。
でも、仕方のないことだと思う。
だって少し前までは廊下のすれ違いざまにそっと見つめるだけだった人が、今や隣で笑顔を向けてくれるようになったんだもの。
廊下ですれ違った時も、周りに人がいなければ、手の甲をするりと撫でて「今日も電話していいですか」なんて小声で聞いてくるのだ。叫び出さないだけマシじゃないだろうか。
「はい」以外の返事はもちろんないけれど、最近は私も少しだけ欲深くなって、「待ってます」と言えるようになった。そんな小さな変化ですら幸せバロメーターを満たしていくのだから、もうハッピーオーラは隠せるはずもない。
しかし、弊害は如実に表れていた。
庶務課には、彼女の他にも三人の女性職員がいる。どうやらヒーロー科の先生方にはすでに〝挨拶〟を済ませたようで、今日に限っては彼女たちもガッチリと輪を囲んでいた。
「ゲロっちゃいなさいよ」
「それにしてもマイク先生、今日もカッコいい~」
「えーっ、ブラド先生でしょ。断っ然っガタイがいいし」
さしずめ雛人形の三人官女だと、入職当初から思っている。庶務課の女性たちは標準装備のように見目麗しく、バリキャリでオーラが違う。まつ毛の先から爪の先まで一切の抜け目がない。
だからといって悪い人達ではないのだ。威圧感が、その、凄いだけで。
しかし困ったことに、最近は彼女たちにも疑われ始めている。
「定時に上がること増えたし、なーんか生き生きしてるし、前より笑うようになったし。あと、なによりも肌ツヤがいい!」
「うう、勘弁してください……」
「良いじゃない、この歳なんだから。男の一人や二人いるでしょ」
「こーら、後輩ちゃんに悪い教育しない」
「そうそう、あんたの私生活の方がよっぽどよ」
相澤さんとのことは、何があっても口にはできない。ヒーロー科の先生とお付き合いしているなんて知れたら、それはもう格好の餌食で、一生をかけてグチグチ言われるに違いないのだ。もし相澤さんの隠れファンでもいようものなら、後ろから刺されてしまうかもしれない。だから、細心の注意を払っていたのに。
試練は唐突に訪れた。
「ヘーイ! キュートな事務員さん♡ この前はほうじ茶センキューな! ちィーとこっちで俺らと話そうゼ」
「……はい?」
「ほらほら! ハリーハリー!」
なぜかマイク先生に手を引かれて、強引に連れ去られた。背後からは甲高い叫び声が聞こえる。私の頭はフリーズしていた。
「え⁉ 嘘でしょあの子! マイク先生といつの間に⁉」
「なにあれ、どゆこと!」
「私たちも行っちゃう? 突撃しちゃう?」
「麗しきレディ、一名様ご案内!」と陽気な彼の行き先は、もちろんヒーロー科の卓だろう。
秒で感じ取った全方位からの殺気に、思わず反射でバシッとその手を払い退けてしまった。それはもう、ハエをはたき落とすかのように。
女性たちの悲鳴がそこら中から聞こえる。しかしなぜか私の叫びは声にならない。どうやら人間は本当に恐ろしいとき、声が出なくなるらしい。
「ワオ、ごめん。……嫌だった?」
「わ、わ、私、あの」
「よせ、マイク。嫌がってるじゃないか」
──グイ
「へ?」
肩の違和感に顔を上げると、今度はブラド先生が私を抱き寄せていた。更に悲鳴が上がる。
「ヒィ!」
力一杯抜け出すと、ブラド先生は「すまんっ」と言って両手を上げた。
マズいマズいマズいマズいマズい──!
このままじゃ庶務課のお姉様どころじゃない。他部署のお姉様方にまで目をつけられてしまう。血祭りだ!
「す、すいません、だ、男性に触られるのが苦手で……!」
そんな窮地の中、今度は背後に〝むにゅっ〟とした柔らかい感触を感じた。首に白い腕が絡まっている。いい匂いがした。
「ちょっとお~、女に気安く触れるなんて、あんたらヒーロー免許剥奪するわよ?」
今度はミッドナイト先生がバックハグをかましていて、私は上手に白目をむいた。この三つ巴は一体なんなんだ。
「ごめんなさいね! さ、座って♡」
彼女は逃げ腰の私をぐいと引き寄せて、そのまま強引に座らせた。隣に腰を下ろしたミッドナイト先生は、私の肩に顎を乗せたまま会話をはじめる。
「私がマイクに頼んで呼んでもらったのよ~。ブラドが珍しく鼻の下伸ばしちゃってるみたいだから」
「……え?」
「オイ、何言ってんだ! 俺はそんなこと!」
「でもちゃっかり肩抱いてたよなァ、さっき」
ニタニタと笑うマイク先生とミッドナイト先生は、どうやらブラド先生が私に気があると勘違いしているらしい。と、と、とんでもない!
「まさか、そんなことあるはずないです!」
「あら、そうかしら? こーんなに可愛いんだから私でもいけそうよ、あなた」
──どくん
ナチュラルに髪を一束掴んで口付ける仕草に、思わずくらりとする。十八禁ヒーローの名は伊達じゃない。
「で、正直なところ、どうなのよ」
ロックオン──丸みの多い柔らかさに隠れて、さながら女豹が獲物を狙うかのごとく彼女は私を見ていた。ごくり、と唾を飲み込む。
「どうなの、とは……」
「ブラドはいけるの? それとも、いけない?」
「え、あ、その……」
なんという直接的な質問。逃げ場がない。
もしここが宴会の場ではなかったなら、私も正直に答えたかもしれない。けれども、つい先ほど同僚たちに「付き合ってる人はいません」と大口を叩いたばかり。彼女たちはおそらく食い入るようにこちらを見ているだろう。
そうでなくとも殺意の籠った視線が四方八方から注がれていた。さながら虎に囲まれた羊。つまりブラド先生が〝いけても〟マズいし、〝いけなくても〟マズい状況だ。
「わ、わたし……あの、」
意を決して、言葉を発する。
「……ブラド先生は、その、すてきだと思います」
「きゃ♡」
「で、でも! 私、好きな人がいるので、恋愛とは少し違くて……」
「あーん、残念!」
「アウチ! 残念無念ブラド! ちなみに苗字ちゃんの想い人っつーのは、どんな奴なのよ。教えてテルミー!」
マイク先生に名前を知られていたことにドキリとして、想い人というワードにも心臓が跳ねた。
「え……あ、」
どんなやつなんて、そんなの──。
身体の熱が急上昇していく。まるで湯を沸かすように身体がたぎった。すべての細胞が余すことなく活性化してゆく。
だから、無意識だった。
助けを求めるように、彼を見てしまったのは。
「っ……」
まっすぐな眼差しが、突き刺さる。
グラスで口元を隠しながらも、胸を射抜くほどの鋭い視線が、間違いなく私へと注がれていた。感情は読めない。いつもどおりの無表情で、けれども「俺は見てるぞ」とでも言いたげなその目は、瞳の奥で答えを待っているようにも見える。思わず顔をそらした。
相澤さんの、すきなところ──。
こんな面前で、しかも本人の目の前で。まだ付き合い始めたばかりなのに。
当たり前だが、相澤さんの好きなところなんて二人きりのときにも口にしたことはない。告白されてからの私は、ただただ彼からの好意を受け取るばかりで、きちんと返せてはいなかった。
それにきっとあの人は、助けてはくれないだろう。
だって、私が提案したのだ。この関係は秘密にしておきたいと。
心を決める。逃げ場を失った私は、えいやの思いで口を開いた。
相澤さんは、とても──
「……誠実で、」
「アーハー……」
自分の考えを、正直に口にできる人。
「優しくて、」
「んー、男は優しくなくっちゃね」
恋愛下手であくせくする私の手を、そっと引いてくれる人。
「カッコよくて、」
「見た目も好きってワケだな、オーケー」
見た目も中身も、男前な相澤さんがだいすき。
だから、ずっと目で追ってたの。赴任したての頃、彼だとすぐにわかった。私のおばあちゃんを、ひったくりから守ってくれた〝彼〟だと──。
だって、おばあちゃんの言う通り「黄色いゴーグルをつけて、布をグルグルと首に巻いていた」から。
でも、だからってワケじゃない、あなたを好きになったのは。
書類一つとっても対応が丁寧で、まわりを思いやれる人なんだと知った。それなのに万人に好かれそうにない見た目をしていて、そのギャップに胸がときめいた。生徒たちを除籍するのは将来を憂いたゆえだと知ったときも、誰からも讃えられない優しさに胸を打たれた。
「大丈夫ですか」
そう言って手を差し伸べた彼が、私のおばあちゃんだけじゃなくて、きっと多くの人にとってのヒーローなのだと思う。その──
「強さも」
「「強さ?」」
あ。
「強さって……まさか、君の好きな人はヒーローなのか?」
それまで黙り込んでいたブラド先生が、口火を切った。
「あ、いや、えっと……」
私ってば、また失言を──!
「オーケーオーケー! そこまでにしとこうゼ」
「ま、どっちにしても、おっちょこちょいなブラドじゃ無理そうね~」
「な! 俺はそんなにおっちょこちょいじゃない!」
「だってえ、苗字ちゃん、何回アンタのサイン貰いに来たと思ってんのよ。もしかしてワザと?」
「ワーオ、そりゃ職権濫用だぜ、ブラド!」
「ち、ちがう! 断じて違う!」
ハッと我に返ると、周囲からの視線は鋭くなっていた。そうだ、このままではブラド先生が私のことを好きだと皆さまに勘違いされてしまう!
「えっと、ブラド先生は素敵な方なので、きっとお似合いの方がいらっしゃると思います。私なんかではとても──」
その声が、思わぬ人物に掻き消された。
「しかし、君が思いを寄せる奴もヒーローなんだろう?」
「え?」
ブラド先生がテーブルの上で拳を硬くする。
「……まあ、事務仕事は確かに、その、頼りない面もあるかもしれん。だがな、強さで劣ってるとは限らないんじゃないか? 俺だって生徒を指導する立場だ、日々鍛錬は怠らない。それに──」
急に始まってしまった演説に、当事者の自分が止められるはずもなく、その声はアルコールの煽りを受けてか段々と熱を高めていく。
しかし、自分の聴覚は遠ざかっていた。視界がぐるぐるする。ブラド先生が回っている。緊張が振り切れそうだ。
こんなの、だめ、やめて──。
恥ずかしさのあまり、呼吸が浅くなっていく。顔も熱い。体も熱い。早く終わって。
おねがい、誰か止めて!
「だからだな、その、もしよければ、俺と一度くらい食事に──」
──ゴンッ
身体が跳ねる。目が覚めた。鈍い音と共にピシャリと大きな飛沫がとぶ。その余波は静けさを呼んで、ただならぬ空気を醸し出していた。隣の卓からだ。
「他所でやれ。酒が不味くなる」
ガツンと、頭を殴られたような衝撃が走った。
顔を上げると、そこには鋭く敵を睨むような眼があった。
ああ、まただ──。
息が、吸えない。血の気がサーッと引いていゆく。まるで水を浴びせられたかのように頭が冷えた。胸がぎしりと、ぎこちない音を立てる。
「ごめんなさい。失礼します」
息もつかせぬ速さで謝罪を口にして、目にもとまらぬ速さでその場を去った。その後の記憶はない。鞄をひっつかんで、呼び止める声すら振り切って、ただひたすら家まで走った。
〝お前見てるとイライラすんだよ〟
言われてもないセリフが、なぜだか耳の奥に張りついて離れない。
『今日は不愉快な気持ちにさせてしまってごめんなさい。これからは気をつけます。今度、直接謝らせてください』
メッセージアプリに既読がついた。コール音が鳴る。相澤さんからだ。思わず息を呑む。大丈夫。ほんの少し、画面をタップするだけ。そして「ごめんなさい」って言うだけ。
しかし亡霊に取り憑かれた私は、彼の電話を受けることができなかった。謝りたいなんて言っておいて、臆病者だ。
「なにやってんの……ばか……」
化粧が溶けた顔を、枕に擦りつける。スンと鼻をすすって、濡れた枕から顔を上げた。あんなに優しい相澤さんを怒らせてしまった。もう嫌われてしまったかもしれない。
くるりと回って、天井を仰ぐ。
やっぱり私は、どこまでいっても自分に自信がない。昔からずっとそうだ。たぶん、あの言葉を言われてから、ずっと。
自信がないことは、なぜだかすぐ人にバレてしまう。付き合いを深めた人からはよく指摘を受けた。いろんな人から同じような指摘を、何度も。
『もっと堂々としてればいいのにさ』
胸を張れないんです。私なんか、と思ってしまって。
『その喋り方、どうにかならないの? 勿体ないな~』
だってうまく言葉が出てこなくて。それがまた、申し訳なくて。
『誰彼構わずいい顔してってから、こうなんだろ』
ごめんなさい。気をつけるね。
昔の服を着た私がそう言うと、元彼は眉間の皺を深めた。
『マジでさ。お前見てるとイライラすんだよ』
まただ──。
またあの時と同じ状況。誰も傷つけたくないのに、頑張れば頑張るほど肝心なことが上手くいかなくなってゆく。
目を瞑ると、まなこの裏に古い恋人が映った。もうぼんやりとしていて、その輪郭はハッキリとは思い出せない。けれど──。
いつかあの顔が相澤さんに変わってしまうんじゃないか。
私はそれが、とてつもなく恐ろしい。
「昨日は大変だったね」
「どうも……」
翌朝、エレベーターの前で一緒になったのは経理課の男性だった。この人からは何度もわかりやすくアプローチを受けている。少しだけ、苦手。……いや、少しじゃない。
「良かったら話聞こうか?」
「いえ、結構です」
「イレイザー、怒ってたね」
「っ」
「まだ諦めてないの?」
「……」
だったら、ダメですか──とは言えない。言えない自分が嫌いだ。
「あの様子だと、嫌われちゃったかもねえ」
「……はい」
「そもそもさ、見た目が好きってマジ?」
「……」
「さすがに見た目でイレイザーは無いと思うなあ。いや、一般論でね?」
その瞬間、ぶわりと血圧が上がった。昨日の今日でメンタルがグラついている。不安定に心の天秤が揺れた。あまりにも不躾じゃないか。人の気も知らないで。
「……相澤先生は、かっこいいですよ」
「ふーん。でも付き合ったら苦労すると思うよ? 彼女より仕事優先しそうだし、なによりヒーローってだけで出突っ張りだし、それに──」
「それでも、私があなたの誘いを受けることはありません」
怒っていたんだと思う。この人に対して、ここまでハッキリと言葉にしたのは初めてだった。
「……だからもう、誘わないでもらえますか」
ピシャリと言い放った私の言葉に驚いたのか、彼はエレベーターに乗り込まなかった。傷つけてしまったかもしれない。けれど、諦めてもらうためにはこうするしかない。
その言葉の重大さに気づいたのは、それから数週間が経ってからだった。
「先輩、ちょっといいスか」
経理課へのお使いを終えた後、大学時代から親しくしている後輩に呼び止められた。彼は直属の上司である〝あの男性〟から、私を飲みの席に誘うように何度も頼まれていて、そのたびに板挟みになっている。
彼が、神妙な顔つきで私に尋ねた。
「……あいつと寝たって、マジですか?」
「え?」
勇気を振り絞った結果が、まさかこんな形で後悔に変わるとは思いもしなかった。
暮れかかるオレンジ色の廊下に、しばらく佇んでいた。ガラス張りの校舎が光を取り込んで、影を伸ばしている。
ここにいても仕方がないと、やむなく庶務課への道を辿った。茫然自失のまま、とぼとぼと足だけを懸命に動かす。
ふしぎなほど、落ち着いていた。怒り狂うでもなく、泣きわめくでもなく。魂を奪われたみたいに、ただぼんやりと。
おそらく挙措を失わなかったのは、自分にも非があると思ったからだ。
いつかの相澤さんの言葉がよみがえる。
『先日はごめんなさい』
『怒ってないですよ。俺の方こそ態度悪くてすいません。……ただ』
『?』
『……いや、なんでもないです』
相澤さんは、怒っていなかった。
けれど、ガッカリはしたと思う。
人の顔色をうかがうのに慣れた私にはわかる。実際にあの日のやりとり以降、どこか会話がぎこちない。電話の回数も減って、手を握られることもなくなった。だから多分、これは単なる思い過ごしじゃない。
ほろりと、涙がこぼれる。
『……やっぱり法螺吹いてたんスね、あの人』
『それ、誰から聞いたの……?』
『本人っスよ。部署の飲みの席で。正直おかしいなとは思ったんですけど、さすがにその場で〝違うでしょ〟とは言えなくて……すいません。他にも何人かいたんスけど、アイツあまりにも堂々と話すから』
もしかしたら噂になってしまうかもしれません──。
あの手この手で奸計をめぐらす人だとは思っていた。得体の知れない人だったから、怖くて距離を置いてきた。
こういう話は思わぬところで色がついて、そうしてあらぬ噂が真実となってひとり歩きしてゆく。その怖さを知っているからこそ、普段から気をつけていたのに。また肝心なところで上手くいかない。
私が悪いのかな。ひどい言い方で断ったから。もしこの噂が相澤さんの耳に入ったらどうしよう。……いや、きっと信じるわけない、こんな荒唐無稽な話。大丈夫よ、きっと。彼はちゃんと真実に目を向けてくれる人だから。
だけど──。
私が〝秘密にしたい〟って言ったから、きっと疑念は残るだろう。付き合いも浅い。浅すぎる。信用の薄い私の言葉なんて、心の底から信じてもらえるとは限らない。信じてもらう、自信もない。
「っ……うっ……」
ずっと、好きだった。遠目から眺めるだけで大丈夫だと自分に言い聞かせて、自分の気持ちに蓋をしてきた。それくらい、好きだった。
上手に折り合いをつけてきた。この気持ちは押し込めておくべきものだって。
でも、もうあの頃の私とは違う。戻れない。手の届く人になってしまったから。いつのまにか自分がどんどん欲深くなっている。今では電話で話せない日に落胆するようになってしまった。傲慢だ。あれだけ束縛しないようにと、自分に言い聞かせていたのに。
やだ、嫌われたくない──。
ぽろぽろと大粒の涙がこぼれてゆく。目の縁からどんどん涙が染み出てくる。庶務課に戻るまでになんとかしたかったのに、もう扉は目の前まで迫っている。
とまれ。とまれ。とまれ。
なのに考えれば考えるほど、溢れて止まらない。
もう限界。
「……え、苗字ちゃん? どうしたの⁉」
「は、え、うそ、泣いてる?」
「ちょっと、誰かティッシュ!」
「どうしたの、何があったのよ!」
嫌だ。相澤さんに嫌われたくない。
「せんぱい……わたしっ……どうしたら」
どうにもならない不安が、ほろりとこぼれ落ちた。
「マジでありえない。クソ男じゃない!」
「いや、前々から怪しいなとは思ってたのよ、あんのクソ野郎」
「やたら苗字ちゃんに絡んでたしね」
私は結局、先輩たちに洗いざらいすべてを話した。あの男性のことも。そして、相澤さんのことも。
彼女たちはとても驚いて、けれど、囲むようにぎゅっと抱きしめてくれた。
涙がようやく落ち着いた頃、やはりこのまま泣き寝入りは良くないということになって、そこからの行動は早かった。
「こうしちゃいられない」と立ち上がった彼女たちは、今、恐ろしい剣幕で廊下を突き進んでいる。いつもよりも鋭いヒール音が廊下に響く。
「私たちが話すから。苗字ちゃんはなにも心配しなくていいよ」
「人事に報告する?」
「いや、まずは本人に確認しましょう。バックれるとは思うけど」
「絶対ゆるせないわ」
「ええ、血祭りよ」
移動のさなかも、隣の席の先輩がずっと背中を撫でてくれていた。
「大丈夫だから。先輩たちにまかせよう」
「……はい」
私たちの前を突き進みながら、作戦を練る三人官女たち。どうして私はこれまで、先輩たちを恐ろしいなんて思っていたんだろう。こんなにも頼りになって、こんなしがない私のために、全力を注いでくれる人たちなのに。
私は今までの無礼を、心のなかでそっと詫びた。
背中に添えられた手が、あたたかい。
静かな廊下に、カツカツと怒りのヒール音が連なる。事務方の執務室は寄り集まっているから庶務課から経理課は遠くない。廊下の門を曲がって、いざ、というところで、前方から鈍い打撃音を浴びた。
──ドゴッ
先輩たちの足がピタリと止まる。
その向こうから、地を這うような低い声が聞こえた。
「生徒たちの教育に悪いんで、あまりこういう事させないでほしいですね」
「お、俺は本当に……!」
──バコッ
ふたたび、鈍い音が響いた。黒くて長い脚が、白い壁に亀裂を生んでいる。壁ドンという名の足蹴りが、凄まじい脚力で壁を叩いていた。当の本人は、両の手をポケットに突っ込んで、何食わぬ顔で男に迫っている。
「口答えはアンタの立場を悪くするだけだ」
「っ、イレイザー先生には関係ないでしょう! これは俺と彼女の──」
「関係ありますね」
「なっ……」
「彼女は俺を裏切るような人じゃない」
「……え」
「あんたみたいなクズに、媚びを売るような人でもない」
「……も、もしかして」
「ああ、やはり知らなかったですか」
彼が、白々しく続けた。
「アンタが知ってようが知らなかろうかどうだっていいが、自分の犯した罪はしっかり自覚しとけ」
「……」
「名誉毀損罪」
「っ!」
「こっちは警察沙汰にしたって構わない」
男性は顔を真っ青に染めて、震えだした。背中がずるずると壁を滑る。
「わかったんなら、さっさと消えろ」
「……っ」
男性がちらりと私の方を見て、足早に立ち去る。謝罪はなかった。
「おい」
「っ」
「次に手出したら警察に突き出す。そもそもお前の素行は全部校長の耳にも入ってるからな。相応の覚悟はしておけ」
男性は血の気の失った顔を更に黄土色に染めて、覚束ない足で走り去った。自分の嘘を貫く度胸のなさにあっけなさを感じる。同時に胸をなでおろした。
「……それから」
カツカツとこちらに近づいてくる足音。
「ちょっと借ります」
「え、ええ! どうぞ!」
同僚たちにぐいぐい背中を押されて、彼に手首を攫われた私は、そのまま近くにあった部屋へと強引に押し込まれた。相澤さんが後ろ手に扉をピシャリと閉める。目線の冷たさに怖気づく。
ここは、いつかの資料室だ。
なぜだかわからないけれど、私はこれから〝お説教〟を受けるのだと悟った。
「俺は怒ってます」
「っ、はい……」
「なぜだかわかりますか」
「え、えっと……」
「こっちにおいで」
「は、はい」
離れていた身体が引き寄せられる。彼の顔がかつてないほど近くに迫って、身を硬くした。思わず目を瞑りそうになってやむなく視線を泳がす。すると掴まれたままの手首が少し弱まって、そのまま親指ですりすりと撫でられた。
「まず、俺に言うことは」
「……えっと、さっきの男性とは本当に何もなくて、勝手に噂されて、それで」
「信じてないですよ、微塵も。だから安心してください」
「……そう、ですか」
あの噂は当事者の私さえつい先ほど耳にしたばかりなのに、彼はどこから噂を聞きつけたのか、すぐに対処してくれた。私がどうしようとあたふたしている間に、すべて、きれいさっぱりと。
「……怒ってくださったんですよね、私の代わりに」
相澤さんが、むっと下唇を突き出す。
「ありがとうございます。……本当によかったです、信じてもらえて」
「〝代わり〟じゃない」
「へ?」
「なぜ、俺に相談しなかった」
「あ、えっと……」
なぜ、と訊かれて顔をそむけた。
嫌われたくなくて。そう言葉をおとすと、彼の眉間にしわが寄った。
「それ、前も言ってましたね」
「……はい」
「俺が不安にさせてますか」
「違います! 昔言われたことを、私が気にしてるだけで……」
「んじゃ、やっぱりあの時も勘違いしてたのか」
あの時──すこし考えて、忘年会のことを言われているのだとわかった。
「あんたは何もわかってない」
「?」
「普通わかるでしょう。俺があの場でキレた理由」
「……え?」
「嫉妬ですよ」
「嫉妬……?」
「ええ」
「……あ、相澤さんが?」
はあ、と態とらしいため息を浴びた。目を丸くする。
「好きな女が目の前で口説かれてて、黙ってられるほど俺はできてないよ」
好きな、女。
「言えばいいでしょう、俺と付き合ってるって。そうすれば今回の件も、ああはならなかった」
「でも」
「でも、なんだ」
「……釣り合わないです。だって、相澤さんはヒーローなのに」
「ヒーローも普通の人間だろ」
「でも、私なんか」
「その〝私なんか〟っての、もう辞めませんか」
「っ」
「いや、すいません……でも俺は、あんたを好きになった。他の誰でもない、苗字名前を選んだ」
彼が、ふうと息を吐く。相澤さんの勢いが、少し弱まった。
「はたから見れば、釣り合ってないのはむしろ俺ですよ。名前さんは誰にでも優しくて、きれいで男に人気があって、比べて俺はこの通り〝野暮ったい〟。ましてや言葉足らずだから、愛想尽かされやしないかと……」
そんな風に思われていたなんて、知らなかった。
「ただそれでも、傍にいたいから気持ちを伝えてる」
まっすぐな言葉は、胸に迫るものがあった。喉の奥がカッと熱くなる。またじわじわと視界が揺れてゆく。
「あなたが不安なら、何度でも言いますよ」
手首をやさしく引き寄せられた。拍子でまた、涙がこぼれる。
「名前さんが、好きです」
「っ……うっ……」
「誰にも渡すつもりはない」
とまらない、苦しいほどの愛しさがとまらない。
「泣くのは後。いいからもう、こっち向け」
相澤さんが少し乱暴に私の顎を掴んで、持ち上げた。
「んっ……」
吐息がとける。はじめて、唇が重なった。
部屋の外から声が聞こえる。色めきだった先輩たちの声が、折り重なって廊下に響いている。相澤さんはその一切を気にすることなく、私の唇をていねいに味わい続けた。
なぜだろう。鼻の奥で、ほうじ茶の香りがする。どこにも無いはずの香りが、甘やかな空間を満たしている。彼と強く結び付けられたその香りは、今もずっと、甘く痺れる記憶として私を蝕み続けている。
この日を堺に、相澤さんは変わってしまった。今までの比じゃないほどグイグイ迫る彼に、いつしか新しい噂が職場をめぐりはじめる。
「まわりには、好きに言わせておけばいい」
隠すことをやめた彼は遠慮すら失って、ときどき私ですら置いてけぼりにする。ひとりあたふたする様子を眺めながら、彼は悦に入った表情で、いつもするりと私の手を撫でるのだ。