壺切りほうじ茶の正しい淹れ方 四

 あの事件から、相澤さんはすっかり変わってしまった。

 今までも廊下のすれ違いざまに手を触られたり、帰り際に待ち伏せされてこっそりとお食事に誘われたり、なんてことはままあった。

 

 けれどもこれは、完全に想定外だ。

 

「こちらの資料なんですが──」

 

 庶務課の執務室。扉近くの席には一つ上の先輩とわたし、それから窓際には三人の先輩方がデスクに座っている。いうまでもなく、全員女性だ。

 隣の席の先輩は上小路《かみこうじ》さんという──なぜかミッドナイト先生にゾッコンの、スレンダーな女性が大好きなスレンダーな女性だ。ややこしい。

 彼女はヒーロー科関連の稟議書を担当しているため、よくヒーロー科の先生たちとやり取りをしている。

 そして今日は、相澤先生が上小路さんへ稟議の相談にきていた。

 

「それに関してはこちらの項目を使ってください」

「ああ、そっちですか。すいません、勘違いしてました」

「いえいえ、みなさんよく勘違いされる箇所なので、お気になさらないでください」

 

 さきほどから、心臓がバクバクと音を立てている。心が波立ったわたしの手はマウスを動かしては止め、文字を打っては消してを繰り返していた。

 もちろん、わざとじゃない。なぜか、なんて言葉にする必要もないだろう。すべては相澤さんのせいだ。

 

「苗字ちゃーん、手とまってるわよぉ?」

「す、すみませんっ……」

 

 背中に痛いほど感じる三人官女の目。クスクスと聞こえる笑い声。

 ゆっくりと振り返ると、ニタニタした三人の先輩たちが案の定こちらを眺めていた。この泣きたくなるほどの羞恥心も、彼女たちにとってはただのエンタメなのだ。

 

「では、ありがとうございました」

 

 隣からそう声が聞こえて、ほっと胸を撫で下ろした。今日は無事に難を乗り切ったらしい。相澤さんが扉へ向かっているのが見える──ああ、よかった。

 安堵の意味で肩をおとすと、扉に手をかけた彼が「そういえば」と言って振り返った。

 

「名前さん」

「っ、は、はい!」

「今晩、電話します」

「ひッ! ……う、はい」

 

 相澤さんはテポドン並みの爆弾を投下して、口もとに笑みを忍ばせたまま去っていった。

 

「「「きゃあああ♡♡♡」」」

 

 今日もまた、庶務課には黄色い歓声がほとばしる。そしてこれは、茹でダコになったわたしが先輩たちに大いじりされるまでが必ずセットなのである。

 

 

「もう、やだ……!」

 

 お風呂上がり。枕に突っ伏して叫ぶと、ちょうどスマホが鳴った。最近はほぼ毎日かかってくるようになった彼からの電話だ。〝相澤さん〟と表示されているのを確認して、画面をタップする。

 

「……はい、もしもし」

『こんばんは』

「……こんばんは」

『どうかしましたか?』

「ど、どうしましたもこうしましたもないです、相澤さん! な、なんでわざわざ先輩たちの前で言うんですか!」

『ああ、駄目でしたか?』

「だ、駄目っていうか……その、だって、こうして毎晩かけてくれるんだから、わざわざあんな風に言わなくても」

『はあ』

「はあって、そんな人ごとみたいに……」

『あなたの赤くなった顔を、ひと目見たくて』

「っ、」

『いけませんでしたか?』

 

 最近、相澤さんが本当にわたしの知っている彼なのか、よくわからなくなってきている。

 

「だめ、じゃないですけど……」

『あとあなたに変な虫がつかないように、庶務課のみなさんを味方につけておくほうが合理的だと判断したんで』

 

 すごい戦略的だ……じゃなくて!

 

「は、恥ずかしいんです。みんなの前で、あんなプライベートなこと……」

『どうしてもって言うならやめてもいいですけど。そんなことよりも、俺に言うことありますよね?』

「え?」

『……ありますよね』

「え、な、何のことでしょう」

 

 沈黙が痛いほど胸に刺さる。心当たりがありすぎる。まさか、もう彼の耳に入っていただなんて。

 

『校長から聞きましたよ。あの男が懲戒解雇にならないように掛け合ったそうじゃないですか。なに考えてんだ、あんた』

「それはっ、……その、彼も反省しているようだったので、それで……わたしも酷いこと言ってしまったかなって思って、その」

『ああいうのはこっちが優しさ見せるとすぐつけ上がるんだよ』

「そう、なんですかね」

『はあ……』

 

 彼がさっきまでとは違う、重たいため息をついた。

 

「やっぱりご存知だったんですね、相澤さん」

『当たり前でしょう。俺はすぐにでも警察に突き出したい』

 

 最近、相澤さんは感情的になるとたまに敬語が外れるようになった。

 怖いとは思わない。むしろわたしのことを心から心配してくれているのだとわかるから、うれしい気持ちの方が強い。

 

「根津校長からは『公正に処分するからね』と言われてしまいましたので、その、どうかご安心を」

『ええ、たぶん懲戒免職でしょう』

「そうですか……」

『あなたが気を揉むことじゃない。それくらいじゃなきゃ俺も安心できません』

 

 胸が、とくんと震えた。

 

 どうしてだろう。彼とこうやって言葉を交わしていると、ときどき無性に会いたくなってしまう。別に遠距離をしてるわけでもないし、学校でもよく顔を合わせているのに。

 お説教を受けているどうしようもないわたしだけれど、ひとつ成長したことがあるとすれば、この気持ちを素直に言葉にできるようになったことだろうか。

 

「あの、会いたいです……相澤さん」

『……俺もです。今週末、よかったら出かけませんか。なるべく時間つくります』

 

 彼はヒーローだから、休日とはいえ否が応でも緊急要請に駆り出されることがある。それなのに相澤さんは、ほんの少しの合間を縫ってわたしに会いに来てくれる。

 

『あなたが観たいと言っていた映画、観に行きましょう』

 

 彼が、好き。

 そしてきっと、相澤さんも同じ気持ちでいてくれている。今なら、そう信じられる。


 映画館を出たばかりのわたしの身体は、すごく火照っていた。ぬるりとした手汗をスカートに擦り付けて、前を歩く彼の背中を追いかける。何事もないように飄々と歩く彼は「面白かったですね」などと、きっと心にも思っていないことを平然と呟いている。

 

「相澤さんっ」

「どうしました?」

「あの、その……て」

「て?」

「手を、な、撫でるのは……その、映画中は控えていただけると」

「なぜですか」

「なぜって、集中できないからです!」

「恋人と映画を観るのに、手を繋いじゃだめですか」

「いや、その、駄目とかじゃ……」

 

 もちろん、駄目なわけじゃない。

 けれど、手のひらを親指でじっとりと撫で上げたり、指を絡めたと思えば離したり、かと思えばぎゅっと握られたりして、とにかく全てが心臓に悪いのだ。

 彼の指が私の手を這うたびに、心の表皮をざわりと触られるような、ぞわぞわとした感覚が胸に焼きついてしまう。つまり、映画にまったく集中できない。

 

「それも含めてデートでしょう」

「うぅ」

「それに、そろそろ俺も先に進みたいと思ってるんで」

「え!」

「いい加減、俺に慣れてください」

「はぅ……」

 

 彼はまるで私を岸壁に追い詰めるように、じわじわと逃げ道を奪ってゆく。今はまだ手を繋ぐのも勇気がいるのに、ましてやその先だなんて──。

 

 キスも、あれ以来していない。というか、外でデートしてるのにキスをする場面なんてそうそうやってはこない。

 でも、ときどき思い出してしまう。あの資料室での出来事を。手を引かれ、招かれた先で強引に奪われた、くちびるの感触を。流した涙が少ししょっぱくて、でもそれすら味わうようにじっくりと長い口づけをされた。

 やわらかく唇を喰んで、すごく待ち望んでいたような、そんな甘い口づけだった。

 

 また、キスがしたい。幸せに溶けたような、あの感覚をもう一度味わってみたい。そんなことを願うのはわがままなのかな。相澤さんは、どう思っているんだろう。

 

「どうかしましたか」

「っ、なんでもないです!」

「ふうん」

「そ、それよりも、この後どうしましょうか」

 

 時刻はもう夕暮れ時。折角の休みなんだから、私と出掛けるばかりじゃなく、彼にはしっかりと身体を休めてもらいたい。いつも教師とヒーローで多忙なあなただから。

 

「……もう、帰りますか?」

 

 頑張って絞り出した言葉に、すぐさま後悔は上乗せされてしまった。半分は本音で、もう半分は強がり。本当は、もっと一緒にいたい。

 

 ふと、また手が繋がった。今度はがっちりと、離れないように指と指が絡まる。顔を挙げると、私のリアクションを楽しむときのやさしい笑顔で相澤さんがこちらを見ていた。

 

「帰り道、少しドライブしましょうか」

「……いいんですか?」

「もちろん。俺も離れがたいです」

 

 私の本音も、強がりな気持ちも、きっと相澤さんには全てお見通しなんだろう。彼はいっけん人に興味がないようで、実はとても心を読むのが上手だ。

 

 そうして私たちは映画館を出て、少しだけ海沿いの道をドライブすることになった。どこへ行くでもない、ただ一緒の空間にいるだけの時間がとても心地良い。

 窓を開けて潮風を感じながら、彼のドライブ姿に見惚れすぎないように意識して会話を続ける。

 

「生徒さんたち、もうすぐ卒業ですか。一年ってあっという間ですね」

「ええ、それでしばらく手が空くので飲みに行こうかって話になってて」

「もしかして、マイク先生ですか?」

「……まあ、あとはミッドナイトと十三号も」

「いいですね!」

 


 学生たちが卒業し学校を去るこの時期に、ヒーロー科の教師で飲みに行こうという話になっているらしい。相澤さんはあまりそういう集まりには参加しないらしいのだけれど、今回は時間もあるから行くつもりのようだ。

 

「……そこで、あなたを連れてこいと」

「え、私ですか!?」

「ええ。もし、嫌でなければ」

 

 嫌、ではない。

 けれど、すごく緊張してしまう気がする。

 

「正直、それ目当ての会です」

「つまり、その御三方も私たちの関係をご存知ということでしょうか……」

「というより、もはや学内の人間はほとんど知ってるとは思いますが」

 

 なんと、そこまで広まっているとは知らなかった。やっぱり噂とは恐ろしい。

 あの事件以来、時折知らない職員さんからの視線を感じるとは思っていたけれど、どうやら瞬く間に私たちの噂は回っていたらしい。

 

 正直、怖い。馴染みのない人たちとの飲み会。粗相をしないかとか、変なことを口にしないかとか。きっと私のことだから、行くまでにもうじうじと悩むんだろう。

 けれど、相澤さんの彼女として呼んでいただけたのなら、少しくらいは思い切ってみたい。

 

「……行きたいです」

「無理はしなくていいですから」

「いや、無理とかじゃなくて……その、たしかに緊張はするけど、本当はすごく嬉しいんです。相澤さんの彼女にしてもらえて、わたしすごく幸せだから。もっと、自分に自信をつけたくて……ちゃんと相澤さんの隣に、堂々と立てるような人間になりたいんです」

 

 車が、ゆるやかに路肩に止まった。

 いつのまにか海岸沿いに到着していて、夕日が溶けるように海原の上を浮かんでいる。見入ってしまうほどの美しい茜色だった。

 

「わあ、きれい!」

 

 そう言って彼を振り返ると、ふっと顔に影が降りてきた。あ、と思ったときにはもう遅い。

 

「んっ」

 

 唇に柔らかい感触がぶつかって、反射で身体が跳ねる。それをやさしく宥めるみたいに大きな手が頬をすべって、優しく包みこまれた。

 心がざわりとして、けれども、すぐに痺れるような甘さに満たされる。長く押し当てられていた唇が離れ際にちゅ、ちゅ、と小さな音を立てて、名残惜しそうに離れていった。

 

「はぁ……」

 

 吐き出された二人の吐息が、熱い。無意識に呼吸を止めていたことに気づいて、すっと息を吸い込んだ。突然の口づけに、頬が火照る。

 二度目の、キス。相澤さんとのキス。

 幸せでとろけそうだけど、こんな予告もなしにされると心臓がバクバクと跳ねて苦しい。こんなの、私の身がもたない。

 彼は頬に添えた手の親指で、薄く濡れた私の唇を撫でている。

 

「……あ、相澤さん」

「なんですか」

「あの、き、キスをするときは、事前に教えていただけませんか?」

「……なぜ」

「び、びっくりするから、心の準備がしたいんです」

「ふうん」

 

 相澤さんが不服そうに鼻を鳴らした。

 

「いいですけど。じゃあひとつ交換条件いいですか」

「交換条件?」

「消太」

「へ?」

「しょうた」

「あ、……えっと」

「しょ う た」

「わ、わかってます……!」

 

 もう一度きちんと息をして、ゆっくりと音をつむいだ。

 

「……しょうた、さん」

「今からキスします」

「ひぇ」

 

 あいかわらず容赦のない相澤さんに振り回されてしまう。

 狭い車内では逃げ場もなくて、ただ彼のくちびるを受け止めるだけで精一杯だった。

 今度は先ほどよりも強引に押し当てられた彼の唇が、はむはむと私の下唇を喰んで遊んでいる。

 

「んっ、」

 

 かと思えば、ちゅ、ちゅ、と戯れるようなキスをされて、背筋がゾクゾクした。機械じかけのギクシャクした身体が悲鳴を上げている。何度も角度を変えて味わう彼に、私はされるがままになっている。

 

 もう、なにも考えられない。

 好きが、溢れてゆく。

 

 そうして夕日が完全に沈むまで、私たちは路肩に停めた車の中で、甘やかな口づけを味わっていた。


「「かんぱ~い!!」」

「か、かんぱい……!」

 

 ミッドナイト先生とマイク先生の声量に驚いて、思わずジョッキが揺れた。

 どうやら二人は先に始めていたようで、すでにしっかりとできあがっている。時間通りに来たのにミッドナイト先生には「遅い!」と咎められたけれど、十三号先生が横から「まあまあ」と宥めてくれた。

 

「ちょっとちょっと、あなたはこ~っち♡」

 

 到着早々にミッドナイト先生に腕を引かれ壁際に追いやられてからは、寄る辺もない飲み会が始まってしまった。

 今は相澤さんが向かい席に座っていることだけが唯一の救いだ。

 

「ねえねえ、テキーラにする? それともカクテ──」

「彼女、酒強くないんだからあんまり飲ませないでくださいよ」

「ヘーイ、消ちゃん。ンな過保護になんなよ。獲って食やしないって!」

 

 相澤さんの隣に腰掛けているマイク先生が、彼の肩に腕を回す。

 

「……酒くせえ。お前らいつから飲んでる」

「そんなのアンタたちが来るとっくの昔からに決まってんでしょ~? テキーラおかわり!」

「もう、先輩たちほどほどにしてくださいよ」

 

 ミッドナイト先生の隣には十三号先生が座っていて、なんとか彼女をおさえてくれている。そんなことよりも、先ほどから斜め前のマイク先生がニタニタとこちらを眺めていて、少し怖い。

 

「なァ、名前ちゃんって呼んでいーい? さすがに〝事務員さん〟じゃあれだろォ?」

「あ、はい──」

「駄目だ」

「消ちゃ~ん!」

「なあに~? 独占欲強い男は嫌われるわよ~?」

「飲んだくれのあんたらにだけは言われたくない」

「しゃあねえなァ。苗字ちゃんで我慢してやるよ、省エネ消ちゃん♡」

「その呼び方やめろって言ってんだろうが」

 

 相澤さんとマイク先生は学生時代からの同期らしく、とても仲が良さそうだ。マイク先生の態度は皆さんの時と変わらずだけど、相澤さんがここまで気を許すのは初めて見た気がする。

 仲が深まると怒りっぽくなるのかな。彼の新しい発見に気づいて、なんだか嬉しくなった。

 

「あの、今日は、呼んでいただいてありがとうございますっ」

「なあに~? かわいい、緊張してるの?♡」

「あ、はい。少し」

「あ~ん、食べちゃいたい!」

「ひっ」

「苗字さん。先輩たちはいつもこんな感じなんで、どうかお構いなく」

 

 ミッドナイト先生の向こうから十三号先生が顔を覗かせた。

 あまり話したことはないけれど、十三号先生はきっとやさしい方なんだと思う。先ほどから暴走しそうなミッドナイト先生をしっかりと宥めてくれているし、さすが災害救助で名高いレスキューヒーロー。危険な飲み会でも、しっかりと事態を掌握しているようだ。

 

 ──と思っていたのも束の間、彼女がまさかの爆弾を投下した。

 

「しかし、正直見てられませんよ」

「何がァ?」

「ブラドさんです」

 

 その名前に、ぎくり、と肩が跳ねる。

 

「ものすっごく落ち込んでるんですから。正直、僕も少し面倒くさくなってきました」

「アハハハハ! わたしも見た~!」

「まあ、噂も回っちまってるしなァ。相澤も隠すつもりねェみたいだし?」

「……と、僕もそう思ってたんですが」

 

 横顔に視線を感じる。嫌な予感がした。

 

「どうやら、ご本人から正式にお断りを受けたようでして」

「……あ゙?」

「ひぅ!」

 

 正面からの殺気に、変な声が出てしまった。相澤さんと目を合わせないようにしても、残りの面々がニッコリとこちらを見つめていて逃げ場がない。

 なるほど。本日はそういう会だったらしい。安易に来るべきではなかった。

 

「ち、違うんです、相澤さんっ。別に隠してたわけじゃなくてっ」

「私知らな~い♡ なになに、どういうことぉ?」

「ワーオ、ブラドも隅に置けねェなあ!」

「……いつだ」

「どうも二週間ほど前らしいですよ」

 

 ちょっとちょっと、レスキューヒーロー!?

 

 どんどん逃げ場を削られて、ついにミッドナイト先生の顔が肩に乗ってしまった。じっとりとこちらを見つめる妖艶なお顔は、この状況に至っては脅威でしかない。

 そして相変わらず、正面からの視線が痛い。

 

「何で俺に報告しない」

「ちゃ、ちゃんとお断りしましたし、ブラド先生のプライバシーに関わるかと思いまして、その……」

 

 完全に味方だと思っていた相澤さんがツンツンガミガミし始めて、いよいよ孤立してしまった。もう泣きそう。俺がいるから心配ないって言ってくれてたのに、相澤さんの嘘つき!

 

「青いわ~♡」

 

 涙目になった私を見て、ミッドナイト先生が楽しそうに叫んだ。

 

 

 終盤、ミッドナイト先生の特製カクテルを呑んだマイク先生が飛んでしまった当たりから、どうにも状況が思わしくない。

 傍らでは十三号先生が宇宙の魅力を永遠に語り続けていたり、ミッドナイト先生からはあんなことやこんなことについての謎の手解きを受けた。よく意味がわからない上に、とても言葉にはできない。

 

「あ、相澤さんっ……!」

 

 泣きながら助けを求めた先で、彼が置物のだるまに話しかけているのを見てこの世の終わりを予見した私は、必死に彼を引っ張ってなんとかこの混迷した飲み会から抜けさせてもらった。

 お酒が弱いのは、どうやら私ではなく相澤さんの方だったらしい。

 

「……送るよ」

 

 彼がおぼつかない足で、そう呟いた。

 暗い夜道を街頭が照らしている。

 彼はお酒を飲み始めてから完全に敬語が完全に外れてしまった。

 

「たぶん私が相澤さんをお送りした方が良いと思うのですが……」

「んなわけにいくか」

 

 腰を曲げてのそのそと歩く彼の隣を、私もペースを合わせて歩く。

 

「今日は悪かった、付き合わせて」

「いえ、みなさんとゆっくりお話できて私も楽しかったです」

「……そうか」

「ヒーロー科のみなさんの……何と言うんでしょう、人間らしい姿と言いますか、そういう一面が見れて嬉しかったですし、なにより相澤さんが私のことを皆さんに紹介してくださったことが、すごく嬉しかったから」

 

 こっちを見下ろす相澤さんの顔は、いつもと変わらない。

 

「だから、これからもよろしくお願いします……しょうた、さん」

 

 恥ずかしくてそっとほほ笑むと、彼がごくりと喉を鳴らした。

 

「……すきだ」

「あ、それ電柱です」

「っ、そうか」

 

 気まずそうに頭を掻いて、彼が押し黙る。今度は、ああと何か閃いた顔をしたかと思えば、がしりと強い力で手を握られた。

 

「これなら間違えないだろ」

 

 すぐに指が絡んで、熱い手が重なる。恥ずかしいよりも先に、その体温に驚いた。

 相澤さんの手が、ものすごく熱い。やっぱりお酒を飲みすぎてしまったようだ。このままひとりで帰すのはいくらヒーローとはいえ危険な気がする。

 

 そういえば、ちょうど私のマンションが見えてきた。少しだけ、うちで休んでいってもらうのはどうだろう。何かあってからでは遅い。

 

「あの、よかったらうちでお茶でも飲んで行かれませんか?」

 

 酔いを覚まして、安全に帰ってもらいたい。人間と電柱の区別もつかないなんてよっぽどだ。

 しかし彼からの返事はなく、絡んだ手がわずかに揺れて、それから更に強く握られた。

 

「……誘ってんのか」

 

 耳を疑った。

 

「え!? ま、まさか! 違います! 私はただ、相澤さんの、た、体調が心配で!」

「いや、その反応も傷つくよ」

「あ……あ……」

 

 あまりの羞恥心に身体がたぎる。恥ずかしい! 決してそんなやましい気持ちではなくて! 私はただ本当に相澤さんが心配で!

 どうしよう、はしたない女だって思われたかな。違うのに! いや、まったく違くもないですけど!

 

 ひとりパニックに陥っていると、彼がプハッと吹き出した。慌てふためいている頭にポンポンと手が触れて、その無骨な手がそのままするりと髪を撫でる。

 

「んじゃ帰ります。酒飲んで、送り狼にはなりたくないんで」

「あ……はい……」

 

 のっそりと歩き出した彼が、去り際に振り返った。

 

「ああ、そうだ。帰り着いたら連絡ください」

「え、でも、もう家の前ですが……」

「玄関をくぐったら報告」

「じゃ、じゃあ相澤さんも! 玄関をくぐったら連絡くださいね」

「ああ、わかった」

「や、約束ですよ?」

「ああ、わかってるって」

 

 そう言って、彼が薄く微笑みながら手を振る。

 だからそれ電柱ですってば、相澤さん……。


「よォー! 苗字ちゃん」

 

 他部署に書類を届けた帰り道。後ろからマイク先生に声をかけられた。

 

「あ、マイク先生! 先日はありがとうございました」

「こちらこそ~」

「それと、あのときはお先に失礼してすみませんでした」

「いぃーっての、いーっての! 俺ァミッドナイトのせいで完全にゴートゥーヘブンしちまってたからよォ。でも、ちゃーんと相澤と帰れたみてェだな」

「はい。電柱とお話されてましたが、家まで送っていただけました」

「ハハハ! あいつ酔うと、すぐあーなんのよ!」

 

 そうなんだ。とっても可愛い一面を見られて、わたし的には大満足だ。思い出すと、つい顔がほころんでしまう。

 

「ちゃーんと楽しめたみたいでよかったわ」

「はい、むしろ相澤さんの帰り道の方が心配でした」

「……ん?」

 

 マイク先生の翡翠の瞳がまん丸く開いて私を映している。

 

「え、どうされました?」

「……もしかして、相澤、自分家に帰ったの?」

「はい」

「お泊りじゃなくて?」

「は!? え!! ま、まさか!」

「いや、その反応もおかしいじゃん。付き合ってんでしょ?」

「……は、はい」

「どんくらいだっけ?」

「昨年の秋からです」

「え、もうすぐ春来るけど」

 

 もしかして、お付き合いの進捗が悪いという意味だろうか。

 

「変、でしょうか……」

「いやいや! 変とかじゃなくてよ!」

 

 でも、相澤さんからそっち方面でガツガツと来られたことはなかった気がする。いや、もしかして私が理解してなかっただけで実は誘われてた?

 え、え、どうしよう。もしかして私、無自覚の内に断ってしまってた、とか!?

 

 そういえば──。

 

『……誘ってんのか』

 

 あああああ! あのとき『はい』って答えるのが正解だった!? どうしよう、わたし緊張して、そのまま相澤さんを帰してしまった!

 

「ストップストップ! 百面相ストップ! ただ相澤が苗字ちゃんのことすっげェ大事にしてんだなって思ってよ」

「……大事、に」

「イェス! でもまあ、あいつも男だから。そこんところは理解しといてあげてな」

 

 そう言ってウインクしながら去っていくマイク先生になんて返したらいいのかわからず、私は棒立ちのまま陽気な背中を見送ったのだった。


 正直なところ、お付き合いできたことにこの上ない幸せを感じていた私にとって、それ以上のことなんて考えたこともなかった。……いや、全く考えてないといえば嘘になる。

 いつかはそういうこともあるのかな、とぼんやりと想像してはいたけれど、それでもキスの先を望むのは私の立場からすると烏滸がましいというか、なんだか気が引けてしまうのだ。

 

 だって、今だにわからない。なぜ彼が突然私に声をかけてくれたのか。どうして接点のない私を好きになってくれたのか。

 自己肯定感の低い自分には、たぶん一生その答えにたどり着けない気がした。

 

 だとすれば、もうこれは相澤さんに訊いてみるしかない、のだけれど──。

 

『どうして私を好きになってくれたんですか?』

『私のどこを好きになってくれたんですか?』

『相澤さんは、私といてどんなメリットを感じてくれていますか?』

『そもそも、私なんかと一緒にいて楽しいですか?』

 

 あああ、駄目。考えれば考えるほど卑屈になってしまう。

 

『その〝私なんか〟っての、もう辞めませんか』

 

 いつかの彼が、私に問い掛ける。

 

 うん、わかってます。わかってるんです、けど。

 この卑屈な考えを取っ払わないと、どうしても関係を深めることができそうにない気がした。

 だって仮にキスの先に進んだとして、私のからだが全然好みじゃなかったら? 相性がよくなかったら? いや、そもそも相性ってなに? 相性がわかるほど、こちらは経験を積んでいない。相澤さんの期待に添える自信なんてない。彼はヒーローだから、これまでも引くて数多だっただろう。だから、きっと経験も豊富で──。

 

「どうかしましたか」

「ひゃう!!」

 

 にょきっと右隣から現れた御本人に、息がつまった。

 いけない、私ったら。せっかくの食事中なのに。

 

 ガヤガヤとした店内の雑音が戻ってきた。手元には冷えた焼き鳥が残っている。

 

「なんだか上の空ですね」

「す、すみませんっ! 少し、考え事をしてて……」

 

 マイク先生の助言を受けてから、ここ数日、私の頭の中はそのことでいっぱいだった。せっかく華金に相澤さんとお食事している最中だっていうのに。

 しかもご本人を目の前にして、こんな不埒なことを考えているなんて。あまりにも破廉恥すぎる。

 頭を左右に振って、冷えた焼き鳥にかぶりついた。

 

「や、やっぱり、ここの料理は美味しいですね」

 

 誤魔化すように笑うと、彼はじとりと私を見つめた。

 

「もしかして、また悩み事ですか」

 

 ああ、バレバレだ──。

 

「……あ、相澤さんって、なんでもお見通しですよね」

「こら、名前」

「あっ、はい……えっと、しょうた、さん」

 

 二重の恥ずかしさに俯くと、右隣に座る彼がふんと鼻を鳴らした。

 

「まだ、慣れませんか」

「うぅ、だって片思いの時間が長かったので……」

「片思い? それを言うなら俺のほうだと思ってましたが」

「……え?」

「正直、俺が一方的に片想いしていると思ってました」

 

 恥ずかしげもなくそう言う彼に、私は目を丸くした。

 

「え、どうしてですか? 相澤さんはわたしがこそこそ眺めていたのを知ってたんですよね?」

「まあ。でもあれは、推しだって言ってたじゃないですか」

「ええ、はい」

「推しって応援したいヒーローのことだと思ってたので」

 

 え、そうなの?

 

「ち、違いますっ」

「違うのか」

「いや、違わないんですけど……ただ、その、下心も、ありました。というか、恋にならないように一生懸命おさえていたというか……」

 

 相澤さんは少し驚いた様子で、静かに言葉の続きを待っている。

 

「だって……本気になってしまったら、辛くなるだけだってわかってたから。眺めているだけにしようって、固く心に決めてたんです。……私、臆病なので」

 

 長かった時間を思い出して、つい苦笑いが浮かぶ。

 今思えば、あの見つめるだけだった日々もすべて、自分が見て見ぬ振りをしていただけで、本当はもうとっくに恋に落ちてしまっていたのだ。最初から、抗うことなんてできなかった。

 

「……そう、だったのか」

 

 彼が噛みしめるように、ゆっくりと言葉を落とした。

 胸の内を告白した後の沈黙がむずがゆい。

 そっと見上げると、彼は口元に手を当てて少しばかり照れくさそうに私から目を逸らしている。耳の先がほんのりと赤い。

 

 その瞬間、ぶわりと身体の中を熱いものが巡った。

 

 ああ──。

 

 私もいい加減、臆してばかりでは駄目だ。だって、彼はこんなにも全身で伝えてくれているじゃないか──私のことが好きなんだと、全力で。

 あやふやだった気持ちが、ゆっくりと形を成してゆく。決意のこもった拳をぎゅっと握った。

 

「……消太、さん」

「なんですか」

 

 あなたがいつも真っ直ぐに想いを伝えてくれるように、私もあなたに返したい。優しく手を引いてくれるあなたと、もっと先に進みたい。

 

「もし……こ、今度の週末、お時間が合えばでいいんですけど……」

「ええ」

 

 ずっとあなたのそばにいたい、あなたと共に生きていきたい。

 

「一緒に、行きたいところがあるんです」

「もちろん、いいですよ」

 

 硬くなった私の手に、彼がそっと自分の手を重ねた。

 

「……泊まり、になると思うんですけど」

 

 ふるり、と手が揺れる。そっと見上げると、彼は無言のまま細い目を大きく開いて私を見つめていた。

 

つづく

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