あじさい寺の献身

※ れちぇさん企画の〝はなぱれ〟に寄稿した作品です。
※ じんわり死の描写があります。

 

 

「なんでお寺には、あじさいが多いんだろうね」

「……さあ、なんでだろうな」

 年に二、三回。月命日に互いの予定が合えば、共に手を合わせることにしている。なかでも雨の多いこの季節はふしぎと足が向くことが多い。

 石段に、雨粒が跳ねている。両脇には鮮やかな青が袖を飾っていた。

 この数十段つづく山門までの道を、彼女はあじさいを眺めながらゆっくりと時間をかけて登る。俺は、その二段後ろを歩く。

「今年もきれいだね」

「……ああ、そうだな」

 本殿に参拝し更に奥へと進めば、境内の静謐とした空間にひっそりとたたずむ寺院墓地がある。そこに、彼女のかつての恋人──白雲は眠っている。

 

 いつもは俺が柄杓と桶を借りてくる間に、墓前で花を切りそろえるのが彼女の役目だ。今日は雨が降っているため、差し出された傘を引き換えにその作業を横で眺めていた。細い手首には色褪せたブレスレットが揺れている。

「手慣れたもんだな」

「まあね、もう十三年だもん。そりゃあ慣れるよ」

 彼女が花を立て、供物を並べて「よし」と呟く。墓石の中央には、かつて白雲が好んで食べていた菓子とジュースが並べられていた。

「さすがに飽きたんじゃないか?」

「でも、いっつもこれ食べてたから。いいのいいの」

 そう言って笑う彼女に傘を返して、二人で手を合わせる。

 目を瞑った。

 いつも五分くらいは動かない。だから俺は、黙って二人の対話が終わるのを待っている。すぐに手を崩す俺とは思いの丈が違うのだろう。あたりまえだ。気づくと少しだけ腹の底が疼くが、この件に関してはもう何年も知らぬ存ぜぬを突き通している。

 彼女がようやく顔を上げた。

「相澤くん、甘いのすき?」

「なんだ、藪から棒に」

 その手には菓子とジュースが握られている。「要らないか」と暗に問われている気がした。

「……あまり、得意じゃない」

「そっか」

 恋人への捧げ物のお下がりなんて、俺が受け取れるわけないだろ。予防線を張った小さな嘘は、傘を滑って地に落ちる。

「甘いのは苦手かあ……」

 残念そうな声に返事はしなかった。

 

 寺院にあじさいが多いのは、気温変化の激しいこの季節に昔は流行病で亡くなる人が多く、あじさいが死者に手向ける花だったからだ。

 しめやかに咲く青が映ると、白雲を思い出す。次いで、彼女を。そして二人が仲睦まじげに屋上で笑い合っていた姿を。今思えば、あの頃の俺たちはしあわせな悩みの中で生きていた。

「次は再来月あたりかな」

「ああ、また連絡する」

「うん。……じゃあ、また来るね、朧」

 去り際に声をかけるのは彼女だけだ。その方がアイツも喜ぶだろうから。

 滞在なんて時間にしてみればものの数分で、すぐにまた下りの石段にさしかかった。今度は一段後ろを追いかけるよう歩く。普段はザラザラとしたこの石段も、雨が降れば途端に滑りやすい。だから俺は、いつも袖を見ない。

「そういえばね、この前山田くんから連絡があって。夏頃にはみんなで集まりたいねって話してたんだ。クラスの全員は無理だろうけど、私も久しぶりにみんなに──わッ!」

 咄嗟に腕を伸ばした。

「危ねえだろうが。ちゃんと足元見ろ」

「あ、ありがとう」

 掴んだ腕はあの頃ほどたくましくはない。彼女が共にヒーローを目指していた面影は、もうどこにもない。

 落とした傘を拾って渡せば、「あ」と返された。

「……雨、上がってるね」

 傘をずらすと、たしかに雨は上がっていた。雲の隙間から光が差している。彼女が傘を閉じ、今度はそれを杖にしながら用心深く階段をおりてゆく。それでも俺は、一段後ろを歩く。

「相澤くんって休日はなにしてるの?」

「……別に、なにも」

「なにもかあ」

 ずいぶんと興味なさげな相槌だ。

「まあ、強いて言うなら持ち帰りの仕事と、後は筋トレか。寮生活になってから休みはあってないようなもんだけどな」

「そっか、ヒーローで先生だもんね。遊ぶ暇なんかないか」

「……別に、そういうんじゃない」

 お前が誘ってくれるなら時間はつくるよ。だから今度、気晴らしに飯でも行かないか。できれば、そのブレスレットなしで。

 そんな言葉はもう何年も自分の中で業を煮やして、灰になってしまった。

 今でも鮮明に覚えている。

 泣き叫ぶ家族の後ろで、光を失った真っ黒な目が、動かなくなったアイツを見ていた。その身体はグラグラと立ち方を忘れた人形みたいになって、霊安室の前で俺に縋りついて泣いていた。彼女が本当に縋りたかったのは、俺じゃなかったはずなのに。

「朧は天国で元気にしてるかな。クラス会とか絶対に喜びそう」

「うるさくしてるんじゃないか、アイツのことだからきっと」

「ふふ、たしかに」

 寂しそうに笑う横顔を見ると、少しだけ陰鬱に沈む。これは〝死〟に対する解釈違いからきているのだと言い聞かせる。

 なあ、死んだらみんな骸になるんだよ。天国なんて、正直俺は信じてない。そこにあるのはいつだって哀惜で、胸を掻きむしりたいほどの後悔だけだ。

 みんなが悲しんだ。俺も。山田も。クラスメイトたちも。なにより、お前が。けれど、残された人間は前を向いて歩んでいかなきゃならない。無理にでもそうするしかないんだ。もう、そろそろいいんじゃないか。アイツを忘れろなんて言わないよ、ただ──。

「じゃあ、またね。相澤くん」

 いつの間にか、石段を降りきっていた。彼女が小さく手を振る。その手首が主張するようにキラリと光る。似合わなくなった幼稚なブレスレットが、今もまだ俺から彼女を守っている。

「……ああ、また」

 これでいい。

 一歩、二歩。そうしてゆっくりと、俺たちの距離が開いてゆく。決して振り返らない。日常に戻ればこの気持ちはすぐに消え失せる。忙しさの中に身をおいていればうじうじと悩む暇などなくて、ただこの日、この時だけは──。

「相澤くんっ……!」

 おもわず振り返った。なぜか、切羽詰まった顔をしている。

「どうした」

 いつもの声色で返す。いや、返したつもりだ。

「……甘茶って、知ってる?」

──アマチャ?

「いや、知らん」

 彼女が目を伏せる。それからしばらくして、弾かれたように顔を上げた。

「あじさいから作られるお茶でね……実は、近くの茶房で飲めるみたいなんだ。もし相澤くんがよかったら、今度──」

 反射で、足が動いた。全身が通電したみたいに動き出して、大股で不恰好に距離を詰めた。

「行こう」

「え?」

「今すぐ」

「……今すぐ?」

「ああ」

 鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。

「でも、相澤くん、甘いの苦手って──」

「そんなこと言ったか?」

 丸い目が一瞬大きく開いて、俺を見る。それから相好を崩した。

「……聞きまちがい、だったかな」

 その顔につられて、口元が緩む。

 すまない、白雲。遠慮はここまででいいか。

 決意にも満たない小さな問いが、喉につっかえている。

 その瞬間、生暖かい風が吹いて濡れたあじさいたちが波を立てた。曇天が割れて、雲の隙間から晴れ間がのぞいている。洗い、清められたような青空だった。悠々とたなびくあじさいには、雫がしがみつくように光っている。

 何度も見てきたはずだ。なのに、なぜか初めて目にしたような驚きがある。きれいだと思った。

「相澤くんは、いつも足元ばかり見てるからね」

「……鈍臭い誰かさんのせいでな」

「なにそれっ、ひどーい!」

 あじさいが風にそよぐ。ガクが揺れている。

 白雲が笑っている、そんな気がした。

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