次は女の人で頼みます
リビングで読書をしている彼女が遠目に見えて、口の端が上がった。
あの人は読書をする時、必ず窓際に置かれたソファに腰掛ける。帰ってきた俺をすぐに迎えられるように、らしい。
任務明けの朝焼けが心地いい。
明けたばかりの空が、朝の冷気とともに新鮮に輝いている。
バサリ、とわざと音を立ててベランダに降り立つと、彼女がソファから立ち上がってカラカラと扉を開けてくれた。
ふわりと、コーヒーの香りが立ち込める。
「おかえりなさい」
「ただいま~」
ベランダで靴を脱いで部屋に上がれば、足にタオル地のやわらかさを感じた。
これは数ヶ月前に俺が土砂降りの中帰ってきて以降、そっと置かれるようになったもの。当たり前になったそれに、もう彼女は気にも留めてないが、俺はこのバスマットを踏む度に彼女のやさしさを思い出す。また、笑みがこぼれた。
久々の遠方でのチームアップは、ヴィランの特性上、深夜帯での確保を余儀なくされた。一泊して昼過ぎに戻ってもよかったが、今日は彼女も家に居るらしく、俺は急ぎ飛んで戻ることにした。もちろん、その甲斐はあった。
「啓悟さんのコーヒー、今淹れるね」
「ああ、それなら大丈夫です」
こっちがあるんで、と手元の紙袋を差し出す。緑色の人魚が描かれたお馴染みのそれに、彼女が「もしかして」と、明かりを灯すように笑った。
「いつものやつですよ。オールミルクです」
「ありがとう。ここのほうじ茶ラテ、だいすき」
「こちらこそ。待っててくれたお礼です」
まだ朝も早いというのに。
彼女はいつも、同じように俺の帰りを待っている。
チュッ、とわざとらしく音を立てて、頬にライトなキスをする。ついでに彼女の首筋をスンとかすめて、ほのかに漂う寝起きの香りを盗んだ。
パチン、と脳内で休息スイッチが入る。
ふたりでダイニングテーブルに腰を下ろして、彼女はほうじ茶ラテ、俺はコーヒーを片手に、優雅な朝の時間を過ごした。
こういう素朴でありふれた日常が〝しあわせ〟だと知ったのは、彼女と付き合い始めてからだ。艶聞の絶えなかった俺をここまで骨抜きしてしまう魅力を、彼女は日々、惜しげもなく俺に注いでくれる。
愛しい顔が、やっぱりおいしい、と目をつむって噛みしめるように頬をゆるませた。
「その笑顔が見たくて買ってきました」
長年染み付いてしまった達者な口はすぐにキザなセリフを紡ぐけど、今まで付き合ってきた女の子たちからは「それ、どうせ誰にでも言ってるんでしょ」なんて、よく打ち返されていたのに。
あなたはというと──。
「ふふ、わたしの笑顔は啓悟さんがくれるんだよ」
ほら。
自由がモットーの俺が、自ら腕に縄を巻きつけて手綱を差し出すほどなのだから、彼女は本当にすごい。
「やさしさは伝播していくものだと思うんです」
「ふふ、突然どうしたの?」
「俺のやさしさは、あなたからできてる」
「こちらこそ。わたしのやさしさも、啓悟さんからできてます」
彼女といると、俺は心の底からやさしくなれる。偽善じゃない、本物に。
「そういえば、担当さんがね、また替わってしまったの」
「そうなんですか。出版業界は入れ替わりが激しいんスね」
彼女に悪い虫がつかないようにと小細工した口が、今度は身勝手なやさしさを吐いた。こっちはご愛嬌、ということで。
「本当は区切りよく今の本を形にしたかったのだけど。装丁が初めてのデザイナーさんで、少し遅れてて」
「残念ですね」
「出版されたら担当さんの経歴にも少しくらい色を添えられると思ったんだけど……」
「やさしすぎますよ、その考えは」
そんなことないよ、と彼女がラテを飲み干す。俺も合わせてコーヒーを飲み干した。
「朝ごはん、準備するね」
立ち上がった彼女はアイランドキッチンに立って、鍋に火をかける。ぽちゃん、とあごだしのパックを入れた。大人しく待ってたら、あっという間に和定食ができあがるだろう。疲れた体に沁みる、炊き立てご飯と味噌汁、だし巻き卵と、あと小皿に明太子と高菜が添えられて──。
エプロンを掛けようとした彼女に近づいて、そっと後ろから腰に抱きついた。今度はかすめるだけじゃなく、ぴったりと首元に顔を埋める。ピクッと震えた身体は、急に淫靡な空気を纏う。おそらく俺の考えが伝わったんだろう。
美味しい朝食も、捨てがたいけど。
「……その前に、よか?」
「だめ、今日はまだ筆をとってないもの」
締切なんて、そんな気にせんでも。
「担当さん替わったんやけん、少しくらい遅れても大丈夫やなかと」
「ふふ、うん。でも次の人が困っちゃうから」
「……もう次が決まったったい。早か~」
「そうなの。やさしそうな男の人で安心した。頑張りますので末長くよろしくおねがいしますって、ご丁寧に」
「ふーん……」
口を閉ざした俺に、彼女は首を傾げる。
「たぶん、またすぐ替わりますよ、その担当さん」
だって、男ですもん。
俺の意地悪な発言に、彼女は少し目を開いて笑った。
「じゃあ、急いで原稿を渡してあげないとね」
彼女はどこまでいっても、やさしい。
世界中のすべての人間が彼女だったら、きっと俺は今頃、暇を持て余していたことだろう。
けれど、現実は甘くない。
だから俺はせめて、彼女のやさしい世界を守れるように、今日もまた頼れるヒーローとしてこの街を飛ぶ。あなたがくれるやさしさを糧に、別の誰かにやさしくするために。
まあ、唯一、彼女の担当さんを除いてはばってん。