バレンタインの逆襲

「くだらん行事にうつつを抜かすなよ」

 朝礼でピシャリと放たれたお小言に、背筋を伸ばしたのは女子よりも男子の方だった。

「でもせんせー! 作ってきたものを捨てるのはもったいないと思います!」

 教室の端から叫ぶ誰かの声に激しく同意するクラスメイトたちは、相澤先生のひと睨みで沈黙する。

 わたしの机の横で揺れる赤い袋には、もちろん先生の分も入っているが、心の中で落胆しても、もう遅い。

「残念やったね……」

 休み時間になって声を掛けてきたのは親友の女の子だったけど、その後ろにはぞろぞろと私の気持ちを知った女子たちがすぐさま軒を連ねた。

「別に、なんとなくわかってたしさ、大丈夫」

 強気な笑顔を向ける。

 彼女たちに背中を撫でられながら、わたしは何でもない日のように雄英最後のバレンタインデーを過ごした。

 

 放課後。沈みゆく夕陽を見送って、手元に残ったのは丁寧に包まれた真っ黒な箱。

 昨晩、慣れないキッチンでせっせとお菓子作りに励んだ手には絆創膏が二つも貼られている。

 せめて最後くらい渡したかったな、なんて我儘はもうすっかり生気を失っていて、しゅるりと赤いリボンを解いた。

 中にちょこんと収まったマカロンたちが、寂しそうにこちらを見つめている。

 一つ取ってかぶりつくと、サクッと小さく音を立てて、もっちりとしたマカロン生地がほどけた。その間からほろ苦いチョコレートガナッシュが口の中に広がる。

 ああ、先生ためにこの味に決めたのに。子供舌の自分には背伸びしたビターが、涙を誘う。

 

 ガラガラと教室の戸が開いた。

「まだ残ってたのか」

「あ、せんせ……」

 見回りだろうか、急に現れた相澤先生は無遠慮に近づいてきて、わたしの手元を不思議そうに覗き込んだ。隠そうにも机の上にはこれしかないから、今更どうしようもない。

「……それ、貰いもんか」

「あ、いえ……」

 だとしたら、どれだけ良かったか──。

「遠回しに断られたので、自分で処理しようかと」

「……そうか」

 その顔は、わたしの失恋を察したのか、ぐっと眉を顰めた。

「……あんまり気にするな。もうすぐ卒業だろ」

 これが、大人の気遣いか。

 優しい言葉は嬉しいけれど、先生、とんだ勘違いです。わたしは頭の中で「この鈍感教師め」と愚痴を漏らした。

「……早く卒業したいです」

「あと、たった一ヶ月だろ」

「……そうですね」

 あと、たった一ヶ月しか、先生に会えない。

 今日は脳内が悲観的になっていてダメみたいだ。いつもみたく笑って横に流すことができそうにない。

「残ってんなら一つくれ」

「……え?」

「なんだ、人に食わせる用じゃないのか?」

 貰い手が無いなら俺が貰ってやるよ、ということだろうか。先生が片手を差し出している。

 箱には二つのマカロンが残っていた。まさかすぎる星の巡り合わせに、ぶわりと心が躍る──が、わたしは思い直してそれを自分の口の中に放り入れた。

「……おい」

 むしゃむしゃサクサクむしゃむしゃサクサク。 

 ごっくん。

 

 先生はあんぐりして、わたしを見ていた。

 思わず、長いため息を吐く。

「……先生、後学のために言っときますけど」

「あ、ああ」

「バレンタインの日に女の子に気安くお菓子くれなんて、すきって言ってるようなものなんですよ」

「……そうなのか」

 先生の腕には誰かから受け取ったのだろう、わたしが持ってきたものと同じ様な可愛らしい袋が下げられていた。

 手元に残った黒い箱を、先生の胸にドンと突き出す。本当は投げつけてやりたかったが、ギリギリのところでそれを抑えた。

 箱には白い文字で相澤先生へと書かれている。目についたのか、先生が驚いて顔を上げた。

「もしかして、……あー、すまん。俺宛だったのか」

「別に。中身は空なんで貰った気にならないで下さい。あげてません」

「……」

「残念でしたね、先生。こんな可愛い生徒からのチャンス逃すなんて、……もう一生、後悔しても、……っ、知りませんから」

 きっと先生の腕に下がった袋は誰かの本命チョコだろう。

 あんなに可愛らしい袋で、なのにその中には主張の強い黒い箱が見える。わたしと、おんなじだ。

 名前も顔も知らないけれど、その袋の送り主はきっと先生に想いを告げたに違いない。私と違って臆病じゃない女の子に、先生はなんと返したのだろう。わたしはあなたのお小言ひとつに、あっさり負けてしまったというのに──。

 強気な言葉の裏で、目元にはみるみる内に涙が溜まっていく。拭いながら背を向けて歩き出した。

 長かった片想いが終わっていく。こんな不格好な形で。

 でも、仕方ない。だって愛情込めて作ったマカロンは、もう拗ねたわたしのお腹の中に入ってしまったのだから。

「先生、さようなら」

 また明日、以上の想いを詰め込んで、教室の外に脚を伸ばす。胸が誰かに掴まれたように軋んだ。

「……来年、期待してもいいか」

 背後から低くて控えめな、さざなみのような声が届く。

「……え?」

 身体がぴくりと震えて、固まる。振り返ると、困ったような顔がそこにあった。

 思わず言い返す。

「お、女の子は、気まぐれなんで……どうですかね、わかりません」

 心臓がわずかに汽笛を鳴らし始める。頭の中で何度も先生の言葉がこだました。

「……そうか」

 先生が、ゆっくりと近づいて来る。わたしの目の前に立つと、背後で開いていた扉が隙間なくぴしゃりと閉められて、あれ、と思う。

 その瞬間、先生の顔が降ってきて、ごくあっさりと唇が触れた。

「……んじゃ、来年はこっちから渡しに行くから、予定は空けておくように」

「っ……」

 ピタっと固まったわたしに、ふっと笑みをこぼして先生は横を通り過ぎていく。その手には、わたしが押し付けた箱を大事そうに抱えていた。

 顔から蒸気が吹き出す。黒い背中がカツカツと音を立てて教室を後にすると、わたしはその場にぷしゅーっと倒れるように座り込んだ。

 いま、なにが、起こったんだろう──。

 バクバクと鳴り止まない心臓が呼吸を浅くする。何かを叫び出してしまいそうで、思わず口を押さえた。

「……こんなの、ずるい」

 まるで、拷問じゃないか。

 先生からのバレンタインの逆襲はわたしを一瞬で骨抜きにして、一年間の〝待て〟を宣言したのだった。

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