バレンタインの応酬
「あの……相澤先生、いらっしゃいますか」
震える声を絞り出し、母校へと電話をかけたのは二週間前のことだった。思い出したように卒業生であることを名乗ると「少々お待ちください」との声の後にメロディが流れ、すぐさま取次相手へとつながった。
「はい、ヒーロー科、相澤です」
懐かしい声に、胸が高鳴る。
一年ぶりだ。先生の、低い声。懐かしい重みのある響き。
胸の奥から、とくとくと恋の音がする。忘れようとして、されど忘れることが許されなかったときめきが、ぶわりと胸に花開いた。
「あ、あのっ苗字です、ご無沙汰してます」
「ああ、久しいな。どうした」
ごくり、とつばを飲み込んだ。考えていた一言一句が頭からすっぽりと抜け落ちて汗が噴き出す。
「えっと、その……」
用件はただ一つ。先生とバレンタインの約束を取りつけることだけだ。
「も、もうすぐ、ですね」
そうして苦し紛れに絞り出した言葉は、なんとも情けないものだった。
「だから、ご予定を……」
うまい誘い文句が見つからず言葉尻がすぼまる。頭をひねろうと目を瞑ると、途端に想いが溢れた。
──先生、まだおひとりですか? あの日に交わした約束の続きをしたいです。今年こそは食べてもらえませんか。わたし、がんばって作ります。あのキスは……夢じゃなかったですよね?
気持ちだけがどんどんと先走って、肝心な言葉の続きが出てこない。そんなわたしを見かねて、先生はひとつの提案をもちかけた。
「日時と場所はこちらで決めても構わないか?」
「え?! あ、はいっ」
「んじゃ、十四日の二十一時に──」
淡々と日時と場所を告げられて、先生はまるでわたしから連絡がくるのがわかっていたかような口振りで用件を伝え終えると「それじゃあ」と言ってあっさりと電話を切った。わたしはといえば、今の出来事が現実なのか疑わしくて、しばらく自分のスマホを眺めていた。
♦
あれから二週間が経った。先生との約束を取りつけてからは、昼間はヒーロー業、夜はバレンタインの試作であっという間に時は過ぎた。
そうして今、わたしは雄英高校の廊下を歩いている。とうに日は暮れて、時刻はじきに二十一時を回ろうとしていた。
指定されたのは〝学校〟とだけで、校内のどことまでは言われていない。それでも、足は自然とある場所へと向く。
──ガラガラ
そこは懐かしい教室だった。
チョークや教科書、運動着、そして制汗剤。それらの複合的なにおいをすんと嗅いで、はあと息を吐き出す。生徒が下校してとっくに冷え切った教室では、吐く息はうっすらと白くにごった。
「変わらないなぁ」
月明かりだけを頼りに、当時の席に座る。椅子から冬の冷たさが伝わって体に沁みこむと、ふしぎとあの頃の記憶がよみがえった。
そう、この席で落ち込んでいたら、先生が扉を開けて入ってきて──。
「まだ、残ってたのか」
「っ!」
驚きで飛び上がりそうになった体を、なんとか椅子に縫いつける。
どくん、どくん。
ゆっくりと顔を向けると、扉に手をかけた先生がこちらを伺っていた。
「せんせ……」
ふしぎな感覚になる。会えなかった時間を感じさせないほどに、先生は一年前のままだった。無精髭も、無造作な黒髪も、何もかも。わたしが早く大人の女性になりたくて背伸びした身なりが、おかしく感じるほどに。
「……先生に渡したいものがあって、残ってたんです」
「そうか」
あの日をなぞるようなやりとりに胸が踊らないわけがなかった。
カツカツとブーツの音が近づいて、一つ前の椅子がガタンと揺れる。机を介して向かい合わせになると、気恥ずかしさに顔が下を向いた。
「……これ、よかったらどうぞ」
赤い袋から黒い箱を取りだりて、そっと差し出した。
「お口に合うと、いいんですけど」
先生がその箱をゆっくりと引き寄せて、大きな手がしゅるりと赤いリボンを解く様を静かに見守る。箱から出てきたのは、あの時と同じマカロンだった。
「今、食ってもいいか」
「はい、もちろんですっ」
先生のごつごつした指が、ていねいな所作でひとつつまみ上げると、決して小さくないマカロンがぱくりと口の中に消えた。
──さく、さく
軽やかに解けるコックの音。巧みに動く、口元のおひげ。目を瞑って、静かに味わうような仕草。
こっそりと眺めていると、突然ばちりと目が合った。どくんと強く打った心臓が、ぴたりと呼吸を止める。
「ありがとう、うまいよ」
薄い唇が、ゆるやかな弧を描いていた。
「先生、わたし……あの、えっと……」
吐き出した息と共に勢いで出かけた言葉が、途端に引っ込む。
どうしてだろう。今しかないのに。あとは言葉にするだけなのに。そう思えば思うほど結果を知るのが怖い。あのキスは一時の気の迷いだったと言われるのが恐ろしい。
その時だった。
「ゆっくりでいい。言ってごらん」
さらり。
恐怖に震えるわたしの頬を、無骨な手がすべっていた。流れていた髪を控えめな手つきで耳にかけられて、月明かりが目に染みる。そのまま親指でじんわりと唇を撫でられて、ふるりと震えた。
もう、限界だった。
「すき……です」
ぽろりとこぼれ落ちた愛の言葉が、しっぽりと夜の教室に解けた。
先生、すきです。三年間、ずっと返事なんて要らないと思ってました。だって先生はきっと生徒のわたしを好きにはならないから……そういう人だから。
でも、一年前のあの日。あなたがそっとキスをしてくれて、それがたとえ一時の迷いでも、わたしには縋る以外になくて──。
言葉にならない想いが決壊するようにあふれ出す。一年間なんとか保ってきた気持ちが濁流のように流れを強めていく。
先生はそんなわたしを見つめながら、唇の上で指を滑らせるばかりで何も返してはくれない。
もう、こんなの心臓がもたないよ。
ぎゅっと目を瞑ると、いじわるな声が降ってきた。
「ふっ……顔が熱いな」
「っ、だって」
こんなの、耐えられない──そう言いかけて、なぜか言葉にできなかった。
「っ……!」
チョコレートガナッシュのが、ふわりと唇から香る。ピシリと固まったわたしのことなんてお構いなしに、先生は唇をしっとりと濡らした。ビターに仕上げたはずのマカロンがとびきり甘く感じる。
一生にも思える一瞬。まるで俺からの返事だとでもいうように、先生は名残惜しそうに離れていった。
「はぁ……」
無意識に止めていた息を勢いよく吐き出すと、彼は不慣れなわたしを小さく笑う。
「かわいいな」
「ふぇ……」
「俺からも、いいか」
そう言って差し出されたのは丁寧にラッピングされた小さな赤い箱だった。
「これ……」
「開けてみてくれ」
「もしかして、チョコレートですか?」
「来年はこっちから渡しに行く、そう言っただろ」
なんだ、忘れてたのか──そう言って柔らかいまなざしを向ける彼は、本当にわたしの知っている先生だろうか。
遠慮がちにリボンを解くと、きれいに区分けされた箱の中から小さな宝石たちがお目見えした。
「わあ!」
月明かりに照らされて、てらてらと光るそれは本物の宝石よりも輝いてみえる。
信じられない。無駄を嫌う先生が、わざわざデパートに赴いてわたしのためにこれを買ってくれたのかと思うと。
心が震えた。込み上げる気持ちを抑えながら、そっと一粒つまみ上げる。
「いただきます」
口に含むと、鼻から抜ける芳醇な香りに思わず目を見開いた。フルーティなコーヒーが香るアーモンドのプラリネ。舌の上でとろけて、気品高いビターな甘さに酔いしれる。
それはまるで、これからわたしが手を伸ばそうとしている大人の、その奥行きある色気と貫禄を見せつけるかのような味わいだった。
「すごく……おいしいです」
「それはよかった」
余裕の笑みに、少しの安堵が混ざっている。もしかしたら先生にも、わたしと同じような気持ちがあったのかもしれない。
それでもはっきりと言葉にしてくれないもどかしさに歯痒さが残った。白黒つけないのが大人の嗜みなのだと言われているような気さえした。
「……先生も、おひとついかがですか」
次の一粒を、口に含ませる。
「いや、いいよ。お前に食べてほしくて買ったものだか──」
少しだけ、椅子から腰が浮いた。目の前の捕縛布を掴んで強く引き寄せる。
私の目論見なんて先生からしたら避けられないものでもないだろうけれど、こちらは一年越しの〝待て〟を解禁されてひどく浮ついていた。
ずっと、早く大人になりたかった。先をゆく先生を必死で追いかけて、でも現実はそううまくもいかなくて。追い求めた強さとなりたい女性像は噛み合わなくて。それでもわたしは、先生のことが──。
もう二度とまぶたが開かないんじゃないかと思うほどに、強く目を瞑った。
「……っ!」
口に含んだままのチョコレートを先生に押しつけたとき、まるでスイッチが入ったみたいに先生がわたしの唇にかぶりついた。
「っ、……ぁ」
柔らかいものが突如として口の中に入ってきて、口の端からたらりと唾液があふれる。絡めとられた舌が、ねっとりとわたしの中を泳いで、口の中の甘さを掠めとっていく。無意識に逃げる頭を、後頭部からがしりと強く掴まれて、まるで飢えを満たすように求められた。
「はぁ……んぁ……」
初めての、艶めかしいキスに酔いしれる。
言葉にされずとも伝わってきた。好きなんて言葉じゃ足りないほどの、もっとどろどろとした重たくて仄暗い、けれどとびきり甘い先生の想いが。
「ぁ、んっ……」
そうして貪り尽くされると、先生は最後にぺろりとわたしの唇を舐めとって、名残惜しそうに去っていった。
「はぁ……」
触れそうな距離で湿った吐息を重ねる。見つめ合うと、やさしく色っぽい瞳に、座ったまま腰が抜けそうになった。
「大人をからかうな」
「ごめ、なさい……」
「第一、そんなのどこで覚えてきたんだ」
息を上げたまま、そっと首を振る。
「違いますっ……先生のこと想ったら、自然に」
「どうだか」
疑わしげな瞳に見つめられて弱った。わたしの気持ちはこんなにも揺るぎないものなのに。
「すきです、先生……本当に、大好きなんです」
「……ああ、俺も好きだよ」
うれしい。ようやく欲しかった言葉が聞けて、細まった瞳からほろりと涙がこぼれた。
それをやさしく拭ってくれる先生の手はとても温かい。
「ここじゃ冷えるな。暖かいところに行こう。積もる話もある」
先生はそう言ったけれど、もう暫くはここに居るかもしれないと思った。だって重ねられた先生の手が、わたしの指の間に深く絡まって、かんたんには解けなくなってしまったから。
おわり