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一、特別推薦入試

「遠慮は要らん。本気でかかってこい」

 男が構える。こんな手狭な部屋に閉じ込めておいてよくそんなことが言えるな、と愚痴のこぼれそうな口にチャックをした。


 にわかには信じがたいが、個性を複数所持しているという少女が雄英の〝特別〟推薦入試を受けることになった。通常の推薦入試では容易に突破されることが想定されるため、異例の対応として自分が駆り出されている。

 その当事者がこいつか──。

 背中に黒い翼を生やした少女が、こちらに微笑みながら小さく会釈した。

〝飛べない〟ほどの手狭なコンクリート部屋は、雄英高校のグラウンドβに設置された六十平米ほどの密室だ。戦闘には到底不向きな手狭さで、本入試のためだけに設けられたこの部屋には窓すらついていない。
 それだけに陰湿な空気が漂っていた。部屋の内部には一面にのみ防護ガラスが設置されており、その向こうでは校長、マイク、そして公安を名乗る人物が立っている。

 渡された資料で個性は既に把握済みだ。基本は翼による滑空と、その黒翼が象徴する〝カラス〟の操作、自身の羽を使用する弓矢での攻撃──そして、なぜか超再生だ。
 曰く、全身に受けた傷が立ち所に回復するという。
 翼を〝消す〟ことはできないだろう。ただし異形型には効果がない抹消も、発動型はその限りではない。つまり操作と再生を消せば、ほぼこちらに分がある。

 プロヒーロー相手に一対一とは、かつてない高難度入試。本当に個性の複数持ちならば、それらを使えないケースが最も苦しいだろうと想定された実地試験だ。
 今回の入試はなかば公安からの依頼でもあるため、結果はおおむね合格と決まっている。しかしこちらとて素直にエリート街道を歩ませてやるつもりは毛頭ない。一回くらいはその自尊心をへし折って〝Plus Ultra〟の精神を叩き込んでやらねば。

 

「俺に一発でも入れられたら合格だ。時間は有限。始めようか」


「制限時間は十五分だァ! しっかり気張んな、女子リスナー!」

 なんだか妙なアナウンスだな──と、まるでライブのオーディエンスのような扱いに気抜けする。しかしゆるんだ思考は、開始を告げるカウントダウンの音ですぐさま掻き消された。

「遠慮は要らん。本気でかかってこい」

 男が構える。こんな手狭な部屋に閉じ込めておいてよくそんなことが言えるな、と愚痴のこぼれそうな口にチャックをした。
 〝相澤〟と名乗っていた全身黒ずくめの男は、雄英高校に勤める歴としたプロヒーローらしい。入試で先生とのタイマンはさすがに厳し過ぎでしょ、と内心で不平を漏らした。

 ゴーグルの奥、かすかに光る赤い眼がじわじわと距離を詰めてくる。こんな障害物のない場所では、すぐに捕まってしまうだろう。
 覚悟を決め、羽を一枚もぎった。
 柔らかな羽は立ち所に姿を変え、一本の黒い矢へと変形する。流れる動作の中で左手に顕現した和弓へと矢を番えた。

「やはり羽は使えるか」

 どういう意味だろう。使えない想定でもあったのだろうか。
 まさか、男の個性は何かを封じるもの?
 羽は使えるということは、逆に言えば〝それ以外は使えない〟という意味にも受け取れる。
 逡巡の刹那、男の首に収まっていた布が恐ろしいスピードで左腕に巻きついた。グイッと前方に引っ張られ、よろけた眼前に靴底が飛び込む。

 やばい、蹴られる!

 反射で翼をばたつかせ、迫る男の上を縦回転してやり過ごした。巻きついた布は弛まない。想像の数段上をいく引力だ。白い布によって繋がれた左腕は、物理現象を超えて、心までも強張らせる。
 無事に着地した先で、右手に構えていた矢をピンと張られた布に幾度か突き立てた。かろうじてその拘束具を破り捨てる。なんなの、この硬い布は!

「ほう……捕縛布を破った奴は久しいな」

 想定外を楽しむような声から、プロヒーローの猛々しい精神力を感じる。
 足が、すくみそうだ。
 いや、震える心は一旦置いておこう。わたしだって、ただ茫然とやられるためだけに来たわけじゃない。この入試は〝お兄ちゃん〟に追いつくための最初の一歩に過ぎないのだから。

「考え事とは、随分と余裕だな」

 男が語りながら二の手を繰り出す。

『俯瞰してみるんだ、名前。勝ち筋は必ずある』

 甦える兄の言葉を心に据え、わたしは今一度、震える足を踏み出した。

 しかし、現実はなかなかに甘くない。
 初手の蹴りを避けられたのは、実力ではなく偶然の産物だったのだと思い知るのにそう時間は掛からなかった。そこからはもう、糠に釘状態。男はわたしの戦闘手法を暴いたかのように機先を制していく。もちろん逃げ場もない。

 気づけば、肋が折られていた。久しぶりの骨の折れる感覚に唇から血が滲む。容赦ない蹴りを受けて地面に丸まった身体には、無数の切り傷とともにあちこち布が絡んで動けない。
 骨を治すには時間が掛かるから何よりも気を配っていたはずなのに、こんなにも呆気ないなんて。
 ああ、くそ! まだか、まだか、まだか!
 焦る気持ちを、一方で俯瞰した自分が落ち着けと諭している。

 その瞬間、ピリッと翼が震えた。
 心に小さな凪が訪れる──ようやくだ。

 それは『準備が整った』という、わたしにしか聞こえない吉報だった。大きく息を吸い込み、頭の中で号令をかける。

「ギィヤァァァアア!!」

 予想通り、防護ガラスの向こうからけたたましい声音が耳を劈いた。
 目にせずともわかる、遊ばれていることだろう。
 眼前の男が何事かとそちらへ顔を向けるのを確認して声を張り上げる。さあ、わたしのターンだ。

「こっちにおいで!」

 絡んだ布をそのままになんとか立ち上がると、腹部の痛みはもう無かった。新しい羽をもぎり、構える。
 腕の傷は跡形もなく消えている。問題ない、回復できている!
 男の背後にある扉から突如、ダンダンダンとけたたましい音が鳴りはじめた。

 さあ、待ちわびた〝瞬間〟だ──。

 間髪入れずにドンと扉が破られ、視界が黒に染まる。それと同時に放った矢は、光の筋を描いて男の脚元へと飛んだ。囚われた布のせいで腕の制御が利かず、想定よりも歪んだ奇跡を描いていく。
 しかし、今はそれでいい。
 矢は確かに男の大腿部を掠めていた。
 よろける姿を確認して、すぐさま天井近くまで跳び上がる。自重で男を頭上から蹴り落とし、そのまま跨ぐように乗り掛かった。

 それは黒い靄──カラスの大群に囲まれた中での、瞬く間の出来事だった。

「うっ……」

 突如、猛烈な吐き気がやってくる。きもちわるい。どうやら力を使い過ぎてしまったらしい。めまいと激痛に頭を掴まれて、ぐわんぐわんと世界がまわる。
 四方の黒い靄が晴れてゆく。心の中で〝ありがとう〟とカラスたちにお礼を告げた。彼らは強引に侵入してきた扉から優雅に飛び去っていく。

 そうして、ようやく男の顔が現れた。
 口がうっすらと開いていて驚愕の色が見て取れる。目元のゴーグルが外れ、為す術もなくわたしに組み敷かれていた。こちらはもう息も絶え絶えだが、その驚いた顔を目にして思わず頬の筋肉がゆるむ。

「……わたしの勝ち、ですね」

 急速に襲いくる睡魔に逆らえず、そのままボスンッと前方に倒れ込んだ。文字通り、限界突破だ。おいッ、と聞こえる声に返答する余力もない。意識を手放す寸前で、男の首筋のにおいが鼻を掠めた。

 天日干しされたのだろうか。
 そこからは確かに、お日様のにおいがした。

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