15
十五、いつも見る夢
いつも、同じ夢を見る。
生い茂る森の中、駆ける誰かの背中をわたしは追っている。
「東の谷が抜け道です!」
後ろから叫ぶと、前を走る男が軽やかに方向を変えた。
やはりどう考えても、われが先を行った方が早い。しかし幾度となく口にしたこちらの提言に「女を先に行かせるわけにはいかない」と、断固として聞かないのだ、あの男は。
「女ではない」と何度も言い返しては、「そうか」という無愛想な返事がお決まりのやり取りになっている。
この森は、ただの森ではない。
後ろに続くあやつの兵たちを、ただ疲弊させるだけには留まらない。もっと残酷でおぞましい、命の危険が伴う場所──それが、この〝熊野《くまの》の森〟だ。
人間の言葉を借りるなら、この森には荒ぶる神〝邪神〟が住んでいる。人々はそれを忌まわしきものと爪弾きにするが、元を辿れば邪神とは、天界──高天原《たかまがはら》の血族。
いにしえに現世《うつしよ》へと降り立ち、それぞれの土地に根づいたがゆえに天界とは袂を分かったが、神であることに変わりはない。それゆえに、到底人間が敵う相手ではないのだ。
そしてこの森に住まう邪神は、今も怒りに震えている。厄介者が無断で住まいを横断しているのだから当然のことだろう。
われは少し前に、一行の道案内役としてこの群衆へと投じられた。邪神の目をあざむき、熊野の森を抜け、大和まで導く案内役。それこそが、われが日の神様から授かった大役である。
ときに、後ろに続く兵たちにはかなりの疲れが見える。ただでさえ険しい山道に加えて、命が危うい場所と聞けば、逃げ出したくもなるだろう。実際のところ、われがこの一行に合流する前に幾人かの兵が逃げ出したと聞く。
咎める者はいなかったらしい。なぜなら残った兵たちの心持ちこそ、逃げた者らとさして変わりはないからだ。
奇襲からの逃避行に加え、迂回路として選んだのが邪神の住まう森とあっては、人間にとってはさぞ酷なことだろう。主人を守るためとはいえ、森を抜ける頃にはいかほど残っているか見ものだな、と兵たちの気概を推しはかった。
「いかがですか」
背後からの穏やかな声に、走りながら振り返る。近づいてきた〝奴の腹心〟が、こちらへ目配せしていた。小さく頷く。それを視認して、そやつは最前線を駆ける男へと声高らかに叫んだ。
「兵たちに疲れがみえます! しばしの暇をいただけませぬか!」
前をひとり颯爽と駆ける男は、鼻から息を漏らし、不服そうに足をゆるめた。後ろの兵たちとは対照的に息切れひとつ漏らさぬその姿は、さすが日の神の子孫といったところか。
あるいは、自身で練り上げられた賜物か──。
我々が足を止めたのは、この森にしては珍しくひらけた場所で、陽光が差し込んでいた。近くに川のせせらぎも聞こえる。駆けてきた山道の中では、指折りの清らかな場所だった。
ここならば邪神も好き好んで寄ってはこないだろう。なぜなら陽の差す場所は〝こちら〟の領域だからだ。
さすがだな。腹心の声掛けの時機には、毎度感服するほかない。あやつはよく周りが視えている。
後ろからは人間たちの病んだ熱気と、男たちのむさ苦しい汗の臭いが立ち込めていた。
われは人ならざる者だが、神ではない。
ゆえに彼ら人間にしてやれることはほとんど無いといっていい。──ないが、無いなりに近くの者へと近づいた。地に手も足もついて項垂れる若き姿に、大事はないか、と声をかけようとしたのだ。
少し前までは、思いつきもしなかったことだ。これも、奴の腹心から諌められた上でのことだった。
突如、頭の上にたしかな重みを感じた。
その手はしたたかに、されどやおらに、ともすれば不様に、その存在を示す。髪の毛をくしゃりと掴むように撫でるのが奴の癖だ。手の主が背後から低い声を発する。
「大事はないか」
立ち所に、眉間に皺が寄った。まさに今、貴様の若き兵に同じ言葉をかけようとしていたところなのだ。こちらに大事があるわけがなかろう。
「庇護がすぎますよ」と吐き出すと、「そうか」という無愛想な言葉が返ってきた。
こやつ、またか──。
武骨な手はすぐさま去った。いいかげん文句のひとつでも言うてやろうと、振り返りざまに男の顔を仰ぎ見る。その時だ。
突如、足元から抜け落ちる感覚に襲われ、視界が闇に包まれた。
黒いまどろみから抜け出したとき、わたしに残るのは瞭然たる憂いだった。
あの男を疎んでいるわけじゃない。疎ましいのはむしろ自分で。
これは、いつの間にか後ろを走ることに甘んじていた自分への、後悔だ。盾になるべきはあの人ではなく、わたしの方だったのに。
いつからかその立場は逆転し、自分が大事にされる存在となっていくことへの甘えが、その心地よい背徳感が、確かな憂いとなって押し寄せてくる。
そしてその強い念すらも、泡となって消えていく。たゆたう意識の中で、わたしはまた同じ夢を見ていたのだと気づく。
目を覚ますと、カーテンの開いた窓からは陽光が差し込んでいた。
今日は行くところがある。時計を見ると時刻は七時を過ぎたところだった。
起き上がり、ぐっと背伸びをする。
ふと髪に触れると、いつものごとく片方の髪が外へと跳ねていた。それを撫でつけながら、つい先程まで覚えていたはずの夢をほとんど覚えてないことに気づく。
いつも、同じ夢を見る。
生い茂る森の中、駆ける誰かの背中をわたしは追っている。
覚えているのは、いつも、ただそれだけだ。