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十六、お見舞い

 あの時は、もう二度とここへ来ることはないと思っていたのに。

 前回この場所を訪れたのは随分と昔に感じるが、思い返せばたった二カ月前のことだった。しかも今度は、逆の立場で来ることになろうとは、思いもしなかった。

 見覚えのある廊下を歩く。ナースステーションで看護師さんに訊いた病室は、おそらくここだ。
 ネームプレートを確認する。うん、やはり間違いない。

 起きてるかな──。

 コンコンと、軽くノックをする。返事はない。看護師さんの言葉を思い出した。

『今は眠ってらっしゃるかもしれませんが、今朝方、意識は取り戻されたようですよ』

 別に、長話しにきたわけじゃない。顔を見にきただけだ。お見舞いの品さえ置いて帰ればいい。
 少しだけ躊躇する気持ちを他所に、ええいっと扉を開けた。

「失礼します」


 包帯が巻かれた頭の上に手をかざした。白いガーゼの隙間から微かに見えるまぶたは、たしかに閉じられている。わたしの手の影が顔に差しても、ましてやそれを横に振っても、反応はない。
 そこまできて、ようやく自分の心に安堵が戻った。
 これなら都合がいい。もともと顔を合わせても、この人と長話をする自信もないのだから。

「いつかと逆ですね、……相澤先生」

 ベッドサイドに置かれた丸椅子に腰掛けた。左手に持っていた袋から丁寧に包装された箱を取り出す。サイドテーブルへと目を向ければ、そこには立派な籠に入った色とりどりの果物たちが幅を利かせていた。
 それを見て、少しだけ気後れする。その籠の下に持ってきた箱をうまく滑り込ませた。目立たないように、そっと。

 こんなものは、気持ちなのだから。
 気にしない気にしない。そう、自分に言い聞かせる。

「これ、よかったら食べてくださいね。果物の入ったゼリーにしたんです。顔の骨も折れてるって聞いたから、食べるの大変かなと思って。あと先生、ゼリー好きみたいだし。お見舞いの品にしては合理的でしょ? ふふっ」

 いつだったか、教壇の端で寝袋に入ったままゼリーを飲む先生の姿を思い出した。思わず笑みがこぼれる。合理性を突き詰めると、人間ってああなっちゃうんだな。ヘンなの。

「そういえば、クラスのみんなは全員無事でしたよ。相澤先生と十三号先生と、オールマイト先生のおかげで。緑谷くんは、また足と腕を壊してたけど、でもリカバリーガールの治療で大丈夫だって」

 手持ち無沙汰に、膝の上で手の指を絡めてはほどく。言葉を止めると、一方通行の恥ずかしさが増した。

「……わたし、ぜんぜんダメでした。使い物にならなかった。コネで入れてもらった報いなのかな……もっと、強くならきゃ。先生たち、いや、プロヒーローは、いつもあんな恐ろしい人たちと戦っているんですね。わたしの覚悟は、ぜんぜん……覚悟じゃなかった、です」

 相変わらずピクリとも動かない先生の顔を眺める。つながれたモニター心電図は、規則正しい波形を描いていた。
 顔に満遍なく巻かれた包帯。ギブスで固定された両腕。その様は、先生がわたしたち生徒のために命を懸けてくれた証だ──ボロボロだけど。

 しかしこれが、わたしたちの目指す姿。大切な人、そして見ず知らずの人のために命を張るお仕事。それがヒーロー。

 小さな呼吸音が漏れて、胸の辺りがわずかに上下している。それを見ると、じんわりと安心感が込み上げてきた。
 相澤先生──たしかにお世話になった人だけれど、それだけじゃない何かがある。なぜか、そう感じている。信頼や親愛の類じゃないとは思う。強いて言うなら、ずっと思い出せないほど昔にどこかで会ったことがあるような、そんな懐かしい感覚だ。
 担任と生徒。その関係以上に気に掛かる目の前の人物を、わたしはふしぎな気持ちでしばらく眺めていた。

「……また来ますね、先生」

 しどろもどろの一人語りを終えて立ち上がる。今更ながら恥ずかしさがふつふつと湧いてきて、小走りで扉へと向かった。
 スライド式の戸を開ける。人が立っていた。

「わっ!」

 思わずたたらを踏む。目に飛び込んできたのは、白いTシャツと黒い革ジャン。そして、きれいな金色の髪。

「す、すみません」

 見上げると、そこには日本人離れした顔があった。目を丸くしたまま固まっていると、目の前の人物がニヤリと口元を歪ませる。その仕草には見覚えがある。

「……え、マイク先生?」
「よォ、苗字」
「び、びっくりしたあ! 誰かと思いましたよ!」

 下ろされた艶やかな髪が後ろの低い位置でお団子に結われて、肩から前に流れている。いつもサングラス越しに見ていた目元には、今日は何もない。黄緑色の瞳がダイレクトにわたしを映している。
 マイク先生の、完全なオフスタイルだ。
 すごく新鮮で、あと、なんだかすごく、カッコいい。私服姿に見惚れて上から下まで視線が往復していると、頭にふわりと手が乗った。

「なんだ、見惚れてンのかァ?」

 冗談混じりの声に「あ、……う、はぃ」と妙に上擦った音が喉から漏れる。顔に熱が集まってきて、ふいと視線を外すと「ハハハ!」と笑いながら頭をがしがしと撫でられた。
 下から、そっと覗き見る。ペリドットのようなキラキラした瞳が楽しげに笑っている。思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
 ねえ、マイク先生。髪上げない方がいいんじゃないかな──とは言わないでおこう。


「お前ェ、起きてんだろ?」
「…………」

 ようやく静けさが戻った空間に、しゃがれた声が響いた。
 ったく、うるせェよ。人の病室の前で散々戯れやがって。

 すんなりとまぶたを開くことが叶わず、眉間に皺が寄る。目元にズキンと鋭い痛みが刺した。何をしようにも顔を動かせば動かす分だけ痛い。腕はおろか、顔までこの有様とは。まったく。手酷くやられたもんだ。
 隣からがさごそと乱雑な音がする。ビリビリと包装紙を破る音が聞こえて、次いでそれが、ゼリーの包みを剥がすような、ベリッという音へと変わった。

「……オイ、勝手に食うな」
「イイじゃねェーか、一個くらい。『相澤先生と一緒に食べてください』って言ってたぜェ? 苗字も」
「あ?」

 一緒にって──。

「ん」

 ようやくまぶたが開いて、丸椅子に座る山田を視界の端に捉えた。
 透明なスプーンの先で窓の方を指している。首が回らずに視線だけそちらへ向けると、カーテンが少しだけ開いていた。隙間からは、病院の庭に植えられている樹木が見える。中で黒い影が動いた。

──カーッ!

 タイミングを計ってか計らずか、カラスが鳴いた。

「フッ。ありゃ、お目付け役かもな」
「…………」

 ああ、どうりで──。

 長い一人語りだったわけだ。

「お前が目ェ覚ましたから会いに来たんだろ、アイツ」
「……くそ」

 だったら、ちゃんと声かけろよ。その言葉は喉奥に押し込んだ。思わぬ来客に、寝たフリを決め込んだのは自分なのだから。

「……あいつも無事だったのか」
「〝脳無〟とやらに腕をへし折られてたらしい。事情聴取では言わなかったみてェだけどなァ。後でスナイプが念のため聞き取りしたらしいぜ。まァ、俺らが着いたときには治ってたけどな」

 USJの記憶が蘇る。緑谷たちが恐怖で息を潜める中、あいつはただひとり、躊躇なく飛び込んできやがった。姿は見ていない。あの時は文字通り絶体絶命で、浴びるような衝撃に堪えながら、意識を飛ばさないようにするので精一杯だった。それでも。

『放してっ、放せ、はなせってば! あいざわさんを、放してよ!』

 震える声で喚きながらも、必死で俺を救おうとする声。それが、飛びそうな意識の中でもたしかに耳に残っている。
 どれほど恐ろしかっただろうか。プロヒーローでさえ逃げ出してもおかしくはない状況の中で、それをまだ入学したばかりの子どもが──。

「……再生能力にかまけて自身を顧みない節がある。まったく、手の掛かる奴ばかりだよ」
「そうか。まァ、今回はお前が言えた義理じゃねェけどなァ」

 ああ、そうかよ。言ってろ。
 文句の言葉は音にはしなかった。

「つーか、これ美味ェな」

 ふたたび包み紙を剥がす音が聞こえる。目元に痛みが走った。

「……だから、食うなって言ってんだろうが」

 今度は、はっきりと音にしてやった。

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