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二、仕事人は口下手

 白い天井。これが見えるとドラマでは大抵病院だよな、と呆けた頭が語りかける。窓から漏れる清々しいほどの日の光に、この温もりは朝日かもしれないと肌が感じとった。身体からは疲労感が完全に抜け切っている。それほどに眠っていたのだろうか。

「おはよう」

 あれ、この低い声は。聞き覚えのあるそれにベッドサイドへと視線を向けた。──やっぱり〝相澤さん〟だ。

「すごく眠ってましたよね、わたし」
「ああ、もう翌朝だ」
「え」

 記憶ではたしか、入試は十五時スタートだったはずだ。翌朝になったということは、軽く計算しても十五時間以上も眠ったことになる。
 こんなに熟睡したのはいつ振りだろう。ショートスリーパーのこの身体は、六時間以上眠ることなどごく稀なのに。つまりそれだけ力を使い果たしたということだろう。

「ここは病院ですか?」
「ああ。寝起き早々悪いが、今から精密検査を受けてもらう」

 のっそりと上半身を起こし、んーっと背伸びをする。
 ふと、自分の寝癖が気になった。ショートヘアの宿命。かるく撫でつけたが、やはり片側の髪が跳ねている。まさか泊まりになるとは思わなかった。

 ハネを指でねじりながら、丸椅子に腰掛ける相澤さんの顔をそっと伺い見た。昨日は緊張もあって視界に入らなかったが、こうして近距離で眺めると彼は目の下のくまがかなり深い。控えめに言っても真っ黒。しかも無精髭が確固たる如何わしさを演出している。失礼だが、とてもヒーローには見えない。
 先生って大変なんだなあ、と川向かいの火事のような考えが頭をよぎった。

「わたし、全部治ってると思うんですけど」
「ああ。〝だからこそ〟の検査だ」

 だからこそ、とは──?

 疑問が口をついて出る前に病室の扉が開かれた。看護師さんらしき人がやってきたので、話はそのままお預けとなってしまった。


 検査を滞りなく終えた、午前十時。精密検査と聞いて身構えていたが、意外にも採血やCT、あとは口の中の細胞を取られたりと、存外簡単なものだった。健康診断は公安の施設で定期的に受けているし、情報も共有されているだろうから、こちらとしては今更なにを調べるのやらという印象だ。

 検査を終えて元いた個室に戻ると、部屋を出た時と変わらずの位置に相澤さんが座っていた。早かったな、と言って手元のノートPCを閉じる。
 図らずも、同情せずにはいられない。他人の病室でも仕事するのか、この人。こっそり必殺仕事人と呼ぶことにしよう。

「結果は十五分くらいで出るみたいです」

 そう言って相澤さんと向き合うようにベッド脇へと腰掛けると、枕元にわたしのスマホとヘッドフォンが置かれていた。おかしい。さっきこの部屋を出る時は無かったはずだ。彼が持ってきてくれたのだろうか。

 でも、とりあえずよかった。
 これでお兄ちゃんに連絡できる。

 スマホを開いてメッセージを確認すると──案の定、おびただしい数の通知が表示された。しかも全て同一人物からだ。

『力を使い過ぎて寝てたみたい。さっき起きたよ』

 かんたんに一報を入れると、すぐさまシュポッと通知音が鳴った。

『安心した』

 自分で言うのもあれだけど、兄はシスコンに片足を突っ込んでいると思う。それがわたし的にはたまらなく嬉しかったりするのだけど、一方でこのままでは兄がいずれ行き遅れてしまうのではないかとの心配もある。しかし、それとて吝かではないが──。
 そういえば、お土産はなにがいいかな。静岡の名産ってお茶以外にあったっけ。多忙を極めるお兄ちゃんには、お茶よりももっと精のつくものを贈りたい。

「朝食だ。今のうちに済ましといてくれ」

 思考が飛躍しそうになった瞬間、相澤さんがそれを遮った。はっと顔を上げると、サイドテーブルには朝食らしきトレーが置かれている。当たり前だが、昨日から何も食べていない。しかしいかにもな病院食に、食欲はあまり湧いてこなかった。

「じゃあリンゴだけ、いただいてもいいですか」

 ムッと目の前の眉間にしわが寄る。なんで果物だけなんだ、とでも言いたげの顰しかめっ面だ。受け流すようにへらりと笑うと、はぁとため息をつきながらリンゴの乗った小皿を渡してくれた。
 手に取ってシャクと頬張る。おいしい。病院食なのに意外と甘い。もしかしたら、想像以上にここは格式高い病院なのかもしれない。

 ちょうど食べ終わった頃、「俺の個性は──」と言って相澤さんが精密検査の理由を語り始めた。

 相澤さんの個性である〝抹消〟は、一度見た対象の個性を次の瞬きまでの間だけ消すことができる、というものらしい。わたしのように元から翼が生えている異形型の個性には無効だが、カラスを操作したり回復したりといった発動型の個性は、例に漏れず〝抹消〟できるとのことだ。
 ただしドライアイだから酷使はできないらしい。可哀想に。やっぱり仕事人じゃないか、とは言わないでおく。

 そしてここからが本題だが──、と言って彼が丸椅子の上で居住まいを正した。曰く、なぜかわたしには彼の抹消が一切通じないのだという。故の、精密検査なのだそうだ。

 正直、通用しないことがそんなに問題のあることなのか、わたしにはわからなかった。しかし話の途中で入ってきた医師に、この後とんでもない話を聞かされることになる。

「結果からいうと〝無個性〟だね」
「……はい?」

 白衣の男性が手元のカルテから顔を上げて、怪訝な顔を崩さずに呟いた。

 わたしの話、だろうか──? 

「え。わたしが、ですか? なにかの間違いだと思うんですけど」
「いや、間違いじゃないよ。君は正真正銘〝無個性〟だ。とても信じられないけどね」
「…………」

 いやいやいや。じゃあ、私の背中についてるこれは何なのよ。

 釈然としないまま、相澤さんに視線を投げる。しかしわたしの意に反して、彼はどこか腑に落ちたような顔をしていた。

「彼女には〝個性因子がない〟ということでしょうか?」
「ああ、イレイザー。まさにその通りだ。彼女には、なぜか個性因子がない。つまり彼女の能力は〝個性以外の別の何か〟ということになる」
「……別の何か、とは」
「それは正直、僕にも計りかねるよ」

 こんなことは初めてだ、と顎に手を添えてこちらをまじまじと眺める医師の態度が、冗談ではないのだと物語っている。隣の相澤さんも似たような体勢で眉間に皺を寄せていた。
 これは、とんだ茶番だ──。
 疑念の晴れぬまま呆然としていると、ふと窓の外で鳴くカラスたちの声が耳についた。

──カーッ! カーッ! カーッ!

 その鳴き声が、いつかの記憶の端とリンクする。
 自分の中で黒い感情がゆらりと渦を巻き始めた。体の中がじわじわと侵食されていく。地に足がついているはずなのに、どうにも足元が覚束ない。

──カーッ! カーッ! カーッ!

 その違和感に居た堪れなくなって、床に差している自分の影に視線を落とした。肩が、少しずつ上下する。
 はあ、はあ、はあ。
 段々と呼吸が浅くなっていく。なぜか戻し方がわからない。なんで。どうして。床には存在感を示すように、たしかに翼がある。これがもし個性じゃないとしたら? だとしたら、やっぱり──。

「……わたしは、バケモノって、ことですか?」

 息苦しく吐き出した言葉が、胸をキリリと締めつけた。心の奥底に押し込んでいた黒い感情が顔を出す。落ち着け。でも、どうやって。今度は手が小さく震えはじめた。耐えきれずに、膝の上で強く握りしめる。しかしなぜか震えは大きくなっていく。

 突然、ポンと肩に手が乗った──相澤さんの手だった。

「今はまだ何も判っていない。そんなに思い詰めるな」

 浅くなっていた呼吸が、僅かに戻る。すかさず、すーっと鼻から酸素を吸い込んだ。そうだ、落ち着け。ゆっくり深呼吸。胸いっぱいの空気を吐き出す。

 しかしその後の二人の会話を、わたしは他人事のように聞き流すことしかできなかった。

「この件は公安に話がいきますか」
「ああ、報告書を送るつもりだよ。一応、彼女はそこの所属だからね」
「おそらく極秘案件になるかと思います」
「そうだろうね。このことは院内の者にも口外しないでおく。とりあえず今日のところはもう帰っても大丈夫だよ」
「はい、お世話になりました」


 駅まで送ろう、と車に乗せられてからしばらく経つ。見知らぬ景色が右から左へ流れていくのを、助手席からただ呆然と眺めていた。またこの土地に来ることはあるのだろうか、それともないのだろうか。

 いつの間にか入試どころの話ではなくなってしまった。本当にあの医師の言う通り、わたしの個性と思っていた力が〝個性ではない〟のだとしたら。そんな得体の知れないバケモノを学校側が採るわけがない。
 遠路はるばるやってきた土地で、とんでもない目に遭った気分だ。いや気分じゃなくて、実際にとんでもない目に遭った。

「荷物それだけか」
「あ、はい」

〝それだけか〟と問われたわたしの荷物は、首に掛けているゼンハイザーの白いヘッドフォンと、肩から下げているショルダーストラップ付きのスマホだけだ。今時スマホが一台あれば何処へだって行ける。ストラップに手を掛けて「飛ぶ時に邪魔になるので」と答えると「そうか」と返された。

 息づまるような沈黙が続く。

 途切れた会話を歯牙にも掛けない様子だ。打ちのめされている少女に、一言くらい慰めの言葉でもかけられないものだろうか。わたしは〝仕事人は口下手〟と、心のメモに筆を走らせた。

 そうこうしている内に、駅の裏手に着いたようだ。

「ここでいいか」
「はい、ありがとうございます……いろいろと、お世話になりました」

 座ったまま、できる限り低く頭を下げた。
 もうこの人と会うことはないだろう、と悟ったからだ。静岡の土を踏むこともおそらくないだろう。残念だが、兄には断りを入れて別の高校を探してもらうしかない。
 そうしてドアに手をかけると、背後から──そういえば、と聞こえて振り返る。切れ長の三白眼と視線が絡んだ。

「伝え忘れていたが、試験は合格だ。おめでとう」

 まったくもって抑揚のない声が、祝う気などさらさら無いかの如く合格を告げた。口が開く。しばらくポカンとして、次第にじわじわと眉間に力が籠る。

 わたしは、心のメモにまた一筆書き足した──仕事人に人情はなし、と。

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