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二十九、カラオケと帰り道
「えー! 麗日、来れなくなったのー?」
「うん、ご両親が会いに来てくれたんだって。みんなにもごめんって伝えてほしいって言ってたよ」
お茶子ちゃんから電話があったのは、今朝のことだ。
『ごめんね~、父ちゃんと母ちゃんも事前に連絡くれたらよかったんに、急に来るからもうビックリして~!』
電話口で謝罪を口にしながらも、声に嬉しさを滲ませたお茶子ちゃんが可愛くて、思わず「よかったね」と顔がほころんだ。
彼女の後ろからは、ガヤガヤとした声が聞こえている。
『なんだお茶子、お友達か! 父ちゃんにも紹介しなさい』
『ちょ、ちょっとやめてよ~、子どもじゃないんやから!』
『お茶子がお世話になってま~す』
『母ちゃんも、やめてえ!』
「あははっ」
いつだったか、食堂でランチを食べながら、彼女が恥ずかしそうに話してくれたご両親の話を思い出す。こんなに楽しい家族だなんて知らなかった。
いいなあ、お茶子ちゃん。とっても嬉しそう。
家族と離れての一人暮らしは、わたしも同じだから気持ちはよくわかる。そこに、離れたからこそ気づける気持ちがあることも。だってわたしも離れて気づいたお兄ちゃんへの気持ちがあるから。
「──って感じで、お茶子ちゃんは、今日は家族水入らずってことで」
「ま! そういうことなら、気を取り直して今日は六人で楽しもう!」
「「おー‼︎」」
三奈ちゃんの掛け声に透ちゃんと腕を組みながらジャンプすると、梅雨ちゃんが横から顔を覗かせた。
「ケロ! 名前ちゃん、今日はとっても楽しそうね」
「うん! だって女子会だもんっ」
今まで知らなかったんだけど、〝楽しみ〟って気持ちが突き抜けると人間って本当にスキップしたくなるの。翼がバサバサと動いて、電車の中でもなんだかソワソワして、つり革をぎゅっぎゅって何度も握り直したりして。
だって、女の子とのお出かけなんて初めてだから。
市内の繁華街。久しぶりに味わう街の賑わいは、普段の学校生活とはひと味違った活気を帯びている。みんなの私服姿が見れたことも、なんだかお友達を秘密をひとつ知れたみたいでうれしくて、ちょっぴりドキドキする。
実は昨晩、楽しみすぎてお兄ちゃんに報告の電話を入れた。どんな服がいいか、どうしても一人じゃ決められなくて。
『ねえねえ、可愛い系とカッコいい系だったらどっちがいいと思う?』
『ハハッ、浮かれてんね~』
そしたら思いっきりからかわれて、少し恥ずかしくなった。体育祭でがんばったんだから少しくらい浮かれたってバチは当たらないでしょ、って思わず言い返した。
それに今日は久しぶりのカラオケだから、と自分に言い聞かせる。地元ではたまに二人で忍んで行っていたけれど、お友達と行くのは初めてだし、めいっぱい楽しみたいんだもん。
『名前はどんな服も似合うよ』
『もう、またそれ~?』
思い出すと、クスッと笑ってしまう。紛らわすように透ちゃんと繋いだ手をブンブンと振っていたら、隣から響香がわたしの首元を覗き込んだ。
「名前、それってもしかしてゼンハイザー?」
「ん? そうだよ」
「マジっ⁉ ウチもそれ気になってんだ! 音質どう?」
彼女の瞳が、キラキラと光を宿す。最近、似たようなうなやりとりがあったような。あの時はたしかマイク先生だったっけ。
「もうね、サイッコーに良いよ!」
「ヤバっ、後でちょい聴かせてよ」
「もちろんっ」
商店街の中ではしゃいでいると、数歩先を行く百ちゃんが振り返ってこちらに手を振った。
「みなさん、こちらですわ!」
全国チェーンのカラオケ店の前で、百ちゃんが目を輝かせている。
「どうしたの、ヤオモモ。そんな緊張しちゃって」
響香の問いかけに、彼女がごくりと唾を飲み込んだ。
「わたくし実を申しますと、カラオケは初めてですの。お母様からは気の知れた方々と合唱を楽しむ場所だと伺ってますわ。ですのでわたくし、本日は早朝から特別コーチを招いて発声練習を受けてまいりましたの! 皆さまの足を引っ張らぬように、精一杯歌わせていただきますわ!」
「「「わあ~……」」」
みんなの顔がニッコリホッコリして、ウキウキする百ちゃんを愛おしげに眺める。ああ、百ちゃんかわいい。完全にお嬢様だ。
それに今日はなんてレディな姿なんだろう。この街並みとは少し、いやかなり似つかわしくないが(どちらかというと街の品格が百ちゃんに追いついてない感じで)麗しい格好をした彼女に、思わず顔がほころぶ。
どんな形であれ、彼女が今日を楽しみにしてくれていたんだと思うと、とってもうれしくなった。
「うん、たのしみだね! 行こう!」
わたしは彼女の固く握られた拳を掴んで、カラオケ店の扉をくぐった。
「へ~、名前上手いじゃん」
「えへへ、ありがと。お兄ちゃんとね、カラオケよく行ってたんだ」
「え、名前、お兄ちゃんいるの?」
右を響香、左を三奈ちゃんに挟まれたわたしは久しぶりのカラオケにヒートアップして、ついお兄ちゃんのことが口から漏れてしまった。まあ別に兄がいることくらいはバラしたって何の問題もないはず。
本当は隠し事なんて何一つしたくないんだけど、と胸がチクリとした。
「うん。いつかみんなにも紹介できたらいいな。すっごくカッコいいんだよ」
「わー、名前。なにげにブラコンじゃん」
「ぶ、ブラコンじゃないよ! 尊敬しているって意味」
ニヤリとした響香が、プッと吹き出して、次いでアハハと破顔する。揶揄われたのだとわかって、顔に熱が集まった。
「ほ、本当にブラコンとかじゃないから!」
「はいはい、わかったって」
「その言い方、絶対わかってない。もう~、揶揄うならヘッドフォン貸してあげない」
「ごめんごめん! そんなに怒んないでよ」
笑いながら耳のプラグでわたしをつつく響香に頬を膨らませると、彼女はさらに笑って「ほらほら、歌ってよシスター」とデンモクを押しつけてくる。こういうときの響香は容赦がない。
「妹扱いはキライでーす!」
「ごめんって~。いいからほら、歌ってよ」
じとりと睨んでも響香はなんのこれしきといった様子でわたしの野次をかわすのだから、なんだか彼女には一生勝てないような気がする。
そんな響香だって一曲しか歌ってないのに歌手みたいに上手くて、こっちが腰抜かしたっていうのに。
「う~、今日はいっぱい歌うっ」
「そうそう、その調子!」
悔し紛れにデンモクを覗き込むわたしを見て、響香はさもありなんと横からマイクを渡してくるのだから、やっぱり彼女には一生勝てない気がした。
その後も、梅雨ちゃんの蛙の歌に癒されたり、三奈ちゃん透ちゃんとアニソンを歌ったり、百ちゃんの讃美歌に驚いたり、響香とロックンロールしたりしていると、あっという間に楽しい時間は過ぎていった。
時刻はいつのまにか夕方になっている。
日の傾きかけたオレンジに染まる道を、みんなと並んで歩いた。
「ぐわー、あっという間に休日が終わった~」
三奈ちゃんの声が街中に響く。
「ほんとだね~。透ちゃん、今日は誘ってくれてありがとう」
「どういたしまして! 今度はお茶子ちゃんも一緒にみんなで来ようね!」
「ケロ! ほんとうね、またみんなで集まりたいわ」
「ええ、とっても有意義なお時間でしたわ」
「だね、またみんなで来よう」
ワイワイしながら駅へと到着すると、わたしだけが違うホームだった。
「じゃあ、また学校で!」
こうして人生最高の一日を終えたわたしは、意気揚々と帰りの電車に飛び乗る。向かいのホームに立つみんなに、電車の中から大きく手を降った。
きれいな夕日のなかに、わたしの大切なお友達が立っている。彼女たちが笑いながらわたしに手を振り返す。そんな些細なことが、とてもしあわせだなと思った。
電車がゆっくりと動き出す。みんながゆっくりと遠ざかってゆく。
厳しくて忙しい学校生活だけど、その中でも、こんなふうに小さなしあわせを見つけていきたい。
みんなの姿が見えなくなるまで、わたしは窓に張りついていた。
「もしかして、苗字か?」
ふと、後ろから馴染みのある声がして振り返る。紅と白の二色が目に飛び込んできて、思わず固まった。
そこには、私服姿の轟くんが立っていた。
──えーと、どうしてこうなったんだっけ?
現在進行形の不可解な状況を振り返る。
『悪い、ちょっと時間あるか』
そう言われて何事かと思いながら、拍子でこくりと頷いた。
『苗字はどこで降りるんだ?』
『次の駅、だけど……』
『じゃあ、俺もそこで降りる』
不安げなわたしを連れて、轟くんは本当にわたしの家の最寄駅で降りた。改札を抜けて、そのままとぼとぼとあてもなく歩き始める。
まあ、わたしの家の最寄駅と言っても、それはつまり雄英の最寄駅でもあるわけで、ただ見知った土地だからそこで降りただけなのだろう。
彼は住宅街の中を歩いて、途中で見つけた小さな公園に入ると、近くにあったベンチに腰かけた。訳もわからず、わたしは一人分のスペースを空けて彼の隣に座る。
そうして、現在に至る。
いったい、なにごと──?
先ほどの楽しい時間とは打って変わって、ひどく重々しい空気が漂う。傾いた夕日の差す公園には、遊具の影が長く伸びていた。幼い子供たちが「バイバーイ!」と大声で叫びながら公園を去ってゆく。
徐々に人気のなくなっていく公園を前にして、心臓がどくどくと脈打ちはじめた。もう十分以上、彼は黙り込んだまま動かない。
もしかして、体育祭でわたしが爆豪くんにあっさり負けてしまったから、文句を言いたいのかな。お前、俺が宣戦布告したのに先に負けやがって、とか。
いやいや、そんなことを言われても。一体なんて返したらいいのかわからない。
わたしだって爆豪くんとは必死に戦ったから、悔いなんてない。恥ずべきことも、たぶん、ないはずだ。でも、だとしたら彼は、いったいわたしに何の用事があるというのだろう。
「悪かった」
「……へ?」
予想外の言葉に、思わず呆気にとられる。
「最初の戦闘訓練で負けてから、ずっとお前に変な対抗意識もってた」
「……あ、うん。そうなんだ」
「緑谷にいろいろ言われて、少し、思い直した」
〝いろいろ言われて〟──もしかして、あの言葉だろうか。
『君の、力じゃないか‼︎』
観客席で聞いた、緑谷くんの叫び。そしてエンデヴァーが口にしていた〝野望〟という言葉の意味。ナンバー2に君臨する彼の野望とは、おそらくオールマイトを超える存在になること。
そして、炎と氷を操る轟くんの個性。
もしかして、と小さな憶測が脳裏をよぎる。
直接聞いたわけではないが、きっと轟くん家はなにか家族間での問題を抱えているのだろう。彼が〝左〟を使いたがらないことからも、それは察することができる。
誰にも負けられない、負けたくない。
滲み出ていたわたしへの対抗心は、どうやら〝わたしだから〟という理由ではなかったようだ。そう、彼は〝誰にも〟負けられなかっただけなんだ、きっと。
そして、もし父親の炎を否定するために左を使わなかったのだとしたら、それは──。
「なにか、あったの?」
わたしは自分の中に湧いた疑問を、素直に彼にぶつけてみた。
緑谷くんの一言だけで、彼の態度がここまで変わるとは思えなかったからだ。
「?」
「言い方が悪いかもしれないけど……その、憑き物がとれたみたいな顔してるから」
「……ああ」
長い沈黙のあと、轟くんはぽつりぽつりと自分の家の事情を話し始めた。
事の発端は、父が母と結んだ個性婚だったそうだ。それによる父親との確執。兄弟たちとの隔離。追い詰められた母から受けた火傷。精神病院へと入れられてしまった母親。
そして今日、数年ぶりにお母さんと会えたこと。笑って、赦してくれたこと。もう一度、彼が理想のヒーローを目指すために、これから背負っていくもの。
まるで複雑に絡み合った糸を解くように、彼はゆっくりと丁寧に自らのことを語った。
それはまるで、彼が彼自身に言い聞かせているようにも見えた。きっと轟くん自身が、今もまだゆっくりと事態を呑み込んでいる最中なのだろう。
「──だから、俺はこれからもお母さんに会いに行こうと思う。会って、たくさん話をして……助け出したい。それが、俺のスタートラインだと思うから」
すべてを話し終えた轟くんは、電車の中で会った時よりも随分と穏やかな顔になっていた。体育祭で宣戦布告されたときとは、まるで別人だ。
彼は、こんなにもやさしい顔をする男の子だったんだ。
「……話してくれてありがとう」
「いや、俺の方こそ悪い。お前には関係ねぇことなのに」
数年ぶりの母との再会が、彼の中でどれだけ大きな出来事だったか。
それは触りだけを聞いたわたしには到底理解の及ばないことなのだけど、そんなわたしだからこそなのか、お母さんの話をする轟くんが幼い少年のように見えた。
〝今日ね、こんなうれしいことがあったんだよ!〟
そんなふうに、話を聞いて欲しくてたまらない幼い少年のように。
今なら言えるかもしれない。
初めて会った時から思っていた、あることを。
「わたしね、初めて轟くんに会ったとき、とってもきれいな髪だなって思ったんだ」
「髪? ……ああ、たまに言われるな、それ」
唐突に話を切り替えたわたしに驚いたのか、正面を向いていた轟くんがこちらを向いた。
「こっちは母親譲りなんだ」
そう言って、彼が右の髪を薄く掻き上げる。ぶわりと風が吹いて、彼の髪が大きくそよいだ。やっぱり、とてもきれいだなと思う。
いつの間にか日も暮れて、薄暗い公園には街灯のあかりだけが辺りを照らしていた。右側の白い髪が、少しだけ暖色光に染められている。
「そっちもきれいだけどね、わたしはこっちが好き」
反対側の紅い髪を指差すわたしに、轟くんは思い切り顔をしかめた。
「……俺は、こっち側は嫌いだ」
「ふふ、そう言うと思った」
でもね、轟くん──。
「わたしは轟くんの紅い髪を見ても、轟くんのお父さんのことは思い出さないよ。轟くんの紅い髪がきれいだなって、そう思うだけ」
「…………」
「轟くんは、轟くんだから」
そう言ってわたしが笑うと、彼はまた少し押し黙って「……そうか」と小さく返した。
陽の落ちた公園に、おだやかな沈黙が流れる。もう、彼との沈黙は怖くなっていた。
「家はこの近くなんだろ?」
「え、知ってたの?」
「ああ、緑谷たちと帰ってるのを見かけた。日も暮れたし、送っていく」
「いや、いいよ! すぐそこだし!」
恐れ多いと手を振ると「それでも送る」と言って聞かない轟くんは、言い方は相変わらずぶっきらぼうなのに、先ほどよりも更にやさしい顔になっていた。むしろ、うっすらとほほ笑んでいるようにも見える。
その顔が、とてもきれいだと思った。
表情一つで、人ってこんなにも違って見えるものなんだ。
「……どうかしたか?」
「っ、なんでもない!」
「そうか。じゃあ、行こう」
見惚れた恥ずかしさで俯きながら、わたしはなぜか勢い余って、思わず首を縦に振ってしまうのだった。