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三十二、職場体験スタート

「まさか、同じ行き先とはな」
「だねぇ……」

 窓側の席で流れゆく景色を眺めながら肘をつく轟くんに、わたしはまだ緊張が抜け切っていなかった。コスチュームの入ったアタッシュケースを、膝の上で強く握りしめる。予想していなかった今の状況に驚いているのは、むしろこっちの方だ。

 わたしが職場体験先に選んだのは、エンデヴァーヒーロー事務所──ではないのだが、先方が待ち合わせ場所にと指定してきたのがその場所だった。
 今回かなり無理を通して依頼した職場体験先のヒーローは、単身で全国を飛び回っているため拠点を持っていないらしい。
 エンデヴァーさんの事務所を待ち合わせ場所に指定してきたということは、二人はそこそこ見知った仲なのだろう。

 今回、職場体験を希望するにあたって一番苦労したのは、第一関門であるお兄ちゃんを説き伏せることだった。しかしお兄ちゃんの事務所では相澤先生が到底許してくれそうにないことを伝えると、通話画面の向こうでやっぱり首も肩も落とした様子で、渋々了承していた。(たぶん翌日に抗議の電話をいれたんだろうけど、相澤先生がまともに相手をしたかはわからない)

 それから第二関門として、わたしの大嫌いなコネ(つまりはお兄ちゃんのツテ)を使って依頼してもらった〝とあるヒーロー〟。今回はポジティブな方のコネだから、自分の中で百歩譲って良しとしているが、もちろん先方からわたし宛に指名が来ていたわけではない。
 つまりこれは、お兄ちゃんが個人的なヒーローネットワークを通してもぎ取ってくれたプレミアムチケットなのだ。

 必ず、この経験を身にしなくては──。

 自分から思い立って提案したとはいえ、さすがにOKを貰えるとこちらも背筋が伸びる。昨晩からみぞおちの辺りに何かがつっかえたような感覚が抜け切れない。だって相手は、格上も格上の超人気プロヒーローなのだから。

 はあ、とため息を漏らすと、隣の轟くんが顔を覗き込んできた。

「緊張してんのか」
「そりゃあね……するよ、緊張」
「お前なら大丈夫だろ」
「へ? ……あ、ありがとう」

 轟くんからの信じられない励ましに、少しだけアタッシュケースを握る手がゆるまったのは、ここだけの話。


「ハッ! 弱そうだな!」

 小麦色の肌と艷やかな白い髪。そして、こちらを見つめる真っ赤な瞳。鍛えられて引き締まったしなやかな身体に、ウサギの耳がぴょこんと跳ねている。コスチュームの胸元には、トレードマークの黄色い三日月があしらわれていた。

 ヒーロービルボードチャートで十指に入る、ラビットヒーロー ──ミルコだ。

「珍しいな。お前が学生を受け入れるとは」
「あぁ、生意気なクソガキに頼まれたんだ。存分にシゴいてくれってな!」

 隣に立つエンデヴァーさんの威厳も相まって完全に萎縮しまったわたしの背中には「大丈夫か?」と轟くんの手が添えられている。それを見て目の前の燃え盛る炎がぴくりと動いたのを、わたしは見逃さなかった。

 と、と、轟くん、今はその慰め、やめて!
 あなたのお父さまが、険しい顔でこちらを見てます!

 轟々と燃え盛る炎の途轍もない息苦しさの中で、わたしはようやく言葉を吐き出した。

「苗字、名前です。し、死なない程度に、よろしくお願いします」
「やだね!」
「うえぇ⁉」
「クソガキが高くて美味い飯奢るっつーからお前を受け入れただけだ。私は一人で自由にやるのが性に合ってんだ!」
「そ、そんなぁ……」
「まぁでも、ついてくるってんなら好きにしな!」
「は、はい!」

 ミルコさんはきっと、背中を見て学ばせるタイプなんだろう。男前な態度にちょっぴりドキドキしながら、意外と身長は高くないんだなぁ、なんて新しい発見にもワクワクしてしまう。
 この人から、いっぱい学んで帰ろう。
 わたしは先の思いやられる濃密で過酷な五日間を、ここからスタートさせた。

──と、思ったのも束の間。

「じゃあな!」

 制服姿のわたしを事務所に置き去りにして、ミルコさんは窓から一目散に飛び出していった。

 え、え、嘘でしょ? 置いていくの早すぎん?

 わたしが口をあんぐりと開けて突っ立っていると、エンデヴァーさんが呆れた様子でサイドキックのバーニンさんを呼んでくれた。

 バーニンさんいわく、今日からの五日間はこの事務所を拠点として使用させてもらえるらしい。施設の詳細は戻り次第伝えるとのことで、わたしは更衣室を借りて急いでコスチュームに着替え、とりあえずミルコさんの後を追うことにした。

 なるほど。初日から完全にわたしを巻くつもりだな!

 お兄ちゃんに無理をいって掴んでもらったプレミアムチケット。こちらとて簡単に逃すわけにはいかない。

 コスチュームを着て街に出れば、そこにはすでに準備万端のカラスたちが近くの電線に軒を連ねていた。
 そっと目を閉じる。カラスの目で捜索すれば、行動が大胆なミルコさんは比較的見つけやすい。案の定、即座に位置を捉えた。超速で地上から飛び上がる。障害物のない空中を飛んで、急ぎ彼女の後を追った。

 都会の中を飛ぶのは、久しぶりだ。

 地元での訓練中も、こんな明るい時間に街中を飛ぶことはなかった。空を飛ぶのはいつも決まって夜だったから。
 今回、ようやく陽のもとで許された活動。わたしはまだ雛鳥ですらないけれど、必ずお兄ちゃんみたいな立派なヒーローになってやるんだ。
 よしっと兜の緒を締め直し、風に乗ってスピードを上げる。

 

 しばらくして、ようやく彼女の背中を捉えた。近づくと、ミルコさんの足元にはいかにも敵ですといったなりの人間がすでに踏みつけにされている。

「ミルコさん!」

 こちらに気付いた彼女が、少しだけ目を見開いた。

「よく追いついたな!」

 彼女の近くに降り立つと、走り寄る警察官たちの姿が見えた。ミルコさんはわたしの到着に驚きながらも、周囲の群がる市民に片手でガッツポーツを決めている。
 大きな歓声が上がった。まるでステージに演者が登壇したかのような盛り上がりようだ。男勝りで勝ち気な人だけど、ファンサを忘れないあたり、やっぱりナンバー8のプロヒーローなんだと思い知らされる。

「次からはわたしにもお手伝いさせてくださいっ」
「要らん!」
「うえぇ⁉」
「じゃあな!」

 そういって足早に飛び立ったミルコさんを、負けじと自慢の翼で追従する。ただ追いかけるだけの五日間になんて、させてなるものか。

 どっぷり成長して相澤先生をぎゃふんと言わせてやるんだから!

『俺の助言のどおりとはいえ、また随分と振り切ったな……』
『えへへ。今回はポジティブな方のコネなので許してください!』
『まあいい。しっかり揉んでもらえ』
『はいっ!』

 先生に言われた言葉を、もう一度、胸に刻み込んだ。


 日が暮れて、数時間が過ぎた頃。

 夜まで追って追われてを繰り返すうち、体力のない私は猛烈な疲労を感じ始めていた。それでも、ビルの屋上をぴょんぴょんと飛び回るミルコさんの背中を歯を食いしばって追いかける。

 そんな中、ふと彼女の足が止まった。今日何度か目撃した、彼女が小さな音を拾うときの仕草だ。例えるならそう、嵐の前の静けさのような。

──なにか、ある。

 意図的に目を凝らすと、前方の大通りの、さらに一本入った路地裏。そのかすかに見えるビルの隙間に、ナイフを掲げた男が立っている。刃の先には怯える女性。男は何やら叫びながらナイフを振り上げた。

 咄嗟に、羽をもぎり弓矢を構える。しかし視界の端に映ったミルコさんは、すでに自慢の脚力で動き始めていた。

 くそっ、もう音を拾ったのか、この人は!

 彼女のずば抜けた危機察知能力の高さには、目を見張るものがある。それでも一回くらい、一回くらいはせめて、この人に追いつきたい!

──ビュンッ!

 力を込めて放った矢は、路地裏へ飛び出したミルコさんの横を飛び越えて、ナイフを持つ男の腕を捉えた。距離があるので音は聞き取れない。しかし男の手からは、たしかに刃物が落ちるのが見えた。
 次の瞬間、ミルコさんがバコンと男を踏みつけにする。男は一瞬で床にのしてしまった。

 こちらも急ぎ路地裏へと飛ぶ。到着すると、思わぬ罵声を浴びた。

「人の獲物、とってんじゃねぇよ!」

 暴力的な言葉とは裏腹に、やけに楽しげな声が耳に響く。それを聞いて、胸にたぎるものがあった。
 きっとこのとき、わたしは彼女の横柄な態度にあてられて遠慮を失ってしまっていたんだと思う。

 それでも、わたしだって──。

「あたしだって、負けてばかりじゃないですから‼」

 何としても、この人に追いついてやる。そう心に決めたわたしは、負けじと勝ち気なウサギに向かって吠えるのだった。

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