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三十三、勝ち気なウサギ
「ついてこい!」
そう言ってミルコさんに連れてこられたのは、街外れの路地裏にひっそりと佇む大衆食堂だった。歴史を感じさせる木造建築の一軒家だが、外観は小綺麗に整えられている。
もう日を跨ごうという時間なのに、店先には〝定食〟と文字の入った赤い提灯が吊るされていた。ずいぶんとアルカイックな雰囲気だ。
「おお、ミルコちゃん! いらっしゃい!」
店内に入ると、気前の良さそうな年配の男性が迎えてくれた。平日のこんな時間なのに、店内は随分と賑やかだ。客の数人もミルコさんに気づいてニッコリと手を上げる。馴染みの店なのだろう。
一番奥のテーブルに腰を落ち着かせしばらく待つと、注文もしていないのに、なぜかわたしたちの目の前には料理の皿が並べられてゆく。定食やら丼やら麺やら、卓上に所狭しと並べられた途方も無い数の料理に、言葉を失った。
え、え? これ誰が食べるん?
「私ゃ後進育成なんかするつもりはないが、ひとつ言いたい! お前、細すぎだ! 食え!」
そう言ってミルコさんは、手前の丼からすさまじい勢いで掻き込み始めた。米粒を飛ばしながらガツガツと口に流し込んで、プハーッっと言って、また次の皿に手をつける。
いやいや、嘘でしょ?
わたしの目の前にも、大盛りの範疇を遥かに凌駕したカツ定食がどどんと構えていた。手のひらを優に超える大きな丼茶碗に、大盛りの白飯と、零れ落ちそうなほど積まれたカツ。その隣には小鉢に山盛りのひじき煮と、盃《さかずき》のような汁椀に味噌汁が並々と注がれている。
到底、人間の食べれる量じゃない。
ぐっと息を呑んで、とりあえず湯気の立つカツを一切れつまみ、小さくかぶりついた。
「んっ、おいしい」
意外にも、そのままパクパクと箸が進んでいく。故郷で食べるような、懐かしい味がした。
「おいしいです。なんだか懐かしい、おふくろの味って感じですね。でもミルコさんがこういったお店に来られるのは、少し意外です」
「なんだぁ? 文句あんのか?」
「ないですよ」
「じゃあもっと食え!」
「食べてますよ~。少食なんです、体質的に」
「そうか、じゃあもっと食え!」
「うええ⁉ 人の話、聞いてます?」
ミルコさんが丼に埋めていた顔を上げて、こちらを見た。米粒のついた口元をニヤリと歪ませる。
「食って肥えろ。そしたら明日、手合わせしてやる」
「え。ほ、本当ですか⁉ よーしっ!」
今日の振る舞いからして、手合わせなど絶対に無理だろうと思っていた。予想外の提案に後押しされて、嬉しさそのままに食らいつく。
一縷の望みをかけて、わたしは目の前の大盛りカツ定食に立ち向かうのだった。
『俺たちはしばらく保須に出張する。事務所は好きに使え』
どうせエンデヴァーは、例の〝ヒーロー殺し〟を追ってンだろう。
強え敵。気にはなるが、人の獲物を横取りするほど落ちぶれちゃいねぇ。とかく、今回は公認のサンドバッグもあるしな。
「もっと食え!」
「ひえぇ……」
こいつ、動きは悪くねぇ。だが細すぎだ。蹴り甲斐もクソもあったもんじゃねェ。よーし、肥やそう。
馴染みの店に連れてくると、いつも通りのうまい飯が出てきた。ここに来れば頼まずともうまい飯が大量に運ばれてくるから好きだ。並べられていく皿を見て徐々に絶望していくこいつの顔も、そこそこ面白ぇ。
存外気に入った目の前のカラス。丼を掻き込みながら、明日はこいつをどう嬲ろうかと考えていると、親父がにんじん料理の皿を持ってきた。
ようやく来たか──。
「へい、おまち! ミルコちゃん、連れがいるなんて珍しいな!」
「まァな」
「うっぷ……ど、どうも」
「ハハッ! 味はどうだい?」
「は、はいっ。おいしいです! でも、量が……量がおかしいです」
「ハハハ! ウチに来たらミルコちゃんはこれくらいぺろりと平らげるからな! 通常運転さ!」
「お前、細すぎなんだよ。もっと食え!」
「ひえぇえ……ミルコさん、食えしか言わん~」
青い顔をしたカラスを他所に、私はにんじんの皿を手に取って口に流し込んだ。やっぱ、うめぇな、これ。
──バキッ
聞いたこともない音が身体に響いた瞬間、わたしは横腹に受けた蹴りで壁に叩きつけられていた。そのままズルズルと床に倒れ込む。
「ガハッ……!」
「ハッ! 弱ぇな!」
昨晩、一度だけ先を越せた事実にかまけて、本気でやればきっと追いつけるなどと花を咲かせていた自分をぶん殴りたい。
ミルコさんのひと蹴りで、ひ弱な身体は当たり前に骨が砕けてしまった。
くそッ、回復するからって、バカスカと無遠慮に!
そもそもわたしの能力自体、接近戦に向いていないんだ。だって戦闘スタイルは弓矢での遠距離攻撃がメインだし。いや、というより攻撃方法はこれしかない、が正しいけれど。
ちなみにこの〝日の矢〟も、カラスの操作もすべて、兄との訓練の中で培ったものだ。
『名前は索敵役や後方支援の方が向いてるよ。これからは得意を伸ばしていこう』
兄の言葉のままに、研鑽を積んできた。しかしその反面、接近戦にはめっぽう弱くなったともいえる。
加えて、超再生がこれを後押ししていた。秒速で骨も肉も回復してしまうわたしの身体では、筋肉が作られる過程をすっ飛ばしてしまう。
筋肉とは本来、切れた筋繊維がタンパク質を伴った補修を繰り返すことで作られていくわけだけど、わたしの場合は補修というよりも傷つく前の状態に戻るという感覚に近い。
よって、近接戦闘に必要な筋肉がつかないのだ。
さらに言えば、背中には大きな〝荷物〟を背負っている。当たり前に視界を遮るそれは、自分の背後を視界不良に陥れていた。
「カッ……ハッ……」
「おーい! 待ち時間、増えてんぞォー!」
あばらが肺に突き刺さっている、気がする。呼吸もままならないので、返事もできない。彼女が言っているのは、蹴られてからわたしが立ち上がるまでのロスタイムのことだ。
虫の息のまま、丸まった身体をなんとか床から引き剥がした。口の中には最初の蹴りを受けて以降、ずっと血の味が広がっている。
「ハァ……うし、ろ……からじゃ……ハァ……見えない、です」
「ハッ! 言い訳とかしゃらくせェ! お前のそれはお飾りかよ⁉」
根性で立ち上がった直後、背後から腰骨が砕けるような蹴りが打ち込まれた。
「ゴフッ……!」
「ほら、てめぇの兄貴もやってんだろ? 察してみろよ!」
この人、言ったそばから!
文字通り、わたしはサンドバッグにされていた。一瞬でも気を抜けば、意識がふっ飛びそうだ。
「ゲホッ、ゴホッ……~~~~っ!」
床にのさばったまま、悔しさを糧に自分の腕へと噛みつく。白んだ景色が、少しだけ明瞭さを取り戻した。
クソッ、眠ってたまるか。たまるかっ!
「……いいねぇ」
背後から上機嫌な声が届いた。まるで捉えた獲物をうっとりと眺めているかのような、そんな声色だ。彼女はわたしを跨ぎながら、上から見下ろしている。
これがウサギだって?
とんでもない。小動物を狩る肉食獣じゃないか!
「どい、て……!」
翼を広げて猛獣を追い払う。飛び退いた彼女が、しなやかな回転で着地した。その隙に呼吸を整えてなんとか立ち上がる。ふらふらの脚を、こぶしで叩き起こした。
「ハハッ! 泣き言ほざいてんじゃねぇぞ!」
その後も、立ち上がれど立ち上がれど幾度となく打ち込まれる背後からの蹴り。その度に砕ける骨。せり上がる黒褐色の吐瀉物。
無骨で無遠慮で無神経な攻撃に、わたしは気概と矜持で意識を縫い留める。立つんだ、名前。立て!
そして考えろ。この人の追いつく方法を──。
そうして幾度となく繰り返される蹂躙のさなか、わたしの神経はゆっくりと研ぎ澄まされてゆく。
常人であれば命を伴う危機的状況。生き物とは窮地に立ってこそ、その進化を遂げるものだ。
もっと速く、素早く、風のように。感じろ、羽の一枚一枚で。
──来る!
スローモーションに見えた、その一瞬。肉食獣の放つ風圧に、羽が逆立つ。全身の細胞が沸き立った。それはまるで、たんぽぽの綿毛を運ぶ微風のように、儚く繊細で、けれど糸で繋がったような明瞭さで翼に伝わってくる──感じる。
わたしは知っている、風の感じ方を。
自分を取り巻く、気流の形を。
──バコン!
「ガハッ!」
また、やられた。けれど一瞬、確かになにかを掴んだ気がした。ならば、もう一度!
そうして少しずつ、亀の歩みのようにゆっくりと、わたしは背後に立つウサギの気配を捉え始めていた。