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三十四、鮮明に焼きついた記憶の中で

 一週間の職場体験は、初日を除いてほぼ同じようなスケジュールだった。

 午前中はエンデヴァーヒーロー事務所の鍛錬場でミルコさんと手合わせ。事務所の食堂で昼食を済ませ、午後からは見回りに出る。

 正直なところ、手合わせでフルボッコにされた後の見回りでは、ほとんどミルコさんに追いつけることもなく、二日目以降はむしろ置いて行かれることが増えてしまった。あの性格上、待ってくれるなんてことも、もちろんない。

 あれは二日目の夜だったか。どこかのビルの屋上で事切れたように気を失っていると、一度だけミルコさんが迎えにきてくれたことがあった。
 意外とやさしいんだな、なんて感情が湧いたのも束の間。首根っこを掴まれて、気付けば例の食堂へ。

「いらっしゃい! 食材たんまり仕入れといたよ!」

 変わらず笑顔で迎えてくれる店主の顔を見ると、心の表皮がざわりとした。もちろん、彼に悪気はない。
 しかしあれ以降、わたしはこの食堂を〝地獄の飯釜〟と呼んでいる。

 三日目の夜。宿舎に戻ってきたタイミングでスマホを確認すると、緑谷くんからメッセージが届いていた。

「え、なにこれ……」

 位置情報のみを、クラスメイトへ一斉送信。一年A組のグループでは、何事だと盛り上がった痕跡が数十件。しかし最後のメッセージの送信時間を確認して、完全に出遅れてしまったことに気づく。
 時計を見ると、すでに日を越して一時を回っていた。

『念のため、通報しといた』という切島くんのメッセージを読んで、心配は拭えないながらも潔くベッドに入る。
 そうだ、今は自分のことに集中するときだ。新しく掴み掛けたイメージを頭の中で反芻しながら目をつむる。しかし枕に頭をつけた瞬間、すぐさま眠りに落ちていった。

 さらに次の日の朝、緑谷くんからクラスメイトへの二度目の一斉送信があった。位置情報だけだった一通目のメッセージは、SOSだったこと。そして謝罪と感謝を織り交ぜた内容に、飯田くんと轟くんの無事も記されていた。

 事の次第は定かではないが、ヒーロー殺しと会敵して怪我を負い、入院しているらしい。
 先ほどから、部屋に備え付けのテレビが繰り返し報じているヒーロー殺し、ステインの逮捕。七名のプロヒーローと高校生三人が巻き込まれ──と、キャスターが神妙な面持ちで伝えている。
 まさかその三人が、大事なクラスメイトだったとは。

 送られてきたメッセージの過不足ない文面を読んでも、どことなく気持ちは晴れず、わたしは緑谷くんへの通話ボタンを押した。
 入院って、どれくらいの怪我なの?
 話せるくらい? 動けるくらい?
 訊きたいことは山程あるし、元気というのならせめて声が聞きたい。
 しかし数回のコールの後、通話中のアナウンスが流れて、無情にも電話は切られてしまった。

 すん、と鼻から息が漏れる。いや、大丈夫。あの三人なら、きっと大丈夫だ。信じよう。テレビを消して、そのまま部屋を出た。

 ミルコさんが鍛錬場に来る前に、形にしなければ。
 今は、自分のことに集中する時だから。


 俺があいつの事務所に戻ってきたのは、職場体験五日目の朝だった。

 緑谷や飯田と比べて軽傷だった俺の身体は、活動に差し支えない程度に回復していた。それならあいつから学べることは学んでおきたい、と素直にそう思った。
 事務所に戻ると、サイドキックたちが声を掛けてきた。

「おお、焦凍くん、おかえり!」
「大変だったね~」
「まあ、はい」

 事の次第を知っているようだ。クソ親父から話があったのかもしれない。

「あいつ……いや、エンデヴァーは部屋にいますか?」
「ああ、機嫌はすこぶる悪いけどね。執務室にいるよ」
「そうですか、どうも」

 初日にここへ訪れたとき、最初に通された部屋だ。そこへ向かおうと足を踏み出したところ、背後から「そういえば」と声が聞こえた。

「レイヴンちゃんもかなり頑張ってるみたいだよ」

 レイヴンちゃん──?

 数秒の間をおいて、ああ、苗字のことか、とクラスメイトのヒーロー名と結びつく。立ち尽くしている俺に「鍛錬場はすぐ上の階だから、顔出してあげなよ」とサイドキックの一人が呟いた。
 そうか、この事務所には俺以外にもう一人居るんだったな。ついでに覗いていくか。

 一つ上の階ならと、エレベーターじゃなく階段を選んだ。一段ずつ登りながら、一昨晩、自分が飯田に掛けた言葉を思い出す。

『なりてえもん、ちゃんと見ろ!』

 ここ最近、インゲニウムがやられてからの飯田が気になっていた。恨みつらみで動く人間の顔なら、よく知ってたから。
 俺も少し前までは、どうやって親父を見返すか、そればかり考えていた。
 いや、むしろその一心だった。緑谷にあの言葉を掛けられるまで、俺はずっと囚われたままだった。

『君の、力じゃないか‼』

 勝ちてえのか、負けてえのか。ただ全力で挑んでくる緑谷に、全力で応えなきゃと思った。それだけだった。
 それから、意を決してお母さんに会いに行った。ここから始めなきゃと思ったから。でもお母さんは、そんな俺を驚くほどあっさりと笑って赦してくれた。

 そして病院からの帰り道に、偶然出会ったあいつ──苗字がくれた言葉。

『わたしは轟くんの紅い髪を見ても、轟くんのお父さんのことは思い出さないよ。轟くんの紅い髪がきれいだなって、そう思うだけ──轟くんは、轟くんだから』

 今までなら、ああ、そうか、と聞き流すだけだったと思う。
 なのに、あの言葉が、今でもずっと胸に留まっている。

 やけに鮮明に焼きついた記憶の中、夕焼けの匂いが残る公園で、街灯の明かりが照らした横顔。こっちを向いて、すっとほほえんだ苗字が、今でも俺の心に薪を焚べ続けている。

 気づけば〝鍛錬場〟と掲げられた扉の前に来ていた。

 重たい扉を開ければ、目の前には今しがた頭の中を巡っていた人物がいた。しかし記憶の中の彼女とはちぐはぐの、目隠しをされた姿で。

 口のまわりを真っ赤に濡らして立ち上がる苗字が、そこにいた。

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