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職場体験 ④

「っ、おい!!」

  真っ暗な暗闇の中で、誰かの叫び声が聞こえた。ここに居るはずのない、男性の声。その瞬間、わたしは鍛錬場の内鍵をかけ忘れていたことに気がついた。

 やっば、見られたっ!

 相変わらず口から垂れ流しになった血液を腕で拭いながら、ままならぬ足でのっそりと立ち上がる。

 ああ、どうしよう。どこに血がついてる? 床におぞましい吐瀉物がとっ散らかったままだ、きっと。なんて言い訳しよう。

 軽いパニックに陥っていると、背中に、誰かの手が添えられた。身体がビクッと跳ねる。

「あんたっ、……やりすぎだろ!」
「ああ?」

 まだ会話ができる段階ではないが、急いで目隠しを取る。眩い光に負けて半目いっぱい瞼を開くと、右隣に紅い髪が映った。──あ、轟くん。 

「ゲホッ、だ、だいじょ、ゴホッ、」

 胸の底から込み上げる液体に、言葉は飲み込まれる。大丈夫だから、の一言すら言えず、もどかしさが迫り上がった。

「喋るな、苗字。もう大丈夫だ──おいっ、あんたヒーローだろ! 女の子に、何やってんだ!」

 轟くんの、聞いたこともない、凄んだ声。ミルコさんを、まるで会敵したかのように睨みつけている。──まずい、完全に勘違いされてる。いや、勘違いでもないのだけど。だって、目の前でクラスメイトが目隠しされて吐血するほどにボコられていたら、そりゃ止めに入るよ、わたしも。

 ミルコさんに視線を移して、止まらない咳をそのままに「彼は、知らないんです」と目で訴えると、「ああ、……どうりで」と同じく目で返された。

 状況を把握したミルコさんが、ニカッと笑って手刀を切る。

「悪い、悪い、つい本気出ちまった。苗字、ちょっと休んでろ」

 そういって、ミルコさんは鍛錬場を後にした。

 ごめんなさい、ミルコさん。謝るのは鍵をかけ忘れたわたしの方です……

 思わずその場に座り込む。轟くんはわたしの顔を心配そうに覗き込みながら、咳が落ち着くまでずっと背中をさすり続けてくれた。

「大丈夫か? ……いや、大丈夫、じゃねえよな」
「大丈夫っ! ごめん、びっくりしたよね」

 へらへらと笑って、目隠しの布で口元についていそうな液体を急いで拭き取る。

「これ、口の中切っただけなんだ、ほんっと大丈夫!」
「いや、」

 何かを言いかけた言葉を遮って、ほら、元気っ元気っ! と力こぶをつくって見せるが、それでも轟くんの眉毛はハの字を描いたままだった。あ、轟くんもそんな顔、するんだ──。なんて、逸れた思考を手繰り寄せて、わたしはとりあえず言い訳を考えるための最善策を唱える。

「……あ、そだ、お茶、ペットボトルのお茶、頼んでいいかな?」
「ああ、待ってろ。すぐ持ってくる」

 駆け出した轟くんが、ペットボトルのお茶を持ってきてくれるまで、わたしはなんて言い訳しようか、ぼんやりする頭で拙いアイデアを絞り出していた。


 しばらくすると、轟くんは約束通りにペットボトルのお茶と、救急箱も持ってきてくれた。

 「口の中、見せてみろ」と言われて跳び上がったわたしは、「じ、自分でするからっ!」と啖呵切って、彼の手から救急箱をもぎとる。もうどこにも傷はない──。とりあえず見てくれだけと、口の中をガーゼで圧迫した。

「ほうだ、ほほろきくん、ヒーローごろひに、ほそわれたって……」
「……ああ、緑谷から聞いたのか」
「えんではぁー、来てくえて、よかったね、」
「…………」

 複雑な顔を据える轟くん。長い沈黙の後に彼は、実は──、と言って事件の真相を話し始めた。

 期せずしてヒーロー殺しと出会し、3人で戦い、捕らえたこと。エンデヴァーを功労者とすることで、事実は公表されず、職場体験中の事故ということで処理されること。そして、飯田くんの左手に、後遺症が残ること。

 ヒーロー殺しを探すために飯田くんが保須の事務所を選んでいたことを知って、自分が恥ずかしくなった。こんなに近くにいたのに、気づいてあげられなかったなんて……。

 彼が、お兄さん──憧れの人を傷つけられて、どれほど怒り狂っただろう。あの温厚で規律を重んじる飯田くんが、私怨で動くほどなのだから。わたしたちの想像を優に越えるほどの怒りに違いないんだ。そんな彼の気持ちを想うと、やりきれない。

 轟くんから真実を聞かされて、わたしは言葉を失った。がらんどうの鍛錬場に溶け込むように、わたしたちは沈黙を噛み締める。

 

──バンッ!

「焦凍ォ! 戻ったか!!」
「わあっ!」
「…………」

 突然、開け放たれた扉に、口の中の脱脂綿が飛び出た。わたしと二人きりで居たことが予想外だったのか、訝しげな目でこちらを見つめるエンデヴァー。急に現れた父親に睨みを利かせながら、轟くんはすっと立ち上がった。

「もう、口の中、大丈夫か?」
「あっ! うんっ! 大丈夫! ありがとうっ」
「……あと半日だ。また帰りに話そう」
「うん! 最終日、お互いがんばろうね!」
「ああ」

 鍛錬場を後にする轟くんの背中は、以前よりもずっと逞しく感じた。

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