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三十七、仮眠室の密会

 今朝はミルコさんの話が聞きたいって、あんなに熱烈に語ってたのに──。

 放課後を迎えるなり、教室を飛び出して行った緑谷くんが気になった。今回が初めてのことじゃない。彼は時折、ふっと姿を消す。

「ごめん、わたしも用事思い出したから。今日は二人で先に帰っててもらえるかな?」

 不思議そうにするお茶子ちゃんと飯田くんを残して、教室を飛び出した。緑谷くん、今日は怪我もしていなかったはずだし、保健室ではないはずだ。でも、そこ以外に緑谷くんが行きそうな場所が思いつかない。これは見失うと面倒だ、と急いで彼の後を追った。

 しばらく尾行すると、彼はどんどんと人気のない方へと進んでゆく。長い廊下の先、〝仮眠室〟という名の扉をノックをしてするりと入っていく緑谷くんを見つけたのは、最後の角を曲がってすぐのことだった。

「放課後に、仮眠室……?」

 念のため曲がり角に隠れて、廊下の先をそっと覗き込む。

 おそらくあの仮眠室は教員向けの部屋に違いない。寂しげな廊下にひっそりと佇む一室は、仮眠室というだけあって、学内の喧騒からは遠い場所につくられているらしい。誰も居ない廊下に、より一層疑念が深まった。

 彼は一体、ここでなにを──?

 これは、やむなし。わたしはその場で目を瞑って、仮眠室の窓側にカラスを飛ばした。視界がカラスと共有されて、風景が校舎の外の景色へと入れ替わる。

 ここはかなり高層階だから、窓側には止まり木がない。そのため窓際をすっと通り過ぎる程度でしか室内を拝むことはできない。
 部屋の外で、カラスを通過させる。見えたのは一瞬だ。しかしその一瞬でも、中にいる二人の人物をはっきりと視認することができた。

 緑谷くんと、……事務の人?

 室内には見覚えのある人物が座っていた。あの人は、体育祭で緑谷くんが大怪我をした時に付き添っていた人だ。やっぱり学校関係者だったらしい。
 二人は何やら深刻そうな顔で話し込んでいる。

 体育祭の時とは違って、男性の方は派手な黄色のスーツを着ていた。事務員にしては随分と垢抜けているのが、嫌に気になる。──彼は一体、何者なんだろう。

 気付けば自分の足は、仮眠室の扉の前まで到達していた。
 音もなく忍び寄り、扉にそっと耳を当てる。目を瞑って視界はカラスと共有しながら、かすかに音のする扉の奥に耳を傾けた。
 しかし会話の内容は、ほとんど聞き取れない。それでも辛抱強く待つと、突如、緑谷くんから叫び声が上がった。

『え゛!! じゃ、じゃあまさか! ヒーロー殺しにワンフォーオールが!?』
『いや、いやないよ。君ならそれを──』

──わんふぉーおーる?

 ああ、ワン・フォー・オール。一人はみんなのためにってやつか。ヒーロー殺しに人を思いやる心でもあったのだろうか。

 会話は続いているようだが、先ほどの叫び以外はやはりほとんど聞き取れない。カラスとの共有を切って、扉の奥の音に集中する。
 今度は男性の声が荒ぶった。

『無個性だと……彼にも、……さ。……まわりも……のない、個性を与えるだけという意味のない個性が! 力をストックする個性と、与える個性が混ざり合った! これが──』

「おい」
「ぎゃ!!!」

 突然の声かけに身体が跳ねる。バッと振り返ると、飛び込んでくる黒いオーバーオール。そこには訝しげな目でわたしを見つめる相澤先生が立っていた。 

「あっ……せ、せんせ。こんにちは」
「お前、こんなところで何してる」

 驚きのあまり背中を扉に張りつけてしまったわたしを、高い位置から黒点のような冷めた目が見下げている。

 まずい、よりにもよって相澤先生に。

「いや、あの、えっーと、道に……そう、迷ってしまって。じゃあ、わたしはこれで──」

 嫌な予感がして、反射で横を向く。本能で身体が逃げようとして無意識に前足を踏み出すと、ドンッと大きな音を立てて目の前を黒い腕が塞いだ。

「ひぃっ!」
「逃げるな。質問に応えろ」

 逃げ場を無くして思考が停止する。せめて理由を考えなくては。こんなところで耳をそばだてていた理由を、今すぐに、なにか。

「中に、誰かいるのか?」
「い、いえ……」
「お前、中の会話聞いてただろ」
「盗み聞きなんてそんなっ」
「盗み聞いてたんだな」
「あ、やっ、ちが……」

 先生が腕を降ろして、そのまま扉をノックする。「開けますよ」と言って、扉を開けた。

「……ああ、お二人さん。また仲のよろしいことで」

 え──? 

 予想外の言葉に、思わず振り返る。部屋の中には顔を真っ青にした緑谷くんと「や、やあ!」と片手を挙げたオールマイトが座っている。
 そして彼は、見紛うことなき黄色いスーツを身につけていた。


「いろいろ見えるからって人のプライベートにあまり干渉するな」
「……はい」
「それと、ああいった盗み聞きは素行が悪いだろ」
「……はい」
「お前、俺の話聞いてないな?」
「……はい、え!? いや、いやいや、聞いてます!」
「聞いてないだろ」
「聞いて、ませんでした。ごめんなさい」

 一歩先を歩いていた先生が立ち止まって、頭を掻きながら、はぁ、とため息をついた。ああ、また先生にため息をつかせてしまった、と頭の隅で小さな警鐘が鳴る。黒い背中は、呆れて言葉もないよ、と告げている気がした。

──だって、とんでもないもの見ちゃったんだもん。

 正直、わたしの頭の中は先ほど目にした事実で思考がキャパオーバーだ。
 ガリッガリの人物が一瞬で忽然と姿を消し、筋骨隆々のオールマイトにすげ替わってしまった。
 いや現実的に考えると、おそらくすげ替わったのではなくて変身したのだろう。つまり変身前のガリッガリの人物こそがオールマイト、ということになる。

 もしかして、相澤先生もこのことを知っているのだろうか。
 それとも緑谷くんとオールマイトだけの秘密なのか。

 わたしも意図せず見てしまったけれども。二人だけの秘密というのなら、わたしは胸の内に秘めておくべきだろう。──いや、でも気になる。気になり過ぎる。だって、あの平和の象徴オールマイトだよ?

「緑谷くんがミルコの話を聞きたいって言ってたのに、どっか行っちゃって……変な部屋に入ってくから気になって……そしたら中から声がして、それでつい……」
「さっきも聞いた」
「う、はい」

 横からそっと顔を覗けば、先生はやっぱりまだ眉間に深い皺を寄せていた。

「……ごめんなさい」

 罪悪感で俯けば、夕日に照らされた先生の影が長く廊下に伸びていた。それがまるで先生の怒りのボルテージを表しているようで肩がすくむ。
 大人に怒られるのは、苦手。

「……本当にごめんなさい」
「はぁ……」
「ご、ごめんなさい。もう、しませんからっ」
「……そこまで怒ってないよ」
「え?」

 顔を上げると、先生は眉間の皺をわずかに解いてわたしを見つめていた。いかにも怒ってそうだったのに、今は少し憐れむような色に染まっている。
 今度は、謝り過ぎてしまったのかな。

「そもそも、あんな場所で話し込んでたあの二人の方が変だろ」
「……そう、ですかね?」
「あぁ」

 少しだけ高鳴った鼓動が落ち着いていく。

「そっか……それも、そうですね」

 また歩き出した先生の後ろを、とぼとぼとついていく。しばらく沈黙を共有していると、ふと心操くんのことが頭に浮かんだ。体育祭以降会ってはいないけれど、つい最近カラスでその姿を拝んだばかり。
 森の中で汗を流す彼は、今日もあの場所にいるんだろうか。
 そういえば、先生と心操くんってちょっぴり似てる気がする。見た目じゃなくて、雰囲気?

 背中の曲がった先生はのっそりと廊下を進んでゆく。その黒い背中を追いかけながら考えた。──ああ、そうか、先生との沈黙も嫌じゃないかもしれない。きっと、そこが同じなんだ。

「そういえば、先生」
「なんだ」
「……あ」

 溢れ出そうになった問いは、先刻のお説教がよぎって二の句が継げない。「あー」とか「うー」とか言って本題を切り出さないわたしに、先生が「なんだよ」と言ってやきもきしながら振り返った。

「これは、その、本当に偶然見かけたんです。先生のことカラスで見てた、とかじゃなくて」
「…………」
「だから、えーっと、その……」

 すべてを察したであろう先生が、いいから早く言えと目で急かしてくる。

「心操くんと、森の中で何してるんですか?」 

 さっきの沈黙が嫌じゃない、というのは勘違いだったかもしれない。重苦しい空気がざわりと背筋を撫でる。

「やっぱり大丈夫です。ごめんなさい。わたし、何も見てません」

 沈黙に耐えられず切り上げた。また怒られるくらいなら、知らない振りをする方がマシだ。

「……明日の放課後、お前も来い」
「え?」

 予想外の言葉に、目を丸くする。

「あいつにも練習相手がいないと張り合いがないだろ」

 そう言って薄笑いした先生はめずらしく楽しげで、とにかくわたしは怒られなかったことにほっと胸を撫で下ろした。

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