38

三十八、秘密の特訓

「え……苗字?」

 雄英の敷地内、うっそうと生い茂る森の中。その少しひらけた場所に紫の彼は立っていた。驚いた様子の彼に、手を振りながら駆け寄る。

「やっほー心操くん! 体育祭ぶりだね~」
「なんで苗字がいるの?」
「わたしも相澤先生に声かけられたの。二人で秘密の特訓してるんでしょう?」
「いや、まぁ」

 首に手を当てて視線を外す彼は体操着を着ていて、額にはすでに汗が滲んでいる。普通科の方が早く授業を終えたようで、つまり彼は小一時間ほどこの場所でトレーニングに勤しんでいたらしい。

「わたし、心操くんがまだ諦めてなくてうれしい」
「……別に、あんたには関係ないだろ。それにまだ体力づくりの段階だよ」
「そうなんだね」
「だからお前も呼んだんだ」
「ひっ!」

 突然の声にビクッと身体が跳ねる。すたっと木の枝から飛び降りて、相澤先生が音もなく現れた。

「きゅ、急に現れるのやめてくださいよ先生! ただでさえ顔怖いんですから」
「おい。さり気なく教師を侮辱するな」
「……はぁ。相変わらずだな、苗字」

 こうしてわたしは心操くんとの鍛錬(体力づくり)に付き合うことになったのだ。

 聞くところによると、彼は体育祭の後すぐに相澤先生から声を掛けられていたらしい。お前が本気でヒーローを目指すなら俺が指導してやる、と。

「そういえば、体力づくりってどんなことしてるの?」
「それはまぁ──」

 心操くんは、毎日朝五時から始業までの間に有酸素運動と、夕方から就寝までには基礎体力トレーニングをこなしているらしい。加えて週二回は、こうやって相澤先生から直接指導を受けているそうだ。

「大体こんな感じでやってる」

 差し出された指南書には、PFCバランスの考慮された食事メニュー(つまりご飯は一食何グラム摂取しろだとか、タンパク質は鶏むねとささみを中心にだとか)や基礎トレのメニューがこと細やかに無駄なくびっしりと記されていた。
 コンプリートしたら闇の魔術でも使えるようになるじゃないかってほどに完璧なメニューだ。恐ろしい。

 いや、待てよ──?

 つまりお呼ばれしたってことは、今からわたしもその指南書に沿ったセットアップをこなすことになるわけで。

 気づいてしまった事実におののいて、ゆっくりと後ずさる。
 たたらを踏んだ先で、翼が先生の身体にぶつかった。ふるふると震えながら見上げると、楽しそうな顔が白い歯を見せながら笑っている。あ、これダメなやつだ。

「早速始めようか」

 そうして、闇の魔術師がつぶやいたのだった。


「ハァ……ハァ……ハァ……」
「ハァ……やだ……ハァ……もう、むりぃ」

 二人の息切れが折り重なって奇怪なハーモニーを奏でている。口の中にいつかの血の味が蘇ってきた。

「次、腹筋三セット。終わったら腕立て三セットな」

 地を這うような声がわたしたちの身体に鞭を打ち続ける。
 ただ監督されるだけなら、まだよかったのに。
 近くに立つ先生は仕事の書類に目を通しながらも、こちらのフォームが崩れた瞬間にめざとくお小言を連発してくるから、一秒たりとも気も抜けない。

「心操、反動を使うな。苗字、背中反ってるぞ」

 まさに、無限地獄。

「先生って……ハァ……鬼畜……」
「今日は、まだ……ハァ……楽な方だよ……ハァ……」

 こんなんやってたら心操くんがいつかオールマイトみたいになっちゃう。勘弁して、相澤先生。

「そんじゃ、十分休憩」

 その言葉が聞こえたときには、芝生に顔が埋まってしばらく動けなかった。

 もうじき、日が暮れる。
 心操くん曰く、最後にダッシュしてフィニッシュが定例らしい。正直どうでもいい。キツい。何も考えられない。

 地面に突っ伏したわたしの横で、心操くんは仰向けに寝転がっている。
 それからわたしはようやっと起き上がって、近くに転がしていたボトルを手に取った。片手でシャカシャカとミルクティ色の液体を振ると、そんなわたしを横目で見てか、心操くんがめずらしく目を丸くした。

「え、それプロテイン? 苗字が飲んでるとか、意外だな」
「だよね、昨日クラスメイトからも笑われたよ」

 ごく、ごく、ごく。

 一気に飲み干して、プハ~! と味わったように振る舞ってみても、やっぱり不味い。粉っぽくて味も変だし、割ったのが牛乳ですらないからそりゃ不味いよね、と割り切ってはいる。

「……言っちゃ悪いけど、苗字には似合わないな」
「いいもん。これからプロテインの似合う女になるんだよっ」

 相変わらずの無遠慮な心操くんにじとりと睨んでも、なに? みたいな澄ました顔を返されて、ああ、心操くんだな~、なんて受け入れてしまう。

「まあ、プロテインが似合う苗字もなんか嫌だけどさ」
「え、普通にひどい」

 先日のミルコさんの職場体験で身をもって体感したことは、わたしにも僅かではあるが筋力がつくらしい、ということだ。
 そこで、このまずいドリンク。
 急速に元通りになる身体に効率良くタンパク質を補うには、当たり前だがプロテイン飲料を飲むのが手っ取り早い。一周回って当たり前のことに気がついた感じだ。

「プロテイン摂取は筋力アップへの合理的手段だ。悪くない」
「先生は、おすすめのプロテインってありますか?」

 わたしからの質問に、先生はポケットからスマホを取り出して、サッと画面を見せてきた。表示されているのはよくあるブランドのものじゃなくて、海外製のちょっとマニアックそうなプロテインだ。

「わ~、やっぱり先生も飲んでるんですね。これ美味しいですか?」
「味は関係ないだろ」
「え~~! 毎日飲むんだから美味しい方がいいじゃないですか」
「どうせ味はどれも似たり寄ったりだ。探すだけ時間の無駄だよ」
「うわ……先生、毎日ゼリーばっかりだからなあ。味覚ヤバそう」
「そこに関しては俺も同意します」

 くすくすと笑うと、先生がじっとりと目を細めた。

「食事の時間は合理性に欠ける。ゼリー飲料で十分だろ。……にしても、お前ら随分と余裕そうだな」

 あ、ヤバい。これダメなやつだ。

 脳内で危険信号が鳴ったが、時すでに遅し。すっと立ち上がった先生は、本日二度目の楽しそうな顔をした。放課後の先生は、なぜだかよく笑う気がする。

「よーし、休憩終了。ダッシュ十本追加しようか」
「ひぇー……」
「……はい」

 容赦ないスパルタ教育に、二人でふらふらと立ち上がる。

 それでも心操くんはちゃっかりプロテインの商品名をメモしていたから、イレイザー教の崇拝者で確定だ。

error: このコンテンツのコピーは禁止されています