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四、入学
律儀に自分の足で歩いてきたら、ギリギリの時間になってしまった。
春の日差しも麗らかな佳き日、国立雄英高等学校ヒーロー科一年A組。今、わたしはその教室の前に立っている。
ふう、と一息。思えば三年振りの学校だ。
色々あったが、なんとか〝ここまで〟来れた。なにせ上を説得するのに一難。一人暮らしを始めのに一難。さらには──そこまで考えて、この無駄な思考に区切りをつけた。今更過ぎたことを考えても仕方がない。
それよりも、と意識を改めて目の前の扉に向き合う。この大きな扉を開けばわたしの高校生活が幕を開ける。そしてヒーローになるための、真の歩みが始まるんだ。
この場所ではすべての学びを自分の血肉としよう。ヒーローになるための素養も然り、こと欠落している社交性も然り。
よし、と意を決して扉を開いた。
「っ……!」
ぶわり、と羽が逆立つ。教室ではほぼ全員が着席しており、一斉に自分へと注目が集まった。
目。目。目。
ネクタイがきつく締まる。背筋にひやりと冷たい汗が伝った。両手にじんわりと汗を感じる。今し方一球入魂した決意がぐらりと歪んだ。
く、来るのが遅すぎた──!
この黒い翼はどうしたって目立つし、不気味だ。それに人見知りのわたしには最初の印象こそが肝心なのに。ここで一言、挨拶でもした方がいいのだろうか。いやしかし、何か言おうにもまったく言葉が出てこない。どうしよう。
そんな中、突如背後から「うわ!」という叫び声が耳に飛び込んだ。振り返ると、どうやら後ろに立っていた人を自分の翼で驚かせてしまったらしく、男の子が廊下の床にペタンと座り込んでいる。
「あっ、ごめんね!」
初日早々、まさかの失態すぎる。咄嗟に手を差し出したが、彼はまるでこちらが見えていないかのように反応がない。
まさか、怖がらせてしまっただろうか──。
「黒い、つばさ……」
漏れ出るような声が届いて目を見開いた。どうやら彼は〝わたし〟ではなく、この不気味な翼の方が気になるらしい。
しかし、深緑の瞳には軽蔑の色など微塵もなかった。むしろその大きな瞳には光明が刺していて、きらきらとした恍惚が宿っている。こういう視線はあまり受け取ったことがなく、とても新鮮だった。
緑の髪があちこちに跳ねてて、頬のそばかすが可愛い。少し地味だが、その人となりから滲み出るようなやさしさが感じ取れる。
自分の緊張が、じわりと解けていった。
「……わたし、苗字名前。よろしくね」
笑顔で話しかけると彼はボンッと顔を真っ赤にして、わたしの差し出した手をそのままにそそくさと立ち上がった。
「ぼ、僕の方こそ、驚いてしまってごめん! 僕は、」
彼は途中で言い淀んで、なぜか驚いたようにわたしの後ろに目配せする。その視線の先を追うと、机に足をかけた少年が傲然と座っていた。ツンツン頭のその少年が、眼鏡をかけた別の男の子に注意を受けている。まるで物語の中で見るような問題児と優等生の構図だ。
初日からすごいな──と、つい感心してしまったが、目の前の彼はなぜか絶望していて顔が青くなっていた。もしかして知り合いだろうか。
そうこうしていると、優等生くんがこちらに気付いてどしどしと近づいてくる。「俺は私立聡明中学の──」という彼の言葉を制止して、そばかすの男の子が〝緑谷〟と名乗った。
緑谷くん、っていうんだ。
ふたりはそのまま入試の話に花を咲かせていく。その会話を聞いてハッとした。そうか、一般入試だと既に顔見知りもいたりするのか。その点、自分には知り合いなどいようはずもない。出遅れた感、満載だ。
「あ! そのモサモサ頭は! 地味めの!」
今度は扉の向こうから女の子が顔を覗かせた。こちらの女子も緑谷くんとは既にお知り合いの様子だから、おそらく一般入試だったのだろう。
可愛いのに、結構ザックリいくなあ。
彼女は違和感なくするりと和の中に入っていく。
徐々に疎外感が深まるのを感じて、わたしは手持ち無沙汰に自分の席を探し始めた。邪魔になる前に余所者は退散しよう。
すると、やわらかい春の香りがふわりと鼻を掠めた。
「うわっ、すごーい! おっきい翼やあ! きれーい!」
女の子のやさしい香りと、久しぶりに聞く〝きれい〟という言葉で顔に熱が集まる。先ほどよりもうんと近い距離に、彼女は立っていた。
「……あ、ありがとう」
翼は折り畳んでもくるぶし近くまであるから、初対面では大きいと言われることが多い。しかし、だからこそ、〝きれい〟は殊更にうれしかった。
昨夜、丁寧にブラッシングしといてよかった。
つい顔がほころんだ、そんな時だった。
「お友達ごっこしたいなら他所へ行け。ここはヒーロー科だぞ」
突如、背筋にビリリと電流が走る。聞き覚えのある低音ボイス。まさか。
「げっ」
不意をついて出た声に、下からギロリと鋭い視線が突き刺さる。口元に手を当てるも時すでに遅し。隣で緑谷くんが「げ?」とこちらを伺っている。
ま、まずった──!
下から突き上げるような恐ろしい視線は、つい二ヶ月前に対峙した時のそれだった。緊張からの緩和で、つい気が緩み切っていたらしい。自分に言い訳してももう遅いが、それにしても何なんだこの人。なんで寝袋に入ってんの⁉
「ハイ、静かになるまで八秒かかりました。時間は有限。君たちは合理性に欠くね──担任の相澤消太だ。よろしくね」
ここにいる時点でまさかと思ったが、彼の放った〝担任〟という言葉に心の中でガックリと肩を落とす。今し方描き出した楽しい高校生活に、終わりの音が響いた気がした。
女子更衣室にて。
先ほど翼を褒めてくれた女の子は、麗日お茶子ちゃんというらしい。お茶子ちゃん──なんて可愛らしい響きなんだ。彼女は今もキラキラした目でわたしの翼を見つめている。
「ねえねえ、少しだけ触ってもいいかな~?」
「あ、うん、もちろん」
「わあ~~、ふさふさやあ」
「私も私も! 私も触りたーい!」
「あたしも! わあ~~! ふかふか! 羽毛布団みたいだね!」
お茶子ちゃんに続いて、ピンク色の女の子と透明な女の子──三奈ちゃんと透ちゃんが、わしゃわしゃと触りながら翼に抱きついてきた。そりゃあ本物の羽毛だからね、と心の中でくすりと笑う。
それにしても、くすぐったい。なかなか翼を人に触られることがないから、ものすごくくすぐったい。こんなに大勢の女の子に抱きつかれるのも初めてで、恥ずかしさが突き抜けそうだ。
しかしそろそろ着替えないと、時間に遅れてしまう。これ以上あの人を怒らせるのだけは回避せねば、今後の学校生活に差し支えそうだ。
「着替えてもいい、かな? 私〝これ〟のせいで着替えが大変で……」
「あ、そうだね! ごめんね!」
「てか、どうやって着替えるの?」
三奈ちゃんが覗き込んでくる横で、背中に穴の開いたブレザーへと手を掛けた。服は着るのも脱ぐのも一苦労だ。当たり前だけど翼は取り外せるわけじゃないから、服を肩から外して手や翼の先でそれをどうにかこうにか引っ張って、と器用にやらねばならない。
ちなみに着るのはもっと大変だ。翼の先を服の穴に通して──とドタバタしていると、みんなが手伝ってくれた。初対面なのに着脱の介助までしてもらい、恥ずかしさで居た堪れなくなる。
「……ありがとう」と伝えると、三人はニコニコと笑っていた(ちなみに透ちゃんは見えないけど、なんとなく笑ってる気がした)。
クラスの女の子たちがやさしい人たちで本当によかった。担任以外は、実に順調なすべり出しだ。
指定の体操服に着替えてグラウンドへ急ぐと〝個性把握テスト〟なるものの実施が告げられた。
「入学式は⁉ ガイダンスは⁉」
「ヒーローになるならそんな悠長な行事出る時間ないよ。雄英は〝自由〟な校風が売り文句。そしてそれは〝先生側〟もまた然り」
あなたの身なりが一番〝自由〟だけどね、という考えが頭をよぎって、顔を横に振る。いかん、いかん。こういう考えがさっきの失態を生むんだ、気をつけねば。
相澤さんが、さきほど教室で騒いでいた不良少年──爆豪くんにボール投げの指示を出す。
「死ねェ!!!」という掛け声とともにボールは投げられた。なるほど、彼は性根が捻じ曲がっているようだ。メモしとこう。
「まず自分の『最大限』を知る。それがヒーローの素地を形成する合理的手段」
デバイスには七百メートルを超える数値が映し出されている。
おもしろそう! と三奈ちゃんが隣で叫んだ。それを聞いた仕事人が、ニヤリと笑う。実に不気味な笑みだ。
「……面白そう、か。ヒーローになる為の三年間そんな腹づもりで過ごす気でいるのかい? よし、トータル成績最下位の者は見込み無しと判断し除籍処分としよう──生徒の如何は先生の〝自由〟。ようこそ、これが雄英高校ヒーロー科だ」
わたしは、選ぶ学校を間違えたかもしれない。
お兄ちゃんに『ヒーロー科の高校なら雄英しかないよ!』と言われ即決してしまった過去の自分を悔いる。いや、学校じゃなくて担任の引きが悪かっただけだろうか。マイク先生が担任だったら、きっともっと楽しい高校生活になったに違いない。
大きく落胆していると、ちなみに──、と聞こえて顔を上げた。
「推薦入学の奴にも容赦しないから覚悟しとけよ」
自分へと突き刺さる視線に、明後日の方向を向いてやり過ごす。
あーもう、絶対さっきの怒ってるじゃん……。
仕事人と目を合わせるのはしばらくやめておこうと、小さく心に決めた。