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四十一、勉強会の悲劇

 昨晩遅く、苗字から一通のメッセージが届いた。なんでも急用ができたらしく、明日の勉強会には遅れて合流するとのことだった。

「オウ、爆豪! 苗字、遅れてくるってよ。なんか急用できたらしいぜ」
「……あぁ?」

 図書館の扉の前で待ち合わせていた爆豪は、あからさまに眉を吊り上げた。まあ今日は俺のために来てもらうわけだし、んな怒んなって──。

 苗字が少し遅れるくらい差し支えないだろうと思って軽く伝えたのが、どうやら見込み違いだったらしい。そこそこに機嫌を損ねてしまった爆豪を前に、みみっちいなの言葉を呑み込む。
 仕方なく「まあ、まあ」と宥めていると、ちょうど苗字からの着信が鳴った。

「あ、苗字からだ! ちょい待ってくれ、爆豪」
「チッ」
「あ、もしもし苗字? 俺ら先に図書館で勉強してるからよ、気にしなくていいぜ!」

 ガヤガヤと電話の向こうがやけに騒がしい。
 もしかして家じゃなくて、出先か?

『……あ、もしもし、切島くん? ほんと、ごめんね! うん、お昼にはそっち行けると思うから』
「おう、わかった!」
『あと、そうだ。爆豪くんは近くにいる?』
「おう! ちょい待て……よし、スピーカーにしたぜ」
『もしもーし、爆豪くん?』

 スピーカーにした俺のスマホから苗字の声が響いた。

「おい、テメェ。ソッチから勝負しかけといて、なに遅れとンだ」
『ん? いや、なんでもないよ! 友達だから先に行ってて! ……あ、爆豪くん? ごめんね! わたしが行くまで切島くんに数学も教えといてもらえる? 二次関数つまずいてるって言ってたから、そこを重点的に。じゃあ、また後で!』
「アァ!? てめぇ、それだと勝負になんねェーだろが!」
『あ、うん! すぐ行くー! ……それじゃ、お昼過ぎに合流するね!』
「オイ!!」
「おう! 気ィつけて来いよー!」

── ツー、ツー、ツー

「苗字、なんか出先っぽかったなー」
「クソがッ!!」
「んな怒んなって爆豪! せっかく来てくれるって言ってんだしよ」

 その後、俺たちが爆豪の怒号のせいで図書館を逃げるように去り、次に入ったファミレスでも追い出されることになろうとは、この時の俺は考えもしなかった。


「遅れてごめん!」

 苗字が到着したのは、俺たちがファミレスを追い出されて路頭に迷っていた、ちょうど昼過ぎのことだった。
 向こうから駆けてくる苗字に気づいて、俺は大きく手を振った。と同時に、そのあまりにもシンプルな装いに驚く。

「なんか、私服だとイメージ変わるな」

 苗字は無地の白いワンピースを着ていて、肩からはショルダーストラップつきのスマホを下げていた。なんだか百貨店のショーウィンドウに飾られてるマネキンみたいだ。

「ふたりも、ね」
「……ケッ」

 さらりと笑う苗字は、筆記具のひとつすら持っていない。本当に俺に勉強を教えるためだけに、ここまで来てくれたらしい。少しだけ申し訳なさがつのった。

「そういえば、ファミレスにいたんじゃなかったの?」
「あー、そうなんだけどよ。追い出されちまって」

 え、と目を丸くする苗字。

「……ねぇ、どうやったらファミレスを追い出されるの?」
「アイツらがデクの話なんかするからだ」
「え、緑谷くん?」

 爆豪の言い分に首を傾げる苗字に、俺は事の次第を説明した。
 ファミレスに爆豪の中学のダチがいて、そいつらが「体育祭での緑谷がすごかったー」っつう話になって──と、そこまで話すと、苗字はすべてを察したようだった。さすがだ。

「それはそうと、どこに移動すっかなー」

 別のファミレスに行ってもいいが、それだとまた爆豪のせいで追い出されかねない。少し騒いでも許してもらえそうなところなんて、この近くにあったっけな。カラオケ、は暗いんだよなぁ、勉強すんには。

「んー……別のファミレス行くっきゃねーかなぁ」
「それだと、ここからちょっと歩くね。あ、学校は?」
「おお! その手があったか!」
「バカか。休日に門が開いとるワケねーだろが」
「んー、そっかー」

 このままだと、爆豪が「行く宛もねぇーなら帰る」とか言い出しそうだ。
 頭を悩ませていると、苗字から思わぬ提案があった。

「じゃあ、うちでする? 勉強」
「……え?」
「……アァ?」

 うちって、苗字の家ってことか?

「え、いいのか?」
「まあ、一応。わたし一人暮らしだし」

 なるほど。どことなく自立してんなと感じていた印象は、そういうことだったのか。

「苗字も親元離れてんだな」
「そうそう。学校の近くに家借りてるから、ここから歩いて行けるよ」
「マジか! すっげぇ助かる!」
「じゃあ、コンビニでお昼でも買って行こっ」
「おう!」

 歩き出した俺と苗字の後ろを爆豪がとぼとぼとついてくる。なんとか爆豪を帰さずに済みそうで、俺はほっと胸をなでおろした。

「オイ」
「ん?」
「……本当に家、上がっていいンか」

 奇妙なほどに低姿勢な爆豪が、いつもよりも落ち着いた声で尋ねた。苗字と俺は、何の確認かわからず、きょとんとしている。

「え? うん」
「どうしたんだよ、爆豪」

 俺たちの反応に、爆豪はそっぽを向いたまま黙りこくってしまった。

「あー、でも、爆破とかしたらモロモロ請求はするね」
「しねーわ、ボケ!!!」

 その後、俺たちはコンビニでジュースやら昼飯やらを買って、苗字の家に向かった。

 一人で暮らしているというマンションは、なんと学校の坂の麓にあった。
 そんな近くに住んでたのか、とか、一人暮らしにしてはずいぶんと洒落た造りのマンションだな、なんて驚きながら陽気に共用のエントランスをくぐる。
 俺の家とは違ってしっかりとしてそうなセキュリティが、意外にもあっさりと開いて、エレベーターが高層階へと登った。

「掃除が行き届いてなかったら、ごめんね」

 そう言って、控えめに開けられた玄関の扉。

「どーぞ」

 その瞬間、ぶわりと身体が浮くような感覚に陥った。

 うわー、なんだこれ──。

 扉が開けられた途端に、すっげえいいにおいが鼻腔をくすぐった。何のにおいかはわかんねぇけど、強いて言えば森の中みたいな清々しい香りだ。
 流行りものに疎い俺にはそれが何ていう香りなのかも、靴箱の上の棚から香るそれが何て言うモノなのかもさっぱりわからない。
 ただ液体の入った瓶と、そこに刺さった細い木の棒みたいなやつから、すっげーいいにおいがする、ってことだけはわかる。

 わずかに、身体のこわばりを感じた。

 そういえば、女子の部屋に入るのはこれが初めてかもしれない──。

「なんか、すっげーいい匂いすんな。お邪魔しまーす」

 玄関タイルを踏んで、スニーカーを脱ごうとした時だ。

 そのとき、俺はすべてを理解した。俺たちは、踏み込んではいけない部屋に、足を踏み入れてしまったのだと──。

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