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四十二、入ってはいけない部屋
首筋から、たらりと一筋の汗が流れる。瞬間的に高鳴った心臓で、身体中をめぐる血液が一気に沸き上がった。
あれは、一体、どういうことだ──。
隣に立つ爆豪は押し黙ったままぐっと眉を寄せて、なにやら考え込んでいるように見える。
俺たちは家主に促されるまま洗面所で手を洗って、リビングに通された。
想像以上に広い。部屋の奥には二人がけのソファがあって、その前にはローテーブルが置かれている。
「ジュース注いでくるから、そこに座っててね」
ソファの方を指さしながら、キッチンへと向かう苗字。その後ろ姿を確認し、俺はたまらず爆豪に話しかけた。もちろん、小声でだ。
「ば、ばくごう……靴、見たか?」
「……あぁ」
「男モノ、だったよな、アレ」
「…………」
「一人暮らしっつってなかったか? 苗字」
「…………」
「…………」
おい、なんとか言ってくれよ、爆豪。
一人暮らしの女の子の家に、男物のスニーカーを見つけた。
俺でも知ってるブランドの。高そうな、紅い、厚底の。
それがどう言う意味なのかわからないほど、俺もバカじゃない。
もう一度、ゆっくりと部屋を見渡してみた。
リビングの他に、部屋は二つある。そのひとつは扉が大きく開かれていて、向こうには本棚と勉強机が見えた。おそらく苗字が勉強で使ってる部屋なんだろう。
じゃあ、もう一つは──?
もう一方の扉は閉められていて、苗字の寝室なのか、あるいは別の誰かの部屋なのか。
見渡す限りしかわからないが、この家に他人の気配はない。
少なくとも今は、確実に俺と爆豪と苗字の三人だけだ。
つまり──?
「はい、どーぞ。狭くない? 大丈夫?」
「お、おう! ……サンキュー、な!」
苗字が狭くないかと心配するそれは、ソファの前に置かれたローテーブルだ。
よくよく見渡せば、ひらけたキッチンの真向かいにも小さなダイニングテーブルが置いてある。
そして、一人暮らしのはずなのに、なぜか椅子が二脚ある。
「あっちは椅子が二つしかなくて。だからこっちで勉強しようね」
俺の視線に気づいたのか、そう呟いた苗字にはなにかを隠す素振りもない。無意識に探ろうとしていた自分の視線を暴かれて、顔に熱が集まった。
咄嗟に下を向いた俺と、部屋に招かれてから一言も発さない爆豪。さすがに苗字も、不穏な空気を感じ取ったようだった。
「二人とも、どうかした? ……あ、もしかして。なんか変かな、わたしの部屋」
「いや、いやいや!」
変など、とんでもない。俺の部屋の数十倍は散らかってねーし、シンプルで整理整頓されてて、広くて。
ああ、そうだ。一人暮らしにしては、ずいぶん広い。広すぎるくらいだ。
「……広いな、と思ってよ!」
「ああ、なんだ。 黙っちゃうから、びっくりしたよー」
あはは、と破顔しているだろう苗字の顔を、真正面から見ることができない。爆豪はまだ押し黙っている。
なんでこんな時に限ってダンマリなんだよ、爆豪っ!
「じゃあ、数学からはじめよっか。たしか二次関数の応用でつまずいてるんだよね?」
「……あ、ああ」
生返事の俺には、勉強を始める前に確認すべきことがある、とわかっている。
だってよ、大事なことだろ。興味とか、そんなんじゃなくて。
単純に、ここに居ていいのかという確認の意味も含めて──。
俺は、心を決めた。
「苗字! あの、さ……玄関に置いてあったスニーカーって」
「スニーカー?」
「お、おう。なんかメンズっぽい、感じの」
「……ああ、あれね! よく泊まりにくるから、そのままなの」
「っ!」
や、やっぱり、彼氏がいたのか!
し、しかも、今、泊まりって!
「泊まりに……へぇ……そ、そっか」
「まあ、仕事帰りに寄る感じだからあんまり頻繁には来ないんだけど」
ま、ま、まさかの、社会人だと!?
たしかに苗字、クラスの中じゃ大人っぽいしな……そうか、年上の、年上の彼氏、がいたのか──。
「昨夜も急に泊まりに来て、朝帰るって言うからバタバタしちゃって」
「あ、あさ!? へぇ……」
俺だって一応男子高校生の端くれだ。
し、知ってるさ。アサガエリが、なんたるかくらい。
じゃあ、つまり、あっちのテーブルに椅子が二つあんのって、やっぱ、その彼氏がよく来るからで、しかも、仕事帰り、夜、に、アサ、朝まで──って、オイ!! 余計な詮索は男らしくねぇぞ、俺!!
思わず頭をふった。
いや、でも、だってよ!
純粋そうだなと思っていたクラスの女子が、そっち方面で何歩も先を行ってんだ。そりゃ俺だって驚くさ! 上鳴なら「えー! 苗字、彼氏いたのかよ!? マジ残念過ぎるー! ちなみに、どんなヤツ?」とかうまいこと返してしちまうんだろう。俺にはそんなスキルはない。
とりあえず、平常心、平常心……。
「靴を置いてるってことは、……結構くるんだな、その」
「そうそう。なんか防犯にもなるからって何足か置いてってるの。普通に場所とるし、持って帰ってほしいんだけどね、本音は」
ん、待てよ──?
防犯って、じゃあ、やっぱ俺らが部屋にあがンのはマズいんじゃねーのか!?
一人暮らしの彼女の家に、知らなかったとはいえ他の男が勝手に上がり込んで。
まずい……マズいだろ!? これは!!
「苗字、やっぱ俺ら──」
「あ、でも二人をここに呼んだのは内緒にしてね。お兄ちゃん、そういうの結構気にするタイプなの」
ん──?
「〝おにいちゃん〟?」
「うん。……へ?」
オニーチャン……おにい、ちゃん。お兄ちゃん。
兄貴! そうか、兄貴だったか!!
「あ、そ、そうだよなー! 悪ィ、悪ィ、勘違いしてたわ!」
「あはは、ごめんごめん。わたし言ってなかったっけ? うん、お兄ちゃんだよ。父親じゃなくて、お兄ちゃん」
焦った────!!!!
だよな!? そうだよな!? さすがにこの歳で彼氏がいて、しかも部屋に泊まらせるなんてそんな、上鳴じゃあるまいし!! まして優等生の苗字が、そんなけったいなこと……って、俺はなに勝手に想像してっ! くそっ! こんなの男の風上にも置けねェじゃねーか!! しっかりしろ! 切島鋭児郎!!!
「……お前、兄貴おるんか」
「うん。よく全国に出張行くから、仕事帰りに寄ってくれるんだー」
ニコニコする苗字を横目に、俺は目の前に出されたジュースを一気に飲み干した。喉から、ごきゅごきゅと変な音が鳴る。
「はは、切島くん、いい飲みっぷり! おかわりついでくるね」
「さ、サンキュー!!」
ふう、と息を吐いた。荒ぶった呼吸をなんとか落ち着ける。
よかった。よくわかんねえけど、とにかくよかった。
ふと横を見ると、爆豪のジュースは全然減ってなかった。
「ダァー……、すっげー勉強したー」
すっかり我が家みたく寛いで床に寝そべった俺に、爆豪は手にした教科書から視線をずらしてソファの上から俺を見下した。
「お前、どーせ授業中寝てたンだろ」
「寝てねーよ!」
「なんで、ンなこともわかんねーんだよ」
「まあまあ! おつかれさまだね、切島くん。あ、お兄ちゃんのお土産があるけど食べる?」
「え! いいのか? 頭使いすぎて、腹へったわ」
「どら焼きだけど、ふたりとも食べれる?」
「おう!」
「アァ? どら焼きなんて、どこの土産だよ」
「さーて、どこでしょう!」
ニコニコしながらキッチンに消えた苗字は、どらやきを乗せた大皿と緑茶を持ってきてくれた。大きな皿に似合わず、随分と小さなめなどらやきがいくつも並んでいる。
「ちっせーな」
「オイ、爆豪! せっかく出してもらってんのに。いっただきまーす! ……うわっ、うま!」
どらやきは一口サイズなのに、存在感のある歯応えでどことなく品のある味わいがする。スーパーに売ってるやつとは、確実に別モンだ。
「……まあ、悪くねぇ」
どうやら爆豪も気に入ったようだ。
「ふふっ、でしょ! これ好きなんだ~、皮がもっちもちで」
パクパクと次のどらやきへ手が進む俺とは逆に、二個目のどらやきを手に、じっとそれを見つめる爆豪。そんでニコニコしながら俺らを見つめる苗字。
「お前、どこ中出身だ」
爆豪からの唐突の質問に、俺も「あー、たしかに」と思った。
実家が近くなら一人暮らしをする必要もないわけだし。兄貴が心配して妹の家に寄るくらいなのだから、実家は遠方にあるのかもしれない。
「え、あー……中学……」
なぜか押し黙ってしまった苗字を、俺は頬袋に次のどらやきを入れながら眺める。
「出身は、東京……だよ」
なんだ、東京かよ!
「苗字も関東組だったんだな! 俺と芦戸も千葉だぜ」
「そ、そうだよね! 三奈ちゃんが切島くんは同じ中学だって言ってたよ!」
「そうそう! アイツ、昔っからあんなんでよー」
「ンじゃあ、これは東京土産か」
開けた窓から、ふわりと風が吹き抜ける。
爆豪はこの小さなどらやきが大層気に入ったらしい。
「だ、と思う……あ、ジュースのコップ、もういい?」
苗字が空になった俺と爆豪のコップを集めて、テーブルの下に避けていた盆の上に乗せた。
「あ、洗うなら俺も手伝うぜ。なんか至れり尽くせりだしな、さっきから」
「い、いいよ! 勉強しててっ、わたしがなおしてくるから!」
ん──? なおす?
苗字が立ち上がった瞬間、俺に座ってろとでも言いたげに、黒い翼がばさりと音を立てた。ぴゅーっという擬音語が似合う勢いで、苗字がキッチンへと消えてゆく。
「なあ、爆豪……コップ、割れてたか?」
「…………」
この部屋に来てからダンマリ気味の爆豪は、なんだか考え事をしている顔を崩さない。返事のない爆豪を横目に、俺はすんと鼻から息を漏らした。
なあ、爆豪。そんなに大人しくできんなら、図書館やファミレスでももうちょい大人しくできたんじゃねーの。
俺は喉元まで出かかった言葉を、最後のどらやきと共にぐっと喉奥へと押し込んだ。