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初めての勉強会 ②

 首筋から、たらりと一筋の汗が流れる。瞬間的に高鳴った心臓で、身体中をめぐる血液が一気に沸き上がった。

 あれは、一体、どういうことだ──。

 隣に立つ爆豪は押し黙ったまま、ぐっと眉を寄せて、なにやら考え込んでいるように見える。

 家主に促されるまま洗面所で手を洗って、リビングに通された。ソファの前のテーブルを指しながら「ジュース注いでくるから、そこに座っててね」とキッチンに向かう苗字。その後ろ姿を確認し、俺はたまらず爆豪に話しかけた。もちろん、小声で、だ。

「ば、ばくごう……靴、見たか?」
「……あぁ」
「男モノ……だったよな、アレ」
「…………」
「ひとりぐらし、っつってなかったか? 苗字」
「…………」
「…………」

 おい、なんとか言ってくれよ、爆豪──。

 一人暮らしの女子の家に、男物のスニーカーを見つけた。俺でも知ってるブランドの、高そうな、紅い、厚底の。

 それがどう言う意味なのかわからないほど、俺もバカじゃない。見渡す限りだが、この一室に他人の気配はない。確実に、俺と、爆豪と、苗字の3人だけだ。つまり──?

「はい、どーぞ。狭くない? 大丈夫?」
「お、おう! ……サンキュー、な!」

 苗字が狭くないかと心配するそれは、ソファの前に置かれたローテーブルだ。よくよく見渡せば、開けたキッチンの真向かいにも、小さなダイニングテーブルが置いてある。しかも、一人暮らしのはずなのに、なぜか、椅子が二脚、ある。

 俺の視線に気づいたのか、こっちのテーブルの方が広いからさ、と話す苗字はなにかを隠す素振りもない。無意識に探ろうとする自分の視線を暴かれて、顔に熱が集まった。

 咄嗟に下を向いた俺と、部屋に招かれてから一言も発さない爆豪。さすがに苗字も、不穏な空気を感じ取ったようだ。

「二人とも、どうかした? ……あ、もしかして。なんか変、かな……わたしの部屋」
「いや、いやいや!」

 変など、とんでもない。俺の部屋の数十倍も散らかってねーし、シンプルで整理整頓されてて、広くて──。

 ああ、そういえば、一人暮らしにしては、ずいぶん広いな。

「……広いな、と思ってよ!」
「ああ、なんだ。 黙っちゃうから、びっくりしたよー」

 あはは、と破顔しているだろう苗字の顔を見ることができない。爆豪は、まだ押し黙っている。なんでこんな時に限ってダンマリなんだよ、爆豪っ。

「じゃあ、数学からはじめよっか。たしか二次関数の応用でつまずいてるんだよね?」
「……あ、ああ」

 生返事の俺には、勉強を始める前に確認すべきことがある、と分かっている。

 だってよ、大事なことだろ。興味とか、そんなんじゃなくて。単純に、ここに居ていいのかという確認の意味も含めて──。

「苗字……あの、さ……スニーカーって」
「スニーカー? ああ、よく泊まりにくるから、そのままなの」
「っ!」

 や、やっぱり、か! ……彼氏がいたのか! し、しかも、今、泊まり、って──!

「泊まりに……へぇ……そ、そっか……」
「まあ、仕事帰りに寄る感じだから。大体、夜しか来ないんだけどね」

 ま、ま、まさかの、社会人……! たしかに苗字、クラスの中じゃ大人っぽいしな……そうか、年上の、年上の彼氏、がいたのか──。

「昨夜も急に泊まりに来て、朝帰るって言うからバタバタしちゃって──」
「あ、あさ、……へぇ」

 俺だって一応男子高校生の端くれだ。し、知ってるさ。アサガエリが、なんたるかくらい──。

 じゃあ、つまり、あっちのテーブルに椅子が二つあんのって、やっぱ、その彼氏がよく来るからで、しかも、仕事帰り、夜、に、アサ、朝まで──って、オイ!! 余計な詮索は男らしくねぇぞ、俺!! 

 で、でも、だが、しかし──!

 純粋だと思っていたクラスの女子が、そっち方面で何歩も先を行ってんだ。そりゃ俺だって驚くさ! 上鳴なら「えー! 苗字、彼氏居たのかよ!? マジ残念過ぎるー! ちなみに、どんなヤツ?」とかうまいこと返してしまうんだろう。俺にはそんなスキルはない。

 とりあえず、平常心、平常心……。

「……靴を置いてるってことは、……結構くるんだな、その」
「そうそう。なんか防犯にもなるからって何足か置いてってるの。普通に場所取るし、持って帰ってほしいんだけどね、本音は」

 ん、待てよ──?

 防犯って、じゃあ、やっぱ俺らが部屋にあがンのはマズいんじゃねーのか!? 一人暮らしの彼女の家に、知らなかったとはいえ、他の男が勝手に上がり込んで……

 まずい……マズいだろ!? これは!!

「苗字、やっぱ俺ら──」
「あ、でも、二人をここに呼んだのは内緒にしてね。お兄ちゃん、そういうの結構気にするタイプなの」

 ん──?

「”おにいちゃん”……?」
「うん。……へ?」

 オニーチャン……おにい、ちゃん。お兄ちゃん! 兄貴、そうか、兄貴だったか!!

「あ、そ、そうだよなー! 悪ィ、悪ィ、勘違いしてたわ!」
「あはは、ごめんごめん。わたし、言ってなかったっけ? うん、お兄ちゃんだよ。父親じゃなくて、お兄ちゃん」

 焦った────!!!!

 だよな!? そうだよな!? さすがにこの歳で彼氏が居て、しかも部屋に泊まらせるなんてそんな、上鳴じゃあるまいし!! まして優等生の苗字が、そんなけったいなこと……って、俺はなに勝手に想像してっ! くそっ!こんなの男の風上にも置けねェじゃねーか!! しっかりしろ! 切島鋭児郎!!!

「……お前、兄貴おるんか」
「うん。よく全国に出張行くから、仕事帰りに寄ってくれるんだー」

 ニコニコする苗字を横目に、俺は目の前に出されたジュースを一気に飲み干した。

「はは、切島くん、いい飲みっぷりっ! おかわりついでくるね」
「さ、サンキュー!!」

 ふと見ると、爆豪のジュースは、全然減ってなかった。


「ダー……、すっげー勉強したー……」

 すっかり我が家みたく寛いで床に寝そべった俺に、爆豪は手にした教科書から視線をずらして、ソファの上から俺を見下した。

「お前、どーせ授業中寝てたンだろ」
「寝てねーよ!」
「なんで、ンなこともわかんねーんだよ」
「まあまあ! おつかれさまだね、切島くん。あ、お兄ちゃんのお土産あるけど、食べる?」
「え! いいのか? ……頭使いすぎて、腹へったわ」
「どら焼きだけど、ふたりとも食べれる?」
「おう!」
「アァ?……どら焼きなんて、どこの土産だよ」
「さーて、どこでしょう!」

 ニコニコしながらキッチンに消えた苗字は、どらやきを乗せた大皿と緑茶を持ってきてくれた。大きな皿に似合わず、随分と小さなどらやきが、いくつも並んでいる。

「ちっせーな」
「オイ、爆豪! せっかく出してもらってんのに……うわっ、うま!」

 小さなどらやきは一口サイズなのに、存在感のある歯応えでどことなく品のある味わいがする。スーパーに売ってるやつとは、確実に別モンだ。

「……まあ、悪くねぇ」
「ふふっ、でしょ! これ好きなんだ〜、皮がもっちもちで」

 パクパクと次のどらやきへ手が進む俺とは逆に、二個目のどらやきを手にじっとそれを見つめる爆豪。そんで俺らをニコニコしながら見つめる苗字。

「お前、どこ中出身だ」

 爆豪の中で、ふと湧いた疑問だったんだろう。あー、たしかに、と思った。実家が近くなら一人暮らしをする必要もないわけだし。兄貴が心配で妹の家に寄るくらいなのだから、実家は遠方にあるのかもしれない。

「……え、あー……中学……」

 なぜか押し黙ってしまった苗字を、俺は頬袋に次のどらやきを入れながら眺める。

「出身は、東京……だよ」

 なんだ、東京かよ!

「苗字も関東組だったんだな! 俺と芦戸も千葉だぜ」
「そ、そうだよね! 三奈ちゃんが切島くんは同じ中学だって言ってたよ」
「そうそう! アイツ、昔っからあんなんでよー」
「ンじゃあ、これは東京土産か」

 開けた窓から、ふわりと風が吹き抜けた。爆豪はこの小さなどらやきが大層気に入ったらしい。

「だ、と思う……あ、ジュースのコップ、もういい?」

 苗字が空になった俺と爆豪のコップを集めて、テーブルの下に避けていた盆の上に乗せた。

「あ、さすがに俺も手伝うぜ。なんか至れり尽くせりだしな、さっきから」
「い、いいよ! 勉強しててっ、わたしがなおしてくるから!」

 ん──? なおす?

 苗字が立ち上がった瞬間、俺に座ってろとでも言いたげに、黒い翼がばさりと音を立てる。ぴゅーっという擬音語が似合う勢いで、苗字はキッチンへと消えた。

「……コップ、割れてたか?」
「…………」

 この部屋に来てからダンマリ気味の爆豪は、なんだか考え事をしている顔を崩さない。返事のない爆豪に、俺はすんと鼻から息を漏らした。

 なあ、爆豪。そんなに大人しくできんなら、図書館やファミレスでも、もうちょい大人しくできたんじゃねーの。俺は喉元まで出かかった言葉を、最後のどらやきと共にぐっと喉奥へと押し込んだ。

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