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四十六、ブレイクスルー

 苗字に用意された演習場は、コンクリートに囲まれた密室だった。翼の強みを殺した逃げ場のない閉鎖空間。与えられた試練があいつにとっての窮地であることは誰の目にも明らかだ。

 四体がワンチームだと錯覚させた上での、背後からの奇襲。

 苗字の死角まで、俺たちにはすべてが見えている。
 思わず息を呑んだ。後ろはよく見えないんだと笑っていた、いつかのあいつの言葉が胸中を揺るがす。
 しかしモニターに映ったのは、忍び寄る五体目の攻撃を難なく躱し、意気揚々と次の一手を繰り出す姿だった。

 一瞥もしなかった、と思う。まるで背ろが見えてるみてえな動きに、洗練されたなにかを感じる。胸に沸き立つ心音が浅い呼吸を引き寄せた。

 そもそもなんであいつだけ一人なんだ。能力が、という話なら俺だってまだまだ動き足りねえくらいなのに。

「すげェ……後ろに目がついてるみてェだな」
「ああ。つーか、苗字がひとりでやってるって本当だったのか」

 ブオンと開いた扉──切島と、砂藤か。
 思考を妨げるように現れた二人は至る所に包帯を巻いている。リカバリーガールの手当を受けたんだろう。コイツらは確か、一戦目でセメントス先生にやられてたはず。

「切島くん砂藤くん、おつかれさま! 名前ちゃん、がんばっとるよ!」

 麗日が二人に向かって叫んだ。

「おう! 苗字が一人でやってるって聞いてよ、とんできたわ!」
「つーか、またハズレくじ引いたのか? 苗字も災難だな……」

 違う、そうじゃねえ──。

 これは意図して設けられた一騎打ちだ。つまり先生たちは、プロヒーローである教師との対戦に苗字が一人で対処できうると、そう踏んでるってことだ。

 相澤先生は部屋の隅っこで壁に背を預けたままモニターを眺めている。その表情からは、なにを考えているのかまでは読み取れねえ。……なら、直接訊くまでだ。
 なんで苗字だけが一人で試験を受けることになったのかを。

 足を踏み出した、その時だった。
 照明のないモニタールームに、まばゆいほどの閃光が走った。暗順応していた網膜に光が焼きつく。咄嗟に目を瞑った。

「きゃあ!」
「うわっ! なんだ、どした!」

 凄まじい光明はどうやらモニターから発せられているようだった。しかし俺の目が明るさに慣れるよりも早く、光は収束していく。
 モニタールームに暗闇が戻った。

 くそ、一体なにが──。

 かろうじて開いた視界に、一番に飛び込んできたのは相澤先生だった。先生は珍しくその乾いた目を見開いて、驚くような表情をしていた。


──バコンッ

「ゴフッ……」
「ようやっと気取れるようになってきたか」
「ゲホッ……避けられ、ないんじゃ……ハァ、意味ない、ですけどッ」
「ハッ! 違いねぇ!」

 もしも将来わたしが動物を飼いたくなったとしても、ウサギだけは絶対に選ばないだろう。
 容赦ない蹴りを浴びる中でもそんな悠長なことを考える余裕が出てきたかと気付けば、驚きを通り越して笑いすら込み上げてくる。
 ああ、痛い。頭がバカになってる。

「つーかなんで弓なんだよ」
「……へ?」
「だーかーらー、小賢しいだろうが。いちいち背中から捥《も》いでちまちまと」

 え、弓が……小賢しい?

 言葉を失った。いやだって、この期に及んで弓矢の良し悪しを問われたところで。
 しかし片眉を吊り上げたウサギは頭の後ろで手を組んで、なんでンなことも思いつかねぇんだ、とでも言いた気にこちらを見ている。

「弱ぇなら、せめて近接武器持てや」

 

 は──?

 予想外すぎて、言葉も出ない。
 反射的にイマジネーションに飲み込まれた。

 わたしは、崖の上に立っている。
 ゴーゴーと猛風が吹き荒び、下からはドーンと響く、水飛沫をあげる海原。
 誰かの足蹴りが背中へとヒットして、とんっと前へ放り出された。

 落ちる!

 浮遊感に強張る身体。重力に逆らえない。ザプンッと落ちた暗闇。
 しかし目を開けると、そこはわたしが恐れた場所ではなかった。

 これは、瞭然たるブレイクスルー。

 突然、短距離走の記録が更新されるように。
 突然、翼が生えて空に飛び立てるように。
 突然、相手の次の一手が読めるように。

 停滞の殻を破り、まるでこの世に生まれ落ちるような。彼女の言葉にはそんな爽快感があった。気持ちいくらい自由で、しなやかで、正義の強さを誇る。
 そんな笑顔を連れて──。

「そしたら、ちったー相手になンのによ」

 その衝撃は、暗闇の海底でも爛々と輝く、希望の色をしていた。


「小細工ガ効カヌナラ、数デ押シ切ルノミ!」

 意識の外で五体の分身が忍び寄る。一瞬の油断もならない危機が首元まで迫っていた。

 無意識がわたしの意思を凌駕する。翼が全身を包み込む。
 暗闇に、慣れた光明が刺す。陽光のような希望が燃える。

──トスッ

 右手に顕現した剣が、翼の中から一体の分身を貫いた。

「ナ、ニッ!」

 繰り出された攻撃に分身が靄となって消える。
 纏っていた翼を解放し、次の分身へと這い寄った。

──トスッ

 右へ、左へ。

──トスッ

 跳ぶように、自由に。

──トスッ

 上へ、下へ。

──トスッ

 しなやかに、そして素早く。細い刀身が敵の急所を捉えてゆく。

『弱ぇなら、せめて近接武器持てや。そしたら、ちったー相手になンのによ』

 ミルコさん。
 あなたとの血反吐を吐いた時間を全て糧にて、わたしは前に進んでゆきます。だから次に会った時は、必ずまた手合わせしてください。
 いつかきっと追い越してやる。そんで──

 あんたに〝参った〟って言わせてやるんだから!

「まだまだァ!!」

 まるでウサギが憑依したかのようだった。顔に張りついて離れない、にじり出るような勝ち気な笑みが、わたしをもっと強くする気がした。

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