51
守られる存在、守りたい存在
俺たちはふらふらとウィンドウショッピングを続けていた。ちなみに俺の左手には買い物袋が二つ握られている。俺と苗字の分だ。
「は、それってヒーロー科の奴もここに来てるってこと?」
「そうだよ」
たわいもない会話の最中。ヒーロー科が夏休み中に行くという合宿の話になり、その流れでA組の連中がまさしく今日、このショッピングモールに来ていることを知った。
正直、焦った。苗字の楽しげな横顔にそこはかとない怒りが湧き、足元へと視線を落としながら反射的に言葉をぶつけてしまうほどには。
「……なんでそれ、先に言わないんだよ」
「へ?」
知ってたら、来なかった──。
そう言いかけて口を紡ぐ。いや、そこまでは思ってない。別に二人でいるところを見られるのが嫌だったわけじゃないんだけど。ただ彼女にも少しくらいは考えて欲しかった、誰かに見られる”危険”を。
「もしかして、嫌だった? ごめん、思いつきもしなくて……」
「いや、別に……」
見つかっても少し気まずいだけ。そうなんだけど、ただ、二人で居るのを見られたことで妙な噂が広がってもマズいから。高校生なんて噂好きの年頃。俺たちは全然そんな関係じゃないのに、俺の”個性”のせいで苗字に飛び火しないとも限らない。なにより、ヒーロー科のくせに男と遊んでんじゃねえよ、なんて苗字が後ろ指刺されるのは俺も悔しいから。
二の句が継げなかった俺の顔を、苗字は横から覗き込んだ。
「誰が嫌なの……?やっぱり爆豪くん?」
「は。いや、そうじゃなくて」
「たしか、爆豪くんは今日行かないって言ってた気がするけど」
いや、ほんと、そうじゃなくて──。
「……なんか、もういいや」
はあ、とため息をついた俺に「えー、誰だか気になるよ」なんて食いついてくるから「あんたと一緒にいるところを見られるのか気まずい」なんて口が裂けても言えなくなってしまった。
やっぱり苗字は、ときどき強引で、ときどき抜けてる。
終いには「爆豪くんもね、ちょーっと難しいところあるけど優しいところもあって──」なんて、勝手に語り出す始末。多分、俺が”爆豪嫌い”だと認定されたようだ。いつかの放課後の一件だろうか。俺がヒーロー科に突っかかった時の。まあ、もうどうでもいいが。
「ちょっと、聞いてる? 心操くん」
「聞いてるよ。あと言っとくけど俺は別に爆豪のことを特別嫌ってるわけじゃないし、そもそも……って、そっちこそ聞いてる?」
「……」
「おい、苗字……って、はっ!?」
風が吹き抜けた。違う。彼女が突然、俺の腕を力一杯引いて走り出した。尋常じゃない力の前に上半身がのけぞる。掴まれた右手首が軋んで、腕を引っ張られた肩が急激な伸びに悲鳴をあげた。
「ちょ、なに!」
「こっちッ!」
猛スピードで駆け出した彼女は、そのまま近くにあったエスカレーターを駆け上がった。ドタドタと非常識にも人を掻き分けながら彼女は足を緩めない。バサバサと揺れる翼が俺の腕やら顔やらに当たって、今にも空に飛び立ちそうな様相に思わず身が強張った。体育祭の騎馬戦で空へと飛び上がったときの浮遊感が、ふいに胸をかすめて心臓がぞわりとする。
俺たちはついさっき二階フロアから降りてきたばかりだった。なのに、なんで。一体、どうしたんだよ。もしかして、クラスの連中でも見つけたのか? もしくは、もう見られたのか? 見られたんだとしたら、今更逃げたって遅くないか? だって苗字は、その後ろ姿でさえ、苗字だってバレバレなのに──。
あまりのスピードに、周りを気にする余裕がない。苗字に手を引かれながら、懸命に人を避けて、そうしてエスカレーターを登り切った先で目の前の店に引き込まれた。
しかし、ちらりと見えた店頭のディスプレイに驚いて、俺の足は反射で急ブレーキを掛ける。
「は!?」
「いいからッ!」
それでも苗字はお構いなしにと全力で俺を店内へ引き摺り込む。そこは、女性の下着売り場だった。
いやいやいや、ちょっと流石に、ここは! 誰かに見られでもしたら、とんでもない誤解を生みかねない。誤解どころか酷い噂が流れて弁明もしようのない事態になりかねない。
しかし問答の時間すら与えられず、ぐいぐいと店内へと引き込まれていく。くそ、女の子とはいえヒーローの卵、力が尋常じゃない。
しかもあろうことか、彼女は店の奥まで行くと、息を荒くしたままその場にしゃがみ込んでしまった。まわりには黒、赤、青、白、レース、布、紐──視界に入れまいとしても、嫌に主張してくる色とりどり形とりどりの下着たちが俺を囲んでいる。ライオンの檻に入れられた羊のような気持ちになって、鼓動が暴れる。ああ、もう、なんなんだよ。
「ねえ、なに。隠れるの?」
「……」
「苗字! さすがにここは、俺もちょっと……」
「……っ」
しゃがんで丸まってしまった肩に手を置きながら、急いで背後を確認した。幸い誰かにつけられてはなさそうだし妙な足音もない。この位置なら、店頭からはきっと俺たちは見えないだろう。ほっと息つくと、そこで初めて俺は小さな違和感に気が付いた。
「苗字……?」
彼女の肩が、震えている。
「え……?」
訳がわからないまま、思わずしゃがみ込んだ。
「苗字、なんかあったのか?」
「……どうしよう……あいつ……あいつがいた」
「あいつ? あいつって誰だよ」
その瞬間、背後にたしかな人の気配を感じた。ギュンと脊髄反射で振り返る。
「いらっしゃいませ……お客様、どうかされました?」
声を掛けてきたのは女性店員だった。心配そうな顔つきで、俺たちを見つめている。
「あ、いえ……ツレが、その」
「もしかして、ご気分すぐれませんか? よかったら更衣室があるので、彼女さんをあちらに」
「あー……はい。って苗字、立てる?」
横から覗き込んだ彼女の顔は、驚くほど蒼ざめていた。手で口元を押さえて、大きく開かれた瞳は恐怖で揺れている。なぜなのか、その原因はわからないが、彼女が何者かに怯えているのは確かだった。
苗字が翼で自身の身体をぎゅっと囲い込み、細い身体がさらに縮こまる。その姿はまるで、思わぬ敵に出くわしてここに逃げ込んできた雛鳥のようだ。俺はどうしたらいいのかもわからず反射的に彼女の背中にそっと手を当てた。
「……なあ、どうしたんだよ」
怯え切った小さい背中をゆっくりとさすった。俺はショッピングバッグも放り投げて、ただならぬ不安に襲われた彼女にすり寄る。すると突然、ぐいと逆の腕を掴まれ前のめりになるほど彼女に引き寄せられた。苗字の顔が目前まで迫る。
「っ……苗字?」
「……だいじょうぶ、大丈夫だよ、心操くん」
俺の片腕を弱々しげな両手が掴む。なにが大丈夫なのか。いや、なにが大丈夫じゃないのか──。まるで自分に言い聞かせるようなか細い声に、俺は察することのできない事の重大さだけを感じ取った。
「こ、ここで待ってて。わたし行かなくちゃ」
「は!? いや、なんで」
こんな店でなんて待ってられるか!じゃなくて、どうしたんだよ。アンタをそんな顔にさせる奴っていったい誰なんだよ。行かなくちゃって、どこにだよ。
「ここならきっと入ってこないから……大丈夫」
「だから、誰が」
「カラスで後を、いや、それより通報しなきゃ。警備員さんにも──」
焦って会話にもならない彼女にやきもきしていると、突如、緊急速報のようなアラートが鳴り始めた。
けたたましいサイレン音に彼女がビクッと大きく揺れて、またわずかに縮こまる。繋がれたままの腕から噴き上げるような戦慄が伝わって、反射的に、俺はもう一方の手を彼女の手に重ねた。
大丈夫、大丈夫だよ苗字、俺がいるから──。
店を出た俺たちがショッピングモールの外へとたどり着いたのは、逃げる群衆の中でもかなり遅い方だったと思う。下着売り場の中で、なぜか苗字は「屋外へ非難してください」とのアナウンスの後も、そこに留まり続けた。目を瞑って、カラスを操作しているのか、その場で座り込んだまま彼女はしばらく動かなかった。ぐっと寄せられた眉は焦燥を叫んでいる。
「苗字、逃げないと!」という俺の声に耳も貸さず、懸命に、おそらく彼女が遭遇したであろう何者かを探していたんだろう。「体調がすぐれないなら、タンカーを持ってきますッ」という焦った女性店員の言葉でようやく苗字も折れて、やむなく俺たちは外へ出た。
流れる人混みの中で、俺はその手に苗字の手を握っていた。少しでも、彼女に安心が伝わればいいと、ただその一心だった。
帰り道、俺たちはあまり喋らなかった。「今日はごめんね」と小さく頭を下げるなぜか申し訳なさそうな苗字に、「アンタが謝ることなんてないのに」と返しても、苗字は俺の言葉を薄まった笑顔で受け止めただけだった。三叉路で別れた彼女は今まで見てきたどんな彼女よりも落ち込んでいて、その理由がなんとなく分かってしまう自分には、なんて声をかけたら良いのかまではわからない。そのまま彼女を見送った。
帰宅して、テレビをつけて始めて、あの場にヴィラン連合の奴が居たことを知った。合点がいった。彼女にあんな恐怖を植え付けた人物は、顔も名前も知らないが、数ヶ月前に雄英で彼女がその身を持って対峙した敵に違いんだと。
きっとソイツを目にして、驚いて、思わず逃げるように隠れて、でもヒーローを目指す者として自分のやるべきことを遂行しなければと、震えた身体で立ちあがろうとした彼女を誰も責めることなんてできない。
悔しい。俺はあの場で、彼女にとってただの庇護対象でしかなかった。俺がいたから、おそらく苗字は走り出したんだ。あの店に駆け込んで、まずは俺を隠そうとして。
なんでだよ。俺だって、まだ、全然まだまだだけど、ヒーローを目指して日々鍛錬しているのに。アンタの横で、一緒に──。
握った拳が、燃えるように熱い。その熱が、爪がめり込む程の悔しさが、じわじわと自分を侵食して、今までの人生で感じたことのないやるせなさを、俺にまざまざと突きつけていた。