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女の子の可愛さは一日にしてならず
木椰区のショッピングモールでは恐ろしい思いもしたけれど、わたしたちは無事に夏休みを迎えていた。いつまでもクヨクヨしてはいられない。だって長期休暇とはいえ、ヒーロー科にはまとまった休息などないのだから。あたりまえに鍛錬は継続されるし、なにより合宿も近づいてきている。
だけど──。
「名前ちゃん、夏休みでしょ? 髪、巻いてく?」
「え、いいんですか? お願いします!」
朝一とはいえ、休日の美容室は混んでいた。この春から担当になった美容師のお姉さんが、鏡越しに上品な笑みを向けている。その好意に甘えて、かんたんに短い髪を巻いてもらうことにした。
ゆるやかにウェーブがかったスタイルが仕上がってゆく。いつも寝癖を直す程度だから、なんだかモデルになったような気分だ。少しだけ〝お姉さん〟に近づいた自分が鏡に映ると、ただの白いワンピース姿もなんだか雑誌に載るような読者モデルに見えなくもない。
表情に出ていたのか、鏡の奥でお姉さんが誇らしい顔でほほえんだ。
「うん、すごくかわいい」
「ありがとうございます!」
「よかったら、写真撮ってもいい?」
「はいっ、ぜひ!」
はにかむように笑った顔をまた「かわいい」と言ってもらえて、わたしは弾む足で雄英へと向かった。
「上鳴くん、峰田くん! 学校内で体力強化とは見事な提案だ。感心したよ! さあ! みんなと一緒に汗を流そうじゃないか!」
遅れて登校した上鳴くんと峰田くんに笑顔で詰め寄った我らが委員長は、小脇にふたりを抱えて鍛錬を開始した。それを逆側のプールサイドに立てたパラソルの下から眺めて、くすりと笑う。
目の前では準備運動を終えた女子たちが、水中バレーで汗を流していた。小鳥のさえずりのような華やかな声をBGMに、こちらはひとり読書に勤しんでいる。
「なあなあ、なんで苗字は入らねえんだよ」
顔を上げると、そこには峰田くんがいた。なぜかタオルをガジガジと歯噛みしている。
「翼が濡れるの嫌なんだ。乾かすの面倒だし」
「キー!」
どうしたんだろう──タオルを引きちぎりながら猿叫をあげる彼に首を傾げていると、逆サイドの日陰ですずむ〝ある人物〟が目に入った。足の裏がちりっと火傷しそうに熱いプールサイドをたどたどしく歩いて、彼に近づく。
「口田くん」
「あ、苗字さん、どうしたの?」
口田くんは飯田くんからの差し入れのオレンジジュースを喉に流していた。コンクリの日影で休む彼に近づいて腰を下ろすと、近くにいた鳩たちが空へと飛び立ってゆく。
「この前もらったカラス用フーズね、みんなとっても喜んでくれたよ。ありがとう」
「どういたしまして。気に入ってもらえたならよかった」
口田くんは、普段からとっても声が小さい。だから彼と話すときのパーソナルスペースは、自然と近くなる。まるでコソコソ話をしているような距離感だが、嫌だと感じたことは一度もない。
しかし彼を取り巻く鳩たちは、わたしが近づくと空へと逃げてしまうので、いつもごめんね、とそれを見送っている。
「今日は、ウサギさん連れてないの?」
「プールだから、お留守番なんだ」
「そっかあ〜、残念。また裏庭で遊ばせてもらおうかな」
「うん。ウサギたちも苗字さんにはとても懐いてるから、きっと喜ぶと思う」
口田くんが以前、放課後に校舎の裏庭でうさぎと戯れているところを目撃してから、わたしたちは動物愛護団体の組合員として名を連ねるがごとく仲を深めている。
わたしはカラスと友達だし、口田くんは動物だったら誰とでもお友達だから、わたしたちは個性面からみても相性がいい。普段、わたしが特別にお世話をしているカラスたちも、本来であればなかなか人間には近寄らないのだけれど、彼の肩には平気で乗ったりする。もしかしたらカラスたちは、口田くんを第二の主人みたいに考えているのかもしれない。
他愛もない話で盛り上がっていると、遠くで委員長の声が聞こえた。
「……確かに、訓練ばかりじゃつまらないな。みんな! 男子全員で誰が五十メートルを一番早く泳げるか競争しないか?」
その後、突然はじまった飯田くん発案の競泳に、女子たちもお手伝いをすることになった。百ちゃんがスターターをやるらしい。
「百ちゃんが合図するなら、わたしはゴールライン見てこようかな」
「ええ、ぜひお願いします」
とたとたと逆サイドまで走る。今日はワンピースを着ているから、無闇に飛ぶことは控えている。やっぱり足の裏が熱い。ひょこひょこしながら待っていると、百ちゃんがこちらに向かって手を上げた。
「それでは位置について、よーい──ピッ!」
予選は十人十色で、どの試合も白熱していた。といっても、爆発で空を飛んだり、水を凍らせて滑ったり、ラインの上を平気で走ったりと正直いって水泳とは程遠かったが、そこは自由形ということらしい。
そんななかきっちりと〝泳ぎ〟で決勝に残った男の子を見て、頬がゆるむのを感じた。
「さすが緑谷くん、オールマイティだね」
プールから上がると苗字さんに声をかけられた。「いやあ」と言って、思わず熱くなった頬をかく。そういえば今日、なぜか彼女は水着を着ていない。
「苗字さんは泳がないの?」
「うん。濡れるのはちょっと苦手で」
「そうなんだ、水が苦手なんて知らなかったよ」
少しだけ不思議に思った。だって苗字さんなら苦手なことも前向きに鍛錬しそうなのに。僕がパチパチとまたたくと、彼女は頬をやわらかく染めて言葉を付け加えた。
「……というのは半分建前で、今朝、美容室に行ってきたから髪型崩したくないんだ。せっかくだし、この後もまたお出かけしようかなって思ってて」
「そうだったんだ! たしかに、いつもと髪型が少し違うなって思ってたんだ! すごく似合ってるよ!」
「そうかなぁ……ありがとう」
はにかむように笑う苗字さんは、とても新鮮だった。彼女の後ろでは黒い翼がぱたぱたと忙しなく動いている。白いワンピースの裾が揺れて、なんだかモデルさんみたいだなと思った。将来、彼女がヒーローになったとき、きっといろんな企業から声がかかるに違いない。
ふたりで会話を続けながらスタートラインに戻ると、横切るようにかっちゃんが前を通りかかった。
「ケッ、なにがお出かけだ」
「……爆豪くん」
「俺に負けたモブのくせに、ンな余裕ぶっこいていーんか」
そう言って蔑むかっちゃんは、このところよく苗字さんに突っかかっている気がする。体育祭以降、彼女をライバル視していることは誰の目にも明らかだ。
隣の苗字さんは、わかりやすく頬を膨らませている。
「鍛錬はちゃんと頑張ってるもん。今日くらいは羽伸ばしもいいかなって。それに女子は日光浴で使用許可とってるから男子とは違うんですー」
「ハッ! ンな、ちーと変わった程度で大袈裟な。モデル気取りかよ」
「っ……!」
「かっちゃん! そんな言い方、苗字さんに失礼だよ」
「アァン? てめぇは関係ねェだろが、クソデク」
「関係はないけど、そういう言い方は女の子に対して失礼だと思う。それに苗字さんは」
ちゃんとモデルみたいにかわいいよ──!
一瞬、辺りがしんとした。
あ、間違えたかもしれない、と気づいた頃には、ボボボと顔から湯気が立っていた。遠くで芦戸さんの「きゃ♡」という黄色い叫びが聞こえて、それが僕の熱に油を注ぐ。プシューと機関車の汽笛を鳴らすみたく身体が発火して、思わず口に両手を当てた。あ、あ、あ。
ぼ、ぼく、話の流れで、とんでもなく恥ずかしいことを──っ!
「アアァ? てめぇの目は潰れとんのか、このクソナード」
すると苗字さんが、僕の肩にポンと手をおいた。その凛々しい横顔に思わず息を呑む。
「爆豪くんには理解できないかもしれないけど、見た目をイジるのはとても失礼なことだから。そういうの、他の子には絶対にやらないで」
「なッ……!」
また、辺りが静まり返った。地底を這うような彼女の凄みに、固唾をのむ。不機嫌さを凝縮した声は、ぞっとするほどに低い、押し込もった声だった。
──え、苗字さん、本気で怒ってる……?
ど正論の彼女の意見に、かっちゃんが小さくたじろぐ。
「俺は、別に……!」
かっちゃんが、ほんの一瞬だけ、悲しさを含むように眉を寄せた。その顔を見て、ハッとする。
苗字さんの態度にも驚いたけれど、それよりもかっちゃんの行動に、僕は妙な違和感を感じた。
よくよく考えれば、妙な話だ。かっちゃんは普段からまわりをモブ扱いすることはあっても、特定の女の子に対して見た目で悪口を言ったりするほど性根は腐ってない。そこら辺は、案外わきまえている。
なのに、いったいどうしたんだろう。苗字さんがそんなに気に食わないのだろうか、それとも──。
「もしかして、かっちゃん……」
「アアア!? ふざけたことぬかしてんじゃねーぞ!!」
「え! ま、まだ何も──」
──ドンッ!
その瞬間、胸部に強い衝撃が走った。ボンッと目の前で火花が散って、思わず目を瞑る。拍子でたたらを踏むと、片足が地面じゃない何かを踏んで、そのままずるりと滑った。
「うわっ」
「キャア!」
身体がプールへと投げ出される。一瞬のできごとだった。
──バシャーン!!
「名前ちゃん!」
「苗字!」
「緑谷!」
落ちた瞬間、背中にやさしい衝撃が走った。水面を叩く衝撃じゃなく、やわらかい物体にぐにゅと当たるような感覚。
ぶくぶくと泡が立つ。僕は焦った。水面の向こうでノイズがかったクラスメイトたちの叫びが聞こえる。
──マズイッ!
僕は苗字さんを巻き込んで、水中へとダイブしてしまっていた。
「おい、爆豪! 何してんだよ、お前ェ!」
「な!? 俺はクソデクに──!」
遠くで切島くんの声がする。水の中でぐりんと背後を振り返った。目を瞑ったままの彼女の口からは、大きな泡がゴポリと漏れ出ている。急いでプールの底に足をついて、その身体を抱えて浮上した。水面から顔を出す。
「ぷはっ!」
「げほっ、ごほっ……」
「ごめんっ! ごめんね、苗字さんっ! 大丈夫!? ああああ、どうしよう!」
女子たちの声が聞こえた。
「名前さん! ご無事ですか!?」
「ちょっと爆豪くん、これは流石に酷いんちゃうかな!?」
「そうだよ! 突き飛ばすことないじゃん!」
心配する八百万さんの隣で、麗日さんと葉隠さんから非難の声が飛んでいる。
「アァ!? ソイツが勝手に巻き込まれたんだろうが!」
自分の足で立った苗字さんの肩に手を添えて、そっとななめ下からその顔を伺い見た。しかし深く項垂れていて、よく見えない。小さな肩がプルプルと震えている。滴る水で、彼女が泣いているのかと思った。
「……こんなの、ひどい」
「っ」
水の滴る前髪の間から垣間見えた、その悲愴な面持ちにたじろぐ。突如、ぶわっと広がった翼が、あたりに大きな飛沫を飛ばして、思わず目を閉じた。
「うわっ……!」
苗字さんが水の中から空中に飛び上がる。プールサイドに降り立った彼女は、ゆっくりとかっちゃんに近づいてゆく。その後姿は、ただならぬ憎悪を発していた。
「……最低」
「っ」
「せっかく──」
「あ?」
「せっかく美容室に行ってきたばかりだったのに!! 髪も巻いてもらって、この後もお出かけしたかったのに!! なんてことしてくれんの!? 巻きとれちゃったじゃん!!!」
あ、怒る理由、そこなんだ──。
「なっ……てめェが勝手に巻き込まれたんじゃねぇかッ!」
「なにそれ、爆豪くんが緑谷くんを突き飛ばしたからでしょ!? ありえない! やめてよ! 子どもじゃないんだから!!」
「ンだと、テメェ! ガキはそっちだろうが!」
一発触発の状況に、まわりの面々が止めに入る。その瞬間、聞き慣れた低い声が辺りに響いた。
「おい、お前ら何時だと思って……って、どういう状況だ」
あああ、マズい──。
みんなの気持ちが冷えて、スンと一つになったとき、そこには相澤先生が立っていた。先生はかっちゃんと苗字さんを一瞥して、眉をひそめる。はあ、とため息をついて、近くにいた障子くんに声をかけた。
「……障子、すまんがそのタオル、ちょっと借りていいか」
「あ、はい!」
タオルを手にした先生が近づいてきて、ハッとした。苗字さんの白いワンピースが身体に張り付いて、中の肌着が透けてしまっている。相澤先生はスマートに苗字さんの肩にタオルをかけ、目を細めた。
「着替えは……って、あるわけねえか」
「私がお作りしますわ、先生」
「もしくは俺が乾かす」
「ああ、お前ら頼む」
名乗り出た八百万さんは苗字さんの肩に手を添えて、轟くんは男子から彼女を隠すように立っていた。遠くの方では、峰田くんが捕縛布にぐるぐる巻きにされている。その手綱を引いたまま、相澤先生が尋ねた。
「爆豪、どういう状況だこれは」
「……知るかよ」
僕は急いでプールから這い上がった。
「先生! 違うんです! 僕とかっちゃんが言い争っているところを彼女が止めようとしてくれて、それで──」
「あぁ!? 巻き込むんじゃねェよ! ンで俺が!」
「んじゃ、お前ら二人が原因か」
「はい、そうです! 苗字さんはただ僕たちに巻き込まれただけで!」
「はあ……またお前らか。まあ、いい。爆豪と緑谷は後日、反省文持ってこい」
「はい!」
「だから、ンで俺が──!」
相澤先生の瞳がギンと赤く光って、かっちゃんは言葉を呑み込んだ。チッと大きく舌打ちして顔をそむけている。
その後、苗字さんは更衣室で女の子たちにドライヤーで髪を乾かしてもらったり、白いワンピースは轟くんが乾かしたりして、なんとか帰れる状態になったようだった。
日も暮れかかっていて、残っているのは女子たちと轟くんと僕だけになっている。
「苗字さん、本当にごめん! この後出かける予定だって言ってたのに……折角整えてもらった髪も……」
「緑谷くんは悪くないよ、それにわたしのこと庇ってくれて……なのに、ごめんなさい。反省文書くことになっちゃって」
「いやいや! それは本当に気にしないで。僕が苗字さんの足を踏んじゃったのが悪いんだし」
そう言うと、彼女は薄く笑って「ありがとう」と言った。女子たちがかっちゃんの悪口を言っていると「……でも、わたしも浮かれてたから」と彼女らしい言葉でフォローしていた。
「ケロ……それでも残念だったわね、せっかく可愛らしい髪型だったのに」
「あ、よかったらウチが巻こうか? ストレートアイロンなら持ってるけど」
「ううん、だいじょうぶ! 梅雨ちゃんと響香も、ありがとう。みんなも心配かけてごめんね」
女の子たちが苗字さんに声をかけていると、その後ろから轟くんが顔をのぞかせた。
「髪型のことはよくわかんねえけど、苗字はそのままで十分だと思う」
イケメンのひとことに女子たちが湧いたのは、言うまでもない。