54
ギャップ萌え
しばらくすると潮風が強くなってきて、ビーチバレーは取りやめになってしまった。それからというもの、女の子たちは海辺に浮き輪を浮かばせて遊んでいる。わたしはお茶子ちゃんとふたり、パラソルの下でゆっくりと過ごすことにした。
その後、ひとり浜に戻ってきた緑谷くんが合流してからは、ふたりはわたしの隣で砂遊びをしている。わたしは海水で絡まった翼をブラッシングしながら、微笑ましく眺めた。
「砂遊びって、なんか子どもの頃に戻ったみたいや~」
「そうだね! あ、麗日さんのお城すごい。本格的」
「あはは、デクくんのお城、歪んどるっ!」
最初は水着姿のわたしたちに右往左往してたのに。すっかり慣れてしまったのか、緑谷くんはお茶子ちゃんとのお城造りに夢中だ。
すごく余計なお世話かもしれないけれど、はたから見ると仲睦まじいカップルに見えなくもない。これも、水着を着ている効果なのかな。
「くっそ~! 休憩したらもっかいやるぞ、爆豪!」
「ハッ、望むところだクソ髪」
出来上がっていくお城を眺めていると、海から数人が上がってきた。どうやら男の子たちは、遠泳訓練の後もみんなでレースを楽しんでいたらしい。
わたしはその中にある人物を見つけて、思わず声をかけた。
「尾白くん!」
大きな尻尾が揺れて、こちらを振り返る。
手を振ると、彼が駆け寄ってきた。
「どうかした? 苗字さん」
「実はお願いがあるんだけど……翼の付け根のほう、羽が絡まっちゃってて。よかったらブラッシングお願いできないかな? ちょっと手が届かなくて」
「ええ! ぼ、僕が!?」
「うん。だめかな?」
「いや、ダメじゃないけど、うん……」
周りを見回しながら、そろりとわたしの背中側に座った尾白くんにブラシを渡すと「じゃ、じゃあ……」と言いながら、やさしく櫛を通しはじめた。
海水に浸かって絡まってしまった羽を、尾白くんは丁寧な手つきで解きほぐしてゆく。
うん、やっぱり彼を呼んで正解だった。
「ごめんね、変なこと頼んじゃって」
「いや、それはぜんぜん。……でも、なんで俺に頼んだの?」
「え?」
「いや、こういうのは女子の方が上手いんじゃないかなと思って」
「ん~、でもほら。みんなはあっちで浮かんでるし」
女の子たちは百ちゃんの創った浮き輪で楽しく遊んでいる。それにお茶子ちゃんは、今はなんとなく、邪魔しちゃいけない雰囲気だし──。
本当に誰でも良かったんだけど、ちょうどタイミングよく海から上がってきたのが、爆豪くん、轟くん、切島くん、それから尾白くんだった。
そうなると──。
「一番、安全そうかなと思って」
「あ、安全……そっか、なるほど」
「それと、器用そうだなって」
「はは。器用そうは初めて言われたかも」
そのまま尾白くんと談笑していると、突然、海から強い風が吹いた。
「きゃあ!」
海の方から叫びが上がって、目を向ける。百ちゃんの麦わら帽子が空高くに舞い上がっていた。大きな帽子はそのまま風に乗って、海岸沿いの道路の方に飛んでいってしまった。
「尾白くん、ありがとう!」
「あ、うん」
「百ちゃ──ん! わたしが取ってくるよ!」
立ち上がりながら海辺に向かって叫ぶと、遠くに浮かぶ百ちゃんが「ありがとうございます!」と浮き輪の上から手を振り返した。
はて、どうしたものか──。
「ねえ、ちょっとくらい良いじゃん。あっちでジュース奢るからさぁ~!」
「いえ……学外活動で来ているので、結構です」
肩に男の人の手が触れる。
なぜだろう。触られているところが、すごく気持ち悪い。
「うっそだ~! こんな可愛い水着きて、ぜったい遊びで来てんじゃん」
「いや、本当に授業で来てるので」
あーもう、しつこいなぁ。
海道に落ちた帽子を取りに行ったら、突然知らない男の人たちに話しかけられた。
馴れ馴れしく肩を抱かれたかと思えば、もうひとりからは手首を掴まれている。軽く触れているだけなのに、絶対に逃さないと顔に書いてある気がした。
さて、どう切り抜けようかな。
男の人とはいえ相手は一般人だから、本気を出せば一発で抜け出せるんだけど。ここでは個性も使えないし。とっさのことだからスマホも置いてきてしまった。
とりあえずこの人の足でも踏んで、それから──。
「おい」
その瞬間、背後から怒気のこもった声が響いた。
振り返って、その人物に驚く。
あ、相澤先生──!
海パンに薄手のラッシュパーカーを羽織った相澤先生は、ポケットに手を突っ込んだまま眉をひそめて立っていた。
「そいつはうちの生徒なんで、離してもらえますか」
「はは! なに、おっさん! あ、もしかして君のパパ?」
「なっ、パパじゃないです! 先生です!」
「はいはい、その下りはもういいって。……とりあえず、俺たち今忙しいからさ。おっさん、アンタはあっちに行っててよッと──!」
ひとりの男が、勢いよく先生に殴りかかった。──が、案の定あっさりと腕を掴まれて後ろ手に回されている。しかも片手で、あっさりと。
「痛っ!! っ、おい! 離せよ!」
先生がもう一方の手でパーカーのポケットからヒーローライセンスを取り出して男に見せつけた。男の体が小さく揺れる。
「しつこいならこのままお前ら二人警察に突き出してもいいんだが」
「……チッ、ヒーローかよ。くそ、ずらかるぞ!」
あっさりと去っていった二人に、ほっと安堵の息が漏れる。ヒーローライセンスってナンパ撃退にも使えるんだな。覚えておこう。
掴まれていた手首をさすりながら、去ってゆく背中を見送る。
「苗字」
「あ、はい! ありがとうございます、相澤先生」
「ったく、ひとりで出歩くなって最初に言っただろうが」
「す、すみません。帽子が飛んじゃって……」
そう言って麦わら帽子を見せると、はあ、とため息をつかれた。
なにはともあれ、先生がたまたま通りかかってくれて本当によかった。
「助かりました。でもこんな子どもにナンパしなくても、きれいなお姉さんなら浜辺にいっぱいいるのに」
「……」
「あんなヒョロい人に舐められるなんて、やっぱりわたしもっと筋肉つけなきゃですね」
そう言って苦い顔で笑いかけると、相澤先生がおもむろにラッシュパーカーのジップを下ろした。そのまま上着を脱いで、乱雑にわたしに向かって投げる。
思わず、反射でキャッチした。
「わっ、……え?」
「とりあえず戻るまで着とけ」
「いやいや、いいですよ! そんな遠くないですし」
「いいから着とけ」
やさしい口調なのに、絶対に折れないぞという意思を感じた。
「……はい」
押し切られて、しぶしぶ腕を通す。そこで、ハッとした。
「あ」
「なんだ」
「えっと……これ着れないです、わたし」
ふたりの間に沈黙が流れる。先生はふしぎそうに目を丸くしている。
ぴょんぴょんと翼を動かすと、先生が「あ」と漏らした。
「……ぷはっ、あはははっ」
思わず笑いが吹き出す。先生は気まずそうな表情で顔をポリポリと掻いて、それがまた一段と笑いに拍車をかけた。
「これ、背中に穴開けちゃってもいいんですか?」
「それは……勘弁してくれ」
「あははっ、冗談ですよ! ふふふっ」
「笑い過ぎだろ」
「だって、なんか先生が可愛くて、ふふっ」
「……おっさんに向かって可愛いはよせ」
そう言って先生はわたしに背を向けてズカズカと歩き出した。
「もう、待ってくださいよ、せんせ──」
そのとき、ついて行こうと踏み出した足がピタリと止まった。
あれ──?
よくよく見ると、先生は海パン姿になっていた。
その、あらわになった背中が目について、息を呑む。
──っ、うわぁ……!
どうして、今まで気づかなかったんだろう。
先生はたしかに高身長だけど、いつも猫背だからかどことなくほっそりした印象を持っていた──のに、それはこっちの完全な勘違いで、どうやら着痩せするタイプだったらしい。
引き締まった背中は、きれいな逆三角形になっていた。特に腕にかけての筋肉がはち切れんばかりに盛り上がっている。その表面には裂けたような傷や、銃創や、切り傷の小さなものまで、いろいろな傷が刻まれていた。
「おい、何ボケっとしてる。戻るぞ」
先生が立ち止まって、こちらを振り返る。
「っ」
その、仁王のようなたくましい胸板に釘付けになった。
盛り上がった胸筋と濃く影の入った腹直筋が、まるで今にも破裂しそうなほどで。しかも、おへその下から、濃い毛が、生えてて、それが──。
「……苗字?」
なぜだろう。唐突に叫びたい衝動に駆られて、我慢できずに走り出した。
「わ、わたし先に戻ってます!」
「あ、おい、お前……!」
力いっぱい地面を蹴って、疾風のように駆け抜ける。帽子とパーカーを両手に握りしめて、砂浜にむかって思い切り走った。
顔が熱い。胸がどくどくする。
脳裏に焼き付いてしまった、たくましい身体。
なんでだろう。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
もしかしたらわたしは、見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。
「……何なんだ、いったい」
ひとり颯爽と駆け抜けていった生徒に取り残されて、思わず首をかいた。
飛んでいった帽子を追いかけて苗字が走り出した後ろを、怪しげな男たちが追いかけていく様が見えて後をつけてくれば、案の定な事態になっていた。
こういう場所には、出会いを求めてくる奴も多い。若けりゃ誰でもいいなんていう腐った連中に、自分の生徒が被害に合わなかっただけでも今は良しとするべきか。
一人で出歩くなと忠告したばかりの背中は、もう見えなくなってしまった。
世の中には、あらゆる危険がある。
そしてその相手は、必ずしも敵だとは限らない。
善人の振りをして女に言い寄ってくる男なんてごまんといるし、ヒーローだからって女性が性被害に遭わないとは限らない。むしろ慈善活動の延長であることを利用して、あの手この手で暗闇に引き込もうとする粗暴の悪い奴らだって中にはいる。
社会に出る前に、そこらへんの分別もしっかりと身に付けさせてやらないと。いざという時に取り返しのつかない事になったんじゃ、話にならない。
「……だから、一人で出歩くなって言ってんだろうが」
見えなくなった小さな背中に向かって、俺はひとりごちた。
「おかえりィ~。苗字ちゃん、無事に戻ってきてたぜ」
俺を出迎えたマイクは、パラソルの下で横になっていた。その言い回しだと、どうやらマイクも男の尾行には気づいていたらしい。
「そうか」
どかんと隣に座る。ニヤニヤとした意味ありげな視線を感じた。
「……何だ」
「ン~や、なんもねーよ?」
ただな、とマイクがしたり顔で続ける。
「苗字ちゃんが顔真っ赤にしてお前のパーカー置いてったから、なんかあったんじゃねェかなと思ってよ」
「別に、ただ普通に追っ払っただけだ」
「そぅ?」
マイクが俺のパーカーをひらひらと揺らす。
「なーに着せちゃってんの」
「……うるせえ」
揺れるパーカーをぶん取った。結局、着せてねえよ──なんていう野暮な言葉は、ぐっと喉奥に飲み込んで。